第百二十話
石壁に石の床と石の天井、それから鉄格子。
固く冷ややかなそれらに囲まれた牢の中に、その男はいた。
おざなりな作りのベッドに座り込む簡素な服を着せられた男の両手には、自由を奪う枷が嵌められている。さらに足首から伸びた鎖が、鈍く光を反射しながら男と牢屋の壁を繋いでいた。
男の手に触れぬよう、鉄格子の向こう側に設置された光源に照らされ、浮かびあがった男の顔に表情はなく。視線は一点を見つめたまま、動かない。
しかし、その動かぬ瞳こそが男の心情を雄弁に語っており、浅緑色の瞳の奥では恐ろしいほどの憎悪の炎が燃やされていた。
「彼奴がいなければ、傭兵達を使って……俺が一体何の為に傭兵達に薬を作ってやっていたと……もうちょっと、もうちょっとだったんだ。実験に使った奴らだって……何人か捕まったが騎士団の奴らは疑問を抱いていなかった。俺が作った薬は完璧だったんだ……彼奴さえ、彼奴さえいなければ」
牢の中で男の口から紡がれる言葉は、呪詛のようで。
とめどなく紡がれ続ける言葉は、男の悪意に満ちている。
声色もその言葉の内容も、聞いているだけで気分が悪くなる。
通路に立っている見張りの騎士達も先ほどから無表情を保とうとしているが、男の不気味な姿に眉やこめかみ、口元がぴくぴく引きつっている。時折細められる目が、大変不快そうだ。
見張りの騎士達の姿を石壁にあけられた隙間から見下ろしていた俺は、再度ゼノスに視線を戻し、ブツブツ呟くその姿に眉をしかめる。
今俺がいるのは、石壁を一枚挟んだ裏側にある隠し通路。
ここは囚人達のいる牢の前を通る通路に沿う形で作られており、丁度成人男性の目線くらいの位置に、細い隙間が設置されている。
勿論、囚人達に隠し通路の存在を知られては元も子もないので、こちらの通路は表の通路より五十センチほど高い設計となっている。また、漏れ出た光でばれないよう覗き見用の隙間は光源付近に作られており、囚人達からはわからないよう配慮されている。
「――あの方の言うとおりにしたら、マーナガルムも生まれて……絶好の機会だったんだ。マジェスタの王太子だけでなく、彼奴らも一緒にいるなんて……好機だったのに。あそこで王太子が死ねば、あの方だって喜んでくださるはずだった。あのままいけば教師に会う前に鉢合って……教師が異変に気が付き駆けつけた頃には、死体が転がっていたはずだ。そうなるだけの、十分な距離と時間があった……なのに急に気が付きやがって。しかも、俺が丹精込めて育てた魔王を……あの餓鬼が余計なことをしなければ……俺と同じ出来損ないの癖に、忌々しい。その上、今回もまた」
……お前とだけは、同列にされたくないわ。
ゼノスの吐いた言葉に、そう心の中で吐き捨てる。
呟きの内容は報告書を通してすでに知っており、覚悟してここまできたというのに、実際に聞くとやはり胸糞悪い。他人の目がなければ、思わず手をだしていたに違いない。
炎槍の勇者の孫、雷槍の勇者の息子として出来損ないなのも、碌でもなかったのも認めるが、目の前の此奴とだけは一緒にされたくないと心から思う。
今見ている狂人染みた姿はもとより、グレイ様に仇なさそうとしていたことも、魔王を造っていたことも許し難く。さらに言えば、こんな奴の所為で大事な先輩達が心底傷ついているという、この状況も気にくわない。
「……リェチ先輩」
「――兄です」
沸々と湧き上がるゼノスへの苛立ちと憤りをぐっとのみこみ、俺の隣でゼノスを見ていたリェチ先輩に声をかければ、震える声で兄だと告げられる。
感情を堪える為か、引っ掻くように壁を掴む手が痛々しい。食い入るようにゼノスを見つめるリェチ先輩の顔色は、薄暗い所為でよく見えないが、血の気が失せ、青白くなっているように感じた。
「……あの人は、僕とサナの兄です。四歳年上で、死体は出ませんでしたが……僕らの故郷は、森の中にある小さな村だったので、魔獣に食い殺されたのだろうと……もう、葬儀も済んでて……」
くしゃりと顔を歪め、震える声で言葉を紡ぐ先輩にかける言葉が見つからない。
ラファールとアルヴィオーネの力を借りて追跡し、ワルド達と共に取り囲んでゼノスを捕えたのは十日前のこと。
ゼノスを捕えた翌日、俺はお爺様の指示のもと奴を王城の牢につないだ。
その際グレイ様の協力を仰ぐことになり、一悶着あったものの何とかガルディをゼノスの監視に置いてくることに成功した。俺がいない間にゼノスを隠されても困るからな。
ガルディやシオンのことは勿論、これまでの大まかな経緯を聞いたグレイ様の笑みは、恐ろしいほど穏やかだった。「お前が王城に上がった時、ゆっくり聞かせてもらおう」と告げ、ガルディを連れ去ったグレイ様とはあれからまだ会っていない。
その時の笑みが大変不穏だったので、かなり気がかりだったりするのだが、まぁ今はいい。
レオ先輩から苦渋に満ちた推測を聞いたのは、その夜のことである。
告げられた内容は、重く貴重なもので。
捕えた時は何とも思わなかった、ゼノスの憎悪が急に恐ろしくなった。
ゼノスと先輩方の繋がり方によっては、リェチ先輩とサナ先輩も牢に繋ぐことになるし、二人が事件と無関係であっても、なんらかの接点がでれば二人を疑いの目で見る者達がでてくる。対応を誤れば、二人の未来はないだろう。
そうと理解した上で、報告をしてくれたレオ先輩には感謝している。お蔭で俺はまだ対応を誤らないで済んでいるのだから。
レオ先輩の人柄を考えれば、リェチ先輩とサナ先輩の情報を俺に伝えるのは断腸の思いだったことだろう。非があると確定した訳でもないのに、あの人が身内を売るなどありえない。
そんな人情にあついレオ先輩がわざわざ俺に教えてくれたのは、「二人を守ってほしい」という意思表示だと思っている。言葉にして言われた訳ではないが、恐らく間違いではないだろう。
「忌々しい、公爵家の出来損ないが。あのまま大人しくしていればよかったものを、無駄なやる気をだしやがって……そもそも、彼奴らさえ生まれなければ、こんなことにはならなかったんだ。彼奴らが生まれたから、俺よりも才能があったから、村にいられなくなって……あの時締め殺したと思ったのに……いつもいつも彼奴ばかり守られて……俺の邪魔ばかり……」
「……兄さん」
「行きましょう、リェチ先輩。彼の言葉はあまり聞かない方がいい」
ゼノスが紡ぐ言葉に、泣き出しそうな表情を浮かべたリェチ先輩をそれ以上見ていられず、俺は少し強い力で先輩の背を押す。抵抗することなく、俺に押されるまま歩き出すリェチ先輩が何を思っているのかは、わからなかった。
リェチ先輩とサナ先輩に兄がいたなど俺もレオ先輩も初耳で。しかもその兄の存在を、サナ先輩は覚えてないという。
とても優しい兄だったこと。
傲慢だった自分とサナが追い詰めてしまったこと。
首を絞められたこと。
その後行方不明となり、状況から死亡したと思われていたこと。
事件のショックで兄を忘れてしまったサナの為に、兄は村中から存在を消されてしまったこと。
代わられた通信用の魔道具の向こう側で、途切れ途切れに言葉を紡いだリェチ先輩の声は、今でも耳に残っている。涙を堪えた声が、聞いていて辛かった。
「ドイル様、サナには」
足を止め、縋るような視線を向けるリェチ先輩に俺は何をしてやれるのだろうか。
捕えた後からずっとあの調子で呟いているゼノスは、現在第一級の犯罪者だ。
フィーアが取り上げた薬の中からは、幻覚作用のあるものや自白剤、暗示をかける際に使われる禁薬などが見つかっている。呟きから俺が捕まえたひったくりなど、ここ最近急増していた軽犯罪者と何かしらの関わりがあるのではないかと疑われており、早急に調査が進められている。
また、深淵の森でのことを仄めかすゼノスの言葉。
あれが真実なら、マーナガルムを人為的に作り、グレイ様を襲わせたということになる。
深淵の森でのゼノスの行動を証明するものは今のところ見つかっていないが、禁薬を保持、製造していただけで重罪である。その上、深淵の森での件がゼノスの行いなら、反逆罪。行く先は極刑だ。
一つ救いがあるとすれば、俺達が捕えてからというものゼノスは始終あの調子なので、言葉の真偽が疑われている点だろう。
会話が成立せず、自白剤を使おうにもゼノスの薬物耐性が高すぎて薬が効かない為、現在薬師長を筆頭に新薬の開発が急がれている。
ゼノスが時折口にする『あの方』の件もあり、身元確認は急務だった。でも、胸が痛い。
いくら確認に必要だったとはいえ、リェチ先輩には辛いことを強いた自覚がある。
実の兄に自分達の死を願われる痛みなど、俺には想像すらできない。
「――わかっています。誰が何と言おうとも、サナ先輩には伝えませんし、会わせません」
「ありがとうございます」
謝るのは違うと思った。だから俺はリェチ先輩が望んでいる言葉を口にする。
そんな俺の言葉に深く頭を下げたリェチ先輩は、妹を守る覚悟を持った兄だった。
すべてを語り、真っ先に妹を守ることを願ったリェチ先輩にしてあげられることは少ない。精々、覚えていないサナ先輩には会わせたくないというリェチ先輩の願いを聞いてやるくらいだ。
これから捜査を進めるにつれリェチ先輩はもっと嫌な思いをするだろうし、いつかゼノスと直接顔を合わせることになる。サナ先輩を遠ざけた分、リェチ先輩にかかる負担は増え、苦労し傷つくだろう。
その時、俺はこの人に何をしてあげられるのだろうか。
「行きましょう」
「……はい」
もう一度、少し強めの力でリェチ先輩の背を押し、この場を離れる。
その間、壁の向こう側から聞こえるゼノスの声が途切れることはなかった。
――他人の破滅、それも実の弟妹の破滅を願うのは違うだろう? ゼノス。
冷たい隠し通路の空気を肌に感じながら、俺が踏みとどまった最後の一線を、踏みとどまれなかったゼノスを想う。
己の努力を認めない世界に嫌気がさす気持ちは、わからなくもない。
認めてほしいと、渇望する心もわかる。
自身が持てなかった才能を有する者への羨望と嫉妬は、痛いほどよくわかる。
しかし、他人の破滅を願う気持ちはわかりたくもない。
――俺には沢山の人がいた。でも、きっとゼノスの側には誰もいなかった。
リェチ先輩を押しながらふと過った考えに、過ぎたことだと頭をふる。
なんだか無性に、グレイ様やバラド達に会いたくなった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




