その1
目が覚めた直後、空海の鼻は漂ってくる美味しそうな匂いを捉えた。むくりと布団から身を起こし、習慣のように枕元の時計を確認してみると、八時半だった。
「……ああ、泊まったんだっけか」
デザートのプリンを平らげ、一息ついたところで空海は被害の受けていない自分の部屋に帰ろうとした。だが、どうせだからこっちに泊まればいいじゃない、と何故かやけにムキになった天音に引き止められたのだ。
どうしたのかと事情を聞くと、どうも彼女はゴールデンウィーク中は空海と同じく一人なのだと言う。
仕事で忙しい彼女の両親がいないのはいつもの事だが、まさか彼女の祖母までシルバー会の温泉旅行で家を空けているとは思わなかった。どうりでお邪魔した時から姿が見えないはずである。
男の子がいる方が安心出来るから、と言われては空海とて無下に出来るはずもない。
しかし、それは遠回しに天音が彼を異性の男として見ていないという事になるのではないだろうか。獅子身中の虫ならぬ、ウサギ小屋の中の狼というか、まあそんな感じにはならないという信頼とも取れる。が、彼としては複雑である。
小さい頃、小学生くらいまではよく互いの家にお泊まりをしたものだが、中学生ともなるとさすがに気恥ずかしさが生まれ、自然とそういった事をしなくなっていた。
――それが、高校一年目でまたこんな機会があるとはね。
ぐっと身体を伸ばし、そのままパタリと布団の上で眠気と戯れておく。いきなり動くのも眠気覚ましにはいいが、この微妙な一時の心地よさは病みつきになる。二度寝になってしまえばそれはそれでも構わない。
しばしの間そんな微妙な時間を過ごしていると、
「あ、空海起きてたんだ」
昨夜に引き続きエプロン姿でポニーテールな天音が現れた。朝から非常に目の保養である。
「おー……。おはよう」
「おはよ。休みの日はもっと遅くまで寝てると思ったけど、早いのね」
天音が意外そうな、それでいてちょっとつまらなさそうな表情をつくる。
しかし、空海はそんな微妙な変化には特に気がつかずに身を起こし、
「お前ほどじゃないけどな。多分、この美味しそうな匂いで起こされたんじゃねえかな。俺の家では部屋まで届かないし」
大きな欠伸をしつつもう一度身体を伸ばした。
「……せっかくの朝イベントを自分で潰すとは。不覚」
「ん? 何か言ったか?」
「ううん。あ、朝ご飯もうすぐだから、早く顔洗ってきなさいね」
そう言うと、天音はパタパタと行ってしまった。
何となく引っ掛かりを覚えた空海だが、とりあえずはと洗面所へ向かう。勝手知ったる他人の家。迷う事無く目的の場所に到着し、バシャバシャと顔を洗う。一通りすっきりさせて手探りでタオルを求めると、
「どうぞ」
「お、サンキュー」
渡されたタオルで顔を拭き、ひょいと顔を上げて鏡を見れば、そこにはスーツで銀縁眼鏡にオールバックの男の姿。
「お早うございます」
「うおあっ!」
突然背後に湧いて出たシュナイツァに不意を突かれ、空海は大きな声を上げてしまう。
「どうかしたのー?」
当然、それを聞きつけた天音から状況説明を求める声が上がるが、
「いや、なんでもない。ちょっと手が滑って石鹸落としそうになっただけだ」
「気を付けなさいよー」
空海は何とかそれをやり過ごし、今度は黙ってシュナイツァを睨み付けた。
――いきなり出てくるな!
「これは失礼。しかし、昨日といい今日といい、彼女はあなたの婚約者か何かなのですか?」
「なっ! ち――」
反論しようとした空海は、シュナイツァの静かにというジェスチャーに言葉を飲み込み、
――ちげーよ。ただの、幼馴染だよ。
「ふむ。まあいいでしょう。そんな事は問題ではありませんし」
非常に含んだ物言いをするシュナイツァが中指で眼鏡の位置を直し、当然のようにキラリと光った。
「先ほど、天界で新しい情報を仕入れてきました」
「……ああ。そういやあんた、昨日の夕飯の後からいなかったよな。天界とやらに戻ってたのか」
「ええ。昨日の報告を兼ねて状況を確かめに行っていたのですよ。時間がなかったとはいえ、少々私が手を加えてしまいましたからね。何かしら不備が出ていれば今後の予定も変更しないといけませんし」
見た目通りに実直な正確である。これで平気で催眠をかけようなどと言うのだから、人ならぬ神も見た目には寄らないなと空海は思った。
「それで、結局どうだったんだよ?」
わざわざ空海に情報を仕入れてきたと伝えるからには、何か説明する必要が出来たに違いない。
「私の介入はさして問題ではありませんでしたね。もし何か変わるにせよ、指の骨を折るか頭の骨を折るか程度の違いです」
「全然違うじゃねーか!」
神にとって軽傷と重傷の違いは無い物として扱われるらしい。理由は死なないからという事らしいが、恐ろしい話である。
「まあそれはそれとしてです。昨日、残り二つの事件がいつ起こるか分からないと言いましたが、対策チームが予測結果を出していましたので報告をと」
「ん? って事は、いつ何が起こるか分かるって事か?」
「ええ。一回目のようにピンポイントではありませんが、日にちはおおよそ。まあ、あくまで予測ですので的中率としては平均で八十九パーセントといったところでしょうか」
シュナイツァの口調は不満げだが、空海にしてみれば十分過ぎる高確率である。いつ起こるのか分かれば、その時だけ誰も巻き込まない場所へ行けばいい。天音にも迷惑はかからないはずだ。
「で、具体的にはいつといつなんだ?」
「明日と、四日後ですね」
「って事は、今日は何もないわけか」
「一応はそういう事になります。明日に関してはほぼ間違いないかと思います。直近の予想の方が当然高確率ですから」
今日一日は何も無いと聞いて、空海は安堵の息を吐き出した。
「さて報告も済みましたし、今日一日は何もないという事で、私も再度天界に戻って仕事を片付けてきます」
「ん。大変だな」
「仕事ですから。それでは、また明日の朝にでもおうかがいします」
静かに一礼して、シュナイツァは通路の角の向こうに消えて行った。よもや歩いて帰るわけではないだろうが、神というものは実に不思議な存在である。
一つ欠伸をして、空海も洗面所を後にして居間に向かう。ちゃぶ台の上にはすでに朝食が用意されていたので、片手でいただきますをして美味しく頂かせて貰った。
食後のお茶を天音と飲んでいる最中に、
「空海、今日は予定あるの?」
彼女からそんな質問が飛んでくる。
「ん? あー、考えてた予定狂ってるからなぁ。ゲーセンでも行って来ようかな」
「またクレーンゲーム?」
「も悪くねえな。ゴールデンウィークで中身変わってそうだし」
元々空間把握能力に長けていたのか分からないが、空海は武術を習っていた頃に祖父から間合いの取り方が上手いと言われた事がある。自分ではやり易いようにやっているだけなのだが、自然と最適な間合いを選択しているのだとか。
そんな間合いが、何故かクレーンゲームに生かされていた。空海は景品の配置とクレーンの稼動範囲をパッと見て、大体何手で取れるか予想がつくのだ。後は思った場所にクレーンを運んでやれば、面白いくらい簡単に景品が取れる。
ただ、取る過程が楽しいだけで空海は取った物に興味が無い。景品はもっぱら天音の手に渡っていた。
「そっか。じゃあ用意してくるね」
「は?」
天音がすくっと立ち上がり、自分の部屋に向かおうとするが、空海はその突然の言動に間の抜けた声を出した。
「え? ゲームセンターに行くんでしょ?」
「行くには行くけど、何で天音が用意するって話に繋がるんだ?」
あくまで行くのは空海である。出かける用意をしなければならないのは空海で、天音ではない。
「何でって、私も行くからだけど?」
心底不思議そうに首を傾げる天音を見て空海は軽く混乱し、すぐに相手の言っている事の意味を悟った。
どうも現在、天音の中で空海と一緒に出かける事は空気を吸う事と同じくらい当たり前の事になっているらしい。
――どうしたんだこいつ。
別に空海が休日に天音と出かける事自体は珍しい事ではない。元々友人との予定をほとんど持たない、というより極力作らないようにしている空海は、基本的に休日を家で過ごす。だが、それでは不健康だと昔から天音がいろんな所に引っ張り回してくれた。
その過程で空海の不幸に天音が巻き込まれる事もあったのだが、彼女は変わらず空海を連れ回した。
だがそれも中学生までだ。部活で陸上を始めた天音はそれなりに忙しく、休日は大会もあったりと出かける回数は激減していた。
それは高校でも変わらず――
――って、そうだ部活。
「なあ天音」
「何?」
「お前部活どうしたんだ? 昨日も出てたみたいだし、ゴールデンウィークでも部活はあるだろ」
朝練が無いにしても、十時くらいからは始まりそうなものである。ゲームセンターの開く時間も同じなので、出かけるとなると当然部活には出られない。
「ああ。うん、今日は部活はお休みだよ」
「ふーん?」
何かとってつけたような言い方だが、無いと言うのならば無いのだろうと空海は納得した。納得したので、
「じゃあ、久々に一緒に出かけるか」
ごく普通にそう口にした。
「え……あ、う、うん!」
一瞬呆けたような顔になった天音が、次の瞬間に華が咲くような笑みを浮かべて思いっきり頷いた。
その勢いに空海は若干気圧される。彼がわずかに怯んだ隙に、天音は飛び跳ねるように空海の視界から消えていった。
一人残された空海の周りに、何とも言えぬ静寂が残される。
「デートですね」
「なっ――!」
横からにゅっと現れたシュナイツァに驚き、空海は思いっきりのけぞった。
「お前、天界に戻ったんじゃないのかよ」
「ええ。しかし少々あなたに質問がありまして、引き返してきました」
「質問?」
空海は首を傾げる。神が人間にどんな質問をするというのだろうか。神に分からない事を答えられるとも思えないが。
「彼女。涼風天音さんとは、いつ頃お知り合いになったのですか?」
「俺と天音が知り合った時期?」
考えていたような質問とはだいぶ違うが、これはこれで妙な質問である。空海は多少訝しみながらも、
「初めて会ったのは五歳の頃、ちょうどあの事故に遭う半年くらい前かな。俺が天音の家の隣に引っ越してきて、挨拶に行った時が最初だな」
昔の記憶を引っ張り出して話し始める。
「今じゃ全くだけど、あれでかなり引っ込み思案ってか、人見知り激しい方だったんだぜ? だから俺がよく外に連れ出して一緒に遊んでたんだ」
「それはそれは。微笑ましい光景でしょうね」
「あー、多分そうだったんだろうな……」
シュナイツァの言葉に、空海は頭をガシガシとかきながらなんとも曖昧な答えを返した。
「なんですかそのぼかし加減は。あなたの記憶でしょうに」
そこを不審に思ったのか、当然のようにシュナイツァからの突っ込みが入る。
「いやそうなんだけどな。なんか天音と一緒に遊んだっていう記憶はあるんだけど、何してたかあんまり覚えてないんだよな。そこんとこ思い出そうとすると、なんか頭痛くなるんだ」
「ほう。それはまるで思い出すことを拒否しているような症状ですね」
「そうか?」
思い出すことを拒否するという事は脳が記憶に封印をかけているという事になるわけだが、空海には全く思い当たる節が無い。
「何か嫌な事でもあったんだっけか?」
「私に聞かないで下さい」
「そりゃそうだ」
結局覚えていないので真相は分からない。
空海はその後も天音との幼少期の思い出を幾つかシュナイツァに説明してやり、話が空海にとっての転機の事件まで進められる。
「ふむ。では、その時に件の事故に遭われたと?」
「ああ。詳細はあんま覚えてないけど、目の前で天音がトラックに轢かれそうになって、無我夢中で飛び出したんだ。天音を突き飛ばして、そのまま俺は轢かれるかと思ったんだけど、なんか運よくそこで転んだらしくてな。トラックは俺の上を通過してったんだと。とんでもない偶然だと思ったけど、今はタネが分かっちまたからなぁ」
普通なら二人とも死んでいる。だが、神が空海を死なないように画策したため、天音もろとも助かったのだろう。もしかすると、あの事故そのものが何らかのミスなのかもしれない。
「なるほど、事故の詳細はそうなんですか」
「ああ。で、それがどうかしたのか?」
「いえ、ありがとうございました。では今度こそ私はこれにて」
くいっと眼鏡の位置を直すと、シュナイツァはスーッと煙のように消えて行った。先ほどは歩いてどこかに行ったような感じだったが、こんな移動の仕方も出来るようだ、この辺りはさすがに神といったところだろうか。
「さて……」
空海はぐっと身体を伸ばし、コキコキと首を鳴らす。ゲームセンターの開店時間にはまだまだ余裕があるが、先の天音の様子だとすぐにでも出掛ける事になりそうである。ならば、彼女の用意が終わる前に彼もまた出掛ける用意をしなければならない。
居間を後にし、欠伸交じりにあてがわれた部屋に入ると、たたんだ覚えの無い布団がきっちりたたまれ、なおかつ着替え一式がしっかりと用意されていた。
「…………はあ」
空海は小さく溜息を吐き、ノロノロと着替えを開始した。
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