その3
「完成です。さしずめ『音消シール』といったところでしょうか」
――身代わリングと同じネーミングセンスだな。
名称のダサさ加減に溜息を吐きたい心境になる空海だが、ともかく創造した物を受け取ろうとして、右腕が使えないことを思い出す。
「左手で……も無理ですね。これ、どうやって貼るおつもりですか?」
シュナイツァの突っ込みはもっともだった。さらに言えば、左手が自由でも片手でシールを台紙からはがして靴に張るのはかなり面倒な話になる。
――あんたが張ってくれるっていうのは無しか?
「ふーむ。私が犯人を直接どうこうするのは問題ですが、これはあなたが四苦八苦して踏む手順をすっ飛ばす結果になるだけですからまあ大丈夫でしょう。出だしの狂いももう修正出来てますし、これはそこまで狂う干渉ではありませんでしょうから」
少し思案してから、シュナイツァは軽く嘆息しつつ台紙から二枚のシールをはがし、空海の靴の側面にそれぞれ一枚ずつ貼り付けた。
「いいですよ」
しっかり貼られたことを確認して、空海は左右の足の重心を移動させてみた。さっきまで鳴り響いていた軋みの音が一切ない。試しに片足をわずかに浮かせて体重をかけるように床を踏みつけるが、やはり音はしない。効果は絶大だった。
――これなら。
後は相手の隙をうかがい、奇襲を仕掛けるだけだ。
「天音」
犯人に聞こえないようにぼそりと空海は左腕にしがみつく天音に声をかけた。
その声に反応して、天音が不思議そうな顔を向けてくる。空海が小声で話したため、なるべく声を出さないで反応を返しているのだろう。
「一か八か奇襲かけるから悪いけど手を離してくれ」
天音の身体がビクリと反応し、空海の左手を掴む指が強張ったのを感じる。だがそれも一瞬で、彼女はややためらいを見せるもののゆっくりと縋り付いていた腕を放した。
空海の無茶に対して天音が割とあっさり退くのは、彼女が空海は何があっても死なないという事を知っているからだ。現状はもちろん死ぬ可能性があるわけだが、彼女はそれを知らない。今回も何があっても空海は死なないと思っている。
――そうだ。俺は死なない。
まだもう一つ危険が残っている。こんなところで死んでいる場合ではない。
「天音。少しだけ音を立ててくれるか? あいつを一回振り向かせて、前に向き直る時に仕掛ける」
その提案に、天音はコクリと頷いた。そして空海から身を離し、わざと音を立てる。
「動くなあっ!」
狙い通りに犯人が振り返り、銃を向けてくる。緊張状態が続きすぎて疲弊しているのか、銃を持つ手が震え、今にも撃ってしまいそうだった。
――撃つなよ。そのまま前に向き直れ。
犯人の男は荒い息を吐き出しながら銃を下ろし、再び前に注意を向けるために空海と天音から視線を逸らして――
――今!
とても静かに、しかし激しい勢いで空海は飛び出した。シールの効果で一切の音が立たず、犯人の男も前に向き直る動作を止めようとはしない。
――とった!
後はもう少し接近し、構えて殴るだけ。空海がそう確信した時、予定外の事態が起こった。
「あ……」
小さな声が上がった。その声に反応して、前を向こうとしていた男がくるりと振り返ってくる。刹那の内に突進をかける空海と目が合い、次の瞬間には銃を構えられていた。
だが、空海は止まれない。彼もまた構えに入っていたからだ。
空海の誤算。それは人質の女だった。
あの瞬間、犯人の男は確かに空海たちから視線を逸らした。だが、その時にはまだ人質の女は空海たちの方を見ていたのだ。だから、空海が動いた事に気がつき、打ち合わせも何もしていなかった彼女は声を上げてしまった。
――間に合ええええっ!
振りかぶった左の拳が、吸い込まれるようにして犯人の右頬に突き刺さり、同時に発砲音と胸に衝撃を受け、空海は推進力を失って後ろへ倒れた。
「くっ。浅い!」
左手に残る感触から、空海は奇襲の失敗を悟っていた。相手に攻撃は届いたが、体重が乗り切る前に銃撃されて大幅に威力を軽減されている。
急いで立ち上がろうとして、空海の額にやや熱を帯びた鉄の塊が突きつけられた。
「空海!」
背後から天音の悲鳴が聞こえる。
「小僧ぉおおっ!!」
犯人の男が憤怒に燃える目で空海を睨みつけ、両手で銃を構えていた。
身代わリングの効果は後一回残っているが、今の体勢では間違いなく二発以上を撃ち込まれ、死ぬ。
――っ――
自分の死を想像し、思わず目を瞑った空海の耳に、
「いやあっ!」
天音ではない女の悲鳴と、発砲音が聞こえてきた。それに驚いて閉じた目を開くのと、
「うおっ」
人質だった女性に突き飛ばされた犯人の男がよろけて背中からボロ柵にぶつかるのはほぼ同時だった。
見るからに腐り切っていたボロ柵は、全身で寄りかかってきた人間の重さに耐え切れずにあっけなく崩れ、
「わっ!」
犯人の男はそのまま落下して行った。
「確保ーっ!」
下の方で警官が犯人に群がる様子を音で聞いて、緊張の糸が切れた空海はどっと汗を噴出した。多分、立ち上がりくても立ち上がれない。
「空海!」
床を軋ませる音がして、直後に空海は背中に衝撃を受け、そのまま抱き締められた。床に座り込んだまま、首だけで振り返ってみると、よく知った顔が涙でぐずぐずになっているのが目に入る。
「なに、泣いてんだよ」
「だって、だって……」
その後は言葉になっていない。空海の背中に顔を押し付け、身体を震わせている。
今までにも、こういった形で天音を泣かせてしまった事はあった。だが、今回は少し違う。天音も直感的に感じたはずだ。空海が本当に死に掛けたという事に。
――言葉だけじゃ分からねえもんだな。
シュナイツァに言われていた、何もしなければ死ぬ様になったという事実。空海は理解していたつもりだったが、全く甘かったらしい。久しく本当の意味で死の恐怖を感じる事のなかった彼にとって、今の体験はそれこそ腰を抜かしてしまうものだった。
――駄目だ。もう一回やれって言われても、多分もう出来ねえ。
すでに身体が思い出している。ある意味で、陸奥空海は死んでしまったのだ。それが喜ぶべき事なのかどうかは分からない。
――しかし、ものの見事に作戦を台無しにしてくれたやつに救われるとはね。
犯人を突き飛ばした女性は、呆けた様にへたり込んでいた。おそらく、空海と同じように腰が抜けているのだろう。
階段からギシギシと慎重に誰かが上ってくる音がするので、もうじき警察に保護されるはずだ。
――とりあえずは一件――ん?
ふと、空海はこの場に足りないものを思い出した。二つ目の危機を乗り越えたのだから、シュナイツァから何かしら言葉があってもいいはずだ。
きょろきょろと左右を見て、空海は再び首だけで後ろを振り返る。未だに背中に押し付けられたままの天音の頭の向こうに、険しい顔で考え込むシュナイツァがいた。
「……ですね。いくらな…………に危ない……らな……。……グの効…………ている。もしも…………出して……れば……」
なにやらぶつぶつと呟いているようだが、空海の位置からでは断片的にしか聞き取れない。
――シュナイツァ。
心で呼びかけるが、反応はない。相変わらず何か考え事をしている。
――シュナイツァ!
強く呼びかけて、
「はい?」
彼はようやく反応を見せた。
――どうしたんだ? 考え事してたみたいだけど。
「あ、ああ。いえ、どうにも気になることが」
――気になる事?
先ほどから様子がおかしかった原因は、どうもそこにあるらしい。空海はその気になることについて尋ねてみたが、何故かはぐらかされてしまった。
「正直、私もまだ混乱していましてね」
――よく分からんが、まあいい。……で、だ。
「はい」
――さっきのは結構危なかったと思うんだが、土壇場でもお前は絶対に手出ししないのか? 俺が死んだら困るってんならどうにもならない時には何かしてくると思ったけど。
空海の奇襲が失敗してから、男が空海を撃とうとするまで数秒はあったはずだった。神であるシュナイツァになら、その数秒で何かしら割り込む事が出来たはずだ。
それをしなかったという事は、あの場面でも空海が死なないで済むという確証があったはずである。
――やっぱあの時見てた書類に、おおよその展開が書いてあったりするのか?
「いいえ。あの書類にはそういった具体的な事は書いてありません。そもそも、危機の乗り越え方はあなたが考えたのですから、こちらで予測は出来ませんよ」
言われて、空海は納得する。具体的な展開が読みきれていないから、手探りなのだ。だがそうすると、やはり先ほどの場面でシュナイツァが動かない理由が不明になる。
「確実に言える事は、私が奇跡という形で力を貸す事であなたがこの一週間で起こる三回の危機を乗り越えられるという事です」
――どう乗り越えるかはその時次第って事か。
つまるところ結果は分かっているのだから、その過程がどれだけ危険でも構わないという事なのだろう。音消シールというシュナイツァの創り出した奇跡が加担している以上、どうあっても空海はその危機を乗り越えられるという事だ。
「ええ。ですが……」
――ん?
何故かシュナイツァが言いよどんだ。空海の記憶では、彼は婉曲な言い方をする事はあっても言葉に詰まるという事は無かったはずで、だからこそ何か妙な胸騒ぎを起こさせる。
――ですが、なんだよ。
「……いいえ。何でもありません」
空海の追及に、シュナイツァはまたはぐらかしの言葉を口にした。
「天界の方へ報告に行ってきます。次は三日後の予定ですので二日くらい戻らないと思いますが――」
シュナイツァが眼鏡の位置を直す。また、光らなかった。
「くれぐれも気をつけてくださいね」
――あ、おい。
空海の制止を無視して、シュナイツァは煙のように消えてしまった。
「大丈夫ですか!? そこの君たちも怪我はないか!?」
ちょうどその時、階段を上りきった数人の警官が現れた。
「ああ、ええ、まあなんとか」
軽く手を挙げて答えると、警官の顔に安堵の表情が浮かんだ。だが、空海の意識はすでに別の所へ向けられていた。
――気をつけろって、いったいなんだってんだ……。
考えても何も分からない。また一つ危機を乗り越えたはずなのに、達成感がまるでない。シュナイツァの最後の言葉が、空海の身に重くのしかかる。