第百六十八話 クレア・フォン・マジェスタ
マジェスタの建国当初から、国事にまつわる催事や王族の節目を祝う場として使われてきた大聖堂で本日行われているのは、私とドイル様の婚約式です。
常日頃から神聖な雰囲気を漂わせている大聖堂ですが、待ちに待ったドイル様との婚約式とあって、今日はより一層尊い場所のように感じられます。白い空間を彩る神々や精霊を模した彫刻や装飾が、明かり窓から差し込む陽光を反射し煌めく姿は後光差す神々のように見え、私達を祝福しているかのようです。
そんなことを考えていると、目の前にすっと一本のペンが現れます。
差出人は口元を綻ばせたドイル様。浮かべられた笑みに、胸が高鳴ります。
――今日という日を、ドイル様も喜んでくださっている。
そう思うだけで煩いくらいに騒ぎ出した心臓に、これではいけないと思った私は渡されたペンを握り、深呼吸を一つ。そして将来を誓う文面が書かれた紙の一番下に、私の名を記します。
並ぶ『ドイル・フォン・アギニス』と『クレア・フォン・マジェスタ』の文字に、頬が緩むのを感じ慌てて表情を引き締めました。けれども待ちに待ったその瞬間が嬉しくて、私は綻ぶ口元を隠せぬまま神官へと目を向けます。
そんな私に、長らく大聖堂にて式事を執り行っている神官は目尻に優しい皺を刻みます。
「お二人が交わした約束を誠実に守り、互いの理解を深め、喜びのうちに結婚の日を迎えますようお祈りいたします」
「「ありがとうございます」」
神官の優しげな笑みをこそばゆく思いつつ、送られた祈りの言葉へドイル様と共にお礼を告げたその時でした。
一先ず、おめでとう――。
そんな音なき声が、聞こえてきました。
どうやら愛の女神様も、今日のよき日を見守ってくださっていたようです。
――ありがとうございます、愛の女神様。
結婚式を楽しみにしているから、頑張って――。
――当然ですわ!
愛の女神様のお言葉に胸中でそう返し、私は差し出されたドイル様の手を取ります。
そして導かれるままドイル様の腕に手を添え、人々の温かな歓声と祝福を込めた拍手が降り注ぐ中を歩きだします。
白い礼服に身を包むドイル様は一段と素敵で、すぐ近くに感じる愛しい人の体温にドキドキしつつ進めば、あっという間に祝福に沸く人々の間を抜けてしまいました。
呆気なく終わってしまった婚約式。もう少しその余韻に浸っていたかったと乙女心が不満をもらすものの、予定が詰まっているためゆっくりしている暇はございません。
私とドイル様は足早に、しかし優雅に大聖堂をあとにします。
建物を出れば金で装飾が施された白い馬車と、陽光を浴び白銀に輝くドイル様の白馬、それから礼服に身を包んだバラド様と祭典用の制服に身を包んだ護衛騎士や従者達が、私達を出迎えてくださいました。
皆が口々に祝福の言葉を紡ぐ中、私はドイルに手を引かれ馬車に近づきます。
「ご婚約、おめでとうございます。ドイル様、クレア様」
「ありがとう」
「ありがとうございますわ」
パレード中、私達の世話をするべく馬車の一角に乗り込んでいたバラド様が、心から嬉しそうな表情を浮かべ出迎えてくださるので、ドイル様の笑みも深まります。
皆がドイル様と私の婚約を祝ってくださる。そんな今の状況に幸せを噛みしめていると、ドイル様の腕にのせていたはずの手が握られ、優しく引き寄せられました。
「クレア」
「ありがとうございます」
エスコートしてくださるドイル様の手を借り、用意されていた台を踏みしめ馬車に乗ります。そのまま私が座ったのを確認したドイル様は、待機していた護衛騎士に二、三話しかけると、次いで馬車の先頭に繋がれたご自身の白馬にお声をかけられます。
「今日は頼んだぞ、ブラン」
白馬が小さく嘶いたのを確認したドイル様が馬車へ乗り込むと同時に、待機していた従者達が流れるような動きで出発の準備を整えてゆきます。
そして瞬く間に馬車の出入り口や車輪、馬を繋ぐ紐などに不備がないか点検し終えた従者の一人が声を上げます。
「準備が整いました!」
響いた声を合図に、従者達が馬車から離れ私達を見送るべく整列し腰を折る。
「「「行ってらっしゃいませ」」」
その様子を確認した御者は手綱を握ると、高らかに出発をつげます。
「それでは、出発いたします!」
「「はっ!」」
御者が持つ手綱の動きに合わせ、馬車がゆっくりと動き出す。
遅すぎず早過ぎず、適度な速度で走り出した馬車は護衛騎士に守られながら城門へと向かっていきます。
――ドイル様、クレア様ー!
――ご婚約、おめでとうございますー!
城壁の外から、人々の声が聞こえてきます。徐々に近づいてくる喧騒は喜びに満ちた楽しそうな声で、沢山の人々が私とドイル様の婚約を祝ってくださっているのがわかりました。
「随分と騒がしいな」
「でも、楽しそうですわ」
ぽつりと零されたドイル様にそう答えれば、小さな微笑みと共に「そうだな」と同意の言葉を返される。
それだけでも嬉しかったというのに、バラド様が「皆、お二人のご婚約が嬉しいのでしょう」なんて告げるものだから私の気分はますます上昇します。
とその時です。聞き覚えのある声が、私とドイル様を呼びます。
「――イル様! クレア様!」
車輪や蹄の音に負けないよう張り上げられた声に、顔を上げて見回せば城から手を振るジンとお兄様の姿が見えます。千切れんばかりに手を振るジンと、軽く手を上げるだけのお兄様は対照的ですが、二人の顔に浮かぶ笑みは一緒です。
「……ジンは元気だな」
「それがジンのいいところですわ」
「まぁな。それにしてもグレイ様もお忙しいだろうに、こんなところまで来て大丈夫なのか?」
「お兄様は人を使うのがお上手な方なので心配いりませんわ」
そんな会話を交わしながらドイル様と共に、小さくなっていくお兄様とジンを振り返りつつ、私は幸せを噛みしめます。
ドイル様がこうして隣に居て、お兄様やジンを筆頭に、国中が皆私の婚約を祝ってくださる。一年半前では、考えられなかった光景です。
――私、今とっても幸せですわ。
そう呟いた私の言葉は「開門!」という門番の声と、城門が開かれる音に掻き消されてしまいました。
徐々に開かれる城門の隙間から見える王都は色とりどりの花々で飾られ、パレードを一目見ようと列を成した人々が溢れています。
「クレア。今、なにか言わなかったか?」
掻き消された声に気が付いたドイル様がそう問いかけてくださったけれども、門が近づくにつれて鮮明になる人々の歓声を前に、私は再度その言葉を告げることなく飲み込みます。
「いいえ?」
そういってとぼければ、ドイル様は「気の所為だったか?」と首を傾げます。
おかしなと首をひねるその姿がなんだか可愛らしくて笑みを浮かべれば、そんな私を目にしたドイル様もつられたように笑みを浮かべる。
そんな些細な時間が、とても愛おしかった。
「ドイル様、クレア様。ご歓談中申し訳ございませんが、そろそろ民の目に触れます」
「わかった」
「わかりました」
バラド様の言葉に背筋を伸ばして座り直せば、隣にいらっしゃるドイル様も身なりを整え姿勢を正しています。次いで、私の手を取るとそっと微笑まれます。
「折角のお披露目だから、皆にいい絵を見せてやろう」
「はい!」
馬車が城門を潜る間際、そう言って民達の娯楽になるべく表情を作られたドイル様を見習い、私もお姫様らしい姿を体現すべく微笑みます。
そうして、私はドイル様と共に大勢の民が待つ王都へと身を投じました。




