第百三十七話 とあるメイド
遥か昔、一匹の魔王が人知れず生まれた。
魔王とは名ばかりでとても弱かったそれは、肉体的な強さを持たぬ代わりに高い知能を有していた。人間よりは強い程度の肉体と魔力しか持たぬ魔王は身を隠し、細々としかし脈々と他種族と交わり血を繋ぐ。そうして生まれたのが私達、というわけだ。
まぁ一族の出自など正直どうでもいい。
大事なのは生きていくにはなにが必要か、だ。
人間や獣人など人型の者と多く交わったお蔭で、私達の外見も基本的な生活様式も人間達とそう変わらない。
二本の足で歩き、二本の手を器用に使う。狩猟や農作で得た食べ物を調理して食べ、作った衣類で着飾り、設けられた規則を守る。規則を破った者は、罪に応じて罰せられる。
では人間達と私達の何が違うのかといえば、自然界にある食物だけでは生きていけないという点であろう。
私達は他種族の怒りや悲しみ、恨みや嫉妬、恐怖や絶望といった負の感情を喰らう。
始祖の血が薄れるにつれて僅かばかりあった強さや魔力、破壊衝動を失ってきた私達に残った唯一魔王の血族らしい一面と言えよう。
その特異な体質が災いしたのが、今から四十五年前。
一人の若者がより多くの負の感情を喰らうために人間の国に住みつき、そこで誘発させた戦争の所為で多くの人間達が死んだ。若者に同調し、人間達の中に混じっていた多くの同胞も死んだ。
私達は負の感情を喰らうとはいえ、ちょっと他種族の心に呼びかけて不安や怒りを煽り、理性を鈍らせることができるだけ。それも相性というものがあり、意志が強い人間や強靭な理性の前では無力。魔法等の戦闘能力も肉体的にも人間と大差なく、皆広がりすぎた戦火に呑まれ死んでいったと、命からがら戻って来た同胞が言っていたそうだ。
残された我が一族は同胞達が仕出かしたことに慄き、業の深い己が血を嘆き、人間達の報復を恐れた。
そんな歴史を経た現在、我が一族は人里離れた場所でひっそり終焉の時を待っている。
この世界、負の感情を抱く生き物は結構いる。少し知能のある魔獣や動物なら、殺される瞬間には『死』に恐怖するし絶望するからだ。
人間のように様々な感情を抱く種族の方が美味しいのは確かだが、幸か不幸か他種族と交わりながら世代を重ねた所為で、下の世代になるほど負の感情を喰らいたいという欲求も薄まってきている。
故に大半の同族達は魔獣や獣を狩ることで欲求を満たし、日々を過ごす。
負の感情を喰らいたい欲求がなくなり人間達と同化できる日を夢見ながら、終わりの時を待っているのだ。
では、その大半の同族にくくられないはぐれ者は一体何をしているのか。
言うに及ばず、歴史は繰り返される。
夜の帳が落ち、月が煌々と空を照らす時分。
ブリオ・フォン・エーデルシュタイン王太子殿下は、宛がわれた客室で窓の外を眺めていた。
窓からはマジェスタ城が見える。それはつまり、城から離れた客室を宛がわれた証拠。隣国の王太子に与えられたその部屋は広く、調度品も一級品ばかり。しかし、城に隣接された棟でなく少し離れた場所に建てられたこちらに案内されたことから、マジェスタがブリオ殿下ひいてはエーデルシュタインによい感情を持っていないことが窺える。
そんなマジェスタの対応を殿下に心酔している従者は怒っていたが、当の本人は眉一つ動かすこともなく甘受していた。マジェスタにそうさせたのが己の行いの所為だと、自覚しているのであろう。
御年十八歳となられた殿下の手には、残り僅かとなった琥珀色の酒と大きく削りだされた透明な氷の入ったグラスがあり、時折氷が涼やかな音を立てる。カラン、カランと手の中でグラスを遊ばせながら、なんの感情も籠らない瞳でマジェスタ城の灯りを見つめていた殿下は不意に酒を飲み干すと机に置いた。
酒を足そうと殿下の手が伸びる前に、側に控えていた従者が瓶を傾け注ぐ。静かな室内では、トクトクトクと琥珀色の液体がグラスを満たす音がよく聞こえた。
「殿下、お夜食はいかがいたしましょう?」
酒を注ぎ終ると同時に従者が問いかける。ブリオ殿下は小さく首を振ることで断わると、グラスを手に再び窓の外へと視線を戻した。相も変わらず彼の顔に感情が浮かぶことはなく、サロンでの歓迎を受けた後から殿下はずっとこの調子だ。
動かぬ表情の奥で一体彼はなにを想うのか。
己の行動の所為で立場を悪くした祖国か、手に入らなかった姫君か、それとも姫君が『運命の人』と称した青年か。
なにも語らぬが故に、その心情を察するのは難しく。遠くに見える灯りに、紺青色の瞳が何を見ているのかなどわからない。
そんな殿下の姿に従者は心配そうな表情を浮かべ再度口を開く。
「では、新しいお酒と軽いつまみでも?」
「不要だ。今日はもう下がっていい」
「しかし、殿下」
目を向けることなく断ったブリオ殿下に従者が言い募る。不満そうな従者の声に殿下はこちらを振り返ると、久方ぶりにその表情を変え告げた。
「少し、一人にしてくれ」
とても、落ち着いた声だった。
「……畏まりました、ブリオ殿下」
寂しげな、しかしどこかすっきりした顔で小さく微笑んだブリオ殿下に、従者は目を瞬かせながら頷く。
「ユリアも下がって休むといい」
「ありがとうございます」
憎悪や嫉妬どころか、未練や後悔さえも感じない顔で告げた殿下に私はそっと頭を下げる。時同じくして、ブリオ殿下と私を繋いでいたものがふつりと切れたのを感じた。
――あーあ、失敗かぁ。
今朝までは確かに感じていた殿下との繋がりが途絶え、未だ繋がっている従者から伝わる負の感情が薄まりはじめたのを感じ、心の中で肩を落とす。
ブリオ殿下の嫉妬や従者が『ブリオ殿下のため』といって抱く憤りは、身勝手で傲慢でとても美味しかった。特に従者の負の感情は色濃く、気に入っていたのに。
「それでは御前失礼いたします、ブリオ殿下」
「失礼いたします」
丁寧な動作で腰を折った従者に倣い、私も礼をとる。
「ああ。ゆっくり休めよ」
ブリオ殿下は私達に優しく声をかけると、再び外へ視線を向ける。その姿に哀愁はなく、ゆっくりと己の感情を昇華しているようだった。
近い将来彼の中でクレア王女は思い出となり、新しい恋をするのだろう。
静かにマジュスタ城を見やるブリオ殿下の姿は、そんな感想を抱かせた。
私が感じた殿下の変化を隣にいる男が感じ取れないわけがなく、濃厚で美味しかった従者の感情が徐々に薄れていく。
ブリオ殿下に心酔している従者にとって、殿下を悩ませるものや悲しませるものが怒りや憎む対象である。そのため最近はずっと殿下の想いを受け入れないクレア王女や、身を引かない婚約者に憤っていた。
しかし、終わった恋の余韻を楽しむ殿下の姿を目の当たりにし、従者の憤りが解けつつあるようだ。久々に美味しい餌だったのに勿体ない。
サロンでなにがあったのかは知らないが、綺麗にクレア王女への恋心を断ち切ってしまったブリオ殿下を恨めしく思いつつ、私は従者について部屋を出た。
石造りの階段を音もなく歩く。
もうしばらくは楽しめると思っていたブリオ殿下と従者がもう駄目そうなので、次の人間を探す必要があった。今まで散々二人から負の感情を食べていたので、しばらくの間は心配ないが、私は魔力を使うとお腹が空くので餌は常に食べられる方がいい。同胞の情報が確かなら、この先に従者の代わりになる男がいるはずだ。
音をださないために裸足で歩いている所為か、足が冷たい。地下に進むにつれて気温もどんどん下がってきている気がする。女の子は体を冷やしてはいけないというのに、なんたることか。それもこれもブリオ殿下の所為だ。
――なにいい男ぶっちゃってんだか。もっと欲望剥き出しに足掻きなさいよ!
未練を残さず失恋してきたブリオ殿下に苛立ちながら、牢に繋がる階段を下りる。
前々から頭が残念な王子だと思っていたが、好きな女のために身を引く己に酔うなんて。そんでもって、従者も従者である。以前は『姫は王子に愛されているのを光栄に思うべきだ』とかなんとか言っていた癖に、王子が未練なく恋を終わらせたのを感じとった瞬間どうでもよくなるなんて。誘拐まで考え実行した情熱はどうしたと、胸ぐら掴んで問いただしたい。
殿下の恋心を利用し誘導したのは私だが、とんだ茶番劇である。巻き込まれたこの国の人間からしてみれば、たまったものではないだろう。
従者がブリオ殿下に傾倒しきっているのはわかっていたが、感情まで引きずられるとは予想外だった。もっと殿下が恥をかかされたと逆恨みするとか、殿下の想いに応えない女なんて生きている価値がないと憎悪を燃やすとか色々あるだろうに、それさえもないとは。殿下がもういいと言ったらいいなんて、お前はもっと己を持てとあの従者に言ってやりたい。怒りや憎しみさえ主の心一つで消え失せるなど、主体性がなさすぎる。
勝手に自己完結したブリオ殿下と、己を持たない従者に対する文句をつらつらと考えながら階段を下りきる。次いで息を殺し、見張りをしている騎士の横に立った。
すぐ横に立っているというのに気が付く素振りも見せない騎士を、心の中で笑いながら牢内を見回っている騎士が出てくるのを待つ。
幸い私は魔法の適性やスキルに恵まれている。気配を察知されなくなる【気配消失】に、己の魔力を纏うことで姿形を変える【偽装】のスキルを使えばまず見つかることはない。【気配消失】は気配自体を消してくれるので接触や音をださない限りばれない。莫大な量の魔力を必要とするため【偽装】を使い身長や体形、骨格を偽ることはしないけど、髪や瞳や肌の色を変え顔立ちをいじるくらいは簡単にできるし、特徴的な黒子を足すだけで人の印象は結構変わる。また、こうして景色を纏い周囲と同化できるのも【偽装】の特徴だ。動けば一瞬景色とのぶれが生じるため、明るい場所や室内など物が多い場所では使えないけど。
この二つのスキルのお蔭で、以前【転移】のスキルを持つ同胞に協力してもらいマジェスタ城に忍び込んだ時も問題なく過ごすごとができた。
残念なことにブリオ殿下と従者の負の感情を煽る為の下見は、すでに意味のないものになってしまったが。
……強そうだったなぁ。
下見を済ませた後に覗き見たブリオ殿下の元恋敵、ドイル・フォン・アギニスを思い出す。私達なんかよりもずっと化け物じみた魔力を保有しており、精霊を二人従えていた。側に居た老人も強そうで、そそくさと退散したのはいい思い出だ。クレア王女がブリオ殿下を相手にしなかったのも当然。殿下とは格が違う。
あんなの勝てるわけがない。あの時ほどマジェスタではなく、エーデルシュタインを餌場に選んでよかったと思ったことはなかった。
私は魔力的にも肉体的にも一般人よりは上程度なので、正体を見破られることはないだろうが、アギニス公爵とは接触しないように十分な注意が必要だ。
……そういえば、彼奴は今何しているんだろう?
マジェスタに移り住む気だったらしい同胞には止めておけと言っておいたが、そういえば彼は今何処で何をしているのだろうか。
そんなことを考えながら、牢屋内の見回りからもどってきた騎士が扉を開けた瞬間を見計らい横をすり抜ける。そのまま扉横の壁に身を寄せ騎士達の様子を窺う。騎士は私とすれ違ったことに気が付かず、扉を閉めた。
扉が完全に閉まりガチャと閉錠されたのを見届け、私は牢の奥へと足を進める。
――いた。
牢が立ち並ぶ中の最奥。ボサボサの髪を掻き毟り、血走った浅緑の瞳で睨むように一点を見つめる男がいた。男が入っている牢の側には二人の騎士が立っており、その内一人は周囲を警戒し片割れは男の言葉を黙々と書き綴っている。
「――いつだって彼奴らは俺の邪魔をする。俺だって、俺だって頑張ったのに、彼奴らがいる所為で誰も俺を目に留めない。あんな傲慢な餓鬼共よりも俺の方がずっと――」
ぶつぶつと呟き続ける男が入っている牢の柵に近づき、不可視の糸で己と繋ぐ。途端、負の感情がどろりと己の中に流れ込んできた。
その濃密な美味しさに『俺がいない間喰ってもいいけど、余計な手を出すなよ。彼奴は俺が何年もかけていい感じに仕上げたんだ』と言っていた同胞の言葉を思い出す。確かに下手にこの男の心に語りかけるのはよくないだろう。これ以上やると男が壊れてしまうし、周囲の人間をいじって和解されたら目も当てられない。
人は美味しい分、繊細な生き物だ。ささいな勘違いや思い違いで憎悪や嫉妬にまみれる癖に、小さなきっかけやたった一言で心救われ、長年抱いた恨みや憎しみを氷解させることがある。
ブリオ殿下があっさり恋を終わらせたように、従者が簡単に怒りを薄れさせたように。この男もささいなきっかけで立ち直れるのだろう。させないけど。
これほどの負の感情を失うのは惜しい。つまみ食いさせてもらってることだし、城にいる間は男の心に変化がないよう気をつけてあげよう。
美味しい餌にありつき上機嫌な私は、そんなことを考える。
こうして人間達に混じっている同族はあと何人残っているかわからない。彼奴は二人目だと言っていたが、私は集落の外で同胞と出会ったのは初めてだった。
他の同族達は今もあの山の中でひっそり生きているのだろう。もしかしたら、こうして外にいるのは私と彼奴だけなのかもしれない。いや、恐らくそうなのだ。
破壊衝動を失った同族達は、欲求を満たし生きるよりも安穏とした終わりを選んだ。そんな彼らにとって、原始の欲求を満たしたがる私や彼奴は迷惑な存在でしかない。
彼奴の企みに参加する気はないが、つまはじき者同士少しくらい手伝ってやっても罰は当たらない。彼奴もそう思ったから、忍び込む時手伝ってくれたのだ。
――そうだ、彼奴に頼まれたアレも壊しにいかなきゃ。
たゆたう思考の中、彼奴に頼まれていたことを思い出す。昔一族の間で使用されていた魔道具をマジェスタ城に置いてきてしまったから、壊しておいてほしいと言われていたのだ。
魔道具の保管場所は前回の下見ついでに調べてあるので、あとは壊すだけ。上手く壊せるか不安だったが、これほど上質な餌をお腹一杯食べていけばなんとかなる。
彼奴は『詳しく調べられないように壊しておいてくれ』と言っていた。それは私も同意する。私も彼奴も、ひっそり終焉を待つ同族達に迷惑をかける気はない。一族に深く関係しているあの魔道具は、詮索出来ないよう粉々にしておかなければ。
まぁ、それもここを出てからの話。見回りの騎士が再び扉を開けるまで時間がある。
そっと目を閉じた私は、今後の予定を立てながら男から伝わる感情を味わった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




