第百六十話
幼子ほどある胴体に鋭い爪のついた四対の歩脚、全身を包む焦げ茶色の刺激毛と黒光りする立派な牙と鋏角。苛立ちを示すかのように上顎をギチギチ鳴らし、三対の赤い目で俺を見据える魔獣は大蜘蛛と呼ぶに相応しい姿だった。
『兄妹を手にかけた上に、我を愚弄する気か人間!』
そして、確かに聞こえる人語。
ノイズがかかったような低い声ゆえに聞き取りにくいが、それでも大蜘蛛が発している言葉は俺達人間が使うものと同じだった。
初めて対峙した人語を操る魔獣を前に警戒を深めた俺は、いつでも応戦できるようエスパーダを構える。
そんな俺の行動が気に障ったのだろう。大蜘蛛は足を掲げると鋭い爪を俺達目掛けて振り下ろす。
『我らに抗おうとは、不快な人間よ!』
「っと」
振り下ろされた足をエスパーダで受け止めれば、キンと硬質な音が響く。しかし大蜘蛛の一撃は大変軽く、驚き半分拍子抜け半分といった心境で俺は足を押し返す。
その際、振り抜いたエスパーダに触れた足が数本飛んだ。
後方に飛んだ大蜘蛛はスタッと着地するも、足を失った所為でバランスを崩す。そこでようやく己の足がなくなっていることに気が付いた魔獣は、六つの目すべての標準を俺へと定める。
『貴様ぁ!』
「ひっ」
怒気を孕んだ大蜘蛛の声に、小脇に抱えていたラズが悲鳴を上げる。
そんな中、俺は特に恐怖することもなく大蜘蛛を観察していた。
――人語を話したことには驚いたが、魔王と称するにはほど遠いな。
魔獣が人語を話すという衝撃から脱した俺は、目の前の大蜘蛛へそんな評価を下す。
魔王へと成長した個体の中には人語を操るものも多いというが、それにしては目の前の大蜘蛛の存在感は薄い。先の二匹も簡単に仕留められたし、先ほどの攻撃の威力を考えればこの魔獣は大した脅威ではない。これならば昨年対峙したマーナガルムの方が強く、魔王らしかった。
大蜘蛛から感じる魔力や威圧感を考えるに、魔王となった個体ではないと思われる。
となると大蜘蛛が人語を喋っている理由は、元々知能が高い種族だったと考えるべきだろう。言葉を発することはできないが、ブランやアインス達は人語を理解しているのだ。話せる魔獣が居ても、そうおかしいことではない。
『許さんぞ人間! その子供諸共、我らが糧にしてくれる!』
「我ら、ということは先の二匹以外に仲間がいるのか?」
『ふん! ここで死ぬ者に答える必要はないわ』
大蜘蛛が飛ばす糸や毒らしき液体を、氷を纏わせたエスパーダで斬り捨てながら話しかける。恐れるような存在でないとわかった以上、情報を引き出せればと思っての行動だ。
とは言え、こちらの力量を測れない上に背後のジン達にも気が付いていないようだからな……。
此奴からはたいした情報は得られないだろう、と思う。
エスパーダの切れ味を警戒し遠距離から仕掛けてくる頭脳はあっても、背後で武器を構えるジン達を感じとれないようでは、この大蜘蛛の能力はそう高くない。人語を話したことには驚いたが、話す内容と魔獣の実力が見合っていないため、恐怖も何もない。
この大蜘蛛はそう強くはないので生け捕り、あの手この手で吐かせるという選択肢もあるが、その方法は時間がかかる。
他の魔獣達が浅瀬に出て来る前にラズを親元に帰さなければいけないし、俺の立場上いつまでもペイル殿やアルゴ殿に傭兵達の指揮を任せるわけにはいかない。『我ら』という大蜘蛛の言葉から仲間がいるのは確実なので、話をしやすそうな個体を探した方が早いだろう。
此奴の親も何処かにいるはずだしな……。
兄妹という言葉が大蜘蛛から出た以上、親がいると考えるのが自然だ。
この大蜘蛛はそこまで強くないが、その親と考えれば中々の脅威である。知能が高いということは、その分学習能力も高いだろうからな。
深淵の森に住まう多くの魔獣と競い合い、子を産めるほど成長した大蜘蛛はさぞ賢く、強い個体となっていることだろう。
――そいつは確実に狩っておいた方がいい。
元々高い知性を有する種から生まれた魔王は、恐怖だ。この大蜘蛛の親が現在どの程度の強さを持っているかは不明だが、今回の魔獣狩りで確実に仕留めておいた方がいいだろう。
そう考えた俺は、まずは目の前の大蜘蛛を仕留めるべく隙を窺う。
『人間のくせに小癪な!』
とその時、糸や毒を放っていた大蜘蛛は足を持ち上げる。
距離をとったまま行われたその動作に、そういえば蜘蛛の中には毛を飛ばして攻撃する種がいたなと思い出した俺は、己の正面だけでなくジンや傭兵達の前に氷壁を張った。
次の瞬間、カカカカと目の前の氷壁に焦げ茶色の毛が刺さる。
『馬鹿なっ』
刺激毛による攻撃をあっさり防がれ驚いた大蜘蛛は逡巡の後、撤退を選択する。
しかし魔獣の背後にはジンや傭兵達がいた。
逃亡を考える知性はあるのかと感心しつつも、新たな敵を目にしたことで足を止めた大蜘蛛が再び動き出すのを待つことなく俺は飛刀を使う。
無数の氷の刃を受けた大蜘蛛は、数秒と持たずに崩れ落ちた。
動かなくなった魔獣を逃がさぬよう警戒しながら、ジンは徐々に近づく。そして槍で大蜘蛛を突き事切れていることを確認したジンは、俺へと視線を移す。
「ドイル様。人語を話していたようですが、生け捕らなくてよかったんですか?」
「ああ。そいつに会話する気はなさそうだったし、尋問する時間と生け捕って連れ帰る労力を考えれば、此奴の遺体をジョイエ殿達にみせて仲間を探す方がここで時間を食うよりいいだろう」
「それもそうですね。魔獣達の素材はどうしますか?」
「報告用に糸と毒、本体を一体だけ持ち帰る。後は邪魔だからここで燃やしていこう。頼めるか、ジン」
「承知しました」
俺の言葉に頷いたジンは槍に炎を纏わせると俺が最初に倒した二匹の元に向かい、会話を聞いていた傭兵達は糸と毒の回収に取り掛かる。
各々の作業を始めた彼らを横目に、俺は腕の中で固まっている子供へと声をかけた。
「待たせたな、ラズ。怪我はないか?」
「大丈夫、です」
見る限り怪我はないが捻挫や精神的な体調不良はわからないので問いかければ、ラズはとってつけたように『です』と付け足し答える。
その態度の変化に大蜘蛛との戦闘で怖がらせたのかと思ったが、ラズが俺を見る目に恐怖はない。しいていうならば、戸惑いと興味だろうか。
「急にどうした? さっきまで普通に話していたのに」
「あっちのお兄さんにドイル様って呼ばれてたから、お兄さん偉い人なのかなって」
「……なるほど」
ジンを指さしながら告げられた返答に納得しつつ、俺はエスパーダを地面に突き刺す。次いで、小脇に抱えていたラズを降ろした。
その際、捻挫などは本人が気付いていない場合があるので、子供の表情をつぶさに観察する。
「気を使わなくていい」
「いいの?」
「ああ。それよりも歩けるか?」
立たせても痛がる様子はないのでそう問いかければ、ラズはその場で足踏みして己の足を確かめる。
「大丈夫!」
「そうか」
にぱっと笑う姿はリズとよく似ていて、目を細める。小さな擦り傷や切り傷はあるものの、元気そうでなによりである。
ラズに大きな怪我がないことを確認した俺は、これでリズとの約束を果たせると胸を撫で下ろす。同時に、人騒がせなラズの柔らかい胡桃色の髪をくしゃっと掻き混ぜた。
「わっ」
「帰るぞ。リズもお前の両親も心配しているからな」
「お母さん達、怒ってた?」
「危ないって言われていたのに出てきたんだ。大人しく叱られておくんだな」
「……うん」
目線を合わせ告げれば、ラズは躊躇いがちに頷く。悪いことをしたという自覚があるのだろう。しょんぼりと肩を落としたラズに苦笑しながら、もう一度頭を撫でる。
ペイル達と合流してからが本番である俺達にラズを窘めている時間はないし、安全面から考えても早く避難所に戻った方がいい。
なにより、子を叱るのは親の役目。そして大人しく説教されるのが、親に心配かけた子の義務だ。ラズのことは、彼の両親に任せるべきだろう。
まぁ、俺が言えることではないけどな……。
瞼の裏に浮かぶは、出発前に城で見た母上と父上の姿。
深淵の森に行く俺へ物言いたげな表情を浮かべながらも、黙って見送ってくれた二人を想う。張り切っていた母上のためにもクレアとの婚約式は成功させたいし、円卓の間で異論を唱えなかった父上の期待に応えたい。
そのためには、一刻も早く群れをなしている魔獣達を蹴散らし、森の深部へ戻らせなければならない。そして城に戻り、何食わぬ顔でクレアとの婚約式を行うのだ。
健在な姿を見せ、マジェスタに異常などなかったと他国からの客人達に思わせるまでが俺の役目。でなければ、両親は勿論その身を張って踏み台となってくれたお爺様や、信じて送りだしてくれたグレイ様達に合わせる顔がない。
そう思うと同時に、己が役目を果たせと告げる陛下の声が聞こえた気がした。
ラズの頭から手を離し、顔を上げる。
次いでジン達へと目を向ければ、各々に任せた作業が終わったらしくこちらにやって来る三人の姿が見えた。
「あちらの死体は片付けてきました」
「若様達が自由に戦える方が安全なので、この魔獣は俺が運びますね」
炎を解いた槍を手にしたジンと大蜘蛛を背にくくりつけた傭兵の報告に頷けば、手ぶらの傭兵がラズを抱き上げる。
「んで、坊主は俺が運ぶからからよ、っと」
「うわっ――高い!」
「走るからしっかりつかまっておけよ」
「わかった! おじさん、力持ちだね」
「お、おじさん? そりゃ若様達ほど若くねぇけど、俺だって……」
先ほどの落ち込みは何処へやら、傭兵の腕に座る形で抱き上げられたラズはその高さに瞳を輝かせる。
コロコロと表情を変えるラズに『子供は忙しいな』などと考えながら、俺はエスパーダを地面から引き抜く。土を払うためエスパーダを軽く振れば、ヒュッと風を斬った刀身は陽が差し込んでいるわけでもないのに青白く輝いた。
早く行こうとでも言うように煌めくエスパーダを握り直し、ジン達へと向き直る。
「急いで戻るぞ」
「はい!」
槍を握り直したジンとの会話を最後に、俺達は駆けだした。
傭兵の一人が大蜘蛛の死体を背負っている所為か、帰りは行き以上に魔獣達に襲われた。
といっても、俺とジンが苦戦するような敵はそうそうおらず、多少の時間は要したが無事、避難所となっている場所までラズを連れ帰ることができた。
「「ラズ!」」
「お兄ちゃん!」
「お母さん、お父さん、リズ!」
傭兵の腕から降ろされたラズが、両親と妹の元へ駆け寄る。
「この馬鹿!」
「危ないから大人の側にいなさいって言ったでしょ!」
駆け寄ってきたラズを抱きしめた両親は、次いで鉄拳を我が子に落とす。兄が帰ってきて安心したのか、リズは泣きだしているようだった。
「――続きは馬車の中で。ここは危険です」
無事を確かめ合う家族に、騎士が近寄り避難するよう告げる。騎士の言葉にハッと顔を上げた両親は、急いで子供達を抱き上げると騎士に促されるまま歩き出した。
そんな中、父親の腕の中からラズが顔を出す。
「貴族のお兄さん! 傭兵のおじさん! ありがとー!」
少し泣いたのか涙声で叫んだラズに手を振れば、両親が足を止め深々と頭を下げる。
「だから、俺はまだおじさんって歳じゃねぇって……」
「あれだけ小さい子供から見れば、俺達はおじさんだろう」
ラズの台詞に文句を言いつつも、傭兵達はどこか嬉しそうだった。
それはジンも同じで、騎士に連れられる一家を見送りながら笑みを浮かべている。
「よかったですね」
「そうだな」
ラズ達が最後だったらしく、一家が乗り込むなり馬車が走り出す。
と同時に、避難所となっていた野営地の空気が変わる。市民を怖がらせないよう抑えられていた魔力や闘気などが解放され、各々が武装していく。避難所は瞬く間に、騎士達の拠点へと雰囲気を変えた。
そんな中、王都へ向かった馬車を包む土煙から目を逸らした俺は、己が役目を果たすために傭兵達へと指示を出す。
「持ち帰った大蜘蛛をジョイエ殿の元に持っていって、人語を話したことと仲間を見つけたら優先的に狩るよう伝えてくれ。毒は薬師達に渡し解毒剤の準備をしてもらってくれ」
「了解。報告が終わったら、俺達は姐さんと合流でいいんだよな?」
「ああ。付き合ってくれて礼をいう」
「若様に付き合うのも契約のうちだから、気にすんな。じゃぁな」
ひらりと手を振って駆けだした二人を見送り、俺はジンと向き合う。
「私達も行きましょう、ドイル様」
俺が声をかける前に口を開いたジンの手にはすでに槍が握られており、その表情はやる気に満ちていた。
人語を解する魔獣に出会ったことで強敵の存在を嗅ぎとり、心弾ませているジンにつられるように、俺も笑みを浮かべる。
「行くぞ。魔獣狩りの時間だ」
「はい!」
エスパーダへと魔力を流した俺は、返事と同時に槍へ炎を纏わせたジンと共に深淵の森に向かって走り出した。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。




