第百八十二話
『土の精霊ティエーラ。それが私の名前よ』
そう言って置物と化した猫型の土人形の隣にふわりと降り立った土の精霊は、そのまま石机の上に座り込むと、期待の籠った眼差しを俺へ向ける。
実体を脱いだ精霊の声を聴くことができないバラド達は、生気を無くした土人形を不思議そうな顔で眺めているが、聞こえているユリアは頬を引きつらせながら「あれで契約したことになっちゃうんだ……」などと呟いていた。
そんな中、俺は恐る恐る己の内を探る。
そうして見つけたのは、契約という形でしっかり繋がれているラファールとアルヴィオーネとよく似た、しかし不確かさの残る感覚だった。
ラファール達との繋がりが注連縄だとすれば、それは縄跳びほどの細さしかない。けれども確かに、目の前の土の精霊と繋がっている。
確かに俺は「契約して側に居たい」と言った土の精霊に、「いいのではないか」と答えた。しかしそんな言葉だけで、仮初とはいえ契約を結ぶことができるのか。
混乱の最中もう一度確かめると、やはり細く頼りないが土の精霊との繋がりを感じる。
勘違いであってほしいという俺の願い虚しく、気の所為ではなかったらしい。土の精霊との繋がりを確かめること三度目にして、俺は仮契約が成立してしまった事実を認めた。
あんな受け答えだけでも、精霊様は人間に契約を結ばせることができるようだ。何気なく頷いただけで契約の受諾とみなされるとは、もはや性質の悪い詐欺である。
ただ、やり方はともあれ、精霊との契約は悪いことではない。
俺の土属性への適性は低いわけではないがよくもない。しかし土の精霊との契約が加われば、多少なりともその能力は底上げされる。
周囲に積まれた古書や置物などを見るに、土の精霊は相当長い年月を生きているようだし、アルヴィオーネ達が最低限の礼儀は払っている様子から察するに、それなりに強い力を有していると思われる。
そんな精霊の加護を受けるのは僥倖なことであり、力を得たい俺からすればこの仮契約は喜ばしい出来事である。しかし、彼女の真意がわからないまま流されるのは危険だ。
俺が何度も仮契約の証を確認する様を静かに眺めていた土の精霊の真意を探るべく、彼女へと目を向ける。
「――土の精霊様は、私になにをお望みですか?」
『ティエーラ、と呼んでほしいの』
俺の問いかけに、彼女は待ち焦がれたように告げた。しかし彼女からもたらされた答えは俺が求めていたものとは異なり、頭を悩ませる。
だまし討ちのような仮契約とアルヴィオーネと契約した時を思い出すに、先ほどから土の精霊が口にしている『ティエーラ』という名は真名の可能性が高い。つまり俺は今、土の精霊に本契約を求められているのだ。
仮契約を結んだ代償が、本契約を結ぶこととはおかしな話である。どう言ったら伝わるのか思案しつつ、俺は慎重に選んだ言葉を口にしていく。
「――名を呼ぶ代償として、私はなにを貴方に渡せばよいのでしょうか?」
『なにもいらないわ。今の私の願いは、アメリアの子孫を知らぬ間に亡くしてしまわないよう側で見守ることだから、貴方がティエーラと呼んでくれた瞬間叶うもの』
穏やかな笑みを浮かべ告げられたその言葉に、俺は息を呑む。
真名を明かす本契約は、互いの魂を太い鎖で繋ぐ契約だ。
故に、いつどこにいても互いの存在を感じることができるし、その気になれば相手が抱いているおおまかな感情もわかる。実体がない精霊はこの繋がりを通ることで契約者の元に移動することができ、契約者は手繰り寄せることで精霊を強制的に呼び寄せることが可能になる。
仮契約はというと、糸で仮止めしている状態だ。
なんとなく繋がりは感じられるが、細いため一度に多くの情報を得ることはできない。繋いだ糸をたるませてしまうと役に立たない糸電話のように、些細な要因で伝達が阻害される場合もある。また、繋がりを辿ることは可能だが、無理矢理呼び寄せようとすると千切れてしまう可能性が高い。
『どうかティエーラと呼んで、アメリアの血を継いで生まれた子』
懇願を込めた彼女の声が、耳を打つ。
土の精霊が望んでいるのは簡単に切れる仮契約ではなく、互いの同意がないと外すことさえ困難な本契約。
そこに、お婆様の死を知らなかった土の精霊の深い後悔が込められている気がした。
――叶うなら、貴方とお会いしてみたかったです。アメリアお婆様。
俺を真っ直ぐ射抜く焦げ茶色の瞳に、お婆様と言葉を交わしてみたかったと強く思った。死してなお、これほど深く土の精霊に想われるアメリアお婆様は、女性としても公爵位を持つ貴族としても素敵な人だったのだろう。
そう思うと同時に俺は姿勢を正し、改めて土の精霊と対峙する。
「私は常に力がほしいと願っています。先祖代々続くアギニス公爵の名を守り、家族や友人、大切な人々が住まうこの地を守るための武力や地位を求めている。そうやって力を求める私にとって、貴方との契約は滅多にない僥倖です。土の精霊様の加護があれば、もっと強い敵が相手でも戦えるようになる――卒業後は、剣を握る機会が増えます。それが私の選んだ道。背負うと決めた責任を果たし、望んだ未来を得るためには、この手を血に染めることもある。そんな私と契約するということは、貴方自身も戦いの中に身を投じるということです」
俺の渇望や望み、将来の展望を嘘偽りなく、ありのままに告げていく。
真名を得るということは、人の身でありながら精霊に強要できるということだ。ラファールやアルヴィオーネが快く頼みを聞いてくれるので未だ使ったことはないが、俺は二人が嫌がっても無理やり力を揮わせることができる。
力があるのに使わないなど、俺には考えられない。必要だと感じたら躊躇うことなく、土の精霊にも戦うよう命じるだろう。
でもそれは、アメリアお婆様の想いと異なる。
憶測だが、アメリアお婆様は臆病だけれども人が好きな土の精霊の純粋さを好ましく思っていた。そして、貴族としての責を果たさねばならぬ己の代わりに、土の精霊には綺麗なままでいてほしいと思ったのではなかろうか。だから戦いを強いることを厭い、契約を思い留まるよう告げたのだ。
「アメリアお婆様は、貴方に戦いとは無縁な穏やかな時を過ごしてほしいと願っていた。その意に反する日々を、私は己の望みを叶えるために貴方へ強要します。それでもよろしいですか?」
焦げ茶色の瞳を見据えて、そう問いかける。
今回土の精霊が俺に真名を明かしたのは、アメリアお婆様の孫だからだ。それなのに、契約したら俺は必ずお婆様の想いを踏みにじる。
――譲れないものが、俺にはある。
だからこそ俺は在りし日のお婆様がしたように、最後の決断を土の精霊に任せる。それがアメリアお婆様と彼女の大事な親友である土の精霊へ示せる精一杯の誠意だ。
机に座り込んでいるため、椅子に座る俺の視線よりも少し高い位置にある土の精霊の顔を真っ直ぐ見つめれば、微かに彼女の唇が動いた。
『――ほんとうに、似ているわ』
震えた囁きが耳に届いたかと思えば、優しく細められた焦げ茶色と視線が絡む。そして俺を見つめながら過去に思いを馳せた土の精霊は、懐かしむように一度目を閉じると再び口を開いた。
『かまわないわ。アメリアの願いは十分わかっているし、貴方の側ではそれが叶わぬことも理解している。その上で、私は二度と後悔しないよう契約することを望んでいるの。だから私の名を呼んで――ドイル』
土の精霊が出した結論に耳を傾けていた俺は、最後に先ほどまで口にしていた『アメリアの孫』ではなく名で呼ばれ瞠目する。
しかし次の瞬間、悪戯が成功したといった表情を浮かべた土の精霊が零した笑い声で我に返る。人見知りな精霊様は、慣れた相手に対しては随分と気安いようだ。
「ティエーラ」
咎めるようにその名を呼べば、ティエーラは嬉しそうに笑う。
『親愛なる友の血を引く子、ドイル。貴方の優しさと誠実であろうとする姿勢はアメリアを思い出すわ。だからどうか見守らせて、その生を終える最後の瞬間まで。代わりに貴方が望むだけ力を貸してあげる』
そう告げるティエーラの微笑みは、肖像画に描かれたお婆様の笑みと似ている気がした。
***
あと三、四時間もすれば夜が明けるという時間帯。
帰寮報告を終え皆と別れた俺は、バラドと共に自室へと戻ってきていた。
――七不思議の解明のはずが、とんでもない目に合ったな。
就寝準備を済ませた俺は、椅子に腰掛けながら今日の出来事を思い返す。
土の精霊ティエーラと契約後、俺達は軽く洞窟内を見学し彼女に別れを告げた。その際、王宮が探している歴史書や魔法書、すでに廃れ製法が失われてしまった貴重な布を見つけたりと様々な驚きがあったものの、俺達は無事地上へと戻ってきた。
そしてそれぞれの住処に戻るという精霊達と別れた。セルリー様の元に行くというユリアとも別れた俺達は夜番の先生に帰寮を報告した。その後、少し草臥れてはいるものの満足そうな表情で去るルツェとソルシエとジェフをバラドと共に見送り、今に至る。
ティエーラとお婆様が親友だったというのが、一番衝撃的だったな……。
ちなみに二番目は、寮へ戻る道中に立ち寄った『すすり泣く木』である。
月明かりの下、木陰に隠れて非道なセルリー様への不満や「あのメイドを連れてきたのはアギニスとセルリー様なのに、なんでアラン様や宰相様は俺に抗議文を……」と呟きながら非情な現実を嘆く学園長の姿は、精霊達さえも「あれはそっとしておいてあげましょう」と言って目を逸らすほど不憫だった。
大半はセルリー様への愚痴だったが、俺が連れてきたユリアや今回の七不思議の解明なども学園長の胃を痛める要因となっているようだったので、改めて胃薬や滋養にいい品を送ろうと心に決めた次第である。
「――ドイル様。それでは、私はこれで」
そうやって俺が回想している間に、バラドは片づけを終えたようだ。
「ありがとう。疲れているのに悪かったな」
退室を告げた従者に俺は礼を告げる。
次いで疲れていても俺の世話をしたがるバラドにしっかり休むよう申し付けるべく、再び口を開いた。
「朝食は要らないから、昼まで自室でゆっくり休めよ。くれぐれも、俺の部屋で待機したりしないように。昼は遅めにとる予定だから、正午を過ぎるまで仕事はせず己の休息にあてろ」
くどく言い過ぎた気もするが、ここまで命じておかないと此奴はいつも通りの時間に起きてきて、俺の起床を待ちかねない。
「無理をしてお前に倒れられると困るからな」
駄目押しにそう告げれば、バラドは喜色と悲哀が入り交じった複雑な表情を浮かべる。おおかた心配されて嬉しいが、俺の世話を焼かずに休んでいるなんてとでも考えているのだろう。
物言いたげな態度をみせる従者に、ちゃんと休めよと目で告げる。するとバラドも観念したのか、しぶしぶ頷いた。
「……畏まりました。お気遣いありがとうございます。それでは正午に、起床のご準備をしてお持ちいたします」
「ああ。よい夢を」
「はい。お休みなさいませ、ドイル様」
仕事中毒気味な従者に苦笑しながら就寝の挨拶を告げれば、バラドは丁寧に腰を折って扉へ向かう。
そうして俺は、隣接する自室へと戻っていくバラドの背を見送った。
音もなく閉じた扉をしばし眺めた俺は、机の上に置かれた白い壺を引き寄せる。
ツルリと滑らかな触り心地の白い陶磁器で作られた壺は、アメリアお婆様が赤子だった父を見せに来た時に「アギニス家の子孫が貴方を見つけたら渡してあげて」と言ってティエーラに預けたものらしい。
両手で抱えなければならない壺の中心部には美しい花々が描かれ、縁や持ち手は金で装飾されている。そして口部分は土魔法によって固く閉ざされていた。
壺を倒し、一体化している白い石を砂に変える。以前の俺ならば少し手間取ったかもしれないが、土の精霊の加護を得た今このくらいの作業は簡単だった。
砂が中に入らないよう壺の外に出す。ついでとばかりに真球の形に固め直し、亜空間に入れておく。
バスケットボールくらいある口から中を覗けば、中には五冊の本が入っているのが見える。取り出してみると青い装丁の本が三冊と、一回り小さいサイズの赤い本が二冊出てきた。
パラパラ流し読みしてみたところ、青い本には代々当主に口伝されていたアギニス家の歴史と思われる内容が書かれており、残りの二冊はアメリアお婆様の日記のようだった。
セバスが見たら、泣いて喜びそうだ――。
失われたアギニス公爵家の歴史が綴られているだろう青い書物にそんな感想を思い浮かべながら、お婆様の直筆だろう五冊の本を亜空間に仕舞う。
そして、灯りを消してベッドに入った。
身体を横たえれば、途端に睡魔がやって来る。
フェニーチェを追いかけ全力で走ったりしたので、思っていた以上に疲れていたらしい。
――青い方は目を通したら実家に送ろう。お婆様が亡くなる前に、アギニス家の歴史を聞いておけばよかったとセバスは大変後悔していたから喜ぶだろう。
赤い本は、どうするか。一緒に入っていたくらいだから、読んでもいいのだろうが、女性の日記を読むのはなぁ。そのままお爺様に送った方が――、
夢うつつの中、本について考える。
――それにしても代々口伝だった我が家の歴史を書き残しておくだなんて、お婆様は用意がいいな……まるで、自分の代で途絶えることを予期していたような――。
そうして意味があるような、ないような、ふわふわした思考を繰り返しながら睡魔に身を任せようとしていたその時、ふと思いつく。
そう言えば、なにが原因でお婆様は若くして亡くなられたんだ?
たゆたう意識の中、過った疑問を解消するべく記憶を探る。
そして気が付いた事実に俺は跳ね起きた。
「お婆様の死因を聞いたことがない……?」
愕然と呟いた答えは、闇に包まれた部屋の中へ溶けて消えた。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。




