可愛くない
「君、マッサージの資格があるんだって?」
「メイドを雇って下さい」
秋正は、家が代々仕えて来た雇い主相手でも諫言はする。しかし、結局は人の好い雇い主に泣き落とされ、渋りつつも了承してしまった。
秋正は五歳年下であるこの屋敷の一人娘付きの執事だ。子供の時分には遊び相手という名目で世話役もしていた。執事になり、彼女から漸く離れられるかと思いきや、結局側付き、何も変わらない。
ノックに、入りなさい、といらえ。
ワゴンを引いて中に入れば、寝間着姿の少女がベッドに半身を起こして見据えて来る。
か細く人形の様に整った容姿。しかし、儚いだのか弱いなんて言葉は似合わない。炯々としたあの目。女にしては強過ぎる目。あの女の強情さをよく表していた。
が、その顔色は青い。
虚弱な娘である。直ぐに体調を崩し風邪を引いては熱を出す。低血圧で血行不良、朝身を起こすのも辛いらしい。だが、己の弱いところを晒す事を嫌う娘は精一杯強がって上半身を真っ直ぐに保っている。よく見ると腹筋で支えるのも限界らしくふらふら揺れているが、指摘すれば喧嘩になる。五歳の年の差がある子供相手なので、結局秋正が折れるしかない。指摘するのも馬鹿らしい。
まあ、つまり可愛いらしさのないこの娘の体が弱い為に秋正のマッサージが必要なのだ。
命じられてよりずっとそうしてきた様に、薬湯を先ず秋正が一口飲んでから娘に渡す。娘が苦いそれを少しずつ舐める様に口にしている間に、秋正は盥を床に置き、注いだ湯の熱さを確かめてから少女の足を中に下ろし、ワゴンの上にあるもう一つの盥にも湯を注ぐ。空のカップを受け取ってから盥に水を足して人肌程度にすると、タオルを手に身を退く。虚勢を張ってベッドヘッドに凭れずピンと伸ばした背をギシギシと軋ませ、眉を寄せ、歯を食いしばりながら少女は己の顔を洗う。
一人で上半身を支える事も実はままならない。洗顔すら一苦労なのだ。しかし、無駄に矜持が高いものだから、初め横で支えてやったら、火が付いた様に、それはそれはお怒りになった。
娘は己の事は己自身でどうにかしたがった。ままならぬ身体に苛立ち、昔は秋正に随分と八つ当たりをしたものだ。それだけ、秋正は彼女の側に常に控えていた。
子供のする事だ。そう思っても、理不尽さに堪えきれず喧嘩になるくらいには秋正も子供だった頃の話だが。
彼女が顔を拭いたタオルを受け取り、先ずは顔をリンパに添ってマッサージする。額、鼻筋、目許、口元、耳の下から肉付きが薄く尖った顎、そして、折れそうな首筋。
鎖骨を辿る頃には娘は人らしい肌色を取り戻す。
一度彼女の顔にタオルを載せ、余分なマッサージオイルを取ると己の手も拭い、今度は彼女の手を取り、袖を肘まで捲る。
ハーブを使ったオイルを手に取り、今度は冷たい肘から手首までに指を滑らせ、手の甲、平、指先へと血行を促す。指先、爪の付け根を軽く摘むと、彼女はいつも眉をしかめる。痛い筈は無いが、冷たく痺れた身体に血が通い始めるのは少し辛いのだろう。正座した足が痺れるのを通り越すと感覚が無くなるのだが、崩せば血行が戻って痺れ始める。きっとそんな感じなのだ。
忘れていた体温を取り戻した木の枝みたいな腕をタオルで拭い、小さな足を湯から抜くと、こちらもタオルで拭う。最後に足の裏をマッサージすれば、彼女は虚勢でなく自立出来る様になる。
手の掛かる娘だ。余分な油を拭ってやり、大量に消費したタオルをワゴンに載せ、秋正は部屋を辞す。アイロン掛けした新聞は食堂のテーブルに載せてあるし、食前、食後のハーブティーはメイドに渡してある、アレルギー持ちの娘の弁当のメニューはちゃんとチェックして毒味済み、朝食も言わずもがな。手紙や贈り物のチェックは、今朝は無かった筈。
ああ、顔色が常より悪かったので、食後の薬を用意しよう……秋正は昔よりは扱い易くなった娘が、それでも苦い薬を苦手にしてなかなかうまく呑めずにいる事を知っている。新聞は彼女付きの運転手に渡して車内で読ませよう。
遅刻させるわけにはいかない。
彼女は不健康に痩せた見た目を裏切らず食が細い。朝食を今から変えるわけには行かないが、夕食の前倒しなら出来る。甘いデザートを付けよう。
あの強情な娘は、己の弱い部分を人に見せる事を嫌う。だから、己の弱さをさらけ出して来た秋正を嫌っている。秋正は彼女が好き嫌いをしたりするような、そういった今では克服した失敗の数々を知り過ぎているし、彼女が死に怯えては泣いた夜も側にいた。大人にはなれないのではないかといまでも不安を抱いている事も知っている。
彼女は決して見た目程弱くは無いが、あの燃える様な目程、強くもない。
意地っ張りで、いまでは秋正の前で泣く事はしないが、昔、泣きじゃくって縋って来た小さなあの指を未だに秋正はふとした時に思い出す。
あの小さくて弱い生き物は、多分、まだあの娘のどこかに隠れている。
多分、だから秋正は彼女の側付きをするのだろう。
時に喧嘩もし、いがみ合いながらも、決して憎み合っているわけではないから。
「秋正」
食後、デザートに薬を並べた瞬間、娘は一瞬怯んだ。直ぐに常の仏頂面に戻り、威圧する様に睨んで来る。
「お声が常と違います。ご自分の体調くらい把握なさっておいでの筈ですから、それ以上は申し上げませんが」
娘は眉を寄せ、薬を睨んだ。自己管理には娘は非常に気を遣っているが、どうにも身体が弱く、気を付けても直ぐ体調を崩す。そして、苦い薬が苦手だ。
しかし、秋正の手前、昔の様にごねはしない。プライドの高い娘は口を引き結んで僅かに震える指を伸ばし、薬を包む紙を摘んだ。
ギュッと目をつぶり、紙を解いて、意を決した様に呷ろうとした。
毒でも飲むかという気迫だが、薬である。
「お嬢様。粉薬はゼリーで包むと呑みやすいですよ」
オブラートもございますが。
差し出せば、娘はピタリと動きを止め、キョトンと秋正を見つめた。
珍しいかおだ。こんなかおもするのか。
つと、娘の眦が吊り上がる。
それを早く言え、という様に睨んでから、娘は差し出したそれを引ったくり、その勢いはどこへいったのかと思う程、やや躊躇しつつもゼリー状になった薬をつるりと飲み込む。
今までの苦労はなんだったのか、という様にパッケージを睨んでいるので、苦くなかっ……、否、飲みやすかったようだ。
甘いものが好きな彼女はデザートの毒味で欠けた部分を少し恨めしく見てからそれを口にする。
笑ったら負けるとでも思っているのか、あまり秋正の前で喜びはしない。秋正の前だけに限らないのだが、常に無表情、それもちょっと怒って見える様なかおだ。
が、甘いものを食べているとどことなく嬉しそうだ。こういうところは珍しいのでつい観察してしまうと睨まれるので、見ていない体を装いつつ見る。
食が細い為か食欲も薄い彼女は、ゆっくり食べるが、デザートは割と普通の速さで平らげる。腕時計を見れば、遅刻はしなそうだ。
「ごちそうさま」
そう言うと彼女は立ち上がった。僅かにふらついた様に見えたが、低血圧のせいか、体調のせいかはわからない。
顔色の悪い彼女にコートを着せてやり、鞄を持って車まで見送る。帽子をかぶせようとしたら払いのけられたのでそれも持ってついて行く。
見送りなど来なくていい、と言う彼女と以前口論になったが、その日体調が悪かった彼女は激したのが悪かったのだろう、車の前で倒れ、以来見送るのも仕事の内となった。
運転手が開けたドアを支え、乗り込んだ彼女に鞄を渡す。
払いのけられた帽子を傍らに置けば睨まれたが、己の虚弱さを自覚している彼女は昔の様に投げつけては来ない。
宜しくお願いします、と頭を下げると運転手も微笑んでぺこりと返礼し、車を出す。
見えなくなりまで見送ると、小さくなった頭にちょこんと帽子が乗るのが見えた。
秋正は背を向けて屋敷のロビーに入り、我慢していたのに、つい思い出して笑ってしまった。
本当に可愛くなくて、意地っ張りで、そして、可愛いらしいお嬢様である。