その1
第一章
ゴールデンウィーク。わざわざ長期連休となるように適当に休みをずらし合わせて生まれた、まさに遊びたい盛りの学生にとっての黄金週間。
怠惰に過ごすも良し。家族と、あるいは友人や彼女と、はては一人で旅行に行くのも良いだろう。
とにもかくにも夏休みや冬休みと違って課題というものが存在しない長めの休みは、羽目を外してはしゃぎ回るに最適な期間だ。
ご他聞に漏れず、空海の両親も商店街の福引で当てたペア旅行券を使って遠出する計画を立てており、丸々一週間家を空ける予定になっていた。
「――というわけだから、空海、留守番よろしくね。何かあったらお隣の天音ちゃんに手伝ってもらって。事情は説明してあるから」
玄関先で空海の母が若干はしゃぎつつ、彼にそんな言伝を残す。
「空海。何かあったら携帯に入れるんだぞ。お前の事だから最終的には大丈夫だろうが、あまりお隣に迷惑かけるのもあれだしな」
空海の父は母と違い、多少は息子の事を気にかけてはいるようだが、それも多少でしかない。最終的には大丈夫という言葉がそれをよく表していた。
「いいから、さっさと行って来いよ。今更だけど、両利きとはいえこんな状態の息子を一人家に放置して旅行に行くんだから、そんな普通の言伝はいらないって」
カーゴパンツに半袖シャツと肩にかけた長袖の上着姿の空海は、三角巾で吊られた自分の右腕をちらりと眺めつつ、動かせる左手でしっしっと野良犬を追い払うような仕草をして見せた。
「そうね。じゃあ行ってくるわ」
「お土産は買ってくるからな」
空海の仕草に苦笑を漏らしながら、両親は荷物を抱えてドアの向こうに消えた。分かっていたし覚悟もしていたが、こうもすんなり行かれると空海としてはなにかこう悲しくなる。
空海は昨日車にはねられた。怪我は右腕がぽっきり折れただけだが、事故は事故である。
ちなみに、彼をはねたドライバーは中央分離帯に激突して重傷を負い、そのまま亡くなってしまったらしい。横断歩道を歩行中の上、信号無視をしたのは相手なのだから空海に全く非はないのだが、さすがに死なれると寝覚めが悪かった。
治療費云々の請求を諦めたのは、何も面倒だったからという理由だけではない。
とにもかくにも、そんな事故で腕を骨折した息子を放置して旅行に出かける両親というのは、世間的に見てどうなのだろうか。
――まあ、いつもの事で片付けられるようになっただけマシか。
玄関先に一人残された空海は小さく息を吐き出す。
はっきり言って、陸奥空海は不運な男だった。
今年の春に高校生となり、四月生まれの彼はすでに十六歳。決して長くはないその人生の中で、交通事故に遭う事五回。銀行強盗に巻き込まれる事三回。通り魔に狙われる事八回。
どんな星の下に生まれれば、これだけ命の危険に晒されると言うのだろうか。
空海の記憶では、全ての事の始まりは五歳の時。お隣さんで同年の幼馴染の少女、涼風天音と一緒にトラックに轢かれかけてから、彼の九死に一生人生は始まった。
だが不思議な事に、全ての事件で最悪怪我は負うものの命だけは助かってきた。生き残る事に関してのみ、空海の強運ぶりは異常とも言える。
――やれやれだな。
いつまでも玄関にいても仕方が無いので、空海はドアに鍵をかけるとスタスタと居間に移動した。
二階の自分の部屋に行ってもいいのだが、誰かが来た時の応対に上り下りするのが面倒なので夜になるまでは下にいる腹積もりである。
そのための用意としてゲームとかノートパソコンとかはすでに運び込んであるので、せいぜい秘蔵本を見れない程度で自分の部屋と大差ない状態にはしてあった。
毎日やっている鍛錬も、特に機材を使うわけではないのでどこでも問題はない。
――とはいえ、完治した後の右腕の鈍り具合が気になるな……
空海の強運は本当に死なないだけなので、自然と彼は自己強化を行うようになっている。何の因果か父方の祖父が武術を教えている人だったため、空海は小さな頃から鍛えてもらっていた。
残念ながら祖父は一昨年亡くなってしまったが、それ以後も空海は教えてもらったものを独自で改良しながら鍛錬を続けている。
その成果もあって、昨日の事故も右腕一本で済んだのだ。跳ね飛ばされる方向も中央分離帯に設けられたささやかな花壇になるように調整し、アスファルトに叩きつけられないように気を付けた。
周囲にはただの不幸中の幸いに映ったかもしれないが、何もしなければあと最低でも右足が折れていた自信が空海にはある。
――祖父ちゃんに感謝。
心の中で祖父に黙祷を捧げる。それが済むと、空海はいそいそとゲーム機のセッティングを開始した。決して鍛錬を怠るわけではない。先にやると疲れて眠くなるため、ゲームの途中で寝落ちするのが嫌なだけである。
セットを完了してゲーム機のスイッチを入れると、すぐさまテレビの画面に現在進めているロープレの映像を映し出される。いざ始めようと空海がコントローラーに左手を伸ばしたところで、呼び鈴が鳴った。
「タイミング悪っ」
不平を漏らしながらも空海はよいしょと立ち上がり、ドアホンの前に立って訪問者を確認する。
――……セールスマンか?
ドアホンの画面には一人の人物が映し出されていた。スーツにネクタイ着用の男で、手には黒鞄を持っている。おそらく歳は三十前後。銀縁眼鏡でオールバックという絵に描いた様な日本人エリートリーマンの風体である。
そんな相手を見た空海の第一印象は、はっきり言って怪しい、だった。なんというか、見た目はそれっぽいのにそれっぽさが無い。具体的に言えば営業マンには欠かせない笑顔成分が皆無なのだ。画面の向こうの人物は、凍りつくように冷めた目をしている。
――明らかに普通じゃないなこいつ。
関わり合いにならない方がいいと結論を出し、空海は居留守を決め込むことにした。
音を立てないようにゆっくりとドアホンに背を向けて離れ――
『陸奥空海さん。申し訳ありませんが、在宅なのを承知で来ています。出来れば穏便なうちに、ドアを開けてはいただけませんか?』
ようとして空海は即座に振り返った。
――おい、今こいつなんて言った? 穏便なうちってなんだよ。
いきなり飛び出た発言に、空海の視線はドアホンの画面に映る男に釘付けになる。
『十秒間だけ待ちましょう。その間に応対に出てください。出て来られない場合は、実力行使に出ます』
画面の向こうで銀縁オールバックが握り拳を固めた。まるでその拳でぶち抜くと言わんばかりだ。
『十……九……八……』
カウントダウンが始まった。しかし、空海は状況が飲み込めずにただ呆然と画面を見つめるしかない。
『三……二……一……。分かりました。それでは失礼します』
画面の中で銀縁オールバックが静かに一礼したかと思うと、突然上半身を思いっきり捻らせ始めた。
それを見て、ようやく空海の背中に嫌な汗が流れ始める。
――おいおい、まさか本気で――
そう考えた直後、画面の向こうで銀縁オールバックの姿が一瞬ブレたかと思うと、形容し難い轟音が家の中に響き渡り、何かが激しくぶつかり合う音が廊下を駆け抜けていくのを空海は聞いた。
信じたくは無いが、多分玄関のドアが壁や床に激突しながらすっ飛んでいく音だろうと漠然的に理解する。
「って、ありえないだろなんだそれ!?」
常識的に考えて、家の玄関ドアを素手でぶち抜くなんて芸当はフィクションの世界だ。
空海はダッシュで居間と廊下を繋ぐ境の戸へと向かい、勢いよく開いて飛び出した。
「おいおいおい……」
出てすぐ右側を確認した彼の視界に入ってきたのは、鉄球の直撃でも受けたのかと思いたくなるほどにくの字にひしゃげた見慣れたドアと、見るも無残にズタズタとなった周囲の壁だった。所々穴が開いたり壁紙がはがれたりと、まさに惨状である。
――うっわこれどーすんだマジで……
両親が帰って来るのは一週間後だが、この状況はその間に空海が一人で何とか出来るレベルの話では無さそうだった。
「申し訳ありません。宣言通り実力行使に出させていただきました」
背後からそんな声が聞こえてきて、空海は思い出したように振り返った。
彼の目は、今さっきドアをぶち抜いた張本人が全く悪びれる様子もなく、外と直結状態になった玄関にゆっくりと足を踏み入れてくる姿を捉えた。くいっと中指で眼鏡の位置を直し、まるでお約束のように一度だけキラリと光るのも忘れない。
「いやいやいやお前誰だよ何してんの!?」
至極当たり前のような顔をしている銀縁オールバックを見て、空海は思いっきり絶叫していた。
「何、と仰られましても、対応に出ていただけないので邪魔な物を排除したまでですが?」
「俺のせいみたいに言うな! ってか、今時怪しげな連中に対してドア開いて対応するのはお年寄りくらいだっての」
「別にドアホンでも構いませんでしたよ? 単にそちらが居留守を使っている事は明白でしたので、時間も余りありませんし、手っ取り早くと」
どこか問題でも? とでも言いたそうな口調と仕草に、空海の怒りが沸点を超えた。
「ああもう面倒だ。警察呼ぶからお前そこにいろ!」
そう言い捨て、空海は居間に引っ込むと固定電話の受話器を取り上げて一一〇番をプッシュしようとして――
「残念ですが、止めさせて頂きます」
そんな台詞が聞こえたかと思うと、いきなり空海の目の前で電話機が宙を舞った。
それなりに古い型で、今時のスリムタイプとは一線を画す鈍重な一品だったのだが、それがまるでボールか何かのように空海の身長よりも飛び上がり、すぐに落下して砕け散る。
正確には勝手に跳ね上がったのではなく、誰かの手刀が叩き込まれて本体が真っ二つにされつつ跳ね飛んだのだが、こんな話を誰が信じてくれるだろう。武の心得がある空海自身が信じられないのだから。
そんな光景に一瞬だけ唖然として、空海はすぐさま正気を取り戻し、
「ふっ!」
やや後方に下がりつつ、手に持っていた受話器を手刀を放った相手――謎の銀縁オールバックに投げつけ、彼が受話器を払うであろう瞬間の隙を狙っての左ハイキックを繰り出した。だが――
「ひとまず落ち着いて話を聞いて下さい。これは非常に重要な話です」
――なっ!?
空海の投げつけた受話器は、それを無視した銀縁オールバックのスーツに当たると同時に、まるで壁にぶつかったかのように砕け散り、繰り出した左ハイキックは相手の右手に掴まれて威力を殺されていた。
「な、何だよ。何なんだよいったい。誰なんだよお前!」
空海はあまりに異質な存在に対する恐怖を覚え、掴まれた左足を強引に引き戻し、そのまま後ずさりをしていた。死の恐怖とはまるで違う、理解出来ないものに対する恐怖だ。
「ああ、そういえば自己紹介をしていませんでしたね」
そう言って、銀縁オールバックはスーツの内ポケットをごそごそと漁り、
「私、こういう者です」
ずいっと空海の前に差し出されたのは、ビジネスマン必携の四角い紙切れ。名刺だった。空海は警戒しつつもそれを受け取り、眺める。
天界公社『神の奇跡』 創造課 佐藤信二
色々突っ込みどころが満載、いや、突っ込みどころしかない内容が書かれていた。
――何でよくありそうな日本名のフリガナに横文字使ってんだよ意味分かんねえ。
空海はそのふざけてるとしか思えない名刺に眉をひそめ、
「なあ、これ何かの冗談だろ? すっげー嘘くさいんだけど」
当然の感想を口にした。ところが、
「いえ大真面目です。私は天界からやって来ました」
銀縁オールバック――佐藤信二もといシュナイツァ・ドミニオーンは、いたって真面目にそう答えた。
「……え?」
その答えに、空海は微妙な反応しか返せなかった。何故ならシュナイツァの言葉に嘘が感じられなかったためである。ごく当たり前のことを、当たり前の様に言っているというのが、おそらく一番近い感覚のはずだ。
だからこそ、シュナイツァの天界という言葉がどうしても浮いてしまう。それこそこれがゲームの世界だというのなら何の不思議もないのだが。
「天界から……?」
「ええ。それと、私自身はあなた方人間が神と呼ぶものです。種別的には創造神といったところですね」
空海の理解が進まぬうちに、シュナイツァはさらにイってしまっている台詞を口にした。
「まてまてまてまて」
つい、空海は同じ言葉を繰り返してしまう。もう何が何だかわけが分からなくなってきていた。
――ってかこいつマジで頭大丈夫か? 天界とか神様とか、この年で真顔になってなにそんなこと言ってんだよ。
そんな空海の気持ちが表情に出ていたのを読み取ったのか、シュナイツァは眼鏡を無駄に光らせながら位置を直しつつ、
「埒が空きませんね。ああ、仕方ありません。手っ取り早く催眠でもかけますか。ちょっと後遺症が残るかもしれませんが、まあ大丈夫ですね」
あくまで本人はぼそりと、しかし空海の耳にははっきりとそんな言葉が聞こえた。
「何言っての? なあ何言ってんの!? 大丈夫じゃねえだろそれ絶対!」
シュナイツァのトンデモ発言を受けて、空海は身の危険を感じた。死ぬ危険ではないので、いつもの強運は何の意味もない可能性が高い。
――こいつ真面目そうでスゲーやべえ思考の持ち主じゃねーか。
空海の言葉に銀縁オールバックは再びくいっと眼鏡を押し上げてきらりと光らせると、
「話を聞いていただけない以上、貴方の自由意志を抹殺してでも先に進めなくてはならない事情があるのですよ。ただし、今からでもこちらの話を聞いていただけるなら、あなたの自由意志は尊重しましょう」
脅迫されている。しかも自由意志尊重と言っておきながら、話を聞かせるという部分は強制的である。断ろうものなら本当に何かされかねない。
そう考えながら、空海はちらりと床に散らばる電話機の残骸を見た。
少なくとも、自称神というシュナイツァは非常識な怪力を持っている。それもテレビ番組に出てくる怪力の比ではない。シュナイツァのそれと比べたら番組のものなど児戯に等しい。
とすれば、他に何かしら非常識な事が出来ても不思議ではないだろう。
――ここは大人しくした方が良さそうだな。
最終的にそう結論を出し、
「……分かった。話を聞く」
空海は左手を挙げ、降参の意を表明した。
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