その1
地図で示された工場はつい最近所有する会社が変わったばかりで、ちょうど隙間に当たるこの時期は隠れるにはもってこいとも言えるような場所だった。
場所は川を一本渡った対岸沿い。涼風家からは三キロ程度の距離がある。
現在時刻は十六時半。指定の時間までは後三十分だが、空海とシュナイツァはすでに問題の工場までやって来ていた。
「ふーむ。なかなかに大きな工場ですね。これだけ広いとなると、はたしてどこへ行けばいいものやら」
「さあな。ともかく入り口見つけて入ってみない事にはなんともだ」
工場の周囲は背の高いコンクリートの壁とその上を走る有刺鉄線で囲まれているため、おいそれと中へ進入する事は出来ない。そのため、空海は工場の周囲を回ってどこか入り口はないだろうかと探している最中なのである。
「私だけならこの程度障害でもなんでもないのですけれどね」
「悪かったな足手まといで」
「いえいえ。足手まといというものは必要のないものに対して使う言葉です。今回、犯人は私と貴方をそれぞれ指名しているんですから、貴方は必然的に必要な存在ですよ」
この神にしては珍しく、そんなフォローを入れてきた。空海は思ってもみなかったシュナイツァの言葉に、ほんの一瞬こいつは思ったよりもいい奴だったのかもしれないと考えて、
「ですから、この場合は役立たずという方が正解ですね」
「結局意味同じじゃねえか! つか微妙に攻撃性が上がってんぞ」
続けられた言葉に即座に考えを撤回して突っ込みを入れた。神への突っ込みも大分慣れてしまっている。
「ったく…………お」
非生産的な事をしている間も移動し続けていたため、視線を前に戻した空海はトラックの出入り口と思われる場所を塞ぐスライド式の黒い鉄柵を発見した。こちらの上にも有刺鉄線が通されていたが、何故か鉄柵には一人分程度の隙間が空いており、普通に中へ入れるようになっていた。
「……なあシュナイツァ」
「ええ。まあ、十中八九誘われてるんでしょうね。しかし相手にとってもこちらにとっても中に入らない事にはどうしようもないわけです。見たところ罠の類もないようですし、慎重に進んでみるしかないですね」
「だな」
一応周囲に人がいない事を確認して、空海はするりと鉄柵の間を通り抜けた。そのまま手近な建物の陰に身を潜める。用のあるもの以外はめったに人など来ないであろう事から人気のない事に不思議はないが、それでも空海はあまりにも静か過ぎる印象を受けた。
鳥のさえずり、車の走行音一つ聞こえてこない静寂は不気味の一言に尽きる。
「……手前の建物には誰もいないようですね。もう少し奥の方へ行って見ましょう」
コンクリートの壁越しにも熱源反応を探れるシュナイツァの意見に従い、空海は慎重に工場の敷地内を移動していく。
そうしてそろりそろりと移動し続け、進入箇所から最も遠い場所にある建物の前で空海とシュナイツァは立ち止まった。
「……ここもか」
「ふむ」
二人の視線はこれ見よがしに開かれた工場の扉へ注がれている。他の場所は全てきっちり閉じられていた中でここだけが開いているとなれば、もう疑う余地など残されてはいない。
「……内部に目立った反応はありませんが、まあ今は人間とはいえ元神ですからね。こちらの能力を知っている以上何かしら対策もされていると見た方がいいでしょう」
「そりゃそうだろうな。俺が犯人でもそうするよ」
軽口を叩きつつ、空海は慎重に開かれた扉に近づいた。隙間はわずかばかりなので、もし中へ入ろうと思ったらもう少し引き開ける必要がある。
スライド式のようだが、その大きさと錆加減を見るにどうがんばっても大きな音を立ててしまうだろう。いっそ音消シールの使用を空海は考えるが、工場の中は電気が落とされた上に暗幕でも吊るされているのか真っ暗な状態のため、例え無音で扉を開けても光の変化は丸分かりだった。
その辺りの対策もきっちり考えられているらしい。
「出来れば正直な真っ向勝負は避けたいところなんですがねぇ」
「っても、他に入り口はないぞ」
ぱっと見渡した感じで見えるのは壁だらけで、進入でいそうな窓も明り取りのみの非常に小さなものだ。例え破ったとしても空海の身体が通れない可能性が高い。
「それにもう時間だ。行くしかないだろ」
空海の腕時計は十六時五十五分を指している。指定の時間は目前に迫っていた。
「分かりました。しかし、中は暗いですから十分に注意してください」
「おう」
空海は扉に何の細工もされていない事を確認すると、ゆっくりと引き開け始めた。周囲が静かなせいもあって、ギイとかガガガという音が恐ろしいまでにうるさく聞こえてくる。
だが空海は構わずに扉を限界まで引き開けた。その結果、真っ暗闇だった工場内に大きく光が差し込み、入り口からそこそこの範囲までの視界は確保出来た。
「しっかし暗いな」
扉を引き開けた事による反応が何もない事を確認して、空海とシュナイツァは同時に工場内へ踏み込んだ。
周囲にはさまざまな機器の他に、ワイヤーとブルーシートで縛られた金属板やら鉄骨やらが放置されている。分かる範囲でこれという事は、隠れ場所には事欠きそうもなかった。
「……ふむ。中に入ってもまだ気配が感じられませんね。一切動いていないという事ですか」
すっと眼鏡の位置を直しつつ、周囲に首をめぐらせていたシュナイツァが呟いた。
「どうなんだ? この場合来たぞって大きな声で宣言した方がいいのか?」
「いえ、その必要はないでしょう。こうして姿も見せているわけですし、それでもなお相手が動かないという事は何かしら狙いが――そこ! 足元にワイヤーが張ってあります!」
「うお」
鋭いシュナイツァの指摘に、空海は踏み出そうとしていた足を急いで引っ込めた。薄暗くて分かりづらいが、しゃがみこんで確認してみればちょうど脛くらいの高さにぴんと張られた細いワイヤーがある事が分かる。
「あぶね」
明らかな罠であろう仕掛けを見て、空海は思わず肝を冷やした。
「やはり罠を仕掛けていますか。という事は、向こうが動かないのはこちらの自滅を誘っているのかもしれませんね」
「つっても、向こうが出てこない以上こっちは動かないわけにはいかねーぞっと」
空海は引っ掛けないように注意しつつ足を上げてワイヤーを跨ごうとして、
「ん?」
下ろした靴裏に一瞬引っかかるものを感じた――直後、空海はパンと乾いた破裂音と共に右脇腹に衝撃を受け、バランスを失ってそのまま床に倒れこんだ。
「空海さん!」
突然の事態に驚いたシュナイツァが倒れた空海へ駆け寄る。
「く、そ……。なんだ、今の」
衝撃から何とか立ち直った空海は床に両手を着きながらも何とか立ち上がろうとして、左手から硝子の砕けるような澄んだ音を聞いた。
「な……」
慌てて確認すると、身代わリングの最後の一回を示す赤い宝石が粉々に砕け散っていた。もはや身代わリングはただの銀ブレスレットである。
「やられました。最初のワイヤーはダミーで、奥の透明な釣り糸が本命でしたか」
空海のそばで膝をつき、シュナイツァは床に落ちている二本の糸状のものを検分していた。
片方は空海が避けようとしたワイヤーだ。どうやら倒れたときに引っ掛けてしまったらしい。そしてもう一本は、無色透明な釣り糸だった。手前のワイヤーに気を取られて、奥の釣り糸を見逃してしまったようだ。
釣り糸の先をたどると、ブルーシートに覆われた鋼材に行き当たる。そしてブルーシートには小さな穴が開いていて、わずかばかりの硝煙が立ち昇っていた。
「……くそ、撃たれたってわけか」
「ええ、そのようです」
取り出したのか創り出したのか不明だが、ナイフでブルーシートを切り裂いたシュナイツァがその奥に隠されていた拳銃を見つけ出していた。
「……これはあのアパートの一件で犯人が使っていたものと同じ銃ですね」
固定されていた拳銃を強引に取り外したシュナイツァが、じーっと観察しながらそんな事を言ってきた。
「あの時なくなったっていう拳銃だって?」
「ええ。しかしこれで確定的です、ね」
最後の言葉と同時に、シュナイツァは両手で包むように持っていた拳銃をグシャリと押し潰した。
ややあって開かれた手から、ただの鉄の塊になった拳銃がゴトリと床に落とされる。相も変わらずとんでもない怪力であった。
そうして拳銃を無力化したシュナイツァは、
「お望み通り、二人で来ましたよ」
突然暗闇へ向かって話しかけ始めた。工場内で音が反響するため、少し大きめの声を出すだけでずいぶんな音量になる。
「お、おい。大声を出す必要はないって――」
シュナイツァの行動を諌めようとした瞬間、突然工場の明かりという明かりが一気に点灯し、暗闇に慣れかけていた空海は目を焼かれて思わず手で顔を覆ってしまった。そして直後に自分が無防備な状態にある事を思い出し、不十分な視界のままだったが急いで近くの鋼材の陰に身を潜めた。
「なるほど。やはりそうでしたか」
徐々に戻ってくる視界の中で、空海は隠れもせず堂々と姿を晒しているシュナイツァを見る。
彼は空海の物陰からは死角になる工場の奥を見据え、珍しく怒りの感情を露わにしているようだった。
――……よし、見えるようになった。
二度三度と瞬きを繰り返し、空海は自分の目が正常に戻ったことを確認すると、物陰からそっと顔を出してシュナイツァと同じく工場の奥を見る。
すると、そこにはスーツ姿の女と――
――天音!
その側でロープでぐるぐるに縛られて床に転がる天音の姿があった。気を失っているのか動く気配はない。
天音が一先ず無事という事に安堵した後、空海は憎き犯人の姿をもう一度よく見ようとして、その姿に強烈な既視感を覚えた。
――あれ? あの女確か――
空海の記憶が正しければ、悠然と立っているスーツ女はボロアパートで強盗の人質になっていた女だった。今はあの時の泣きそうな顔と違って小馬鹿にしたような笑みを浮かべているが、間違いない。
――どういう事だ?
そんな空海の疑問は、直後に語られたシュナイツァの言葉によって解決する。
「貴女が追放された神だったんですね。元運命課、第五級運命神、ヘレン・ヴァーチュズ」
「な……」
追放された神。それは十一年前に今回の事件の発端を作った存在であり、そして天音を誘拐した犯人でもある。
だが、まさかその元神とすでに会っていたなどと、空海は思っても見なかった。
そしてその事実に気が付いた瞬間に空海はアパートでの一件を思い出す。あの時、空海は人質になっていたあの女が発した声によって危うく死ぬ寸前まで追い詰められた。あれがなければ空海の作戦は上手く行っていたはずなのだ。
しかしあの時の女が元神という事であれば、あれは空海の邪魔をするためにわざとやられた事なのだという推測が立つ。結局は殺される前に助けられてはいるが、今こうして再び命を狙ってきている以上、先の一件は何かしらの布石だったと見るのが妥当な線だ。
――くそっ!
空海は思わず奥歯を噛んだ。事件の首謀者に手が届く位置にありながら、空海はみすみすその機会を逸していたのだ。
もっとも、元神の名前も容姿も聞かされていなかった以上は空海にそれと分かる可能性は皆無に近かったわけだが、それでもである。
「あらあら。追放された神の名前を覚えていてくださるなんて、ずいぶんと律儀ですのね。創造課、第四級創造神、シュナイツァ・ドミニオーンさん」
そんな空海の葛藤をよそに、優雅に腕を組んでみせる元神――へレンはクスクスと小さく笑みをこぼしている。
「あなたの名前は資料の最初に載っていますからね。この件に関わる以上、嫌でも覚えてしまうんですよ。もっとも、追放された神の容姿は秘匿されるという面倒な決まり事さえなければあの時に気付けていたのでしょうけれど。まったく、緊急時だというのに決まり事一つどうにも出来ない辺りが体質でしょうかね」
ふんと鼻を鳴らしたシュナイツァが、苦虫を噛み潰したような顔でなにやら批判めいたことを口にしている。どうやら怒りの原因は元神本人ではなく別のところにあるらしい。
「あら? 貴方みたいな下っ端の神が、上層部に文句を言うの? 始末書どころじゃ済まないんじゃないかしら?」
「ご心配なく。今回の件、手違いがあれば担当者の首が社会的に、比喩的な意味で物理的にも飛ぶ事になりますからね。ちょっとやそっとの愚痴程度では担い手の少ない神の生贄を処分したりしませんから」
「……ふん。まあいいわ。それよりもそこの人間。いつまで隠れているの? 命令よ。出て来なさい。さもないと――」
「っ! 待て!」
ヘレンが懐から取り出した拳銃を床に伏す天音へ向けたのを見て、空海は慌てて隠れていた鋼材の陰から飛び出した。
「聞き分けのいい子は好きよ。それじゃあついでに持ってきた神器を全部シュナイツァに渡しなさい。ああ、リングはいいわ。どうせもう使い物にならないのだから」
クスクスと、神と言うよりは悪魔のような笑みを浮かべたへレンが、嗜虐心に満ちた目で空海の事を見ている。
いわゆる性格の悪い女の典型例だろうと空海は判断した。相手を屈服させる事に喜びを覚えるタイプのようだ。
「空海さん」
「……分かってるよ」
隣にいるシュナイツァに促され、空海はズボンのポケットからドミコンと音消シールの台紙を取り出してシュナイツァに手渡す。
すると、
「いい子ね。それじゃあ今度はシュナイツァよ。その神器を二度と使えないように破壊しなさい。今すぐ」
その命令がくる事をすでに予想していたのか、シュナイツァはやれやれというように小さくため息を吐き出すと、まずはその怪力で持ってドミコンを握り潰した。
薄氷を割った時のような音がして、シュナイツァが握った手を開くと同時にバラバラになったドミコンの破片が工場の床に落ちた。
続けて、どこから取り出したのか創ったのか不明だが、彼はライターに火をつけて音消シールを台紙ごと焼き払う。
焦げた臭いが一瞬だけ空海の鼻を刺激し、音消シールはすぐに黒い燃えカスとなって散った。