ー16ー
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「それじゃ、行ってくるぞ、ハル坊」
「いってらっしゃい」
(あ〜〜、爺ちゃん、行っちゃったよ……)
オレの目論見は脆くも崩れ、ナツが帰って来たのは、爺ちゃんが家を出て十五分も経った頃だった。
「ただいま」
(うぉっ!帰ってきたっ!)
玄関の方でナツの声がした途端、またしても心臓の鼓動が跳ね上がる。
(落ち着け、オレ!平常心だ、平常心!)
何かのおまじないみたいに「平常心、平常心」と心の中で唱えながら、コンロにかけた鍋の湯が沸騰するのを待っていると、廊下を歩いてナツが台所に来る気配がした。
「…ただいま」
「お、おかえり」
たったいま気付いたみたいな体で、恐る恐る振り返ると、かなり暑そうに息を吐きながら、頰を上気させたナツがスーパーのレジ袋を片手に入ってきた。
「爺ちゃんは?」
「あ、えっと……ち、町内の会合に出かけた。夕方までかかるって」
「ふ〜ん…そうなんだ…」
そう言いながら、台所のシンクに近づく。
相当暑かったのだろう。
ナツは水道の蛇口を捻って勢い良く水を出すと、近くにあったコップに汲んで、ゴクゴクと一気に飲み干した。
「あっちぃ〜〜!あ〜〜、マジで外、暑っついわ。途中で死ぬかと思った」
「へ…へぇ……?」
(さっきのこと、怒ってないのかな…)
目線を合わせたくなくて、鍋の方にくるりと向きなおる。
すると、なにか気になったのか、ナツは持っていた袋をテーブルの上に無造作に置いて、オレの隣に並んで立った。
「お前、何やってんの?」
「何って……」
(ちょっと ‼︎ 近い ‼︎ 近い ‼︎ もう少し離れて ‼︎ )
「…お湯沸かしてる。お前…昼メシ、まだだろ?作ろうと思って…」
「え?オレの昼メシ?」
ナツはなぜか少し驚いたように云った。
「お前、まだ食べてないの?」
「オレ?オレはとっくに食べたよ。爺ちゃんに…お前が帰ってきたら作ってやってくれ、って言われたから。その、例のごとく、素麺だけど…」
「マジで?」
(…アレ?何だろ、このカンジ。なんか…)
気のせいだとは思うけど、すぐ隣にいるナツの放つ『熱』みたいなものを肌に感じる。
ナツに近い方の、剥き出しの腕の表面がチリチリする。
ただでさえ狭い台所。
なのに、互いの距離が拳一つ分も空いていない超至近距離なのに気付いて、ますます顔を上げられなくなる。
どうにもこうにもならなくなって、仕方なく鍋の中を覗き込んでいると、次の瞬間、ナツのすまなそうな声がした。
「あ〜〜、悪い、ハル。オレ、ちょっと今から家に帰らないといけないんだ…」
「え?」
意外な言葉に顔を上げて思わずナツを見ると、ナツは浮かなそうな表情で頭を掻きながら続けた。
「町に行ったついでに、途中、じぶん家に寄ったらさ、ちょっとヤボ用が出来ちゃって。悪いな、折角用意してくれてたのに」
「そ、そうなのか?」
オレはコンロの火を止めた。
「ああ。ちょっと急ぎだから、すぐ帰る。ホント悪いな。あ、それでさ…」
ナツはオレから離れると、さっきテーブルに置いたスーパーの袋をオレに寄越した。
「それ、おみやげ」
「えっ?」
勢いで受け取ってしまった袋の中を見ると、入っていたのはオレの大好きなソーダ味のアイスだった。
それも10本も。
(アレ?でもコレ、なんで?……全然、溶けてない…)
「……コレって…なんで…」
「行く前にさ、轟さん家で小さめの発泡スチロールの箱借りたんだ。クーラーボックス、無いとか云うから。で、帰りはスーパーで無料の氷たくさん入れて貰った。だから溶けてないと思うけど……。大丈夫だろ?」
「…あ、の…」
(オレはーー)
「…やっぱ、お前の言う通りだったわ。外、マジ死ぬほど暑いから、こんな中出掛けたら、確かにお前具合悪くなったかもしんない」
(お前に)
「無理に誘って悪かったと思って。コレ、そのお詫び」
(あんな酷い態度をとったのにーー)
「あの…オレ……」
喉に何かが詰まったみたいになって、突然息が苦しくなった。
何か言いたいのに、アタマの中が真っ白になって言葉が出て来ない。
そうこうしているうちにも、ナツは本当に急いでいるようで、くるりと踵を返すと台所を出て行ってしまった。
「爺ちゃんにヨロシク云っといてくれな!」
そう云って、見る間に居なくなる。
「ナ、ナツ‼︎ 」
(ちょっと待てよ!)
オレはアイスの袋を持ったまま慌てて台所を出ると、玄関で靴を履いているナツに追いついて声を掛けた。
「ん?」
「えっ…と、あの、こ、今度はいつ来るんだ?爺ちゃんに、その、訊かれるかもしんないから」
「そうだな…多分、明後日くらいかな?轟さんにも仕事頼まれてるし」
「…分かった。そんで…えっと…」
何か言いたいのに、言葉が続かず立ち消える。
「…じゃあ、またな。ハル」
ナツはそんなオレの様子をほんの僅かの間眺めていたが、親しげな仕草でつっ立っているオレの肩をポンポンと叩くと、
「一度に食い過ぎんなよ」
と、笑顔で言い残して出て行った。
ナツが玄関を出て行っても暫くの間、オレはバカみたいそこから動かずつっ立っていた。
それからその場に座り込むと、スーパーの袋の中のアイスを一本取り出して、ナツの行ってしまった玄関の外を眺めながらゆっくりと食べた。
薄暗い玄関の向こうは、目が痛くなるほど眩しくて、切り取られた絵みたいに嘘くさくて、蝉の声がうるさくて、そして人の気配がまったく無く静かだった。
アイスを一本食べ終える頃、オレはナツにアイスのお礼を云っていないことに気がついた。
(お礼、言い忘れたな…)
もう一本、袋からアイスを出すと、残りを冷凍室に袋ごと突っ込んで、部屋に戻る。
二本目のアイスを口にしながら、オレは台所で並んだ時にナツから感じた熱のようなもののことを思い出した。
(アイツ、めちゃめちゃ暑そうだったな。自転車、すっ飛ばして帰って来たんかな…)
こんなに暑い中、いくら発泡スチロールの箱に氷を入れたって、アイスなんかすぐ柔らかくなるのに。
それなのに。
(どんだけ急いだんだよ…)
口の中の爽やかな甘さとは裏腹に、胸の中にはものすごく苦い気持ちが渦巻いていた。
ナツは何にもしてないのに、さっきオレに謝った。
その事が、今はひどく後悔される。
(違うな……オレが謝らせたんだ。ナツは何にも悪くなかったのに)
思えば最初からナツはオレに親切に接していてくれた。
爺ちゃんに頼まれたからって事もあったかもしれないけど、オレのひどい態度にも一度も怒らずに。
ーーアイツ、いいヤツだぞ。
ふいに轟さんの言葉が耳許に甦った。
(ホントだよね、轟さん。態度と服装はぶっ飛んでるけど…アイツ、いいヤツだ)
別にアイスに絆されたわけじゃないけれど。
何だろう。
何か胸の中につっかえていたものが、ストン、と落ちたような気がした。
(謝んなきゃな、今までのこと)
最後の一欠けらを口に入れ終えると、食べ終わった二本目のアイスの棒には初めて見る『当たり』の文字が付いていた。
「……あ、当たってる…!」
オレはその棒を手にしたまま、畳の上にゴロンと仰向けになると、アイスの棒に付いた文字をジッと見つめた。
今まで数え切れないほど食べたのに出なかった、初めての『当たり』。
「当たっちゃったよ…」
オレは当たりの棒をためつすがめつしながら、今度ナツに会ったらこの棒を渡そうと決めた。