第百七十七話 プフェ・フォン・ヘングスト
綺麗に刈りそろえられた馬牧場の牧草を柔らかな月明かりが照らしだし、リンリンと鈴のような音で鳴く虫達の声が耳を楽しませる静かな夜。
穏やかな空気の漂う厩舎内をゆったりした歩調で進みながら、俺はいつも通り馬達の様子を見回っていた。
「元気かぁ?」
甘えるようにすり寄ってきた馬に語りかけながら、その首筋を撫でる。と同時に、掌に感じる体温と脈に毛の感触、続いて目視で外傷の有無や毛艶、瞳などを観察する。
牧場の責任者として、馬達の体調管理は大事な仕事だ。
――この子も、よぉく手入れもしてもらってるなぁ。
丁寧に世話してもらっているだろう馬をもう一度眺め、よかったよかったと思いながら記録用紙に『異常なし・良好』と書き込む。次いで、隣の馬を診る。
「お前は随分とご機嫌だなぁ。なにかいいことでもあったかぁ?」
見るからにご機嫌な馬の姿に思わず手元の書類をみれば、放課後に主人と牧場に出た旨が記されている。
馬術訓練と遠乗りのどちらだったのかはわからないが、きっと主人と沢山遊び、丁寧にブラッシングしてもらったのだろう。栗毛はつやつやで、俺を見下ろす瞳は生き生きと輝いていた。
文句なしに健康な馬の名の横に、先ほどと同じく『異常なし・良好』と書く。
そして、俺は顔を上げた。
厩舎内にいる馬達は皆身ぎれいで、穏やかな空気を漂わせながら心地よい秋の夜長を楽しんでいる。
これもアギニス達のお蔭だぁ。
幸せそうな馬の姿に自身の口元が綻ぶのを感じながら、この状況を作りだしただろう生徒達を思い浮べる。
アギニスを筆頭に、リュート・シュタープやグレイ殿下、ジン・フォン・シュピーツと素晴らしい乗馬技術を持つ者がいるお蔭で、騎乗する彼らに魅せられた生徒達が馬術をこぞって磨きだした。
ただ、それだけならば、数年周期で見られる光景だ。本の主人公や現役騎士が馬術で活躍したりすると、生徒達の間で乗馬が流行るものだからな。
しかし今期の生徒達は乗馬の腕を磨くに留まらず、馬達の世話にも力を入れている。それは間違いなく、グレイ殿下とアギニスの影響だった。
彼らは馬と信頼関係を築く大事さを知っている。だから頻繁に厩舎へ顔を出し、己の手で馬の世話をしていく。
王太子殿下や公爵家継嗣が自らの手で馬の手入れをしているとなれば、二人の部下は勿論、他の貴族達もそれに倣う。
流石に令嬢達は部下の手を借りているが、ブラッシングぐらいは手ずからするようになった。
ちなみに、彼女達への決め手は、今年入学したクレア王女が殿下やアギニスに教えられながら馬の手入れをしていたことだ。王女様もやっているのに、素知らぬふりは令嬢達も不可能だったらしい。
不慣れながらも貴族子弟や令嬢達がせっせと馬の世話に勤しんだ結果、その空気が平民出の生徒達にも移り、いまや馬の世話を牧場の職員任せにする者はいない。
馬牧場の責任者として大変喜ばしく、また馬好きな一個人としても嬉しいかぎりだ。
それは、馬達も同じ。
もともと馬は賢く、主人の愛情に応える生き物だ。大事にされている自覚のある馬達は、全身全霊をもって主人の期待に応えようとする。
日毎に乗りやすくなる馬達に、生徒の腕は上がっていく。そうして思うように操れるようになってくると乗馬が楽しくなり、もっと馬が好きになっていく。
すると世話する手へ熱が入り、馬達もさらに期待に応えようとする。
殿下とアギニスの行動をきっかけに、生徒と馬の間で良い循環が起こっていた。
「――感謝しなきゃなぁ」
「何にですか?」
美しい毛並をした馬を撫でながらそう呟けば、そう遠くない場所から問いかける声が聞こえてくる。その声に周囲を見回せば、己の分担を終えた部下が記入済みの書類を手にこちらへ向かって来ていた。
「こちらは異常なし。今日も馬達は元気です」
「そうかぁ」
差し出された書類に目を通し、確認した印として責任者欄に署名する。
すべての欄が埋められた記録用紙を受け取った部下は、束ねた紙の一番上に重ねる。そして書類がばらけないよう紐で綴じながら、彼は先と同じ質問を口にした。
「それで、プフェ先生は一体何に感謝していたんですか?」
「馬達があまりに幸せそうなもんで、グレイ殿下とアギニスになぁ」
馬達に視線をやりながらそう答えれば、部下のしみじみとした声が耳を打つ。
「グレイ殿下のノワールとアギニスのブランは、毛並も艶々で格好いいですからね。それに二人の乗馬の腕前がまたすごいですから、生徒達の馬への情熱が冷めなくて助かります」
部下のその言葉に頷きながら、グレイ殿下とアギニスの愛馬を思い浮べる。
艶やかな漆黒の青毛と白銀に輝く白馬が威風堂々とした出で立ちで駆ける様は美しく、二頭の身体能力を最大限に生かす殿下とアギニスの乗馬技術に、生徒達は感嘆の声を零すのだ。
「――そういえば、この間アギニスが持ってきた書類通ったと聞きましたが、いつ来るんですか?」
草原を駆ける美しい白馬を脳裏に描いていると、部下がそう言えばといった様子で口を開く。彼の問いかけと同時に思い出すのは、先日アギニスが持ってきた夜間の行動許可を求める書類だ。
――そういやぁ、あれは今日だったなぁ。
七不思議の解明とはアギニスも子供らしいことをするもんだと、ほのぼのした気持ちで署名を書いてやったあれは、たしか今晩だった。
恐らく、人魂を追う彼らが最後に向かうのは、牧場の奥にある林。寮の方からくるならば厩舎前を通る可能性は高い。
「そろそろ、その辺を通るかもなぁ」
「え、今日なんですか?」
書類の内容を思い出しながら答えれば、驚きの声を上げた部下は次いでいそいそと厩舎の出入口へと足を進める。そんな彼の姿に、俺も仕事を中断し扉へと向かった。
「そういえば、今回の月光樹の開花早くないですか? 生徒達の間で人魂の噂が立つのは秋の終わり頃だった気がしたんですが」
「今回は早かったみたいだぁ。一昨日見にいった感じだとぉ、今日、明日あたり満開だろうなぁ」
「なら、薬学科の先生に連絡しないといけませんね」
「もうしてあるぞぉ?」
「え。本当ですか? 仰ってくだされば、俺が伝えにいきましたのに」
「ちょうど校舎に用事があったんだぁ」
そんな会話を交わしながら厩舎を出て、部下と共に牧場を見渡す。
馬牧場の職員にとって、生徒達の間で囁かれる人魂の噂は月光樹の開花を知らせる合図となっている。
なぜなら、人魂の正体は月光樹を纏った野鳥等の小動物だからだ。
牧場は自然を生かした作り故に、林の中には野鳥やリス等の小動物が多数生息している。月光樹の花は大変小さいため、木に登った小動物や野鳥の毛に入り込み、それを偶々目撃した生徒が人魂だと騒ぎ立てるのが恒例だった。
事前に説明しておいてもいいのだが、開花に数年かかるため人魂の噂を聞かずに卒業する生徒も多く、いつ咲くか予期できないのに期待させては可哀想。なにより人魂について騒いでいる生徒達が楽しそうなので、月光樹の存在は伏せることにしている。
大人びた態度をとる者が多いこの学園において、生徒達が真剣に人魂について語る様はどこか子供らしく、我々教員の楽しみでもあるのだ。
「アギニスはどんな顔してきますかね?」
アギニスの反応を想像しているのか、そう告げる部下の声はどこか弾んでいる。
「どうだかなぁ」
月明かりに照らされる牧場をワクワクした様子で眺める部下に、苦笑しながら答える。
と、その時だった。
「――もう無理っ!」
「頑張れ、ソルシエ! 見失うぞ!」
足音らしきものと共に、そんな声が聞こえて来る。
音を頼りに目を凝らせば、少し遠くに青白い光とそれを追いかける生徒の姿が見えた。
「お。丁度良く、来ま――」
見えた光景に部下が笑みを深め、そう言いかけた次の瞬間、例年にない速さで人魂が目の前を横切る。次いで聞こえくる叫び声。
「ジェフ! ソルシエ!」
「ドイル様っ」
「先に行って下さい!」
「わかった! 気を付けて追ってこいっ」
「「はいっ」」
驚くべき速度で人魂が通過したかと思えば、アギニス達のそんな会話が聞こえる。それから一拍遅れて、赤い何かが厩舎の前を通りすぎた。
いまの赤はなんだぁ?
俺がそう思う否や、次はアギニスらしき金色と先ほどとはまた違う赤色が恐ろしいほどの速さで駆け抜けていく。
「まて、フィア! 一人で行――!」
「アギニス様、置いて行かないでく――!」
瞬く間に遠ざかる男女の声と強風に吹かれたかのように、ザァと揺れる牧草。
煌めく金色を視界に捉えたのは、一秒にも満たなかった。
嵐のように通りすぎた人魂とフィアと呼ばれた赤色、それらを信じられない速さで追いかけていったアギニスと女性。
今しがた目にした光景を中々呑み込めなかった俺と部下の間に、沈黙が落ちる。
そうして互いに現状理解に努めること、しばし。
降り注ぐ月光に照らしだされた牧草が柔らかく揺れ、再び虫達の音が聞こえた始めた頃、ようやく部下が口を開いた。
「………………今、一瞬見えた金色がアギニスですか?」
「……みたいだなぁ」
信じられないものを見たと言いたげな声で呟いた部下に、なんとも言えない気持ちで答える。
「人間ってあんな速度出せるんですね……」
「……だなぁ」
乾いた笑いを零す部下にそう答えるも、俺自身信じられない気持ちで一杯だ。
百歩譲って人魂はいい。宙に浮いていたということは野鳥の可能性が高いので、種類によってはあのくらいの速度も出るだろう。
しかしアギニスのあの速さは、我が目を疑うものだった。
……子供の成長はすごいなぁ。
セルリー様の影響か、恐ろしい早さで人の枠組みを越えつつあるアギニスにそんなことを思いながら、俺は空を仰ぎ見る。
雲一つない夜空では、月が眩いほどに輝いていた。
煌々と降り注ぐ月明かりに目を細める最中、頭を過ったのはアギニスと共に走り去った女性。学園長から回ってきた通達によると、アギニスを追っていった彼女は最近セルリー様付きになったメイドのはず。彼の方が連れて来たので、ただのメイドではないだろうとは考えていたが想像以上だ。
「――プフェ先生」
予想もしていなかった展開に考え耽っていた俺は、部下の声でハッと我に返る。
「……すみません、プフェ先生。俺、なんだか疲れてしまったので、お先に失礼します」
子供らしく人魂を追うアギニス達を思い浮べていた分、先ほど見た光景が衝撃だったのだろう。帰宅を願う部下の顔には、疲労が滲んでいた。
彼の仕事はもう終わっている。休みたいという申し出を断る理由はないので、俺は静かに頷く。
「しっかり休めよぉ」
「はい。失礼します」
どこか覚束ない足取りで厩舎を去る部下からそっと目を逸らし、俺は再び外へ目を向ける。
そこでは、アギニス達に取り残されたジェフ・ブルカとソルシエ・ストレーガが、バラド・ローブやルツェ・ヘンドラと合流しているところだった。
「ジェフ、ソルシエ。ここでなにをしているのですか? ドイル様はどちらに?」
アギニスの行方を尋ねたローブに、ブルカとストレーガが答える。
「ドイル様は人魂を追って林の中に。あの人魂、滅茶苦茶速くて俺やソルシエじゃ着いていけませんでした」
「フィアとユリアさんも一緒です。ラファールさん達は空から追って行きました」
「――だ、そうですが、私達はいかがいたしましょうか? バラド様」
二人の返答を引き継ぎ、ヘンドラが問いかける。アギニスがいない場合、彼らの指揮権はローブにあるようだ。
「無論、追いかけます。ここで足を止めても、ドイル様が私達を叱咤することはないでしょう。それどころか、すべてを調べ終えた上で迎えにきてくださるはずです。お優しい方ですからね。しかし、ドイル様にそのようなお手間をかけさせては、従者の名折れ。才能溢れるドイル様の類い稀なる身体能力についていけないのは致し方ありませんが、その優しさと秀逸な手際に甘えてばかりではいけません」
そう答え意気込んだローブはしばしの間黙り込んだのち、ブルカ達に言い放つ。
「――素晴らしい速度で進まれておりますが、ドイル様がいらっしゃる方角は掴めました。行きますよ」
「承知しました」
「了解です」
「はい」
快諾した三人はローブの指示に従い、足を踏み出す。
林の中をありえない速度で走り回っているだろうアギニスを追いかけるのは、一般人には少々厳しい。彼らが無事アギニスと合流できるよう、手伝ってやるべきだろう。
そう思った俺はアギニス達が行きつく先を教えてやるべく、彼らの名を呼んだ。
「ローブ、ヘンドラ、ブルカ、ストレーガ! アギニスの行先を教えてやるからぁ、ちょっとよっていかないかぁ?」
「「「「プフェ先生!」」」」
そういって手を振れば、四人は恐ろしく息が合った様子で振り返ったのだった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。




