第二百四十二話 リェチーチ・テラペイア視点
故郷を思い起こさせるような静かな森を進む最中、突然声を張り上げたドイルお兄様。走れと叫ぶその声に従い足を動かそうとしたけれどももう手遅れで、僕らの足元に見覚えのある陣が浮かび上がり光り輝く。
――転移陣だ。
マジェスタを出てドイルお兄様と合流するまでの間に神殿で散々使わせてもらったから僕らを飲み込まんとしているのは転移陣だとすぐにわかった。けれども広範囲に展開している陣と発動寸前と言わんばかりに増した輝きを見るかぎり、僕らの足では逃げられそうにない。
どうするべきかわからず顔を上げればすごい速度で駆け寄ってくるシオンさんが目に映り、兄貴が僕とサナの腕を握った。それからそう間を置かずシオンさんが追いつき兄貴を掴んだかと思えば、大きな声がビリビリと鼓膜を刺激する。
「そっちは任せたぜ! 若様!」
「ああ! ハンデルで」
そうして互いへの確かな信頼が込められた二人の会話が耳に届くと同時に、僕らの世界は暗転した。
お腹がゾワッとするような浮遊感に襲われたのは一瞬だった。
自分の足が再び大地を踏みしめた感触と明るくなった視界に、一体どんなところに飛ばされたのか確認しようと慌てて辺りを見渡すも、目に映るのは先ほどまでと変わらない静かな森で僕は思わず首を傾げる。
……ここは、エルフの森?
変わらぬ景色と草木の種類をみるかぎり、遠くに飛ばされたわけではないみたい。てっきり転移先には敵が待ち受けているものだと思っていたから、生き物の気配もないほど静かな辺りの様子にちょっと拍子抜けだ。
そう思ったのは兄貴やサナも同じだったようで目を瞬かせた二人と顔を見合わせたんだけれども、百戦錬磨な傭兵団に所属するシオンさんは違った。
「――武器を構えな。もう囲まれてる」
辺りを一瞥したシオンさんが発した言葉によって、一気に空気が張り詰める。さすがドイルお兄様が信頼する傭兵というべきか、彼には僕らとは違う世界が見えているらしい。
師匠のお蔭で少しは強くなったと思ってたけど……。
目を閉じ、気配を探ってみてもまったくわからない。出発前に師匠に鍛えられたとはいえ、ドイルお兄様やバラド様のように気配察知などのスキルを持つまでには至ってないので当然と言えば当然の結果なんだけど、少し悔しい。
「まったくわかんねぇな」
「「僕もです」」
舌打ち交じりに兄貴が零した言葉に同意しながら針や即効性の睡眠薬などの武器を手にした僕らにシオンさんはチラリと視線を寄越すと、大きなハルバートを片手で軽々と持ちながら小さな声で呟く。
「十メートル内に十二はいる。人間じゃなく魔獣の類だな。丁度俺達の背後に強そうなのが三匹くらい集められているからそっちに進めば若様達が居る可能性が高い。けど、俺が感知できる範囲に若様達は居ねぇからどれだけ距離があるかはわからん。罠の可能性もある、というよりもわざわざ分断したんだ。簡単に合流させる気はねぇだろうから、こっちはこっちでハンデルを目指す方が利口だ。方角はわかるもんはあるか?」
「ええ」
「「大丈夫です」」
兄貴やサナと共に師匠から持たされた方位を示す魔道具を見せればシオンさんは、僅かに口端を上げると口笛交じりに「さすが」と呟く。
旅慣れていない僕らにはどれほど価値がある物なのかわからないけど、師匠やセレナ様が用意してくれた荷物の中に入っていたものだ。きっと僕らが思う以上に高価な魔道具なのだろう。
「いいもん持たせてもらってるじゃねぇか。西に向かえばハンデルへ着くが若様達もそっちに進んでっから簡単には行けねぇだろう。とりあえず森の外に出ればうちの連中に会えるはずだから、俺とはぐれたらそれ見ながら一方向に走れ。遠回りになるが西は避けろ」
「「「はい」」」
「お前らの仕事は戦うことじゃねぇんだから、自分の身を優先しろ。俺が行けと言ったら振り返らず走れ。下手に戦われると邪魔だ」
シオンさんの言葉に兄貴も僕もサナもしっかり頷く。
師匠にも無理に参戦するなと散々言われてる。僕らの付け焼刃な戦闘能力など実戦ではなんの役にも立たず足枷になるだけだから、戦いは専門家に任せて安全な場所に身を隠すのが一番ドイルお兄様も助かるだろうってね。
男としては複雑な気分になる評価だけど僕らは薬師であり、戦闘能力なんて微々たるものだから仕方ない。
――あれもこれもできるほど、僕は優れた人間じゃない。
兄貴と出会った中等部時代やエピス学園に進学してドイルお兄様達と過ごしたことでそう思い知ったし、僕は特別な人間なんかじゃないと認められるようになった。そしてバラド様やアギニス公爵家に仕えてきた師匠やセバス様から、僕は僕にできることを頑張ればいいのだと、教わった。
今僕らがすべきことは、シオンさんやドイルお兄様の邪魔にならないよう一刻も早くこの戦線から離脱し、万が一の時に備えて治療の準備をしておくことであって敵と戦うことなんかじゃない。ドイルお兄様やシオンさん、この地に送り出してくれた師匠やセレナ様だってそんなことは僕らに期待してないだろう。
僕らがすべきことは、役立てる場はもっと他にある。
様々なことを学び過ごしたこれまでの日々を思い出しながら兄貴やサナと視線を交わし、空いている手で荷の背負い紐を握り締めれば、ようやく僕の耳がガサガサガサッとなにかが草木をかき分けながら向かってくる音を捉えた。
「来るぞ。お前らは身を守ることだけを考えて付いてこい」
「「「はい!」」」
僕らが答えるのと、四方から無数の蔓が伸びてくるのはほぼ同時だった。
向かってくる蔓の材質は木材に近い上に、成人男性の腕のように太く切っ先が鋭い。僕らのような一般人では掠っただけで大怪我間違いなしだし、受け止めるのは困難なので避けるしかない。
しかしシオンさんはそれらをハルバート一振りで退け、薄く笑う。
「なめんなよ、っと!」
次いでシオンさんが地を割るかのようにハルバートを突き立てれば、地面から生え出た石柱が木々に紛れているなにかを貫き、四方から降り注いでいた攻撃が止む。
瞬く間の出来事だった。
ようやく落ちてきた蔓の欠片がパラパラと髪や肩を叩いているのを感じながら思い出すのは、師匠やセバス様が何回か口にしていた『アギニス家の皆様が赴くような戦場に出れば私も弱者の部類ですよ』という言葉。
時折飛んでくる雷槍の勇者様や炎槍の勇者様の攻撃を避けながら彼らを見守り、時には制止の声をかけるセバス様や鍛えてくれた師匠は僕から見れば十分戦える人に見えたけど、なるほどたしかに。この攻防を涼しい顔で行われるのがドイルお兄様達の戦場だというのならば、僕らには場違い。戦いに参加せず、出番が来るまで身を隠すのが正解なんだろう。今すごく実感した。
「行くぞ。こっちだ!」
自分の立ち位置と役割を噛み締めながら、響いたその声に弾かれるように駆け出す。
今は色々考えている場合じゃない。
僕らの役割を果たすためにこの森を抜けなきゃ。
兄貴やサナと一緒にシオンさんの背を追いかけながらそう自分に言い聞かせた。
しかし、流れる景色の中に石柱に貫かれ動かなくなった魔獣の姿を見つけてしまった僕は思わず目を見開き、やがて頭の中で昨年行われたドイルお兄様とクレア姫の婚約式の記憶が駆け巡る。
青白い顔をしたサナと氷漬けになった魔獣。
氷に閉じ込められた木型の魔獣は、大小様々な太さの蔓が何百本と絡み合い青々とした葉を茂らせていた。
シオンさんが放った石柱に貫かれ動かなくなったあの魔獣のように。
――兄さん。
瞼に浮かぶのは冷たい牢に繋がれ、虚ろな目で宙を見つめる兄の姿。
居るのか。
ここに。
薬師長に連れられてドイルお兄様やティムさんと一緒に地下牢に向かったあの夜、僕がゼーゲン兄さんと会うことはなかった。そして後日、ドイルお兄様から侵入者が兄を連れ去って逃げたと知らされた僕は、正直安心していた。
サナを守ると決めたけれど、やっぱり裁かれる兄さんなど見たくなかった。
ドッドッドッと心臓が痛いほど脈打つのを感じながら、ハッと息を吐く。
苦しい。
この息苦しさは、迫りくる魔獣をハルバートで払いながら走るシオンさんの背を追いかけている所為だけなんかじゃない。傲慢だった僕らが追い詰めてしまった結果、兄さんが犯罪者になったなんて考えるだけで恐ろしく、後悔と罪悪感が僕の喉を塞ぎ呼吸を止めるんだ。
――でも。
息苦しさに歯を食いしばりながら、僕は足を動かす。
止まっちゃいけない。
前に進むと決めたのだから。
地下牢で兄を連れ去った男を追うために旅立つ予定を知らせてくれたにも関わらず留守番を申し付けられた時、力不足だからという理由だけでなく、兄さんと戦う可能性があるからドイルお兄様は僕らを置いて行ったのではないかと思っていた。
そしてその考えは当たらずとも遠からずだった。
――このまま行動を共にするならばこれまで以上に見たくないものも見ることになるでしょうし、かなりの危険が伴います。
神殿を出る前にドイルお兄様から告げられたその言葉に、『サナに兄さんを思い出してほしくない』という僕の願いとあの時マジェスタ城で交わした約束を覚えており、守る気でいるのだと感じた。
こんな状況だというのに余裕というか、周りを気にかけすぎだよ。本当に。
そんなに色々抱えていたら重くて仕方ないだろうにね。
でもドイルお兄様は構わない、自分に任せて逃げてもいいのだと僕らに言う。
沢山苦しんだからこそ、人に優しくて。
もがきあがいて乗り越えたから、誰よりも強い人。
その優しさにこれまで散々甘えてきたわけだけれども、兄さんと再会してから僕も僕なりに色々考えてきた。そして今回、神託によってドイルお兄様の元に向かうことになった時、僕は神様に自分で決着をつけろと言われた気がした。
だから僕は共に行くと応え、今ここにいる。
ドイルお兄様のように過ちを認め、背負い生きて行こうと決めたんだ。
目を閉じれば兄さんの優しかった笑顔や首を絞められながら見た涙、冷たい地下牢の中虚ろな表情を浮べピクリとも動かない姿が瞼に広がる。
仲良く遊んでいた頃を思い出しては、あの時こうしていればと何度も悔やみ、過去の己の行いを反省したし、恵みの雨が降り注ぐ森に倒れ伏したサナとそんな彼女を見下ろしていた兄さんの姿を僕は生涯忘れないよ。
でも、ごめん。ゼーゲン兄さん。
過去をなかったことになんて誰にもできないから。
僕とサナだけの所為でないと言ったティムさんや両親。
僕達を守ろうとしてくれたドイルお兄様やエルヴァ薬師長。
サナに事実を告げることができない僕をなにかと気にかけてくれる兄貴やグレイの兄御。
それから守ると決めた大事な片割。
僕は彼らと肩を並べて歩く未来を選ぶ。
大地を揺らしながらゆっくりと近づいてくる巨大な木型の魔獣の姿に「チッ」と舌を鳴らしザザッと大きな音を立てて足を止めたシオンさんに倣うように、僕らも足を止める。
ハッハッと荒々しく息を押し出す肺と激しく脈打つ心臓がすごく痛い。
しかし頬を伝う汗を拭い、僕はグッと顔を上げる。そして木型の魔獣の上から冷たくこちらを見下ろしている僕やサナと同じ浅緑の瞳を、まっすぐ見返した。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。




