第二百三十三 ハンデル前王ピネス・ドール視点
エルフが住まう森の中に造られたこの地下室に、ヘンドラ商会の会長であるヴェルコ殿と共に押し込められてからすでに何日経っているのか。
三日か、五日か、もしやそれ以上か。体感では三日経っているかどうかといったところだが、窓一つない室内は浮かぶ光球によって常に薄明りで照らされており、時間の感覚がおかしくなりつつある。それに私もヴェルコ殿も目覚めた時にはすでに森の中だったので、正しい時間経過は不明。
一体どれほどの時間が経ち、その間に儂が誘拐されたことを知った息子や国の上層部がどのような対応を検討し実行しているのか、考えただけでもゾッとする。
……相手は身を持ち崩した薬師一人と侮ったのが、間違いであった。
自身の浅はかさにギリッと歯噛みしつつ思い出すのは、黒髪を適当に束ねた白衣の青年と倒れ伏した儂を冷ややかに見下ろす赤い瞳の男。
いくら後悔してももはや手遅れ。
捕らわれた儂らにはどうすることもできん。
事の発端は、手の中に収まるほど小さな橙色の薬瓶であった。
その中には純度の荒い粗悪な器に反して、恐ろしいほどの魔力を含んだ魔法薬が満ちていた。安価な価格で出回っていたその薬は依存性が高く、人の気分を高揚させる効果があり、使い続ければいずれ廃人となるようなもの。今はまだ傭兵や下層の民の間で出回っているだけだがその薬効は目を見張るほど高く、広まればハンデルに多大な被害を及ぼすことは一目瞭然。すぐさま禁薬指定し、人々に注意喚起すべき代物だった。
しかしあれほど純度の荒い薬瓶に入れて販売している以上、製造現場が近場にあることは間違いなく。調べてみれば、闇市場に潜む薬師らしき男が一人で製造販売しているという。
故に、捕縛できると思ってしまった。
この薬が広まっては危ないという焦りと、闇市場を解体するいい切っ掛けになるという期待が儂に慎重さを忘れさせたのだ。
取り急ぎ数名を選りすぐり、突き止めた拠点へ足を運んだ結果がこれである。
今思えば、あの薬自体が儂をおびき寄せるための罠だったのだろう。
拠点を割り出すまでそう時間はかからなかったしな。
薬師の主人だろうあの男は、儂が闇市場を解体するため常に目を光らせていたことを知っており、それ故の計画だったに違いない。あれほど危険な薬が闇市場で作られていたとなれば、他に協力者がいなかったか調べるという名目で一斉摘発に踏み切れると目論み、儂が勇み足を踏むと確信していたのだ。
そしてあの男の予想通り動いた儂を捕らえ、一族の繁栄を願うエルフの若者達へ差し出した。
エルフとハンデルの間に火種を生み出すために。
『――ゼノス。予定通りこいつはエルフ達にくれてやれ。ハンデルがよほど愚かでなければすぐに気が付けるだけの情報はまいてある』
『畏まりました』
遠のく意識の中、そんな会話を聞いた。
あの男がなんのために儂らとエルフを争わせたいのかはわからぬ。しかしまんまと騙され利用されるとは、かつて外交王と呼ばれた身でありながらなんと情けないことか。
その上、万が一に備えて腹心やブリオ王太子殿下に行き先を告げてきたのが、完全に裏目に出ている。あれだけの情報を残せばそう時間を置くことなく息子達は儂の行き先を突き止め、あの男達がまいたという情報を元にエルフの存在に辿り着くのだろう。
優秀だがまだまだ青い連中が多い故、早まって儂を探すためにエルフの森を荒らすやもしれぬ。
そうなればハンデルとエルフは必ず争うことになろう。儂が見つかればハンデルが、見つからなくとも森を荒らされたことで怒ったエルフ達が引き金を引く。
在位中に闇市場を解体できなかった儂の未練、今なお前王を慕ってくれる現王や臣下達の心情、泣き寝入りするわけにはいかない国としての面子や矜持、そしてエルフ達の行動心理。
そこまで計算に入れて組まれた計画は、なんと恐ろしいものか。
ハンデルが動き出してしまえば、無血で終わることは出来ぬだろう。
早く帰らねば……。
戻ることが叶わぬならば、どうにかして無事であることを伝えねばならん。
儂らを連れてきたエルフ達の言動から察するに、これは一族の現状を打破したい一部の者達が皆に腰を上げさせるために企てた犯行。交渉の余地があると判れば、息子も宰相や大臣達もエルフの森への進軍は一先ず思い留まるだろう。
安否不明のまま、時だけが過ぎるのが一番まずい。
しかし困ったことに、儂らの無事をハンデルに伝える術がここにはない。
儂らを攫って来たエルフ達の隠れ家だっただろうこの部屋の中には、簡易だがベッドやトイレや台所が設置されている。水と食料は見たところ五日分あり、飢え死にさせる気はないようだ。
さりとて、逃がす気もなく。唯一の出入り口は遥か上空にあり、儂やヴェルコ殿の身体能力や魔法適性ではどうやっても手が届かない。また部屋全体に様々な妨害魔法がかけられているらしく、儂らが所持していた一級品の魔道具をもってしても通信はおろか、壁に傷一つつけることができなかった。
朽ちた大木を扉代わりにしたこの部屋の入り口は違和感なく森に溶け込んでいるように見えたし、このような計画を実行するぐらいなので他のエルフ達にも見つけ難いようにしてあるに違いない。
今、国はどうなっているのか。
考えれば考えるほど焦りが募り、苛立ちが増す。
そんな心境が態度に表われていたのだろう。体力を温存すべく向かい側のベッドに腰掛けて休んでいたヴェルコ殿が、ためらいがちに儂を呼んだ。
「……ピネス前王様」
「すまん。儂も休む故、気にせず休んでくれ」
儂にそう言われたところで休めぬことは重々承知しているが、一応そう口にすればヴェルコ殿は心得ているとばかりに感謝の言葉を紡ぐ。
飛ぶ鳥を落とす勢いで販路拡大をしているヘンドラ商会の長だけあって、人の機微に聡く、調べたところ扱っている商品も良質であり、取引相手の見極めも上手い。シャルツ商会と商談中に攫われてきたらしく、その危険があることも承知していたらしいが、誰のためにそんな危ない橋を渡ったのかは決して漏らさぬ良い商人だ。これならばハンデルでも一財産築くことができよう。
それもここから出られれば、の話ではあるが……。
ヴェルコ殿は危険だからという忠告を受けつつも独断でシャルツ商会を訪れたため、依頼者にこれ以上の迷惑はかけらないと言っていたが儂が前王として命じれば、誰がために動いていたのか話すかもしれん。しかし儂の記憶がたしかならば、彼はマジェスタの次期アギニス公爵殿と親しく、その次期公爵殿は彼の国の王太子殿下と幼馴染。その関係で受けた依頼である可能は高い。
ハンデルとエルフの里の関係が危うい中、マジェスタとの諍いは避けたいところだ。儂がなに故ここに居るのか、そしてどんなことが起こりうるのか話せば対等なのだろうが、ヴェルコ殿が隠している依頼主や頼まれた内容によっては、こちらが重大な情報を与えるだけとなり損することになる。
難しいところだな……。
儂も息子達にこれ以上の迷惑をかけるわけにはいかぬ。
それはヴェルコ殿も同様であり、だからこそうっかり情報を漏らさぬように儂を気遣いつつも余分な会話をしようとしないのだろう。
利を見込んで先に損を払うか否か。
考えている間にも刻々と時間は流れていった。
そうして静かな時を過ごすことしばし。
――カツン。
突如響いた物音に、儂もヴェルコ殿もハッと顔を上げて扉を見上げた。
次いで聞こえてきたコツコツコツと扉を叩き調べているような音に、儂らは慌てて部屋の奥に置かれていた長椅子の裏へと移動する。
「……我々を攫ったエルフではなさそうですね」
「ああ」
ヴェルコ殿の言葉に頷きながら過る不安に顔をしかめる。
もしハンデルの兵であったらどうするか。そう思うと同時に、こんなに早くハンデルの兵がエルフの森に辿り着きこの場所を見つけられるのか、という疑問が浮かぶ。
商売を武器に栄えてきた我が国の武力は、客観的に見て優れているとは言い難い。劣っているというほどではないが、深淵の森を抱えるマジェスタや亜人の国々との境に在るフォルトレイスとは比べものにならない。エルフの里と本格的に戦となればフォルトレイスから兵を借り入れるか、マジェスタと交渉することになろう。
一番高い可能性は誘拐犯以外のエルフだが、計画を立てるための隠れ家となっていたこの場所がなんの前触れもなく偶然発見されるなど出来すぎだ。時間の感覚が確かではないのでハンデルがすでに動いている、もしくはエルフの里が対応しているという可能性もある。
恐怖と緊張を感じつつ遥か頭上にある扉を見詰めること数分。
バキッという破壊音が耳を打ち、黄金色が部屋の中に降り立った。
「――ドイル様」
喜び滲む声でヴェルコ殿が紡いだその名に驚く間もなく、忘れようもない紫色の瞳と目が合う。
「ピネス殿もヴェルコ殿もご無事なようでなによりです。お怪我はございませんか?」
見惚れるような動作で立ち上がり、微笑みながらそう告げた次期アギニス公爵殿に儂は物心ついてから初めて思考停止に陥った。
目に映る人物が認識できず、なにも考えられない。
そんなことは王太子時代から様々な策謀を巡らせのちに外交王と呼ばれるまでに至り、周辺各国から畏れられてきた儂にとってはありえない事態である。
次期アギニス公爵殿の登場は、それほどまでに予想外で衝撃的だった。
しかし彼の人の元に向かったヴェルコ殿の顔には、申し訳なさや喜びはあっても驚きはない。
恐らく、彼は知っていたのだ。
…………つまりは、そういうことなのだろう。
少しずつ動き出した頭が、そう結論付ける。
ヴェルコ殿が頑なに秘匿したのは依頼主が本来ならばこの地にいてはならぬ人であり、そんな人間がわざわざ足を運ばねばならぬほどのことが起きていると知っていたから。だから彼は商人の身でありながら、危険を承知で危ない橋を渡ったのだ。
上手く思考が回らない中なんとか現状を呑み込むべく格闘していると、再会したヴェルコ殿を労わっていた次期アギニス公爵殿の目が儂へと向けられる。
「プラタ王が押さえてくださっているのでハンデルは無事ですよ」
そして紡がれた言葉はもっとも知りたかった情報で、儂は安堵の息を吐いた。それと時同じくして、次期アギニス公爵殿がハンデルの置かれている状況を正しく把握していることに気が付き驚く。
なぜ次期アギニス公爵殿はこの地に来たのか、どうやって我が国を取り巻く状況を知ったのか、なぜ儂もここに居ると知っていたのか、どうやってあの息子を説得したのか、なぜエルフを怪しむに至ったのか、どうして彼はエルフの森に入っても傷一つなく無事なのか。
数えきれないほどの疑問が脳裏を過る。
しかし次期アギニス公爵殿は、そんな儂の胸中さえを見透かしていたらしい。
「色々気にかかることがあるでしょうが一連の説明はエルフの里で行いますので、とりあえずここから出ましょう」
穏やかな表情を浮べてそう告げると、優雅な動作で腰を抜かしている儂へ手を差し伸べたのであった。
ここまでお読みくださり、ありがとううございました。




