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落ち着きがない子ども~

1990年8月24日、高見リョウは福岡県北九州市で生を受けました。夏のとても暑い日であったと聞いたことがあります。

生まれる1週間前に逆子であることが判明し、私の母親は帝王切開になることを予測していましたが、なんと生まれる翌日に反転して元に戻っていたということを何度も聞かされています。というわけで、生まれる前から落ち着きのない人間だったのですね。

そんな私は、仕事が忙しい両親に変わって母方に祖父母にいつも面倒を見てもらっていました。祖父のこだわりからおむつは布おむつだったそうです。

祖父母にはよく競馬に連れて行かれたとかで、2歳になる頃には馬の名前をスラスラと言えるようになっていました。というより、乳児期から物の名前、人の顔を覚えることには長けていたみたいで、それは今になっても1回あった人のことは忘れないなど、今の活動にも生かせるものになっています。

私の家で流れていた歌はマイケルジャクソンやサザンオールスターズ、ドリカムでした。母は毎日ギターをかき鳴らすくらい音楽好きで、私を歌が上手い人間に育てたかったようです。小さいころから、マイケルのスリラーのまねごとをして遊んでいたとか…。後に、マイケルの考えは僕の人生や平和に対する考え方に大きな影響を与えていきます。

さて、私は2歳、3歳のころからとにかく落ち着きのない子どもでした。じっとしておくことができなかったようです。また、夜はとにかく寝ない子どもだったそうな…

街の医者からも「少し調べてもらった方がいいかも」と言われていましたが、発達関係のことを専門に仕事をしていた母は、「私が何とかするから、診断なんかいらない!」と言い張ったそうです。この母親の影響は、私を心理学の道へと促したものであると思います。

しかし、その落ち着きがないというのは私にとってはつらいものでした。とにかく、保育園ではいつでも、何があっても怒られるのです。自分がしていないことまで怒られたことがあります。つらい経験は今になっても残っているものですよね。

でも、私は負けずに保育園に行きました。そこの園長先生には、唯一しっかりとした話ができる子どもと言ってもらい、可愛がってもらっていたからでしょう。昔から、ある先生には好かれ、ある先生にはひどく嫌われる子どもだったと思います。

そんな私は、4歳のころによく遊んでもらっていた祖父と永遠の別れをしなくてはならなくなりました。祖父は癌で病死したのです。

小さい頃に、元気だった人がいきなり死ぬという経験をした私は、人間は意外に簡単に死ぬということを悟ってしまったのだと思います。

それからは、死ぬということが極度に怖くなりました。

落ち着きがなく、極度に死ぬことを恐れる子どもは、小学生へと上がっていきます…

そこで、1年生の時担任の教師に言われた一言は、「窓際のトットちゃんみたいな学校はないのですよ!」でした。そこから、母とその担任教師の喧嘩が始まるのですが…小学生の私については次回…


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