第百二十二話
客室の中でも特別な、王家の者達と縁ある人々を泊めるために作られた部屋。
王の権威を知らしめるような豪華絢爛な調度品ではなく、使い易さを重視した質のいい調度品で整えられた部屋は、快適で居心地がよかった。
緑系統の色でまとめられた部屋は目に優しく、備え付けられたバルコニー越しには、丁寧に整えられた庭が目に入る。夏を思わせる赤やオレンジに黄色の花々と、風にたなびくビリジャン色のカーテン、純白のバルコニーのコントラストが大変美しい。
「ドイル様。こちらのお菓子は最近御令嬢達の間で人気のものですわ。口に入れた瞬間、ふわりと溶けて私も気に入っておりますの。よろしければ、お召し上がりください」
「……ありがとう、クレア」
クレアが勧めてくれた、色とりどりのマシュマロの様な菓子の中から、白いものを選びお礼の言葉を告げる。自身が勧めた菓子を手に取った俺を、期待に満ちた目で見つめるクレアの視線に負け、恐る恐る菓子を口に運んだ。柔らかな感触と微かに感じる花の香り、次いでほんのりした甘さが口一杯に広がる。
「美味しいですか? ドイル様」
「……美味しい」
「よかった! こちらのお味違いも是非お召し上がりくださいませ。私のお勧めはピンク色ですわ!」
「……あ、ありがとう」
勧めた菓子を俺に褒められ嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべ色違いを勧めるクレアに、どうするべきか逡巡する。
クレアを悲しませたくはない。しかし、これ以上グレイ様を無視して彼女と戯れれば、間違いなく彼の方の怒りは頂点に達するだろう。
突き刺さる視線にゴクリと息をのんだ俺は、どの菓子をとろうか迷うフリをしながら、チラリとグレイ様を盗み見る。テーブルを挟んで俺の向かい側に座り、こちらを見ているグレイ様の目は、完全に据わっていた。
どうして、こんなことに……。
グレイ様を一切視界に入れず、微笑みながら菓子を差し出すクレアと、乱入した妹に俺への説教を邪魔された挙句、無視されブチ切れそうなグレイ様。
給仕に徹するバラドと、珍しく二人の不穏な空気を察し、視線を行ったり来たりさせているジン。
テーブルの端で身を寄せ「姫さん、強ぇ」「ばっ、黙ってろ!」「「しー、ですよお兄さん」」といった会話を交わしながら、とばっちりを受けないよう身を寄せ合っているシオンとレオ先輩達。
グレイ様からのお説教を覚悟していたというのに、何がどうしてこのような状況になったというのか。
着実に苛立ちを募らせているグレイ様と、微笑みながら菓子を勧めるクレアの両者に挟まれた俺は、打破できない現状に現実逃避よろしく、今にいたるまでの流れを思い返した。
回廊に囲まれた緑の中で待ち伏せしていたグレイ様に、とんでもない言質を取られた俺は、悔やんでも悔やみきれない後悔と共に回廊を後にした。
最後の悪あがきとして、不自然ではない程度にゆっくり歩いてみたが、俺達を呼び止める者はおらず、大した時間をかけずに俺が使用している部屋へとたどり着いた。
部屋に近づいた途端、前触れもなく扉を開けて迎えてくれたバラドに礼を告げ部屋に入れば、予想どおりレオ先輩とサナ先輩が遊びにきており、シオンが二人の相手をしていた。
グレイ様とジンの姿に驚くシオンとレオ先輩達を他所に、グレイ様はさっさと椅子にかける。そんなグレイ様にため息を零しつつ、俺はバラドにお茶を頼んだ。
そして簡易な自己紹介を済ませた後、報告会という名のお説教までのカウントダウンが始まった訳である。
「――アインス達のお蔭でシオンが『古の蛇』所属だとわかりまして。もともと目をつけていた傭兵団で、下調べも済んでいたので、乗り込むことにしました」
いつ爆発するのだろうとドキドキしながら、話を進めていく。
話しながらちらちらグレイ様の様子を窺うも、穏やかな笑みを絶やさないグレイ様の変化は見分けにくい。学園ではあまり感じなかったが、ポーカーフェイスが上手くなったなと思う。
感情や本心を悟らせないグレイ様は、俺と離れていた間に随分と王太子らしくなった。グレイ様がこの完璧な微笑みの仮面を被れるようになるまで、どれほどの努力と我慢を一人重ね、己の感情を殺してきたのだろうと想像すると少し切ない。
「で?」
「それでまぁ、逃走を選択されないよう傭兵達を軽く挑発して、あとは力づくで。全員を転がして、動きを封じるために氷で張り付けました。その後は友好的に話し合って、今にいたります」
「それから?」
「それからは――」
「いやいや、軽く流しすぎだろお二人さん。精鋭部隊がいなかったとはいえ、五十ちょっとはいた俺達を軽く転がしたっていうのに」
「へぇ? そうなのか、ドイル」
シオンの言葉を聞き、意味深な相槌を打って視線を寄越すグレイ様に、ぐっと言葉に詰まる。
折角ぎりぎりまで情報を伏せて話していたというのに、余計なことを。シオンに対し、ちっと心の中で舌打ち次の言葉を探す。
そんな俺を見て目を細めるグレイ様は、表情こそ変わらないが、きっとその内心は荒れ狂っているのだろう。
ここは誤魔化さない方がよかったか……。
グレイ様の反応に、此処は素直に話すべき箇所だったかと反省しつつ、言葉を探す。どうにか大した戦闘でなかったことにしたいが、此処からどう話を持っていくのが最適だろうか。あまり下手なことを言っては、またシオンが口を挟んでくる可能性がある。
どう伝えるのが最善か考えを巡らせること数秒。
とにかく何か言わなければと口を開くが、俺が言葉を発するよりも先にジンが声をあげた。
「五十近い傭兵をドイル様お一人で倒されたんですか!」
「いや、でもシオン達もまったく本気じゃなかったから……」
「いやいや、そこは胸を張ろうぜ若様。いくら逃走ありきで戦っていたとはいえ、ペイルの姐さんとか幹部もチラホラいたんだ。あんたじゃなきゃ、全員を無力化して捕えることなんざ不可能だったろうよ」
これ以上この話を掘り下げ、墓穴を掘りたくなかった俺は、ジンの言葉に曖昧な返事を返す。
しかし、またもや口を挟んできたシオンの所為で、話を濁すことは叶わず。シオンの言葉を聞いたジンは、瞳を輝かせ話に食いついてきた。
「それは凄いことですよ、ドイル様! 倒すだけならまだしも、無力化して捕えるなど私では不可能です!」
「そうですドイル様! あの時のドイル様は、大変勇ましく! 降りそそぐ矢を潜り抜け、切りかかってきた傭兵達を逆に切り伏せたかと思いきや、隙をみて襲いかかってきた者達を片手で投げ、時に蹴り上げ! 演武でも見ているかのような美しさで、手に汗を握る暇もなく、ただただ見惚れてしまいました! その上、あれだけの敵を相手取っているというのに、私やワルドの元に傭兵が行かぬよう気配りを忘れない余裕! 傭兵の一人が放った炎魔法に呑みこまれた時は思わず声をあげそうになりましたが、怪我一つなく炎を切り裂き出てこられたお姿を拝見した時には、もうっ!」
「流石ドイル様ですね!」
「そうなのです! どれほど屈強な男を前にしても怯まず立ち向かわれて! 囮や遊撃、連携など傭兵達があの手この手を使いドイル様に襲いかかるも、ドイル様は張り巡らされた策などまるで関係ないとでもいった風情で軽々いなされて! 敵を見据える真剣な表情は勿論、時折浮かべられる不敵な笑みが大変凛々しくいらっしゃり――!」
ジンの言葉をきっかけに、己の世界へと旅立ったバラドからそっと目を逸らす。
シオンのところに乗り込んでからは色々あったので、ずっと我慢していたのだろう。生き生きと俺を褒め称えるバラドは、大変幸せそうだ。
この状態のバラドを初めてみるシオンが、恍惚とした表情で語る姿にドン引きしているのが手に取るようにわかった。
「剣神もかくやといった剣捌きは、もはや芸術といっても過言ではなく! 傭兵達の動きを封じるために氷漬けにした根城に一人立つ様は、ぞくりとするような鋭い美しさで! 幼くも美しいフェニーチェを意のままに操る姿など幻想的で、私は神の国にでも迷い込んでしまったかと――!」
俺も正直、他人のふりをしたい気持ちで一杯だ。この場では無意味だからやらないけどな。
一体バラドの目に俺はどう映っているのだろうか。聞いてみたいが、聞かない方が幸せな気がするのは、きっと気の所為ではないだろう。
今まで抑制されていたからか、留まることを知らないバラドの称賛の声に、完璧な仮面を被っていたはずのグレイ様の表情も僅かに崩れている。
滅茶苦茶笑いたいけど、此処で笑っては俺を怒るのが難しくなるから、頑張って堪えているんだろうな……。
グレイ様の内心を如実に物語っている、ふるふる震えている拳と歪む口元を観察しながらそんなことを思う。
とりあえず、バラドのお蔭でシオンが放った余計な言葉はうやむやにできそうだが、代わりに色々なものを失った気がする。これさえなければ、何処に出しても恥ずかしくない完璧な側仕えなのに、相変わらずバラドは残念だ。
「五十あまりの傭兵を無力化した上に、根城を氷漬けにされたんですか。バラド様のお言葉を聞く限り、それでもドイル様は余裕があったご様子。それほどまでにお強くいらっしゃるとは……私ももっと精進せねば。ドイル様! 是非私もご指導ご鞭撻のほど、賜りたく!」
そしてジンも相変わらずである。
一体バラドの言葉をどう聞けば、これほど軽やかに聞き流せるのだろうか。きっとジンの頭の中では、凄まじく脳筋らしい脳内変換が行われているのだろう。
愚直なまでに、戦うことにしか興味がないジンの姿は、いっそ清々しい。
滔々と語り続けるバラドと、ドン引きしながら見ているシオン。我関せずと菓子を食べてお茶しているレオ先輩達に、再戦を望むジンと笑いの衝動を必死に押し殺しているグレイ様。
一体この状況をどう収拾しろというのか。
当初の予定とはかけ離れた空気になりはじめた場に、ぼうっと考え込んでいたその時。不意にバラドが語るのを止め、扉を見やる。それにつられるように皆が視線を動かせば、コンコンコンと扉を叩くノックの音が部屋中に響いた。
「グレイ様」
「ああ。人払いはしたはずなんだが」
「バラド、客人の出迎えを」
「畏まりました」
来るはずのない来客にグレイ様の名を呼べば、すっと笑いを引っ込め頷かれる。僅かに眉を寄せ、来客を迎える許可を出したグレイ様に、俺はバラドに客人を出迎えるよう命じる。
……一、二、三人か。
感じる気配は三つ。人数的に客人が一人、護衛が二人といったところだろう。グレイ様が人払いしたはずなのに、訪ねてくるとは中々度胸のある客人である。
とはいえ、王太子殿下の不興を進んで買いたい者などそうはいないので、何かグレイ様に急用ができたか問題が起こったのかもしれない。
グレイ様もそう思ったのか、扉の方を見ながらチッと舌打ちしている。グレイ様を穏やかで優しい王子様と称え、憧れている御令嬢には決して見せられない態度である。
そうして、今回のお説教は延期かな、と俺やグレイ様が感じ始めた頃。
扉がゆっくりと動き出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます――ドイル様! お久しぶりでございますわ!」
皆が扉の先に注目する中、バラドに先導され姿を現したのは、なんとクレアだった。
「クレア! お前、どうしてここに!」
満面の笑みを浮かべ駆け寄ってくるクレアの姿に、グレイ様が驚きを露わに立ち上がる。
クレアの突然の登場に思考が追いついていなかった俺は、グレイ様が立ち上がる際にたてた音で我に返り、慌てて立ち上がった。
「ご機嫌麗しゅう、ドイル様。私とっても、お会いしたかったですわ!」
「……っああ。挨拶に行けなくてすまない」
「お気になさらず。折角ドイル様が訪ねてくださったのに、留守にしていた私が悪いんですわ。私こそすぐに参れず申し訳ございません」
「忙しいのはわかっているから、それは気にしなくていいんだが、クレア、グレイ様が今」
グレイ様など目に入らないといった感じで、一目散に俺のもとへとやってきたクレアに頬が引きつる。ちらりとグレイ様を見れば、案の定目を据わらせこちらを見ていた。
「私、夕食までは自由時間ですの。ご一緒させていただいてよろしいですか?」
「構わないんだが、クレア、その、グレイ様を無視は流石に……」
グレイ様が気分を害したと気が付いているはずなのに、素知らぬ顔で話しかけてくるクレアにおかしいなと感じた。原因はわからないが、クレアがグレイ様に此処まで露骨に怒りを示すのは珍しい。
二人の間に何かあったのかと思案するが、城にきてから二人に会ったのは今日が初めてである。二人の間に何があったかなど知る由もなかった。
とりあえず、クレアをなんとかできないかと声をかけるが、そうこうしている間にすぅと息を吸うグレイ様が目に入る。
そして。
「クレア!」
グレイ様の怒声が室内に響く。
その剣幕に、リェチ先輩とサナ先輩が肩を跳ねさせ、そそくさとレオ先輩の元へ身を寄せる。そして何故かシオンも、レオ先輩達の方へこっそり移動していた。彼奴、ちゃっかり一番安全な場所に逃げやがった!
バラドはクレアの分のお茶を用意しに行ったため不在だし、ジンはグレイ様のお怒りにおろおろしている。
何より不味いのは、グレイ様を怒らせたクレアが受けて立つ気でいる点である。
普段であれば、可愛がっているクレアにグレイ様が怒るなど滅多にない。クレアだって、なんだかんだ言ってもグレイ様の言うことをよく聞いている。叱られれば素直に引くのが常であったというのに、一体何があったというのか。
そして理由もわからない俺は、二人に挟まれどうすればよいというのか。
「なんでしょう? お兄様」
「何故、お前がここにいる! お前はサロンでアルモニーご夫妻をもてなすように、母上から仰せつかっていたはずだろう!?」
「ちゃんとおもてなしは致しましたわ。ですが、長旅の疲れか奥様のご体調が優れず、先ほどご夫妻はお部屋に戻られましたの。奥様のお体も大したことはなく、ただの寝不足ということでしたので、晩餐までは自由にしていてよいと母上が」
「ご夫妻のもてなしがなくとも、やるべきことが沢山あるだろう!」
「それはお兄様も同じはずですわ」
怒鳴られたというのに、悠然と聞き返したクレアの笑みはグレイ様によく似ていた。綺麗に笑っているはずなのに、目がまったく笑っていない。
グレイ様からの非難の声を聞き流し、ゆったりと受け答えするクレアからひしひしと怒りを感じる。
「先ほど、お兄様が数人分の軽食を所望されていったと料理長に伺いましたの。もしやと思い侍女達にお話を伺えば、ドイル様が宿泊されている客室付近を、人払いされたというではありませんか。これはと思って来てみれば、案の定ですわ! 私にはドイル様より公務やもてなしを優先しろと仰った癖に、ご自分はちゃっかりドイル様とお茶をしているなんて!」
「こ、これは遊んでいた訳ではない! ドイルと大事な話をしていたんだ!」
「そのわりには、わざわざ料理長にドイル様好みの軽食ばかりを用意させているではありませんか! お菓子だって最新のものから、昔ドイル様が好んで食べていたものまで揃えられていらっしゃる! 大方、『大事な話』とやらが終わっても戻らず、ドイル様とご一緒する気でいらしたんでしょう? でなければ、この人数でこれほどの量は必要ありませんもの。人払いしたのだって、そうしておけば緊急の用件以外は、皆気を使って取り次ぎませんものね? お一人だけずるいですわ!」
「ぐ、偶然だ!」
「往生際が悪いですわお兄様! お兄様が『ドイルが好んで食べていた、木箱に入れられていたあの焼き菓子はあるか』と尋ねにきたと乳母のミリアが言っておりましたわ!」
これは一体どういう状況なのか。
王太子と王女にあるまじき剣幕で言い争う二人に、誰一人口を挟めず、ただ茫然と話の行方を見守る。
「と、とにかく! 今は大事な話をしているんだ。それに、どちらにしろお前は晩餐会の支度があるだろう!? 戻れ!」
「お断りします! 晩餐会の準備はミリアに頼んできましたから一時間もあれば十分ですわ。それまでは私もここでドイル様とお茶をいたします! 『大事な話』とやらは後にしてくださいませ!」
「クレア!」
「そもそも、本当に至急伺わなければならないお話なら、ドイル様がご到着された日に済ませているはずですわ。お兄様もドイル様も、何を優先すべきかもわからぬようなお人ではありませんもの。二日も経ってから時間を設けるということは、大事な話であっても急を要する話ではない証拠でしょう。私がドイル様とお茶をする時間くらい設けていただいても問題ないはずですわ――さ、ドイル様。ご一緒にお茶をしましょう? 私、ドイル様に聞いていただきたいお話が、沢山あるのです」
ふわりと笑い、俺の隣の席に腰かけたクレアに手を引かれ、つい席についてしまう。
「話を聞け!」
「お一人だけドイル様と息抜きしようとしていたお兄様のお話など、知りませんわ――さ、お茶にしましょう?」
そんな俺達を見たグレイ様がさらに声を荒げるも、まったく気にしないクレアにお茶を勧められる。
グレイ様はしばしの間クレアの名を呼んでいたが、まったく反応しない彼女に舌打ちして、荒々しい動作で腰かけた。そして、不機嫌そうにこちらを見ている。
この兄妹は、一体俺にどうしろというのか。
そしてこの状況で、俺はどうするのが正解なのか。
助けを求め周囲を見渡すも、二人をまったく気にせず、すっきりした表情で給仕に徹するバラドと、視線を行ったり来たりさせているジン。テーブルの端で、とばっちりを受けないよう身を寄せ合っているシオンとレオ先輩達。
救いの手は何処にも無い。
「ドイル様。こちらのお菓子は最近御令嬢達の間で人気のものですわ。口に入れた瞬間、ふわりと溶けて私も気に入っておりますの。よろしければ、お召し上がりください」
「……ありがとう、クレア」
どうしようもない状況に、逃げ出したいと心底願う。
しかし願ったところで、この場から逃げられるわけでもなく。
俺は突き刺さるグレイ様の視線を感じつつ、恐る恐るクレアに勧められた菓子に手を伸ばした。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。




