その1
目が覚めたとき、空海は一人だった。隣に天音の姿はない。布団の温もりがほとんど残っていないところをみると、ずいぶん前に起きたようだった。
――今何時だ?
むくりとからだを起こして時計を確認すると、すでに九時近かった。どうにかこうにか眠りに落ちれたのが遅かったため、起きるのもずれ込んだようである。
ぐーっと身体を伸ばして一息吐き出すと、空海はもぞもぞと立ち上がって部屋を出た。その足で台所に向かい、
「お?」
誰もいない空間を目にする。彼の考えではそこには天音がいる予定だったのだが。
――トイレか?
本人の目の前であればデリカシーの欠片もない事を考えながら、空海は眠気覚ましにと冷蔵庫を開け、残りわずかになっていたペットボトルのお茶をラッパ飲みする。
ちょうどその時になって、玄関の戸が開く音が聞こえてきた。
――ああ、外にいたのか。
空にしたペットボトルを身体に押し付けて潰しつつ、空海は天音がやって来るのを待つ。バキバキと音を立てたので、彼の起床は伝わっているはずだ。
「あ、お早う空海」
「ああ、お早う」
戻ってきてそのまま台所にやってきたのだろう。天音の手には新聞があった。
「今ご飯の用意するから、向こうで待ってて」
「ん」
差し出された新聞を受け取って、空海は邪魔にならないように台所を出る。去り際にちらりと天音の様子を確認したが、少なくとも表面上は普段通りだった。
――なんか昨日の事が夢だったんじゃねえかって思えてくるな。
空海の浅い知識ではああいった事があった次の日は何となくギクシャクとするものだが、不思議とそうならなかったし、天音は天音でそういった様子が無い。自分も含めてどうにもおかしな気分だった。
――まあ、いつも通りならいいよな。
少なくとも今はまだ。その言葉を心の中でも飲み込み、空海は居間に移動して新聞を広げた。
昨日の銃を所持していた男の事件が載っている。どうも銀行を襲って失敗し、逃走途中であの立て篭もりを起こしたらしい。
最終的には人質に突き落とされたわけだが、どんな事情があるにせよ空海に同情の気持ちはない。殺されかけたのだから当然である。
――そういや、結局どこかにいったっていう銃は見つかったのかね。
警察の事情聴取の際、空海は真っ先に犯人が使っていた銃の所在を尋ねられた。
どういう事か尋ね返すと、どうも落下した犯人は銃を持っておらず、現場にも見当たらないのだという。
空海の記憶では落ちる直前に発砲音を聞いているため、当然持って落ちたのだろうと思ったがどうもそうではないらしい。
――まあ、廊下の穴にでも落ちたんだろうけどな。
あの現場の廊下には拳銃が落ちれる程度の穴が複数あった。パッとみなくなったようでもよく捜せば出て来るだろう。
そんな事を考えながら、空海は他の記事にも目を通していく。隣町で火事が起こり、逃げ遅れた人十数名が焼け死ぬという大火事があったことが書かれている。火の気のないところからの出火という事で、放火が疑われているようだった。
――物騒な世の中だな。今までに前例ないけど、三回目でこういった事に巻き込まれなきゃいいが……
相手が個人であればまだ対処のしようもあるが、災害ともなるとさすがに空海は御しきれる自信がない。加えて、そういった状況下では災害そのものよりも居合わせた有象無象の方が恐ろしい事もある。大規模なものは御免被りたいところだった。
「昨日の事件でも載ってた?」
ちょうどそこへ天音がやってきた。持っている盆にはおにぎりとお茶が存在している。
空海の視線に気がついたのか、彼女は少し恥ずかしそうにしながら、
「昨日買い物しなかったから、おにぎりくらいしか作れなくて」
「別にいいよ。天音の作ってくれたものは全部美味しいから」
空海の言葉に、天音の顔が綻ぶ。
普段通りの朝食の光景。
その日もいつも通りと言ってもいい一日が始まるのだと、空海は漠然と考えていた。
「あ、私今日もちょっと出かけてくるね。お昼はどこかで食べて、帰りがけに買い物もするから、多分帰ってくるのは四時か五時くらいになると思う」
「うん? 買い物なら荷物持ちに付き合うぞ」
「ううん。昨日あれだけ迷惑かけたから、今日はいいの」
「迷惑ってわけじゃないんだけどな」
「と・に・か・く、今日は一人で動きたいから、空海も適当に過ごしてね」
そう強い口調で言われ、
「お、おう」
空海は何も反論出来ずに頷いてしまう。
結局、天音は家事を一通りこなした後、十一時くらいに出かけていった。
一人残された空海は、十二時頃まで軽く身体を解しながら主に下半身の鍛錬を行い、ちょうどいい具合に腹を減らしてから出かける事にする。
預かっている合鍵できっちり戸締りを確認し、ブラブラと駅前の方へ向かった。駅前は手ごろな飲食店が多いため、幾つか見て回ってその時の気分で決定するつもりである。
――あー、夕飯の予定聞いておけばよかったか……
さて何を食べようかと考えた段階で、空海は今夜の予定を聞き忘れたことに気がついた。下手なものを食べれば、二食続けて同じ物になる可能性は十分にある。
空海としてはそれはそれでも構わないのだが、一応出来うる限り重複しそうにないものを選択するべきだろうと思った。
――うーん。
昨晩のおかずは肉料理だった。ならば、魚料理は避けた方が賢明だろう。揚げ物も続くのはまずいのでパスである。
そんなこんなと考えながら歩く内に、空海は大通りの信号までやってきてしまった。横断歩道の前にはすでに人だかりが出来ている。
この通りは片道四斜線と幅広く、横断歩道と中央分離帯の交差部分に渡りきれない人のための避難場所が設けてあった。
そのせいというわけでもないのだろうが、歩行者用の信号は青になってもすぐに赤になってしまうことで有名である。
この先はショッピングモールが主だが、駅前と同じく飲食店も多いので、空海は戻るのもなんだと思って信号が変わるのを待つことにした。
――なんか今日は交通量が少ないのな。
信号待ちをしつつ通り過ぎる車を見ていると、空海は自分側の車線の交通量が不思議なくらいに少ない事に気がついた。
きっちり左右の安全確認をすれば、中央の避難所まで簡単に信号無視が出来そうなものだ。
実際、前の方にいた数人の若者がきょろきょろと左右を見て走っていくのが見える。数人がそれに続き、やや歩道での信号待ちの人が減ったかに思えたが、実際には人の数は見る見るうちに増えていく。
最後尾だったはずの空海もあっという間に人だかりの中に紛れ込んでしまい、簡単には移動出来なくなってしまった。
道路の反対側でも同じような感じで、もしもこれらの集団同士が上手い事左右に分かれて行き交わなければちょっとした衝突が起こりそうである。
――こういう状況って嫌だよな。なんかあってもすぐに動けねえし。
あまりにもおあつらえ向きな状況に、空海は今日が何かに巻き込まれる日ではない事を素直に感謝した。感謝の対象は特にいないが。
そうこうしている内に道路側の信号が変わり始め、それに焦る車の姿が見えない事も手伝って待っていた人の多くが信号が変わりきる前に道路へと足を踏み出し始めた。
徐々に集団が動き始め、ちょうど空海が二車線ほど道を渡った所で、
「……ん?」
彼は集団の流れが突然止まったことに気がついた。最初は前の方で集団同士のすれ違いが滞ったのかと思ったが、その様子は無い。代わりに周囲の人々がざわついている事に気がついた。それもそろって同じ方向、右手の方へ顔を向けながら。
何事かとそれにならって空海も同じ方向へ顔を向け、その顔を強張らせた。
「……え?」
空海の視線の先からは、渡り始める時には見えていなかった一台のバスが走って来ていた。別段、それだけならおかしいわけではないが、問題なのは向かって来るその速度が明らかに速過ぎる点だ。
ごくわずかな間にバスの大きさが増していくのがよく分る。
――何故?
おそらく、道路を渡ろうとした人々が足を止めてしまったのは、全員の脳裏に全く同じ疑問が浮かんだためだ。そのありえない事実に思考が停止し、故に取るべき行動が遅れる。そして――
「突っ込んでくるぞ!」
誰かの叫びが聞こえ、固まっていた集団の間に一気に恐怖が伝染し、
「きゃああっ!」
「なんだよあれ!」
悲鳴と怒号が巻き起こり、瞬く間にパニックが発生した。
この混乱の中で幸運だったのは、集団の前方と後方にいた者たちだろう。
前方にいたものはそのまま中央の避難所に走り、後方にいたものはすぐさま歩道にとって返し、どうにか安全圏へと避難出来る。
すでに安全圏にいたものが野次馬と化して避難場所を埋めているため、避難は緊急を要する状況にあって遅々としたものだが、それでも半ば暴走しているとみられるバスが来る前に逃げる事は出来る。
問題は集団の中腹にいた、空海を含めた人たちである。
「下がれ! 下がれよ!」
「前だ! 前に行ったほうがいい!」
中途半端な位置にいたため、前に行こうとするものと後ろに行こうとするものそれぞれがぶつかり合い、完全な混乱状態にあった。
なおかつ、先に安全圏に避難したものがそのまま野次馬へと変貌するため、ただでさえ少ない避難場所に順番待ちをするような列を作る羽目になり、ガードレールの乗り越えという考えもパニックを起こした人々の間には広がらない。
ただ直線的に逃げようとする者同士が互いに足を引っ張り合い、状況は刹那の内に悪化の一途をたどっていた。
――くそっ! なんなんだよこれは!
前後左右を混乱する人間に封じられ、空海は罠にはまったかのように集団から抜け出すことが出来ない。やや歩道よりに近づけてはいるが、このままでは確実に避難する前にバスが突っ込んできてしまうだろう。
ちらりと再確認した段階では、バスとの距離は百メートルを切っていた。もうすでに破壊的な走行音が耳に届いており、それが一層集団をパニックに陥れる。
それでもバスが右にハンドルを切り、最も中央よりの車線を通過してくれればどうにか惨事は防げそうな状況ではあった。だが、バスは取り残された集団の動きに合わせるように左へと進路変更をしている。
――ちいっ!
空海の周囲を流れる時間が遅くなった。動作が緩慢になり、空気が粘性を持ったかのような世界。交通事故に遭う直前に感じる世界だ。
――くそっ。この感じが出るって事は、もう避けられねえって事かよ。
ゆっくりとした世界の中でも、暴走バスはぐんぐん接近して来て、もうここでハンドルを切らない限りは絶対に間に合わないという距離に達した時、空海は薄いガラスが砕けるような、とても澄んだ音を耳にした。
――え?
今の音がどこから聞こえたのかと視線を動かそうとして、
――……あ、あれ?
空海は全く視線を動かせないことに気がついた。変わらず意識だけははっきりとしているが、まるで凍りついたかのように身体のどの部位も動かせない。
――なんだこれ? こんな感覚は初め――
「間に合いましたか」
混乱する空海の固定された視線の先に、突然シュナイツァが現れた。いつものしれっとした冷徹な表情に、何故かかすかな安堵が浮かんでいる様に空海は見えた。
――シュナイツァ!?
約一日ぶりとなる創造神の出現に、空海は素っ頓狂な声を上げた。
「ええ、私です。っと、今はこんな無駄話をしている場合ではありませんでした。時間は十分、正確には残り九分二十一秒しかありません」
早口にまくし立てながら、シュナイツァは鞄を漁り、ピンクの奇跡申請用紙を取り出した。
「さあ、早くこの場を脱せる物を創造してください」
――ちょま、今までで一番状況が読めねえぞ!
「承知しています。ですが、本格的に時間がありません。あと八分六秒でフィリアの時間停滞効果が切れてしまいます」
――んん? 時間停――
「とにかく! 質問はここを乗り切ってからにしてください!」
ずいっと顔を近づけられて、しかもその瞳に絶対零度の憤怒を感じて、空海は湧き続ける疑問を引っ込めて厳重に蓋をした。本能的に悟ったのだろう。これ以上は虎の尻尾を踏むどころではなくなる、と。
――えっと……
突然の事が多すぎて、空海の頭は混乱していた。それでもどうにか理解出来たのは、何故か世界が止まっているという事とそれが後六分か七分くらいで元に戻るという事に加え、再び何かを創造しなくてはならなくなったという事である。
――いや、落ち着け俺。ここで焦ったら終わりだ。
全てが動かせない状況の中、空海は意識の上で深呼吸を行う。恐ろしく変な感覚で、実際に身体がどうこうしたわけではないのだが、多少の効果はあるようだった。少しずつ思考がクリアになって行き、今何をしなければならないのかを考えていく。
暴走バスとの距離はすでに自力回避不可まで迫っている。ならば、創造する神器に求めるものはこの場から瞬間的に移動するようなものか、バス自体をどうにかするものでなければならない。
――例えばありえない速度で避ける事が出来る――ん?
自分自身をバスの進路上から逃がす物を考えていた空海は、その結果として残るものの違和感に気がついた。たとえば神器で空海だけが逃げおおせた場合、周囲にいるほかの人々はどうなるだろうか。
――って、おいシュナイツァ。これって三回目の危機とは別物なのか? 場合によっては俺以外に誰か死ぬぞ。
「それも後で詳しく説明します。が、これは三回目としてカウントします。ともかく、予定が大幅に狂ったという事で今は納得してください。後四分三十三秒です。残り一分を切った段階で最初と同じように私が全て代筆しますが、その場合の結果はどうなるか分りませんよ」
――なっ……
シュナイツァの言葉に空海は言葉を失った。今の発言が、最悪空海のみを守るという宣言に聞こえたからだ。そしておそらく、それは間違ってはいない。
――くそっ!
誰かを犠牲にして助かれるほど、今の空海は達観していない。とはいえ、現状で大勢の人間を一瞬でどこかに移すような物を創ろうにも、安全な物が思い浮かばない。
空海は人間側の回避策を捨て去り、バスの側をどうにかする案を考える方向にシフトした。
幸い、シュナイツァ側の誰かが時を止めてくれているおかげで、今ならばギリギリバスをどうにかできる可能性がある。
とにかく左ではなく右へ進路を変更させ、なおかつ暴走状態を止める事が出来れば理想的なのだ。そのためには、どうにかしてバスの制御を行わなくてはならない。
「後二分です」
無常なシュナイツァ・ドミニオーンの宣言。
――けど、バスをどうにかするったって、そんな昔のラジコンでもないって……のに?
自分の心で口走った言葉に、空海は一筋の光を見た。
――シュナイツァ!
「はい」
――あのバスを、ラジコンみたいに操れるような物を創れないか?
空海の質問に、シュナイツァはやや思案し、
「ふむ。それは言い換えれば、機械類を遠隔操作するための制御装置を創る、という事ですか?」
――そうだ。けどいじってる時間がねえ。念じるだけでどうにか出来るような機能を付加してくれ。
時間の停止を解くと同時に操作を行わなければならない事を考えれば、本当のラジコンのように手動で操作している時間はない。頭に思い浮かべると同時に作用するくらいの反応速度が必要だった。
「承知致しました。では、そのような機能を付加した物を創造しましょう。形状はどうしますか?」
――んなもん何だっていい! 強いて言うなら片手で持てるようなのにしてくれ!
当然ながら、形状が両手持ち型では持ちにくいことこの上ない。最低でもヘリの操縦桿のようなタイプが望ましいだろう。
「とはいえ、あまり大きすぎても邪魔でしょうね。操作ギミックは必要ないのですから、それっぽいパームタイプにしておきますか……」
ぶつぶつと独り言をつぶやきながらも、シュナイツァの右手は再び視認出来ないほどの速さで奇跡の申請用紙への記入を開始している。
角度的に何が描かれているのか空海には見えないが、そんな些細な事はどうでもよかった。
――まだか!
「分かっています!」
やや苛立ちのこもった返事とともに、シュナイツァは持っていたペンを放り捨て、次の瞬間には懐から印鑑を取り出し終わっていた。
「第四級創造神シュナイツァ・ドミニオーンの名において、この申請を承認します!」
叩きつけるようにして判が押され、ピンク色の申請用紙が光の塊へと変貌する。
その塊が新たな形を作り出す前に、シュナイツァはむんずと光を鷲掴みにし、
「勝負は一瞬ですよ」
やや半開きのままになっている空海の左手の中に押し込む。
と同時に、空海は再び薄いガラスの割れるような澄んだ音を聞いた。
時間停滞が、解かれる。
――っ曲がれええええっ!
突如出現する左手の中の違和感を握りこみ、空海はありったけの意思を持って眼前のバスへ命令を飛ばした。
直後、頭を左に振っていたはずのバスが突如右側へと方向を変え、ホイールシャフトが嫌な悲鳴を上げる。耳障りな音が前方から全身を打ち、次の瞬間には側面から後方へ抜けていった。
――よし避け――
「バスを止めてください!」
「っ! やべっ!」
衝突を回避したことに安堵するまもなく、シュナイツァの声に反応した空海は全力で後方へ振り返り、いまだ暴走し続けようとするバスを視界にとらえ、
――止まれ!
命令を飛ばす。
すぐに耳障りで甲高いブレーキ音が聞こえ始め、やや強引ながらもバスはその動きを止めた。
一連の流れはわずか十秒にも満たない時間。誰もが声を失い、呼吸する音さえ拾えないほどの静寂が辺りを支配する。
「いい反応です。何とかなりましたね」
ポンと肩を叩かれ、空海は頭だけを右へ向ける。
そこにはいつものすまし顔を浮かべた創造神がいた。その事実を認識して、
「……くはぁ~」
空海はいつの間にか止めていて苦しくなっていた呼吸を再開した。