第百八十一話
黒猫に扮した土の精霊に導かれること、五分ほど。
正門を背に左方向へまっすぐ進んだ俺達は、エピス学園を守る高い石壁へ辿りついた。
こんなところに、住処への入り口作ってよくいままで大丈夫だったな……。
数メートル先に見える突き当たりに向かって真っすぐ歩く土の精霊の背を見ながら、俺は案内された場所の立地にひやりとする。なにせ、黒猫が向かっている学園を囲む塀から十メートルと離れていないところに校舎が存在しているのだ。
今は夜ということで人気がないが、昼間ともなれば多くの生徒や教員達が行き来しているだろうに、よくぞ今まで誰にも見咎められなかったものだ。
なにか人目を誤魔化す特別な仕掛けがあるのかと意識を集中させてみるが、それらしきものは発見できない。しかし、その疑問は再び校舎へ目をやったことで解決した。
よくよく目を凝らしてみれば、窓がないのだ。
――ここは薬学科の裏側なのか。
学園内の構造を思い出し、一人納得する。
薬や素材となる薬草などの種類によっては日差しに弱い物もあるので、薬学科に備え付けられている保管庫には窓がない。勿論研究室や教室に窓はあるが、実験中は基本カーテンを閉じている。薬や素材が陽光の影響を受けないようにするためもあるし、研究内容や実験技術を盗用されないようにするためだ。
薬学科の生徒が分厚いカーテンを開けるのは、どうでもいい雑談中か掃除の時くらいなので、そうそう見咎められる心配はない。
人目を忍ぶならばうってつけの場所だな、と感心していると、塀の真下に到着した土の精霊が足を止め、腰を下ろす。座り込んだ彼女のすぐ側には、滑らかな表面の拳大ほどの丸い石が埋まっていた。
「ここよ」
黒猫の前足でポンと何気なく丸い石に触れた途端、地の上を光の線が四角を描くように走り、音もなく地面が消える。
そうして出来上がった四角い穴を覗きこめば、大理石を思わせるようなツルツルの鉱石で舗装された急な下り坂が、淡い光に照らしだされていた。
……これは一体どこまで続いているんだ?
摩擦抵抗とは無縁そうな滑り台は結構な傾斜があるらしく、三メートル先を見ることも難しい。胸に広がる嫌な予感に促され最近習得した【地中探知】を使えば、急角度の下り坂が螺旋を描きながら地中深くまで伸びているのを感じ取ることができるものの、終点を見つけることはできなかった。
一年前は五百メートルほどだった俺の探索範囲は、今や倍近い距離まで伸びている。そんな俺でも追いきれないということは、この滑り台は最低でも一キロは続いているということで……。
結構な速度が出ると予測される滑り台を前に、俺はゴクリと唾を呑む。
「ここを、行くのですか?」
「そうよ。最初は階段だったんだけど『この方が面白いし楽だわ』ってアメリアが言うから、材質とか沢山改良したの。最後は彼女も満足していたから、貴方達も楽しめると思うわ」
誇らしげに語る土の精霊の台詞に、俺は思わず亡き祖母の感性を疑う。時同じくして、背後からジェフとフィアの喜色の籠った声と、ソルシエとルツェの会話が聞こえた。
「……生きて帰ってこられるよね?」
「ドイル様がいらっしゃるから大丈夫でしょう」
ルツェの言葉に賛同するソルシエやバラドの声を背に、俺は覚悟を決める。俺をいたく信頼してくれているルツェ達の前で、不安や動揺を見せるなどもっての外だからな。
正直、垂直に近い角度の滑り台を楽しめるとは到底思えないが、お婆様が監修したのならば人体に危険はないはず。万が一なにかあったとしても、俺の身体ならば大事には至らないし、先に降りていれば魔法で減速させるなり、受け止めてやるなりできる。
そう己に言いかせた俺は、努めて冷静に土の精霊の元に向かった。そして、
「お邪魔します、土の精霊様」
「ええ。アメリアと私の自信作を楽しんでね」
邪気のない土の精霊の言葉へぎこちない笑みを返し、俺は四角い穴の中に足を踏み入れた。
とんでもない速度でクルクル下り続けること、五分強。『滑る』というよりも『落ちる』が正しい表現だろう滑り台は、想像以上にスリリングだった。
身体が浮かび上がらないよう押さえつけてくれたり、勢い付いた体を終点で優しく受け止めてくれる魔法陣の設置、摩擦熱が生まれない滑り台の材質など素晴らしい工夫は多々あったが俺は二度と御免である。帰り用に階段があるそうなので、次に訪れる機会があったのならばそちらでお願いする予定だ。
お婆様は絶叫マシーンとか大好きだろうな……。
歓声を上げながら滑り台を楽しむお婆様を浮かべ、そんな感想を抱く。
多くの仲間に囲まれながら戦士科の一員として剣を握り、セルリー様と幼馴染でいられるほど寛大な心を持ち、お爺様を平手打ちするほど勝ち気であり、あの長く急な滑り台を楽しめる強い精神を持った快活な少女。出来上がってきたアメリアお婆様のイメージに、案外お爺様とセルリー様の方が振り回されていたのでは、とさえ思う。
お婆様達の若かりし頃を想像しながら、俺は改めて土の精霊の住処を見渡す。
二十畳ほどの広さの洞窟なのだが、天井や側面の至るところから土属性の魔石が顔を覗かせている。上質な魔力を漂わせる琥珀色の魔石に反射された黄金色の光が辺りを包み、とても豪華な空間となっていた。
しかしその印象も、一度地面へ視線を落とすと一転する。アメリアお婆様が【秘密基地】と称しただけあり、年代を感じさせる布や用途不明な枝の束、宝石の原石や金装飾が施された盾など、種類を問わない雑多な品々がそこかしこに積まれている。中には書きかけの絵や作りかけの魔道具などもあり、子供の遊び場だった名残が感じられた。
そんな土の精霊の住処の中央には石造りの大きな机と椅子が置かれており、俺や若干顔色を悪くしたバラドとルツェとソルシエ、ユリアが腰かけていた。ジェフと元気一杯な精霊組は洞窟内を探索中である。
石造りの机の上には、人数分用意されたお茶と色とりどりのお菓子が並べられている。
ちなみに、菓子を出したのは山の妖精達だ。俺達が土の精霊と対面している間に、ラファール達が広げていた菓子をこっそり回収していたらしい。『サッと集めて、パッと盗って逃げるのは得意ですじゃ』と胸を張った彼らは、驚くべきことに土の精霊が落とした涙の粒まで持ってきていた。恐るべき回収能力である。
そして体調が思わしくないバラドやユリアに代わりお茶を入れてくれたのは、土の精霊によって生み出された体長三十センチほどのゴーレム達。石机の横にはゴーレム達用の階段が彫り込まれており、彼らは身の丈以上あるポットなどの茶器を軽々運んでいた。
言葉こそ話せないが、ゴーレム達は小さな手を器用に使い、その体躯からは想像もつかない力で土の精霊の命をこなしていく。
そんな、主人に忠実な彼らは現在、アメリアお婆様に縁のある品を運んでいる最中である。
「――とりあえず、こんなものかしら」
ゴーレムが、本や小物を辺りから発掘し次々と机の上に並べていく姿を、俺のカップの横に陣取って眺めていた黒猫はおもむろに呟く。
次いで彼女が立ち上がると、土の精霊の意図を汲んだゴーレムが発掘をやめ、机の上へ上がってきた。
「――これはアメリアが好んで読んでいた小説で、これは卒業する時に置いて行った教科書やノート。この木箱は彼女の好物だった焼き菓子の入れ物で、これは学園商店街を一緒に回っていた時にアメリアが一目ぼれして買ったランプよ。灯りをつけると、丁度ドラゴンが火を噴いているように見えるでしょう? 格好よくて買ったのはいいけど公爵家の令嬢が持つには微妙だからと言って、ここで使っていたの。あと、額縁に入っている刺繍は彼女と一緒に作ったの。右半分がアメリア、左側は私が刺したのよ」
黒猫の説明に合わせ古ぼけた小説や紙の束、焼き菓子の空箱、咆哮するドラゴンの姿が彫られたランプや、二匹の猫が草原で追いかけっこしている刺繍絵を持ったゴーレム達はファッションショーさながらに歩いてくると、ポーズを決める代わりに持っていた品を掲げて俺に見せつけ、満足気に去っていく。
そうして土の精霊が語る思い出話に耳を傾け、アメリアお婆様に縁のある品々を眺めることしばし。
並べられた品々の最後の一つ、薄紫の小花で縁取られた木製の手鏡をゴーレムが運んでくる。
「――この手鏡は『お揃いよ』と言って贈ってくれたものなの。アメリアは色違いの淡い黄色の花が装飾されたものを使っていたわ。色違いのこの手鏡は友達の証だって言ってくれて、とっても嬉しかった……」
優しく手鏡を撫でながら、土の精霊は吐息を零す。
「アメリアはとても優しい子だったわ。私のことを人間の友達と同じように扱ってくれて、色々なことを教えてくれたの。彼女が食べさせてくれた甘いお菓子や果物、猫の姿で乗せてもらった馬はとても気持ち良かったわ。中には刺繍とか、今一つ面白さがわからないものもあったけど、アメリアとお話しながらやると不思議と楽しかった」
共に過ごした日々を語る声は幸せそうだった。しかし、手鏡を見つめる焦げ茶色の瞳には哀愁が滲み、ただでさえ小さい黒猫の背がより一層頼りない。
儚げな土の精霊からそっと視線を外した俺は、並べられた思い出の品々を見る。四十五年前のものだけあって廃れたデザインや色褪せは見受けられるが、どれも埃一つなくとても綺麗だ。
きっととても大切にしてくれていたのだろう。
そして、それは洞窟内のすべてのものに言える。
周囲には沢山の物が乱雑に積まれているが、こちらにも埃や汚れは見られない。
出された茶器も曇り一つなく磨かれ、口にした紅茶は高級品ではないものの、香り高く飲むとほどよい渋みが広がった。
恐らく山の妖精達に手伝ってもらい、定期的に葉を新しくしているのだろう。でなければ、ここまで香りは残らない。
いつ友が訪ねてきても迎えられるよう、整えられた【秘密基地】。
この場所にあるすべてのものが、土の精霊がお婆様へ抱く想いの深さを物語っていた。
そして、そんな土の精霊に応えるように贈られた手鏡などの友情の証からは、共に過ごした日々を忘れないでほしいというお婆様の想いが感じられる。
土の精霊は間違いなく、アメリアお婆様の親友だった。
そう強く感じるからこそ余計に、なぜ二人は契約しなかったのか、という疑問が浮かぶ。
聞かない方がいいのだろうか……。
過去に思いを馳せている土の精霊の姿に、そんな考えが脳裏を過る。
なにか深い理由があったのか? いやでも、お婆様との話を聞かれたくないのなら、そもそものこの場に招かれないだろうし……こうして縁の品を見せながら思い出話を語るくらいなのだから、誰かに聞いてもらいたいのかもしれない。
お婆様について知りたいという欲求と、土の精霊を傷つけてしまうのではとい不安がせめぎ合う。
とその時だった。
手鏡を眺めていた黒猫は、俺の目の前へ座り直すとおもむろに口を開く。
「ずっと一緒に居たかったから、契約を持ちかけたこともあるの。でも、アメリアに一度考え直すように言われて、結局やめたわ」
「考え直すように言われた?」
「ええ。『アギニス公爵を継いだ私には、戦う義務があるの。そして私はその責を誇りに思っている。だから貴方の力を得たら、私は戦いに使うわ。今度は、あの人や幼馴染達と共に戦いたいから。でも、それは貴方が望むような日々とは違うと思う。一緒にはいられるけど、きっと今のような友達ではいられないわ』そう告げるアメリアは、とても苦しそうだった。だから契約は止めて、その代わりにいつでも連絡が取れるよう私が作った魔石を贈ったの。私はアメリアの【親友】でいたかったし、彼女を悲しませたくなかったから」
過去を想い起こしたことで悲しみも思い出したのか、黒猫の瞳に涙が滲む。
大戦が終了したのは、アメリアお婆様がエピス学園に入学する前年。戦時中に父を亡くしたアメリアお婆様は、中等部へ在籍中にアギニス公爵位を継いだと聞いている。また、お爺様とは戦場で出会ったとも。
高等部を卒業したてのセルリー様達が、前線に送られた時代だ。
お爺様達の口から当時のことを詳しく聞いたわけではないので憶測にすぎないが、アメリアお婆様はアギニス公爵の名を背負う将として、幾度も戦場へ足を運んでいたのだろう。
十代前半の少女が将として戦場に立つ厳しさや、戦いに身を投じるセルリー様やお爺様達を間近で見たお婆様が抱いた感情を想像することは、戦の経験のない俺には不可能だ。
しかし、力を得たら戦うと土の精霊に言いきったお婆様の覚悟が、並々ならぬものだったことくらいはわかる。
今は亡きお婆様を思い描きながら、アギニスの名は決して傷つけてはならぬものなのだと改めて心に刻む。
次いで、若くして公爵位を継ぎ戦争を経験した少女のその後へ思いを馳せた。
将として人の上に立った彼女が、普通の生徒達に混じり学生生活を心から楽しめたとは思えない。だからこそ、親友だった土の精霊の存在は彼女の中で大きかったのではなかろうか。
――お婆様は、人間社会の柵に囚われずただの『アメリア』という少女でいられる場所を失いたくなかったんだろうな。
憶測と想像を重ねた結論だが、それが正解な気がした。
大戦中なによりも欲しただろう巨大な力を得る機会をお婆様自ら潰したというのが、なによりの証拠だ。
土の精霊をぼんやり眺めながら、アメリアお婆様が抱いただろう葛藤を想い、尊敬の念を深めていると、黒猫の目尻にたった一粒乗った涙の粒が零れ、カツンと机の上で跳ねる。
その音にハッと現実に思考を戻した俺が土の精霊へ意識を向けるのと、彼女が口を開いたのはほぼ同時だった。
「……卒業する彼女を見送るのはとても寂しかったし、知らぬ間にアメリアが亡くなっていたと聞いた時は胸が張り裂けそうだった。だから今度はそんなことがないように契約して、なにがあろうとも死ぬまで側に居ようと思うの」
切々とそう告げた土の精霊は、潤んだ焦げ茶色の瞳で俺を見上げる。じっと見つめられ首を傾げるも、黒猫は俺から目を逸らすことなく待っている。
今一つどうしていいのかわからず復活したバラド達へ目を向けるが、わからないと首を振られたので、もう一度土の精霊へ視線を戻す。
彼女からなんらかの反応を得たくてしばしの間見つめ合うも、黒猫は口を開かず、なにかを訴えるような眼差しを俺へ向け続ける。
「――よいのではないのですか?」
その視線に負けた俺は彼女の意図もわからぬまま、とりあえず肯定の言葉を紡ぐ。
しかし、それは大きな過ちだった。
「ありがとう!」
俺の返事を聞いた土の精霊が喜色を前面に押し出した声で礼を告げた途端、場の空気が変わる。悪い方向にではなく、どちらかと言えば空気が澄んだ印象だ。
『これで、仮初の契約は結ばれたわ』
変化した雰囲気に驚く間もなく黒猫の目が光を失い、ただの土人形へと戻ったかと思えば、響きが若干変わった土の精霊の声が耳を打つ。
「――え?」
そう零したのは、誰だったか。俺自身だったかもしれないし、突然生気を失った黒猫に目を丸くしていたバラドやルツェかソルシエ、またはユリアだったかもしれない。
ただ俺はその音をきっかけに、そろそろと視線を上げた。
そうして見たのは、土人形を脱ぎ捨て本来の姿へと戻った精霊。
『私の名はティエーラよ』
真名らしきものを告げながら、満面の笑みを浮かべる土の精霊の胸中は読めない。
なぜ、どうして、といった疑問が脳を駆け巡る。
そんな中、感じ取ってしまった土の精霊との間にあるか細い繋がりに、俺は心の中で「詐欺だー!」と全力で叫んだ。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。




