その1
傍から見ればその場所を訪れたのは偶然で、そこでこんな事になったのも偶然なのだとしても、空海にとっては必然でしかないのかもしれない。
現在自分の置かれている状況を半ば逃避気味に考察していた空海は、諦め気味にそう結論付けた。
何故なら今日は、二回目の危機が訪れる日なのだから。
「お前らそこから動くんじゃねえぞ!? 変な動き見せたらぶっ殺すからなっ!!」
空海の視線の先には右手に持つ拳銃を振り回す男が一人。その動きに反応して、空海の隣にいる天音が小さく悲鳴を上げた。
だが、今この場で最も恐怖に侵されて悲鳴を上げたいのは、男の左腕で首を絞められるように拘束されている人質の女だろう。空海より幾分か年上で、傍目にも美人と言って差し支えが無い。そんな彼女の顔は、血の気を失って青ざめていた。
「空海……」
傍らにいる天音が空海の袖を引っ張った。普段から気の強いイメージとともに空海の巻き込まれにも耐性のある彼女だが、まったく恐怖を覚えないわけではない。
それは空海も同じだ。死なないと分かっていても、慣れているのだとしても、命の危険には恐怖を覚える。ましてもう神の加護は無いのだ。一つ間違えば、死ぬ。
「いやいや。これはまた面倒な事に巻き込まれたものですね。……さて、どうやって切り抜けますか?」
空海の目の前で、シュナイツァが奇跡の申請用紙をチラつかせている。
そのあからさまに他人事という態度に怒りを覚えるが、手が出せないという以上、ひたすら冷静に努めていると考えればその態度は至極真っ当なものだ。
――ったく、何でこんな形になるのかね。
「陳腐な物言いですが、そういう運命だったようですね」
心の愚痴に相槌を打たれ、空海は大きく溜息を吐いた。かすかに痛みを覚える頭の中で、こんな事になった経緯を回想し始める。
◆
「空海。ちょっと出かけるから付き合って」
充実した二日目を過ごし、さて問題の三日目をどう過ごそうかと思案していた空海に対し、朝食の片付けを終えた天音は開口一番にそうのたまった。
「……は?」
「だ・か・ら、ちょっと出かける用事があるから付き合ってって言ってるの」
びしりと鼻先に指を突きつけられ、空海は思わずその指先に視線を合わせ、急により目にしたことによる一瞬のめまいを覚えた。
「いや意味は分かるんだが、今日俺ちょっと用事が……」
今日一日は天音と一緒に行動するわけには行かない。シュナイツァの情報で天音が死ぬべき人間に入っていないという話は聞いているが、空海は出来るだけ彼女を危険に巻き込みたくは無かった。
「あら? 空海今日も出かけるの? ならちょうどいいじゃない。そっちにも付き合うから、こっちにも付き合うって事で」
しかし危惧する空海をよそに天音はこれ幸いとそんな事を言ってくる。
「いやいやいや。そうじゃなくて今日はアレだ、ほら、なんか来そうって言うかやばそうって言うか」
「空海の不運は時と一部場所……もう一部じゃないかもだけど、とにかく地震とかみたいに分かるもんじゃないじゃない。何でいきなり予感? そんなの感じた事あったっけ?」
「あー……」
まさか神様が直接教えてくれましたと言うわけにはいかない。かといって、今まで一度もこういった嫌な予感を感じたという話をした経験が無い以上、これで説得するのはかなり難しい。
――どうすっかな……
空海は朝食の糖分をフル活用して天音を言い含める策を考えるが、これが全く浮かばない。
「……あたしとお出かけするのが、嫌なの?」
突然天音の瞳に潤みが増し、上から上目遣いというよく分からない仕草を取られた空海はとっさに、
「あー、いや、そんな事はないぞ」
そう言ってしまった。
「じゃ問題無しって事で~」
「まっ――」
しまったと思った時にはもう遅い。天音は鼻歌交じりに空海の視界から消えてしまった。
――くっそ反則だろあれ。
「微笑ましいですね」
「うおあっがっ!」
にゅっと真横から現れた銀縁眼鏡に驚いた空海は、のけぞった拍子に箪笥に頭をぶつけてしまう。
「痛た……」
「私にもありましたねぇ。こう、甘酸っぱいと申しますか」
遠くを見る様な感じでシュナイツァが一人しみじみとしだし、
「あの頃は妻もまだ初々しくて――」
「あんた奥さんいるのかよ! しかも恋愛結婚かよ!」
やけに俗物的な神であった。
「ええ。時空課に勤務しています。ちなみに息子も一人いますよ」
「想像出来るけど想像出来ねえ……」
空海の脳裏にはほのぼのとした家族の情景が浮かぶが、それが全員神だと言われてどう飲み込めばいいのだろうか。
「何を言っているのですか? 人間がそもそも神の模倣であると言う伝承をご存じないのですか?」
「都合のいい時だけその手の神話持ち出すんじゃねえよ。あんた下賎な人間とか普通に蔑んでたじゃねえか」
「…………チッ」
「神が舌打ちすんなイメージ壊れるわ!」
信仰心など無いに等しい空海だが、それにしたって世間一般的な神へのイメージは持っている。シュナイツァと出会ってから、徐々にそれが変質してしまっている気がしてならない。
それがどうという事も無いのだが、何か元には戻れないようで少し怖かった。
「まあそれはともかく、あなたも観念して出かける準備をなさった方がよろしいのでは?」
「これから何かに巻き込まれるって分かってるのに、一緒に行けるわけねーだろ」
「彼女は今回の件で死ぬ運命にはないと――」
「死ななきゃいいってもんでもないだろうが」
死ぬ事以外にも怖い事は山ほどある。下手に大怪我を負って後遺症でも残るような事になれば、悔やんでも悔やみきれない。
「ともかく、今日はどこか人気の無い場所で――」
「お待たせー――って、何よ空海。まだ全然用意出来てないじゃない」
やけに気合の入った出で立ちの天音が未だに出かける用意の出来ていない空海に対してふくれっつらを作る。不覚にもそれを可愛いと思った空海は、はっと思い直して首を振る。
「いや、だからさっきも言ったが――」
「いいからさっさと歯を磨いてきなさい! 着替えは出しておくからすぐに用意するのよ。はい制限時間は後十分ね。間に合わなかったら夕食後のババロアは無かったことになるから」
「オーケー。五分で終わらせる」
その返答は脊髄反射に近い。天音のデザートと空海という人間は、すでに切っても切れない縁があるのだ。刷り込みの効果も合わさっているのでおそらく脱却する事は不可能だろう。
返事を口にしてからはめられた事に気がついた空海だが、すでに目の前には勝ち誇ったような笑みを浮かべる天音の姿がある。
「じゃ、後五分ね」
女王の宣告を受け、空海は全力で出かける用意を開始した。
◆
天音の用事は、電車で七駅行った所にあるアパートに住む祖母の友人に差し入れを持っていくことだった。
当然普段は天音の祖母が自分で行っているわけだが、生憎と温泉旅行中なので、代わりに天音が届ける約束になっていたらしい。
差し入れの内容は漬物だそうで、大きなタッパーに入ったそれを布で包み、片手が不自由な事を理由に遠慮する天音を押し切って空海が運んでいる。
件の友人が住むというアパートは駅から歩いて十分程度という、立地的には申し分のない物件のようだが、
「……え? これって人間が住んでる所なのか? 取り壊し途中で放置された残骸じゃねーの?」
天音の祖母が書いたという地図頼りに目的地までやってきて、開口一番に空海はそう言っていた。
「そ、そんな事言ったら、失礼だよ空海」
たしなめる天音の表情もまた、軽く引きつっている。
「一応人間の反応はありますね。二階奥の方、左右の部屋に一人ずつ。一階部分には四部屋の内手前三部屋から人の熱源反応がありますよ」
サーモグラフィーのような感想をシュナイツァが口にしたところで、空海は今一度目の前のオンボロを通り越して倒壊寸前に見えるアパートを観察してみた。
大きさは、ちょうど普通のアパートを二つ並べたようなぐらいだった。二階へ続く階段が二階部分の中央で通路に繋がっている点と先ほどのシュナイツァの発言から、一階部分は広い一室で、二階は中央に廊下を置き、その左右にこじんまりとした部屋が配置されているといったところだろうか。
ボロさもさる事ながら、構造もあまり見ないタイプの建物である。
あまりの様相に空海も天音もしばし呆然となるが、やや離れた場所から聞こえてきたサイレンの音ではっと我に返る。
「と、とにかく、目的の部屋は二階の二〇八号室だから行ってみようよ」
「あの階段、上ってる途中に崩れないだろうな……」
少なくない不安を抱きながらも、空海と天音はわずかに体重をかけるだけで煩く軋む階段を上っていく。シュナイツァもその後ろに続いているが、当然というか、彼の移動による騒音は生まれない。
――こいつ、浮いてんのか?
ちらりと背後を盗み見て、空海はその不思議現象にそう仮説を立ててみた。
「当たらずも遠からず、とだけ」
くいっと眼鏡の位置を直し、キラリと今度は二回光らせてシュナイツァが答えた。どうせ教える気はないのだろう。
おっかなびっくり階段を上りきって、今度は廊下に相対する。その惨状もまた、半分以上は予想出来ていたものだった。
ハエの飛び回る裸電球一つが光源の昼でも薄暗い廊下は、所々に穴が開いたまま放置されていた。一部ベニヤ板で補強されてはいるが、家主の管理が全く行き届いていないのは明白である。最奥は共同のトイレにでもなっているようで、扉が一枚あるだけの袋小路になっていた。
現在住んでいる人には悪いが、たとえ家賃が一万を切っているのだとしても、空海はここに住みたいとは思わない。
「なんか、凄いね」
「ああ、凄いな」
一軒家に暮らす身の上としては、マイナス方向に突き抜けているとしか思えない状況だ。本当に、どうしてまだ建物としての体裁が保たれているのか不思議でならない。
「それで、目指す部屋は番号から見てあの一番右奥だよな?」
距離にして十数メートル程だが、果てしなく遠く感じられる。それだけこの危なそうな廊下に足を踏み入れたくないという事なのだが。
「うん。そこに住んでる……城主一国さんでいいのかな? にお届け物」
「……悲し過ぎる名前だな」
失礼な話だが、完全に名前負けしている。空海自身も自分の名前が歴史上の有名人かつ高名な筆使いだったという事で、意味もなく習字の天才と言われて面倒だった経験があるが、そう言いたくなる周りの気持ちが少し分かってしまった気がした。
「まあ、人が住んでるんだから、早々何も起こりはしないだろう」
「そ、そうだね」
ゴクリと生唾を飲み込んで、空海は一歩足を踏み出した。階段とは比べ物にならないほど、木製の床が激しく軋む音が響き渡った。そのまま、薄氷を渡る心地で一歩一歩を慎重に進め、その度に苦情が来そうな騒音が撒き散らされている。
「すげえうるせえな」
音はおそらく一階の住人にも届いている事だろう。もしも夜中にこんな音を立てられたら、安眠妨害も甚だしいはずだ。
「もう少しだね」
普通に移動すれば一分もかからないだろう距離を、二人はたっぷり三分はかけて踏破した。
「よし、着いた」
「うん。えーっと、呼び鈴は無いみたいだね。それじゃあ――」
コホンと軽き咳払いをして、天音が二〇八号室の扉をノックする。少し待つが、返事が無い。
「あれ?」
天音が首を傾げ、再びノックするが、やはり何の応答も無い。
「留守、かな?」
「どうだろうな」
天音の言葉に返事を返しつつ、空海は一人首をひねる。
――変だな。さっきシュナイツァが二人いるって言ってたはずだが。
ちらりと傍にいるシュナイツァを盗み見ると、彼はなにやら熱心に手に持った書類に目を通していた。空海の心の言葉を拾った様子はない。
――おいシュナイツァ。
「ふむ? 何ですか?」
強めに心で呼びかけると、シュナイツァが書類から顔を上げて空海の方を見てきた。
――この部屋に住人がいるんじゃなかったのか?
「え? ああ、奥の方に二人とは言いましたが、こちら側はお隣の部屋の事ですよ」
――なんだよ……
つまり、現在は留守という事になる。ここで待つのも一つの方法だが、いつ帰ってくるのか分からない以上あまり上策とはいえない。
「まあ、もう少し経ってから出直すか。崩れたら嫌だし」
「そうだね。近くの商店街でものぞいて。早めのお昼を食べてからもう一度来ようか」
「だな」
方針を決め、二人が再び騒音を撒き散らす廊下をそろりそろりと戻り始めた、まさにその時だった。
「キャアアアアアッ!!」
女の人の悲鳴が聞こえ、続いてなにやら数人の怒声が聞こえてきたかと思うと、すぐにギィギィと耳障りな音と足音が近付いてくるのが分かった。