その4
「空海の不運って、とうとう神域を汚し始めたのね」
時刻は夜の七時。畳の匂いが香る和室で、空海は目の前のちゃぶ台に広がる暖かな食事に箸を伸ばしながら、幼馴染の少女の哀れみが混じった言葉を聞いていた。
飛行機が突っ込んで来たあと、当然のように空海は警察に連絡した。そうして分かった事は、墜落前に脱出していた飛行機の持ち主がどっかのお金持ちだという事と、家の修復やらなんやらの保障は全て行ってもらえるという事だった。
事態が確定した後、空海は両親に事の顛末を伝え、隣にお世話になるから旅行を楽しんでくれと伝えておいた。正直、今帰って来られるのは困る。
「事情が変わったんだよ……」
「何か言った?」
「うおっ!」
ずいっと近寄ってきた少女の顔に驚き、空海はずざっと座布団ごと身体を引いて逃げた。
パッチリとした黒瞳が、不思議そうに空海を見つめている。こうした表情は可愛いに分類されるが、普段の彼女はどちらかと言うと綺麗とカッコイイの中間にある事を、空海は知っている。
涼風天音。同い年の幼馴染にしてお隣さん。学校男子垂涎のプロポーションには現在エプロンという彩を纏っており、一部の好事家にはたまらない演出になっている。
加えて、現在はちゃぶ台に乗り出しているので、やたらとその胸が強調されて空海は目のやり場に困る。
「な、何でもねえよ」
ふいと目を逸らしつつ空海がそう答えると、天音はしばらくじーっと空海の顔を観察して、やがて静かに身体を引いていった。調理の邪魔にならないように纏められた長い黒髪が、その動きに合わせてわずかに揺れる。
「まあいいわ」
天音が下がった事で、空海もまた元の位置に戻り、再び料理に舌鼓を打つ。
「ところで」
「うん?」
「その腕輪、どうしたの? 空海がそういうの着けてるのって珍しいよね」
天音が興味津々といった様子で眺めるのは、空海の左手首に装着されたシュナイツァ曰く『神器』である。『神器』とはよくよくゲームで出てくるような意味合いではなく、神の創った物を全般的にそう言うとの事だった。
正式名称は『身代わリング』ということだが、空海の感性ではネーミングセンスが相当ダサい、というか親父ギャグの域だ。
それ以前に腕輪はバングルもしくはブレスレットと言うべきである。当然空海はそう指摘したが、空気の読めない人ですねという感じに鼻で笑われたためそれ以上は何も言わなかった。
何故か自分の方が間違っているような錯覚を覚えてしまったせいである。
そんな感じでどうにも胡散臭い代物ではあるが、その名称通りの効果はすでに体験済みであった。
簡単な説明も受けたが、要は腕輪に取り付けられている三つ――今は黄色と赤の二つ――の宝石が、空海が何か死ぬような目に遭ったときに彼の命に代わって砕け散り、身代わりになってくれるというものだった。
正確には障壁が発生し、ある程度の反動があるものの攻撃から身を守っていると説明を受けたが、あまりにも漠然としていて空海には想像出来なかった。
「あー……」
空海はポリポリと頬をかく。まさか創造神に作ってもらったなどとは口が裂けても言えない。何とかごまかす必要があった。
「親父が願掛けだって言って、くれたもんだ」
「おじさんが?」
天音の目がスッと細まった。微妙に怪しんでいる様子である。
「いや、マジだって。なんか飲んだ帰りに露店で幸運のお守りだって勧められたんだとよ」
「……ふーん」
相変わらず細めた目で、天音は何度か身代わリングと空海の顔を見比べ、
「ま、いいけどね」
ふうと小さく息を吐いて、自分の中で何かしらの結論を出したようだった。
追求が止まった事で空海も内心で胸を撫で下ろす。
――下手に巻き込むわけにはいかないからな。
ただでさえ、普段から何かと巻き込みがちなのだ。特に今回は今までとは勝手が違う。天音には悪いと思いつつも、空海はこの件を自分だけでどうにかするつもりだった。
「で、さ」
「あん?」
今度は何かと空海が視線を向けると、ちゃぶ台の向こうで天音が心無しかそわそわしていた。
その様子に空海が首を傾げると、
「その……美味しい?」
若干不安そうな表情で天音はそんな質問をしてきた。
空海は一瞬その質問の意味を理解し損ねたが、すぐに自分がさっきから口に運んでいる料理の味を聞かれているのだと気が付き、
「ああ。美味しいよ」
文句なしの真実なので何の躊躇もなくそう答えた。
途端、天音の顔がパッと明るさを増し、えへへと照れ笑いを浮かべる。
空海も簡単な料理は作れるが、現在右腕を骨折している事もあり、こうやって天音が料理を作ってくれるのは非常にありがたい。
「悪いな。初日からいきなりで」
「う、ううん。別にいつもの事だし、家があんな状態じゃ何も作れないでしょ?」
天音の言う通りだった。空海の家は居間が破壊されており、その結果キッチンにも少なからず被害が出ている。冷蔵庫も破損してしまい、とても住める状態ではない。
それらも含めて弁償してもらえるという事だが、さすがに一週間で修復出来るレベルの話ではない。
――あいつに頼めば一瞬なんだろうが。
空海はちらりと左の方へ視線を送った。
そちらには先ほどからニュース番組を流しているテレビがあるのだが、その前にしっかりと正座したスーツの男がいる。シュナイツァだ。
「ああ、空海の家のニュースも結構やってたけど、もう別のニュースに紛れちゃってるね。銃の密売とか麻薬の密輸とか、最近物騒だよねー」
空海の視線に気付いてか、天音もテレビを見て苦笑する。だが、そこにいるはずのシュナイツァには一切触れない。そもそもちゃぶ台の上には一人分、空海の分の料理しかない。つまりは――
「他の方といる時に、あまり私を見ないほうがいいですよ」
空海に背を向けたまま、シュナイツァがそんな事を言ってくる。そう、シュナイツァは空海以外の人間には見えないのだ。また見えないだけでなく触れる事も出来ないのだという。正確には触れていても一切気がつかないのだとか。
「私と会話したければ、心で強く思ってください。それで十分伝わりますので」
――読心術かよ。
「こちらではそう言うらしいですね」
律儀な応答を無視して、空海は味噌汁をすすりながら今後の事について思案を巡らせる。
シュナイツァの言葉通りなら、空海はあと二回の生命の危険を掻い潜らなければならない。最初の一回はタイミングが分かった事とシュナイツァが機転を利かせた事で切り抜けたが、後の二回はシュナイツァが大きく手を貸す事は出来ないという。
理由は単純で、これ以上シュナイツァが干渉を行うとそれ自体が空海の運命流にブレを生じさせ、予測がうやむやになりかねないからだ。
空海としてはその都度指示してくれるのかと思っていたので、悩み所である。
唯一の救いは、空海が巻き込まれる事件ないし事故で彼以外が死ぬ可能性はないという点だ。そうでもなければのこのことお隣に厄介になれるはずが無い。
「あ、お味噌汁辛かった?」
天音の言葉で、空海は自分が顔をしかめていたことに気が付いた。不覚である。
「いや、ちょっと今日の事を思いだしてな」
「……本当に、空海の運の無さはどうにかならないのかな」
小さく溜息を吐き出しながら、天音はちゃぶ台に肘を立てて頭を支えている。
「どうにか出来るならとっくにしてるよ。天音だってそんな事は分かってるだろ?」
天音は空海にとって始まりとなった事故以外にも幾つか彼の不運に居合わせている。それは事情を知るものであれば己に類が及ぶ事を恐れて彼から離れていく中で、彼女はいつまでも彼の傍を離れようとはしなかったためだ。
ごく普通に、当たり前のように、天音は空海の側にいた。家族以外で唯一と言っていい。
そんな天音だから、空海は己に一つの誓いを立てている。その誓いは――
「あ、そうだ」
「ん?」
突然パンと両手を叩いた天音は、すくっと立ち上がると小走りに空海の視界から消えて行った。
その行動に首をかしげながらも空海はそのまま料理をつまみ続ける。天音の行動は気になったが、料理の上手さに箸が止まらないのだから仕方が無い。
「あ、そういや……」
もっちゃもっちゃと頬袋を膨らませながら、空海はふとある事柄を思い出し、
「なあシュナイツァ」
「なんでしょうか?」
「俺の運命を狂わせてくれたって言う神様だけどさ。そいつどうなるんだ?」
そんな質問を投げ掛けた。
「ふむ。今回は事が大きくなりすぎてますからね。まず間違いなく神権剥奪処分は免れないでしょうね」
顎に手を当て、やや思案するような仕草をしつつ、シュナイツァが答える。
「神権? なんだそれ?」
「神としての資格とでも申しましょうか。まあ詳しい説明は意味が無いので省きますが、後は追加処分として天界も追放されるでしょうね。行き先が地界になるのか魔界になるのか知りませんが」
「ふーん? 島流しみたいなもんか」
空海の言葉に、シュナイツァが首を振る。
「いえ、実質は死刑のようなものですよ」
「え?」
「我々神は神権を持つ事によって限りなく不老不死ではありますが、親権を剥奪された神はごく普通の人間となんら変わりませんからね。追放された先でどんどん老いて、やがて死にます」
なるほど、と空海は内心で納得する。無限が有限になるという事。それも確かに死刑といってもいいかもしれない。
――恐ろしいまでに婉曲だがな。
「神は人間と違って野蛮ではありませんのでね」
中指で直される眼鏡がキラリと光る。
「人ん家破壊しておいて言う台詞かよ」
「私の痕跡等すでにあの事故で――」
「おまたせー」
シュナイツァの言葉に被さるように、盆を持った天音が戻ってきた。その表情はやけにニコニコしているが、座っている空海の目線ではその盆に乗るものがなんなのか分からない。
「なんかやけに嬉しそうだな。あ、その前にごちそうさま」
「おそまつさま。ではでは、食後のデザートはいかがですかな?」
デザートと聞いて、空海は全身の神経が昂ぶるのを感じた。盆の上に乗るもの。今になって漂ってきた甘い香り。それは間違いなく――
「じゃーん! あたし特製のスペシャルプリン、『天の福音』~濃厚カラメルソース添え~」
「来た! プリン来た! 特製プリン来た!」
ふふんと鼻を高くする天音と、まるで幼い子どものように目を輝かせてはしゃぐ空海。よく分からない光景がそこにはあった。
「何をそんなに喜んでいるのですか……?」
それまで意識的に空気となっていたシュナイツァが、突然の光景に興味が湧いたのか口を挟んできた。
「そ――」
空海は言葉で返そうとして、
――決まってんだろ天音のプリンだぜ? プリン。
すぐさま心の声にシフトした。
その間にも空海の対面に腰を下ろした天音が小皿の上でプルプルしているプリンとカラメルの収まった器をちゃぶ台にのせ、代わりに夕食の食器を盆に移している。
「いえ、こちらの食べ物には多少知識がありますのでプリン自体は分かるのですが、あなたのその喜びようが異常と言いますか」
天音の持ってきたプリンは、見た目は何の変哲も無いプリンである。一般にイメージされる市販ものとは違ってカラメルソースは後かけのものだが、それだけではさほど珍しいとは言えない。
「ただのプリン、ですよね?」
――違いの分からん奴は黙ってろ。
空海は知っている。目の前にあるプリンがただのプリンではない事を。幼馴染の作るプリンはそれこそ幼い頃から幾度と無く食べて来ているが、その都度改良が加えられて来ており、最早メディアで紹介されているようなプリンなど比べようも無い域に達している事を。
「まずはそのまま食べてみて、味に変化が欲しくなったらお好みでカラメルソースをかけてみてね」
スッと空海の目の前に差し出された黄色い物体。気が付いた時には、彼はすでにスプーンを握り締めていた。
わずかな振動にもプルプルと震える柔らかさ。スプーンですくうときの雲を相手にするかのような軽さ。口に含めばわたあめの如くスーッととろけ、しかし驚くほどの存在感を誇示する。決して甘すぎず、しかし薄すぎず、手を加える事を躊躇わせる絶妙の加減が生み出す幸福感は筆舌に尽くし難い。
だが、人の欲は深い。それだけでは満足出来なくなった頃合に、カラメルソースという悪魔の媚薬が彩りを添える。絹の様に滑らかな地肌を、甘く黒い蜜が侵食していく。言い様も無い背徳感。穢れを知らぬ無垢なる存在を汚す喜び。まさしく悪魔の所業である。
それらの感情に心躍らせ、再び口に運べば、爆発的で甘美なる味わいが広がる。清楚なる少女は今、妖艶なる美女へと姿を変え、舌の上で誘惑の吐息を滲ませていた。
「……いえ、ここは何も言わぬが華でしょう」
無言でプリンを食べる空海の心を読んだシュナイツァは、その圧倒的なまでのアレ加減に突っ込む気力をなくしていた。
もくもくとプリンを食べる空海。それをニコニコしながら眺める天音。再びテレビのニュースに意識を戻したシュナイツァ。
運命の一週間の初日は、こうして終わっていった。