第二百四十一話 ゼノス視点
前髪を揺らす風の冷たさに目を細めれば、森の一部分が白く染まり続いて聞こえてくる破壊音。
「――化け物共め」
マリス様からいただいた彼の眷属たる木の魔獣に腰掛け、故郷を思い起こさせる静かな森を見下ろしていた俺は舌打ちを零す。手の中にある遠見の魔道具を使わずともわかるエラトマとドイル・フォン・アギニスの派手な開戦の合図に込み上げてくるのは、常人とは一線を画す才能への羨望と嫉妬だ。
彼らの十分の一でいい。
なにかしらの才があれば、俺は今ここに居なかった。
いや。それほど高望みせずとも、才溢れるリェチとサナが弟妹でなければ俺は今も故郷の村で親や友人達と笑っていられたのだ。
――あの二人が生まれてこなければ。
枯れることない醜い感情に支配されつつも、俺の中に残っている冷静な部分がこの短絡的な結論はマリス様のスキルの影響だなと判断を下す。マリス様との付き合いも長いものなので、彼らが使うスキルへの耐性が身につきつつあるのだろう。
薬や毒へだけでなく俺はこういった精神に関与するスキルなどへの耐性が高い、というよりも状態異常になりにくい体質であるのだと知ったのはマリス様に拾われてあの人の駒として働くようになってからのことである。状態異常に対する耐性が付きやすいのだと故郷を捨てる前にわかっていたのならば、常人には扱いにくい素材を使った薬の研究をしたりして薬師としてまっとうな道を歩んでいたはずだし、周囲の人々からもリェチやサナ並みに重宝されたに違いない。
己の長所にもっと早く気付いていればと後悔する気持ちと今さらわかっても遅いのだという自嘲、それからリェチ達が居なければ早まって村を出ることはなかったという恨み、俺の長所を探すこともせずにただ弟や妹と比べ続けた大人達への怒り。
【心蝕】というスキルに侵された精神は混沌としていて、もはやどれが己の本心なのかわからない。
しかし、自身がもう引き返せないところまで来ていることだけはわかっている。
それに――。
そっと目を閉じた俺の脳裏に響くのは、森へ足を運ぶ前にマリス様と交わした最後の会話だった。
「マリス様」
「なんだ?」
「なぜ、俺をマジェスタ城から助け出してくださったんですか?」
それは、城の外で目覚めて意識がはっきりした時からずっと胸に秘めていた疑問だった。マリス様の計画に俺は必ずしも必要なものではない。捕縛されると同時に俺の意識を恨みや嫉妬の感情の中に沈めた時点で、見捨ててしまっても問題なかったはずだ。妄執に囚われたあの状態ならば、誰も俺から決定的な情報など引き出せなかったのだから。
生まれた土地柄が薬草の生産地だけあって素材に関する知識はあると自負しているが、俺の薬師としての才能や腕前はたかが知れている。代わりなどいくらでもいたはずだ。
昔の俺はその事実を認めることができず、すべてを捨てて出てきたわけだが……。
世界の広さを知り、歳を重ねた今、現実も見えてくる。あの弟妹もきっとエピス学園で世界はかくも広く、上には上がいるのだと知り、その傲慢な鼻っ柱を折られたことだろう。
ぜひその瞬間を見たかった、などと考えながら俺はマリス様に再度問いかける。
「俺程度の薬師など、この世には掃いて捨てるほどいるでしょう?」
「まぁ、そうだな」
マリス様の迷いない肯定に心の古傷が疼く。
己は特別な存在ではないのだと自覚していてもこうして思い知らされるのは辛く悔しいが、ここで逃げだすほど俺も幼くはない。それにこれがこの方に問いかける最後の機会だということもあり、俺は妥協することなくマリス様に答えを求めた。
「では、なぜ? あの時俺を見捨ててマジェスタを去っていればドイル・フォン・アギニスに追われることもなく、此度の計画も簡単に成就していたでしょうに」
厳しい眼差しで俺を見下ろす紫色の瞳を思い出しながらそう告げれば、マリス様はさしたる感情もない顔で天井をぼんやりと見上げながら口を開く。
マリス様がこうした会話に乗ってくださるなんて珍しい。
「……昔の話だが、母が言うよう『良い子』にしていれば俺もいつか人間になれるのだと信じていた時期があった。まぁ、俗にいう無謀な発言をする幼子に向けた親の『優しい嘘』だったわけだが」
「? はい」
しかし紡がれたのは俺が欲した答えではなく、突然昔語りを始めたマリス様に首を傾げる。しかしこの方もそれなりに俺との別れを惜しんでくれているのかもしれないと思うと少しだけ心が弾み、大人しくその言葉の続きを待った。脈絡が掴めなくとも、言葉少ないこの方がこうして過去を語って聞かせてくれる機会など二度とないだろうからな。
……そもそも次の計画が成功しても失敗しても、俺がマリス様に会うことは二度とないだろうが。
だからこそ俺も、胸に秘めていた疑問を聞いておこうと思ったわけで。
瞬く星々に最後の仕事へ向かう時間が刻一刻と迫っていることを感じつつマリス様を見れば、昏い感情を浮かべた赤い瞳がそこにあった。
「母の言葉が『優しい嘘』だったのだと理解し、自身の行く末を悟ると同時に俺は里を出た。そして出会った頃のお前は『周囲の人間は皆嘘つきだ』と叫んでいた」
そう告げて再び天井へと視線を戻したマリス様は、ぼんやりと宙を眺めるばかりでそれ以上口を開くことはなかった。
しかし、俺にはそれで十分だった。
――なぁに。あのくらいお前もすぐにできるようさ。
――あの二人は天才だから仕方ない。
――それだけできれば十分だ。
村で何度も聞いたそれらの言葉は『所詮お前は二流止まりだ』と、子供だった俺に告げられなかった大人達の優しい嘘だった。その事実を認めなくて、上手くいかないのはリェチ達の存在や周囲の環境の所為にした。
今思えば弟妹と共に生きていた世界は信じられないほど狭く、俺は無知だった。そうとあの頃に知ることができていたなら、今もあの村で暮らしていただろうかと考えることもある。けれども。
『無情な世界に復讐したいのならば俺と共に来るか?』
村を出ても思うようにいかず、見る目がない奴らばかりだと毒づき世界を呪った俺にマリス様はそう言って手を差し伸ばしてくれた。
世の大多数は、間違っているのは俺やマリス様の方だと言うだろうが……。
気違いの妄執だと言われようとも、俺を称えぬ世界の方が間違っているのだと信じ縋るしかなかった。そうしなければ、己を保つことができなかった。
そんな俺にマリス様だけはそれでいい、この世界は間違っていると同意してくれた。
「怖気付いたのならやめてもいいぞ。今さらお前が下りたところで、回り出した歯車は止まらない。俺が死んで、ドイル・フォン・アギニスが奇跡でも起こさんかぎりはな」
こちらを見ることなく告げられたその言葉に、俺は歪んだ笑みを浮べる。
俺がこの世界にとって取るに足りない存在であることは、とっくに自覚している。しかしそれでも今さら引き返そうとは思わない。屑にも屑なりに貫きたいものがあるのだ。
「まさか。ここまで来てやめませんよ。折角色々な薬を準備したのに」
「そうか。期待はしてないが頑張れ」
「はい」
こちらを見ることないマリス様に、悲しくなることはない。
この方の心を揺らすのはもはやドイル・フォン・アギニスだけであることは重々承知しているし、出会い頭に約束した通り今日に至るまでマリス様の言葉に嘘はなかったのだから。
それだけで俺は十分満足だ。
『どうする? その気がないなら俺はもう行くが』
手を伸ばしたままそう問いかけるマリス様を見上げながら思い出したのは優しくも残酷な嘘を吐く大人達の姿で、気休めの言葉に深く傷ついていた俺の口から出たのは彼の素性を尋ねるものでも目的を聞くものでもなかった。
『これから先、なにがあっても俺に真実だけを告げると誓ってくれるなら。嘘を吐かれるのは、もうごめんだ』
『……いいぞ。誓ってやろう』
震える声で告げた要求に目を瞬かせたあと頷いたマリス様の手を取ったあの日から、俺の行く先は破滅しかないとわかっている。
しかしそれでいい。
一番に想われたいという願望を捨てられず、弟妹さえ手にかける俺には似合いの人生だ。
沈み始めた月を眺めながら、俺はたらふく劇薬を仕込んだ白衣を手に席を立つ。
「そろそろ行きます」
返事を待つことなく白衣の袖に腕を通し、扉に手をかけて開け放つ。そうして戸を潜った俺はふと思い立って、別れの言葉を口ずさむ。
「生きていたらまた会いましょう」
「――――生きていたらな」
返答を求めていたわけでもなくただ呟いた台詞へ応えるように聞こえてきた声に思わず振り返れば、閉まり行く扉の向こうでマリス様が口端を上げていた。
思えば、マリス様の笑みを見たのはあれが初めてだった。
そして最後となるだろう。
――あの方は約束を守ってくれた。
ならば俺も任された仕事をこなさなければ。
瞼に焼き付く黒と見間違えるほど濃い赤色に想いを馳せながら、俺は複雑に絡み合う己の感情を読み解くことを放棄する。今さら自身の本心を知る必要などない。俺がすべきは竜の国とフォルトレイスや獣人の連合軍がぶつかるまでの時間稼ぎであり、可能ならばここでアギニスの一行を始末すること。ドイル・フォン・アギニスや竜王は難しくとも、リェチ達程度ならば俺でも相手できる。
与えられた役目を思い返しながら手の中にある遠見の魔道具を覗けば、村を出てから片時も忘れることができなかった弟妹が見張っていた転移陣の出口に姿を現したところだった。
「来たか」
おまけが二つ付いているが、まぁいい。
皆、道連れにするだけのこと。
口端を歪めた俺は彼らの元に向かうべく、マリス様からいただいた眷属へ命じるのだった。
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