その3
「貴方の運命流が涼風天音の運命流に寄り添うようになって以後、しばらくは比較的安定していたわ。拮抗した正と負の宿命を孕む運命流は、むしろ美しいとさえ思えた」
どこか遠くを見るような、懐かしむような顔でヘレンが空海から目を逸らした。
一瞬、空海はその隙を付いて動くべきかどうかの判断を行ったが、
「でも、その均衡は崩された。他ならぬ涼風天音の願いによってね」
すぐさま視線を戻してきたヘレンの怒りの表情に二の足を踏む。ヘレンはむき出しの怒りを空海から天音へ移し、
「人間にとってはただの願いでも、その実そう簡単なものじゃないのよ」
その感情を言葉に乗せて天音に叩きつけた。
鋭い怒りの感情を向けられた天音は、今度こそ向けられた銃口への恐怖と合わさって痛々しいほどに震えてしまっている。
その姿に耐え切れず、空海がヘレンへ静止を呼びかけようとしたところで、
「貴方という存在を願い続けた涼風天音の純粋な想い。けれど、それが叶った後は貴方という存在を独占したいという欲に変わってしまった。もちろん本人にそんなつもりはなかったでしょうね。望む形が少し変わった程度の事と言えばそれまでだから」
突然怒りを消し去った悲しげな顔で、ヘレンが空海へ視線を戻して来る。
その表情を見て、空海は瞬間的に言葉を失った。憎い相手であるはずなのに、その顔に宿る深い悲しみと落胆を前に何も言えなくなってしまった。
――何なんだよ。
ようやく胸の内で呟けたのはそれだけだった。まったく持ってわけが分からない。先ほどまでの烈火の如き怒りはどこへ行ってしまったというのだろうか。
自分の変化が空海を迷わせている事が分かっているのかいないのか、ヘレンが話を続けていく。
「でも、その少し変わっただけの願いが、絶妙なバランスで成り立っていた均衡を崩した。徐々に崩壊していくバランスは、ついに最悪の形で顕在化したのよ」
その言葉を聞いて、空海はあの日の事故の事を思い出す。といっても空海が覚えている事は天音がトラックに轢かれそうになったところを突き飛ばした瞬間までだ。
そこから先は人から聞いただけで何も覚えていない。
「全てが終わるはずだったあの瞬間、わたしの中にそれを惜しむ気持ちが生まれてしまった。芸術というのもおこがましいほどに完成された二つの運命流がなくなってしまう事が、どうしようもなく惜しかった」
ヘレンが銃を持たない左手で自分の胸元をわし掴みにする。どうしようもない痛みに耐えるようで、悲しいほどに辛そうだった。
「気が付いた時にはわたしは不必要に二つの運命流に手を加えていた。その結果、二つ運命流自体は失われずにすんだけど、陸奥空海の正の運命流と涼風天音の負の運命流は入れ替わってしまっていた。そして、わたしが本当に残したかったものは歪になって失われてしまったのよ」
吐き出される真相。それは偶発的なミスではなく、一人の神の感情によって引き起こされた神災だったというわけだ。
そして、今の話を聞いて空海はおおよその事情を理解した。
「あの事故を境に貴方が不運体質に悩まされるようになったのは当然ね。だって、それは本来なら涼風天音が背負っていたものなのだから」
入れ替わった事で空海の神の加護を受けた運命流は天音に移り、天音の災厄を引き寄せる運命流が空海に移った。
幼い頃の天音が引っ込み思案だったのは自分の不運体質のせいで、活発になったのはその運命から開放されたからというわけなのだろう。
「涼風天音は自分の身に起きた事をすぐに理解したでしょうね。あの事故のせいで自分は辛い運命から逃れる事が出来た。けれど、代わりに貴方が背負う事になったという事に」
ヘレンの言葉を聞いて、空海は胸の内に鋭い何かが突き刺さるような感覚を覚えた。
空海が不運体質を自覚するようになって、あの時の天音のように周りを全て突き放そうとしていた頃。どれだけ突き放しても天音が離れようとしなかったのは――
「その後の貴方たちのことも良く知っているわ。わたしは貴方たちの担当神だったのだから。健気なものね。いえ、健気を装っていたのかしら? 自分の代わりに不幸になった相手をかいがいしく世話するなんて。ねえ?」
追撃のように突き刺さるヘレンの言葉に空海の全身から力が抜けかけた、その時だった。
「いあう!」
蔑む様なヘレンの言葉に、恐怖に震えていたはずの天音が明確な怒りを発した。自由にならない身体のまま、それでも何とか顔を向けて相手を睨み付けている。
空海は天音がそこまでの激情を表した姿を見た事がなかった。
「何が違うというの? 貴女は彼が代わりになった事を分かっていて何も言わなかった。でも罪悪感から不運体質を背負った彼を見捨てる事が出来なかった。だから傍にいたのでしょう? そうすれば自分の犯した罪を慰める事が出来るから。自分の罪を正当化出来る――」
「いあう!」
ヘレンに最後まで言わせず、天音がぶんぶんと首を振って相手の言葉を否定する。
その様子に明らかに気分を害したと見えるヘレンが、
「何が……何が違うって言うのかしら!」
「っ止めろ!」
「うっ!」
空海の制止の声を無視してヘレンの蹴りが天音の身体に突き刺さり、うめき声に続いて天音が盛大に咳き込んだ。
身体をヘレンの方へ向けていたために鳩尾をやられたようだ。苦しそうに咳き込む天音の様子に、空海の内にどす黒い感情が湧き起こり始める。
「てめ――」
「動かないで」
右手の銃を向けられ、空海は動き出しかけていた身体を無理やり押さえ込んだ。三メートルという距離は会話するには十分だが、銃を相手に攻め込むにはあまりに絶望的な距離だ。
まして今の空海には何もない。感情のままに何かをしようとしても無駄に終わることは目に見えていた。そしてそれが分かるからこそ、空海は何も出来ない自分がひどく腹立たしい。
「本当に人間は愚かしいわね。たったこれだけの事でもうさっきまでのやり取りを忘れてしまったのかしら? この場の支配者はわたしよ。わたしの許可無く何かをしようとしないで」
ずいと示される黒い金属の塊を見て、空海は舌打ちをする。そもそもあの時のアパートから持ち去られた拳銃の他に、なぜヘレンがこの日本でこんな物を所持出来ているのかが不可解だった。
そんな空海の感情が伝わったのか、
「ああ、これね。最近じゃちょっとお金を払えば誰だっていくらでも手に入れられるものよ。幸い当面の生活費としてのお金だけはあったから、簡単だったわ」
ヘレンがうっすらと笑いながらそんな事を言ってきた。
「まったく、罪人への温情である物をそのような形に使うとは、実に罰当たりですね」
今の会話が聞こえていたのか、空海の背後からシュナイツァの呆れた声が聞こえて来る。
それに反応して、ヘレンの注意が空海から背後に控える形のシュナイツァに移った。しかし完全というわけではなく、今動いてもすぐに勘付かれるのは確実だった。
「あら? わたしだって元神よ。神罰なんて物が存在しない事は、誰よりもよく分かっているわ」
「……左様で」
空海の背後で盛大な溜息が聞こえて来た。続いて、
「おっと」
シュナイツァの声に少し遅れて何かが床に落ちる音が工場の中に響き渡る。
「ハンカチとペンを一緒に入れておくと染みた時に困るわよ? それに今みたいに取り出したときに落としてしまうし」
「忠告痛み入りますよ。ところで、拾ってもよろしいですか?」
シュナイツァの問いに、ヘレンは無言で頷いている。
コツコツとシュナイツァがやや足を動かした音がして、
「ではこちらへ入れておきましょうか。なにぶん、これ一本しか持ち合わせもありませんので」
「創造神の貴方ならいくらでも創れるんじゃない?」
「いいえ。しっくり来る物はなかなかに難しいですよ」
シュナイツァの言葉に小さく嘆息すると、ヘレンは再び空海へ視線を戻してきた。銃口は相変わらず空海へ向けられたままだ。
蹴りを受けた天音は先ほどまでの勢いを失い、力無くぐったりとしている。それらを確認しつつ、
――後、三十。
空海は内心でそう呟き、
「っ! 止まりなさい!」
ヘレンの言葉を無視して一歩を踏み出した。
「何のつもり? それ以上近付いたら本気で撃つわよ」
片手ではなく両手でしっかりと構えるヘレンにぶれも震えも無い。このままでは放たれる弾丸は狙いを外さず空海に当たる事だろう。だが――
――前だけを見ろ。相手だけを見ろ。その注意の全てを、俺だけに向けさせろ!
銃口を向けられたまま、空海はひたすらにヘレンを睨み続けた。彼女と違ってその身体の震えが止まらない。空海はすでに死の恐怖を思い出してしまっている。だからいつ死んでもおかしくないという状況にあって、今までのように死に対して鈍感ではいられない。
ちりちりと肌が焼けるような熱を帯びている。呼吸も落ち着かずにひどく荒い。口の中はカラカラだ。瞬きをしない目も水分を失って痛みを訴え始めている。
だが、空海は決して相手から目を逸らさない。相手の目を回りに向けさせない。ただ相手の瞳に己だけを映し込ませる。その視野を狭めるために。そして――
「ふん。嫌な目ね。わたしがいなければ貴方は――え?」
突然、へレンが言葉を切り思わずといった感じで背後を振り返った――瞬間、
「ふっ!」
全ての恐怖と震えをねじ伏せた空海は、拳銃の射線上から逃げつつ一息に間合いを詰め、
「きゃっ!」
ヘレンの手を殴りつけて銃を弾き飛ばし、即座に引き寄せて続けた拳を相手の鳩尾に叩き込んだ。
「うっ……」
奇しくも天音への暴行の仕返しのような形であったが、確かな手応えが空海の左拳に伝わる。
この一撃で意識を失い、その場に崩れ落ちるかに見えたヘレンだったが、急に何かに支えられるような形になってぐったりとなると、そのままするすると宙に浮かび始めた。
よく見れば彼女のスーツには鋼材を釣り上げるためのクレーンが引っ掛けられており、見事なまでに宙ぶらりんの状態になったところで上昇が止まる。
あの位置では自力でクレーンをどうにかする事は出来ないし、下手に暴れて落ちればただではすまないだろう。完全に死に体であった。
「天音!」
相手を無力化した事を確認した空海は、急いで天音に近寄って抱き起こした。
「うーあい?」
ぼんやりした様子だったが大丈夫そうである事に安堵し、空海はすぐさまその身を拘束している縄と猿轡を取り外しにかかった。片手での作業だったが、口も使ってどうにかこうにか天音を自由にする。
「空海!」
途端、空海は天音に飛びつかれて思いっきり床に背中から倒れ込んだ。そのままのしかかられたために吊ったままの右腕が挟まれて物凄い激痛が走ったが、泣きじゃくる天音を払いのけるわけにも行かず、色々と煩悩に悩まされながらも何とかそれに耐える他になかった。
「上手く行きましたね」
そんな空海から少し離れたところ、最初の場所から移動していないシュナイツァが話しかけて来た。
――ああ。一分って時間もぴったりで助かったよ。
「そうですか。ああ、それではこれは破棄しておきましょう。もう必要なくなったものですし」
そういってシュナイツァがスーツの内ポケットから取り出したのは、ヘレンに命じられて壊したはずのドミニオンコントローラーだ。
なぜそんなものがあるのかといえば、空海が工場へ来る前にシュナイツァと相談して創ってもらったからである。
シュナイツァが自分のために何かを作る分にはたいしたお咎めも無いという事を利用したのだ。
そして今回空海が用意したものはこの新しいドミコンともう一つ、
「小型の機械人形に音消シールを貼りに行かせるというアイディアも上手く行きましたね」
再びドミコンを握り潰して破壊したシュナイツァの足元。そこにはマニピュレーターを装備した小人のようなキャタピラ駆動の機械人形がおり、背中には音消シールが貼り付けられている。
これは空海が撃たれた際のどさくさに紛れて放っておいたものだ。与えた命令はクレーンに関わる工場内の機器に音消シールを貼り付ける事。
空海ですらまともに把握していない音消シールの正確な枚数を相手が知っているとは思えなかったため、台紙を一枚ロボットに持たせて貼り付けに行ってもらったというわけだ。
そうして相手に悟られないように無音のまま着々と事を進め、準備が整ったところでクレーンに対して相手を釣り上げるように命令すれば後は時間とタイミングの勝負になる。
相手と話す事で時間を稼ぎ、仕上げはこちらに意識を集中させる事で勘付かれる事を防ぐ。最終的なタイミングはシュナイツァの完璧な読みで時間をそれとなく言ってもらい、必ず生まれると分かっていた隙を突いたのだ。
――本当に上手く行って良かったよ。
空海は自分にのしかかったまま胸に顔を埋める天音の頭を優しく撫でた。
それに反応してがばっと上げられた天音の顔は、涙でくしゃくしゃになっている。
「……悪いな。昨日に続いて今日も泣かせちまった」
綺麗な瞳から流れる雫を指で拭ってやると彼女は一瞬驚いたような表情になったが、
「ぐえ……」
再び勢い良く空海の胸に顔を押し付けてきたため、思わずうめき声が漏れる。
そのまま空海が顔を横に向けると、シュナイツァがなにやら携帯らしき物を取り出してどこかと連絡を取っているようだった。
おそらくは天界とでも連絡を取っているのだろうと漠然と考えていると、通信を終えたシュナイツァが空海の方を見るなり急に焦ったような表情で、
「危ない!」
「え? っ!」
シュナイツァの謎の警告に思わず返事をするのと、強烈な悪寒を感じるのはほぼ同時だった。そして恐ろしいまでの視線を感じて横に向けていた顔を前、すなわち上に向ければ――
「さ・よ・な・ら」
「くっそお!」
釣り上げられたまま銃を構えるヘレンを視界に入れるのと、寝返りを打つ要領で上に乗る天音と身体の位置を入れ替えるために動くのはほぼ同時だった。
――駄目だ。俺は、天音を守――
直後、数発の乾いた破裂音が工場の中に響き渡った。




