第二百五十三話
マリスとの戦いから一晩。
アストラの厚意に甘えて移動時間を休息に充てていた俺は、これまで体感したことのないおびただしい魔力の気配で目覚めた。
「――丁度いい。起きたかドイル。しっかり休めたか?」
「ああ。お陰様で問題はないが……」
寝起きで少しぼんやりする頭でアストラに返事をしながら下を確認すれば、太陽はそこそこ高い位置まで昇っており、視線を下へと向ければ見たことのない様式の街並みが一呼吸する間に次々と後方へ流れて行く。
どうやら相当急いでいるらしい。アストラは俺を起こそうとしていたようだし、目覚めるきっかけになった気配は進行方向から漂ってきており、嫌な予感が脳裏を過った。
「ところでアストラ、これはまさか」
「ああ。すでに始まっているのだろう」
アストラの言葉で眠気が吹っ飛んだ俺は、すぐさま【風の囁き】を発動させる。
聞えて来たのは、吹き荒れる風や炎が燃え盛る音に爆発音や地響き、怒声のような叫び声と微かに聞こえる金属が擦れ合う音、それから聞く者を畏怖させる咆哮。
エラトマとの戦闘のあと、アストラが竜の咆哮が聞こえたと口にしていたためまったく予期していなかったわけではないが、それでもあまりにも早すぎる開戦である。
獣人の国々は盗賊に扮していたルーブという獣人達がレオ先輩達をフォルトレイスに送り届けてから山脈へ向けて出兵するための準備に取り掛かったはずなので、連合軍から仕掛けたとは考えにくい。となると、スコラ殿達の予測を遥かに上回る早さで竜達が山脈を越えて、進軍してきたということだ。
竜の国で何か異変が起こったのか、それともマリスかエラトマかゼノスが置き土産でも用意していたのか。様々な考えが浮かび、焦燥が胸を騒がす。
そんな俺の頭を冷ましたのは、アストラの口から零れた呟きだった。
「……あまり考えたくないが、母や皆の容体が急変したのかもしれん」
前を見つめ竜翼を動かすアストラの顔を見ることは叶わない。しかし、俺と同等かそれ以上の焦りや不安に駆られているのだということは痛いほどによく伝わってくる。
そのため、俺は頷くことしかできなかった。
「そうか……」
アストラの母親も病気に罹っていたことを知って驚くと共に、かける言葉に迷ったのだ。
死に至る病が蔓延しているとは聞いていたが、進軍時期を早めなければならないほど深刻な状況だとは思ってもみなかった。
さらに言えば竜達は肉体的にも強い種族であるが故に、怪我や病で身内や友を喪う機会など滅多にないのだろうと想像するのは容易く、アストラが感じている恐怖や不安がどれほどのものなのかを考えると安易な慰めは憚られる。
それに、今口を開くと余計なことまで言ってしまいそうだからな……。
ここまできてアストラと揉めるなど冗談じゃないので、俺は口を噤むことにした。
沈黙は金、なんて言葉もあるからな。
正直、今の俺にアストラを気遣えるような余裕はない。今この時も竜達と戦っているムスケ殿達が置かれている状況を思えば、アストラを急かしたくてしょうがないのだ。
どれほどの竜が病に侵されているのか知らないし、病状の進行が彼らの力にどれほど影響するかもわからないが、子竜一頭であっても人間にはかなりの脅威だ。ムスケ殿やスコラ殿達や獣人達が居るといっても連合軍が苦戦を強いられるに違いなく、時間が経てば経つほど被害が増すのは竜の国ではなくこちらである。
しかし黙々と飛ぶアストラの姿が叫びたい俺の気持ちを押し留めていた。
ラファールの加護を持ち、アストラが気遣い張ってくれた風の膜の内側に居るため高速移動時に生じるはずの負荷をあまり感じないが、流れ行く景色や竜翼が切り裂く雲の量がかなりの速度を出しているのだと感じさせる。
己の母親も病に罹っているとなれば、先を急ぎたい気持ちはひとしおだろう。
故に、アストラが全力で飛んでいるはずであり、疑う余地はない。
ここで衝動のまま急き立てるのはさすがに不躾であり、礼儀知らずというもの。それに必要なことだったとはいえ、差し迫った状況でありながらアストラは俺がマリスと決着をつけることを是とし、最後まで見届けてくれたこと思えばもっと飛ばしてくれとは口が裂けても言えない。
胸を掻き毟りたくなるような焦燥をグッと押し込めて、俺は愚行を侵さないよう戦場の音へ耳を傾けることに集中した。
『手を休めるな! 穴だと思って狙われるぞ!』
『一頭も谷を越えさせんな!』
『ハンデルに行ってる連中が帰ってくるまでここは通さん!』
『誰かあっち手伝ってあげなさいよ。魔術師がへばってるわよ』
『倒さなくていいから竜達を麓に押し込め!』
仲間を叱咤し励ます声が、幾度なく戦場に響いている。
勿論耳に届いている音はそれだけでなく、連合軍を迎え撃つ竜達の声も矢を射る音も大地が抉れるような音も、痛みを堪える人や獣人や竜の呻き声も途絶えることはない。
戦をしているという事実が、現実味を帯びて身に染みていく。
しかし今の俺にできることはなく、ただジリジリと心焦がす感情に耐えるしかなかった。
そうして飛ぶことしばし。
青空を見つめていた俺の目に不自然な黒点が映る。
アストラとの会話を終えてから時間にして十数分、しかし一日千秋の思いで先を見据えていた俺はすぐさま立ち上がった。
急速に進んでいるお蔭で青い布についた染みのように見えていた黒い点は瞬く間に広がり、一呼吸後にはそれが人為的に創り出された大きな黒雲だと判明する。
同時にアストラが俺を呼んだ。
「ドイル。我の頭上に来るといい。その方がお前の仲間も安心するだろう」
「ああ」
戦っている皆が見つけやすい位置に来いと言うアストラの提案に従い、大きな黒竜の背を移動しその頭上に立つ。
背に居た時よりもずっと開けた視界の先に見えたのは、谷間を境に向かい合う色とりどりの竜達と人間や獣人の連合軍が向かい合い戦う姿。竜やエルフや獣人や人間と様々な種族の魔力の坩堝と化した戦場だった。
多くの兵がひしめいており、様々な魔力が渦巻いている所為でエルフなのか竜なのかさえ判別できほど混沌とした気配を放っている。
『疲れたら控えている仲間に場を任せて一旦下がりなさい! 大事なのは攻撃の手を休めず守備を途絶えさせないことです』
『は、はい!』
耳に届いた聞き覚えのある凛とした女性の叱咤。
どこにいるのかまったくわからないが、この状況下でも他者を気にかけ指示を飛ばすスコラ殿の声に自ずと安堵の息が零れる。
良かった。
いつから竜達とこうして対峙していたのかはわからないが連合軍はきちんと機能しているし、疲労した兵を休ませる余裕があるらしい。
この様子ならば、手遅れではなく間に合ったのだろう。
となれば、考えるべきはどうやって両軍の手を止めさせるか、である。
幸いなことに竜達と連合軍の間には谷間があった。
そして理由はわからないが、地面に走る大きな亀裂を境に両軍が綺麗に分かれている。
あそこに壁を築けば誰かを巻き込む心配もないし、これ以上の被害を出さないよう双方の攻撃を防ぐことができるだろう。
「アストラ。谷間の上に壁を作るからこのまま突っ込んでくれ」
「できるのか?」
「任せろ」
即答した俺に、アストラがふっと息を零すように笑う。
「承知した」
バサッと竜翼が音を立てる。
下降を始めたことで、さらに速度が上がった。
距離が近づいたことで救護場所や土製の物見櫓など徐々に細部が明らかになっていく戦場を見据えながら、俺も準備すべく聖刀を鞘から抜く。そして両軍を隔てる壁を築くべく聖刀へ魔力を送ろうとした、その時だった。
『頭領!』
聞こえてきたムスケ殿を呼ぶ悲痛な叫び。
何事かと戦場に視線を走らせれば、周囲の竜達よりも一回りほど小さい緑竜が大きく口を開けている。喉の奥からチラチラ覗く光を見るに、あの小さめの緑竜はブレスを吐こうしているのだろう。谷間沿いに兵がひしめくこの状況でブレスを撃ち込まれようものなら、連合軍の被害は甚大。最悪である。
状況把握から結論が出るまでに要したのは数秒。
しかし俺がブレスをどうにかしようと動く前に、アストラの咆哮が戦場に響いていた。
竜王の息子らしい王者の風格を漂わせるその咆哮に、ブレスを放とうとしていた小さめの緑竜が反射的に口を閉じる。次いで天を仰いだが、それは緑竜だけではなかった。
他の竜達やその中心で敵を見据えていた一際大きな黒竜も、彼らと死闘を繰り広げていた連合軍の兵達も皆、バッと振り返った音が聞こえそうなほど勢いよく顔をあげてその目にアストラと俺を映す。
「父上!」
そう叫んだアストラの声に籠るは、何故進軍を早めたのかという非難や無事に花を届けることができた安堵や今一族がどういった状況にあるのかという不安。
様々な感情が込められた息子の声が届いたのか、竜王だろう一際大きな黒竜の威風堂々とした佇まいが僅かに崩れた。
――今だ。
俺は一直線に竜王の元へ向かうアストラの頭上から飛び降りて、握り締めていた聖刀にありったけの魔力を込める。
「【氷壁】」
注いだ魔力に応えるように光り輝く聖刀を振り下ろせば、ガラスのような氷が谷間を埋め尽くし、パキパキパキと音を立てながら天に向かって伸びる。そして一拍後、天高く聳え立つ氷の壁が竜と連合軍の間に出来上がった。
完成した壁の向こう側で人化したアストラが青い花が咲く鉢を腕に抱えて竜王の前へ降り立つ姿を見送りながら、俺も連合軍の前に着地すべく風魔法を使い落下の衝撃を殺す。
――そういえば、フォルトレイスの城で似たようなことをしたな。
スムバ殿を追って飛び降りたのは最近のはずなのに、なんだか懐かしい。
そんなことを考えながら音もなく地に足をつけた俺は、唖然とした表情を浮べ固まっている兵達の視線を集めるべく【上流貴族の気品】を使いながら優雅な動作で向き直る。
竜達を先に進ませないために、必死に戦っていたのだろう。
皆、土や傷から伝う血で汚れていた。
「竜達の目的は果たされましたので、これ以上侵攻してくることはありません」
突然現れた俺へ困惑する彼らを安心させるべく、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
静まり返った辺りに俺の声が響く中、風の精霊達が気を利かせてくれたのか背にした氷壁の向こう側で竜王達に語りかけるアストラの声が耳に届いた。
『――あそこ居る人の子、ドイルやエルフ達のお蔭で、シエロの花を手に入れることができました。ドイルと契約している精霊達の力を借りて今エルフの里で栽培してもらっているので、間もなく大量に届くでしょう。我らは助かります。これ以上この地を荒らす必要はありません』
お婆様達が残した青い花を手に、矛を収めるよう竜王達を説得しているアストラを思い浮かべながら俺もいまだ武器を握り締めている兵達をまっすぐ見据える。
この時を迎えるまでに色々なことがあった。
しかし今は感傷に浸るよりも先に、目の前にいる皆に伝えるべきことがある。
静寂の中、瞳に期待がじわじわと滲んできている兵達を見つめながら、俺は一音一音丁寧に言葉にしていく。
「今、この時をもって戦は終わりです。武器を仕舞ってください」
俺がそう言い終えた一拍後、兵達の歓声や竜達の喜び満ちた咆哮が空気を震わせた。
氷の純度が高いのかガラスのような見た目だが谷間を埋めるほどの厚さを持たせて頑丈に作った氷壁を越えて聞こえてくる竜の声が彼らの喜びを物語っており、素直によかったなと思う。
振り返れば、氷の壁の向こうでアストラも俺を見ていた。
鳴りやまぬ両軍の歓声に肩の力を抜いたアストラの顔を見て終ったのだという実感が湧き、俺も兵達を安心させる為に浮かべていた笑みを外す。エルフに里に着いてから、アストラとの出会いやエラトマとの邂逅、それからマリスとの戦い、すぐさま移動して氷壁を建ててとさすがに疲れた。
『礼を言うぞ、ドイル』
「こちらこそだ、アストラ。お蔭で色々助かった」
俺の言葉を風の精霊が伝えてくれたのかアストラが少し驚いた顔を浮かべたあと、笑う。その笑みはこれまで見たものとは比べものにならないほど柔らかった。
……きっと、俺も同じような顔をしているんだろうな。
そんな考えていると不意にアストラが表情を引き締め、背筋を伸ばす。
『皆が元気になるまで今しばらく世話になる。我が友よ』
そう言って竜の国の挨拶だろう両手を組んで頭を下げたアストラに、俺も丁寧な拝礼で応えて顔を上げれば、両軍から響く歓声が増した気がした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




