小学校中学年
小学校3年生になった私は、とあるスポーツに出会った。それはソフトボールだ。物心ついた時から、ダイエーホークスの試合ばかりを見せられていた私は、現侍ジャパン監督の小久保裕紀さんのようなホームランを打てる人になりたいと思っていた。私は町のスポーツ少年団に入り、とことんバットを振り込んだ。
しかし、ソフトボールと言うスポーツはこれまでやっていた剣道や水泳とは違って、難しいスポーツであった。あの細い棒に小さい球を当てるのだ。ボールを捕る技術はすぐに上達したが、打つことだけはなかなか上手くいかなかった。そんなこんなで、難しいソフトボールに私はのめりこんでいった。
そんな具合に野球選手になるという夢を持った私であったが、夢が一つとは限らなかった。私のヒーローは、小久保さん以外にマイケルジャクソンやサザンオールスターズ、SMAP、ドリカムがいた。そして母親がギター好きだったせいで、私もギターの弾き方を若干身に付けていた。私はマイケルジャクソンのようなシンガーソングライターにもなりたかったのだ。したがって、この頃から私の将来の目標は収拾がつかないくらいあらゆる方面へ向いていくことになる。
学校はと言うと、ソフトボールをしだしてその仲間ができたせいか、かなり楽しくなってきた。3年に新しく担任になった先生は、私のような落ち着きのない児童に理解がある先生で、私の個性を十分に認めてくれた。しかし、やっぱり私の落ち着きがないこともあり一番怒られるのは私だった。
この頃から、勉強の点数が算数以外で上がり始めた。特に国語は得意教科の一つであった。担任の先生は、「落ち着きはないが、唯一議論ができる子ども」と私のことを褒めてくれた。
4年生に上がる頃、学校で希望者だけを募って結成している合唱部に入部した。というか、母親が勝手に入れた。週に2回、放課後に1時間は合唱の練習に時間を費やすことになったが、これはこれで楽しかった。多分、「歌が上手」と先生に言われたからであろう。私はお調子者で、目立ちたがり屋だ。
ここまでは小学校中学年であったいいことばかりを書いているが、いいことばかりというわけではない。毎日、私は死ぬということをリアルに考えていた。「人は簡単に死ぬ」ということを、私は幼少期の頃に学んでいたからである。毎日、怖くて、寝れなくて、不眠症になってしまった。心理学を学んでいる今の私は、それを発達障がいの個性に一つとして片づけてしまうかもしれないが、本当に怖かったのだ。
この経験は、私を心理学の道に進ませた要因の一つかもしれない。私は私のような子どもたちを助けたいと思い、心理学を大学で専攻した。死生観というものは、生きることの正反対であることのように思えるが、実際には密接に関わりあっていると私は今考えている。