SHIRASE
第1話 旗と敬礼
タラップを上りきり、舷側に立った瞬間、体が勝手に動く。
艦尾に向かって、右手が胸元へ。
寸前で止める。そこにはもう、あの旗はない。
艦尾の旗竿に目をやる。風はほとんどない。旗がだらりと垂れている。かつてこの位置に自衛艦旗が翻っていた頃のことを、体の方が先に思い出したのだ。十五年経っても、反射は消えない。
旗竿に下がっているのは、クライメイトリサーチ社の社旗だった。縦縞に地球儀のエンブレム。洒落ているが、私には馴染みのない布だ。思えば当然のことだ。この船が船橋に来てから、もう十五年が経つ。
後部甲板をゆっくりと歩く。デッキの鋼板は塗り直されているが、継ぎ目の感触だけは昔のままだ。靴の底がその記憶を呼び覚ます。
手すりに触れた。冷たい。しかし手に馴染む太さは変わっていない。南極に向かうとき、この手すりは氷で覆われ、手袋なしに触れば、皮膚が張り付いた。甲板員たちはハンマーで氷を叩き落とし、船の重心が狂わないようにした。その音が、朝も昼も夜もなく、響き続けた。
南氷洋の風が、記憶の底から吹いてくる。
吠える四十度。
偏西風が唸り、波高十メートルを超えるうねりの中で、この船は一度も音を上げなかった。甲板員たちは命綱を腰に巻き、ヘリコプター格納庫の影に身を縮めながら、それでも持ち場を離れなかった。昭和基地へと続く白銀の氷原が初めて視界に入ったとき、誰ともなく声を上げた。あの歓声は今でも耳の奥に残っている。
出港のときの晴海の岸壁も覚えている。見送りの家族の顔、手を振る手。汽笛が鳴ると、誰もが一瞬だけ笑顔になった。それから何故か涙が止まらなくなる。
格納庫の前で足が止まった。
重いシャッターは固く閉ざされている。ヘリが飛び立つことも、もうない。
扉の横のハッチが開いていた。中から、かすかに蛍光灯の明かりが漏れている。
覗き込むと、配電盤の前にひとりの作業員が座っていた。年は四十がらみ。手元には回路図が広げられ、テスターで端子の一本一本を丁寧に当たっている。
「失礼します」
声をかけると、男は顔を上げた。
「ああ、見学の方ですか。どうぞ」
「良くメンテナンスされていますね。今でも航海ができるんじゃないですか」
思わず口をついた言葉だった。冗談のつもりではなかった。
男は苦笑いをして、
「いや、もう艦齢四十年を超えていますから。電気系は生きていますが、外から電源を引いているんです。推進系は……正直、難しいと思いますよ」
「そうですか。お邪魔しました」
ハッチを後にして、甲板へ戻る。
海風も無く、船橋の埠頭には排気と潮の混じった重い空気が漂っている。沖に目をやると、コンテナ船が一隻、ゆっくりと東京湾へ航行していく。
甲板に立って、改めて船を見回した。全長百三十四メートル。基準排水量一万一千六百トン。バウの形状は、氷に乗り上げて自重で砕く独特の設計だ。このバウで、南極の定着氷を何度も割った。その表面に、塗り直された塗料の下に、無数の傷があるはずだ。
推進系は難しい。
男の言葉を胸の中で繰り返した。
そうだよな、と思う。私も、退官して十五年になる。
艦尾の社旗は、垂れたままだった。
敬礼はしなかった。ただ、しばらくそれを見ていた。
第2話 八時十七分
── M9.1 ──
北海道の東、太平洋の底。
千島海溝に沿って、太平洋プレートは北米プレートの下に一年に八センチずつ沈み込んでいる。その境界面には、何百年分の歪みが蓄積されていた。
岩盤が耐えられる限界は、数式で予測できる。しかし「いつ」限界を超えるかは、誰にも分からない。
午前八時十七分。
根室半島の南東沖、深さ三十キロ。歪みが限界を超えた。
陸のプレートが裂けた。
断層の破壊は、秒速三キロで北東に向かって走り、根室半島沖を起点に、千島列島に沿って、破壊域は一千キロに及んだ。海底が最大で八メートル隆起し、その上にある海水が、押し上げられた。
最初に揺れたのは根室だった。
朝の街を、轟音が覆った。木造の家屋が軋み、瓦が落ち、道路にひびが走った。港のコンクリート岸壁に亀裂が入り、係留されていた漁船が岸壁に叩きつけられる。揺れは二分以上継続している。
羅臼では、国道沿いの電柱が次々と傾いた。信号が消え、通学路を歩いていた子供たちが路上にしゃがみ込んだ。地面だけが、動き続けていた。
震源から二百キロ離れた釧路でも、震度六強を記録した。空港の滑走路にうねりが走り、管制塔の窓ガラスが砕け散った。釧路港では岸壁が一部崩落し、停泊していた貨物船が傾いた。
さらに西。札幌。震源から四百キロ以上離れたこの街でも、震度五強の揺れが襲った。地下鉄は全線停止し、すすきのの繁華街では看板が落下した。通勤途中の人々が、街路に飛び出し、不安そうに空を見上げた。
そして海が動く。
海底が隆起した瞬間に押し上げられた海水は、秒速二百メートルで四方に広がっていた。外洋では高さわずか数十センチの、目に見えない波。しかしその波が浅い沿岸に近づくにつれ、高さを増していく。根室の港に最初に到達したとき、波は八メートルを超えていた。
港湾施設が飲まれた。漁船が陸に打ち上げられた。岸壁が崩れ、コンクリートの破片が海に沈んだ。
羅臼の南の浜では、津波が集落の低い部分を洗った。家屋が流された。港の入り口が瓦礫で塞がれた。そして、その上を流氷が覆った。地震による海流の変化が、通常より密度の高い流氷群を岸に押しつけていた。集落は、海からも閉ざされた。
地震波は、地殻を伝わって日本列島を南下していった。
P波が先に走り、遅れてS波が追いかける。根室から東京まで約一千キロ。P波は約二分半で届く。S波は四分あまり。しかし地上の人間が感じるのはS波だ。東京でP波を感じた人間はいない。高層ビルの固有周期と一致する長周期の表面波だけが、はるか南の首都圏まで届いていた。
船橋駅前の交差点を渡りかけたとき、道路脇の大型スクリーンが黛の目に入った。
普段は広告を流しているはずの画面が、ニュース映像に切り替わっていた。立ち止まったのは、黛だけではなかった。横断歩道を渡っていた人々が、次々と足を止めて画面を見上げた。自転車を押していた男性が、ハンドルを握ったまま動かなくなった。
赤いテロップが、画面の下を流れていた。
〈緊急地震速報 北海道根室地方に強い揺れ〉
画面が切り替わった。アナウンサーが硬い表情で何かを読み上げている。音は届かない。しかし画面の隅に数字が出た。
〈暫定マグニチュード 8.9〉
黛は立ち止まったまま、その数字を見ていた。
8.9。阪神が7.3だった。東日本が9.0だった。
ふと視線を上げたとき、黛は気づいた。
駅前の高層ビルが、動いていた。
揺れている、というより、ゆっくりと弧を描くように傾いていた。地上に立つ黛の足裏には何も伝わってこない。しかしビルの頂部は確かに、静かに、大きく揺れていた。
隣に立っていた若い女性が、声を上げた。
「ビルが……揺れてる」
黛には分かった。千キロ以上離れた場所で起きた地震のエネルギーが、地殻を伝わってここまで届いている。地上では感じられない長周期の振動が、高い建物だけを揺らしている。東京でこれほど高層ビルが揺れるということは、震源では——。
スクリーンの表示が変わった。
〈根室市 震度7〉
交差点の全員が、画面を見上げたまま動かなかった。
信号が変わった。青になったが、誰も渡らなかった。車も動かなかった。スクリーンの前に、百人近くが立っていた。
テロップが変わった。
〈大津波警報 北海道太平洋沿岸〉
〈津波警報 東北地方太平洋沿岸・関東地方太平洋沿岸〉
黛は埠頭の方角を見た。あの船は、と思った。SHIRASEは、大丈夫か。
港へ向かって歩き始めた。
第3話 集落 ── 津波 ──
地震が来たとき、佐藤は峯浜のコミュニティセンターにいた。
朝からストーブを焚き、区の帳簿をつけていた。七十三歳。この集落で生まれ、この集落で育ち、この海で魚を獲ってきた。船を降りてからは、峯浜の区長をしている。
揺れはいつまで経っても止まらない。センターの壁が軋み、棚から書類が落ちた。ストーブが倒れかけ、佐藤は咄嗟に手で押さえた。熱かった。それでも抑え続ける。
揺れが収まると、外に出た。
雪が積もった道路に、隣の家の老夫婦が出てきていた。パジャマの上にダウンジャケットを羽織っている。妻が夫の腕を掴んでいた。
「区長さん、大丈夫かい」
「大丈夫だ。港を見てくる」
港に向かうと、岸壁にひびが入っていた。係留していた小型漁船が一隻、傾いている。もう一隻は係留索が切れて、岸壁から離れて漂っていた。
海面が、おかしかった。水位が下がっている。
佐藤は走った。七十三歳の足で、走った。
「津波が来る。高台に上がれ。全員だ」
集落の防災無線が鳴ったのは、佐藤が叫び始めてから三分後だった。
〈大津波警報が発令されました。直ちに高台に避難してください〉
集落の全員のうち、自力で動ける者は、裏山の高台に向かった。要介護者は、近隣の住民が背負い、車椅子を押し、引っ張って運んだ。佐藤は最後の一人が高台に上がるのを確認してから、自分も登った。
津波は、地震から二十分あまりで来た。
港を飲み、岸壁を越え、集落の低い部分を洗った。家屋が何棟か流された。コミュニティセンターも、水に浸かった。
高台から見下ろすと、海は灰色に変わっていた。流氷が押し寄せてきていた。地震で海流が変わったのか、いつもの年より密度が高い。白い板が互いを押しつけ合い、港の入り口を塞いでいた。
第4話 詰み
── 対策室、午前 ──
統合幕僚監部運用部長の川崎海将補が、防衛省の災害対策本部に着いたのは、地震発生から十二分後だった。防衛大臣を本部長とする対策本部は、すでに立ち上がっていた。川崎は実務レベルのオペレーション指揮を執る立場にある。
大型スクリーンに北海道の地図が映し出されていた。根室半島の南東沖に震源マーク。震源の深さ三十キロ、暫定でマグニチュード八・九。
室内は静かだった。怒鳴り声も混乱もない。全員が画面を見ながら、手を動かしていた。静けさが、逆に事態の深刻さを示していた。
「津波の第一波、根室市内に到達」オペレーターが読み上げた。「高さ、推定八メートル以上。港湾施設、壊滅的損傷」
「根室港、使用不能確定。釧路港、岸壁一部崩落。標津港——応答なし」
川崎は地図を見た。標津から羅臼にかけての沿岸。流氷が接岸するこの時期、沿岸の集落への道は限られている。
「まず偵察だ」川崎は言った。「空自が上がれるか確認しろ」
「帯広の陸自ヘリが偵察のため離陸しました。ただし——」
オペレーターが気象データの画面を示した。
「発達中の低気圧が急速に北海道東部に接近しています。根室から羅臼にかけて、現在視程ゼロ。風速二十五メートル以上」
「帯広のヘリは」
「離陸後、荒天のため前進できず。帯広に引き返しました。上空からの状況確認が不可能です」
「空自は」
「千歳のF-15が情報収集に上がりました。雲と雪で、地上が見えません」
「海保のヘリは」
「釧路航空基地が使用不能です。地震で釧路空港の滑走路が損傷し閉鎖されました。千歳の海保航空基地から出動を試みていますが、同じく気象条件で離陸できていません」
「いつ回復する」
「気象班の見立てでは、明後日の夜明け以降。ただし後続の低気圧が控えています」
川崎は目を閉じた。
空路、消えた。
「陸自の状況は」川崎は指示を出しながら聞いた。
「別海駐屯地の第五偵察隊が西春別から出動。国道二七二号を東進し、標津方面に向かっています。第二十七普通科連隊第三中隊が、救助の先遣として続きます」
「どこまで行けそうか」
「西春別から十五キロ地点で停止しました。地震で路面に段差と亀裂。地吹雪の吹きだまりで、車両では越えられない状態です」
「標津分屯地は」
「第三〇二沿岸監視隊から報告が入っています。分屯地施設は地震で一部損壊、人員は無事。ただし沿岸監視任務の隊です。国道三三五号を北へ偵察に出ましたが、峯浜の手前で、海沿いの区間が津波の瓦礫と打ち上げられた流氷で塞がれています」
「釧路からの増援は」
「第二十七普通科連隊本部の主力が国道二七二号経由で東進開始。ただし標茶付近で複数箇所の路面崩壊と橋梁被害を確認。中標津到達まで最短でも十五時間以上」
画面に新しい情報が出た。
「国道三三五号、標津側と羅臼市街側の両方で寸断を確認。知床横断道路は冬期通行止め。羅臼町南部への陸路は、すべて途絶しました」
川崎はペンを置いた。
陸路、消えた。
地震発生から一時間が経っていた。
スクリーンの地図に、新しいマークが付いた。羅臼町南部の、三つの集落。点滅する赤いアイコン。
「孤立集落、確定しました」オペレーターの声は演習のように平静だった。「目梨郡羅臼町、峯浜町、幌萌町、春日町。合計住民数、四百七十四名。うち高齢者が約四割、要介護者が三十二名」
四百七十四名。川崎はスクリーンを見つめた。
「海路は」川崎は言った。
オペレーターが海保との連絡状況を確認した。
「砕氷巡視船そうやが、流氷観測で網走に入っていました。海保は地震直後に災害対策本部を設置。そうやは地震の直後に網走港を出ています。知床半島を回り込んで羅臼沖へ向かっています」
川崎は地図を見た。網走から峯浜。知床半島を回って百五十キロあまり。流氷の状況次第だが、最短八時間で羅臼沖に到達できる。そうやは二〇二五年に就役したばかりの新鋭砕氷巡視船だ。砕氷能力は折り紙付きだった。
「羅臼のてしおは」
「PM-15てしお、羅臼港にいます。ただし五百トン型の小型巡視船です。今の氷密接度では、流氷帯に突入させるのは危険です」
「そうや一隻か」
「はい」
川崎は頷いた。そうやに賭けるしかない。
それから数時間、川崎は対策本部で指揮を続けながら、スクリーンの端に表示されたそうやの位置情報を見続けた。青いアイコンが、網走から東へ少しずつ動いていた。知床半島を回り込み、根室海峡に入った。
そうやの速力が落ち始めた。流氷域に接近していた。アイコンの移動間隔が、目に見えて狭くなっていく。砕氷しながら進んでいるのだ。川崎は時計を見た。三つの集落の四百七十四名が高台で待っている。灯油は有限だ。気温は下がり続けている。時間との戦いだった。
そうやが羅臼沖の流氷帯に入ったのは、地震発生から約八時間後だった。
◇
そうやの艦橋で見張り員が海の異変に気づいた。
「総員、衝撃に備えろ!」
艦橋が震えた。
正面の流氷が、壁のように立ち上がる。次の瞬間、白い塊が艦首に激突した。
鋼鉄が悲鳴を上げる。船体が横倒しになるかと思うほど傾いた。
「機関室より報告! 第二区画浸水!」
「負傷者発生!」
◇
午後四時過ぎ、オペレーターの声が変わった。
「そうやから緊急通報。流氷帯進入中に津波の後続波を受けました。流氷が船体に複合衝撃。船体損傷。自力航行——困難」
川崎は立ち上がった。
「状況は」
「流氷帯の中で津波の後続波が来ました。波に押された流氷が船体に激突しています。乗組員三十八名の安否確認中。現在、氷に挟まれて漂流状態です」
スクリーンのそうやのアイコンが、点滅から静止に変わった。集落まで、まだ九海里。
対策本部の空気が、変わった。
救助に向かった船が、逆に救助対象になった。
「そうやの乗組員は」
「全員生存。負傷者六名。重傷はいない。ただし自力脱出は不可能です」
「てしおを向かわせるか」
「……同じ状況になる可能性が高いと、海保は判断しています」
「海自は」
「大湊から艦艇が出ています。砕氷能力がありません。根室海峡には入れません」
「”しらせ”は」
「南極海で行動中です。反転しても、日本まで何週間もかかります」
「民間の砕氷船は」
「国内に砕氷能力を持つ民間船は現存しません」
川崎は黙った。室内が、別の質の静けさに沈んだ。
陸路、消えた。
航空、消えた。
そうや、止まった。
代替の砕氷船、ない。
四百七十四名と三十八名。合わせて五百十二名が、流氷の向こうにいる。低気圧が抜ければ、寒気が入る。孤立した集落に暖房の燃料がどれだけ残っているか。食料は。要介護者の状態は。
川崎はゆっくり地図に近づいた。指先で、羅臼の沿岸を辿った。そして視線を南に動かした。太平洋岸を南へ。本州。東京湾。
船橋。
SHIRASE。初代しらせ。博物館船として係留されている海上工作物。推進系は、退役の日から一度も回っていない。しかし船体とバウの構造は、南極の氷を何度も割ってきたそのままだ。
川崎は廊下に出た。法務担当の内線を鳴らした。
「統幕運用部長の川崎だ。一つ確認したい。民間所有の海上工作物を、臨時に海自の艦艇として編入する法的根拠はあるか」
長い沈黙があった。
「……ありません。前例もありません」
「退官して十五年になる元自衛官に、臨時に指揮権を与える根拠は」
「予備自衛官の招集規定はあります。ですが、その方は年齢で対象外です。採用の上限を、とうに超えている。さらに、民間所有の船舶を海自が使用する場合、船舶職員法上の船長資格の問題があります。退官した艦長には民間の海技免状はありません」
「つまり」
「法的には、誰もあの船を動かせません。船を海自の管轄にしなければ元自衛官は乗れない。しかし海自の管轄にする法的根拠がない。鶏と卵です」
川崎は電話を握ったまま、廊下の壁にもたれた。
五百十二人の命が、法律の空白の向こう側にある。
川崎は携帯電話の画面を見た。黛の番号が表示されている。まだかけていない。法的根拠もない船を、法的身分もない元自衛官に託そうとしている。失敗すれば、自分のキャリアは終わる。しかしそれは問題ではなかった。問題は、五百十二人が助かるかどうかだけだ。
川崎は深呼吸を一つして、対策本部に戻った。防衛大臣の前に立った。
「大臣。閣議決定が必要な案件があります」
大臣が顔を上げた。
「民間所有の元砕氷艦SHIRASEを、臨時に海自の支援船として一時編入する特例措置をお願いします。退官した元自衛官を特例で予備自衛官に採用して招集し、横須賀から現役隊員を、朝霞から陸自の施設科と医療班を派遣します。根拠法は——ありません。閣議決定で特例措置を出していただく必要があります」
会議室が静まり返る。
誰も反論しなかった。
船橋に繋がれて十五年。
初代しらせを、再び海へ出す。
その決断だけが残された。
大臣は川崎をしばらく見た。
「成功する見込みは」
「分かりません。しかしこの船以外に、五百十二名を救う方法がありません」
二時間後、閣議決定が出た。
前例のない決定だった。法律の空白を、政治判断で埋めた。
川崎は廊下に出て、三本の電話を順番にかけた。
一本目。「横須賀地方総監部ですか。統幕運用部長の川崎です。緊急の人員派遣を要請します——」
二本目。「陸自東部方面総監部ですか。川崎です。施設科一個分隊と医療班の派遣を要請します。船橋港に集結——」
SHIRASEのタンクは空だ。川崎は運用部員に必要燃料の算出を指示し、経産省を通じて千葉の製油所にバージの手配を要請した。
三本目の相手は、かつての上官だった。十八年前、川崎が若い幹部自衛官だった頃の艦長。今は退官して民間人になっている。
画面には「黛」とある。
第5話 招集
── 七十二時間の命令 ──
画面には「防衛省・川崎」とある。かつての部下だ。今は統合幕僚監部の運用部長、海将補。十八年の間に、部下は上官になっていた。
「黛です」
「川崎です。今どこにいますか」
「船橋だ。朝の地震か」
「根室沖です。道東は壊滅状態です」
黛は立ち止まった。
「羅臼の南の三つの集落が、完全に孤立しました。住民四百七十四名。陸路は寸断、航空は吹雪で飛べない。釧路空港も地震で閉鎖されています」
「海路は」
「そうやが網走から知床半島を回り羅臼沖に向かいましたが、流氷帯で津波の後続波を受けて航行不能です。乗組員三十八名の救助も必要な状況です。羅臼のてしおでは今の氷密接度に対応できない。しらせは南極航海中」
川崎の声は抑制されていたが、その奥に、指揮官の疲労がにじんでいた。
「川崎」
「はい」
「私に何をしろというんだ」
もう分かっていた。分かっていて、聞いた。
「SHIRASEです」
黛はゆっくり息を吐いた。
「推進系は死んでいる。昨日、見てきたばかりだ」
「鶴見造船所——今のジャパンマリンの元現場監督に連絡が取れています。SHIRASEの建造に携わり、係留前の最後の整備も担当した人です。それと——閣議決定が出ました。黛さんは特例で予備自衛官に採用し、招集をかけます」
黛は黙った。閣議決定。川崎がそこまで動いたのか。
「見込みは、何パーセントだ」
「……六割、とは言えないかもしれません」
六割。航海では使わない言葉だ。出るか出ないかだ。出ると決めてから、どう出るかを考える。それが海というものだ。
しかし今は引退して十五年の民間人だ。あの船に乗っていた頃の判断力が、今の自分にあるのか。体力は確実に落ちている。反応も遅くなっている。氷域での操艦は、一瞬の判断が船の命運を分ける。最後に氷の中で舵を取ってから、十八年が経つ。
だが、他に誰がいる。
「なぜ私なんだ。現役の人間を使え」
「SHIRASEの砕氷シーケンスの癖を知っている人間が必要です。二代目との違い、バウの入射角、ラミングの感覚。マニュアルには載っていないことが、あの船にはたくさんある。それを知っているのは、艦長として最後まで乗っていたあなただけです」
「五百十二人が、七十二時間以内の問題です。黛さん」
沈黙があった。黛の側の沈黙だった。
埠頭の方から、サイレンの音が聞こえてきた。いくつもの、重なり合ったサイレン。
「乗組員は集められるのか。定数は百七十名だ。長期の航海ではないから減らせるはずだが、どこまで絞れるかが問題だ」
「元機関長の鵜飼さんには、すでに連絡が取れています。『黛が行くなら俺も行く』と」
「氷域での操艦をサポートできる海氷の専門家が要る」
「JAMSTECの研究員に心当たりがあります。みらいによる北極海調査の経験者です。それと、SHIRASEのオーナー企業——クライメイトリサーチ社から、海洋気象予報の専門家を一名乗せたいと申し出がありました。JAMSTECと共同開発中の海氷観測用合成開口レーダーシステムの運用担当です」
「使えるなら乗せろ」
「川崎。一つだけ、はっきりさせておく。私は命令で動く立場にない。あの船が動けると、私自身が判断した場合に限る。出航の是非は私が決める。お前が海将補になっていても、この一点は譲らない。それでいいか」
短い間があった。川崎の呼吸が聞こえた。かつて若い幹部自衛官だった男が、今は五百十二人の命を背負って、退官した元上官に頭を下げている。階級は逆転した。しかしこの船を知っているかどうかは、階級とは関係ない。
「はい。それで結構です」
黛は電話を切った。
◇
その夜、船橋港のSHIRASEの舷梯で、黛と鵜飼と川崎が顔を合わせた。
川崎は、省から制服のまま来ていた。
鵜飼は七十一歳の体を寒風の中にさらして、両手をコートのポケットに突っ込んでいる。
川崎がA4の紙を広げた。乗組員の編成案だった。
「通常の三直を二直に変更します」川崎が言った。「航海科十名、機関科十名。主計科は糧食を戦闘食とし二名に削減。運用班五名。乗船経験者を集め、足りない分を横須賀から出します。これに加えて、朝霞から陸自の施設科一個分隊十名と医療班五名」
「陸自が船に乗るのか」鵜飼が眉を上げた。
「集落に着いてから、四百七十四名プラスそうやの三十八名を収容する人手が要る。救援の現場では彼らが主役です。運用班の補助にもなります」
黛は頷いた。「合計は」
「海自二十七名、陸自十五名、民間二名。計四十四名。通常の四分の一ほどです」
「少ないな」黛は言った。
「一人が二人分やるしかありません」
鵜飼が名簿を覗き込んだ。「機関科の現役は、この船の推進システムを知っているか。ディーゼルエレクトリックで発電機六台、電動機六台、三軸。今の護衛艦とは全く違う」
「知りません」川崎は正直に言った。「今の護衛艦はすべてデジタル統合システムです。アナログ計器、テレグラフ、手動配電盤——初代しらせの装備は、彼らが訓練で一度も触れたことのないものです」
「走りながら叩き込むしかないな」鵜飼が言った。
「やれるか」黛は聞いた。
「やるしかない。ただし、乗船経験者を何人集められるかにかかっている」
「乗船経験者は」川崎が言った。「現在十一名に連絡がつきました。予備自衛官として臨時招集をかけます。航海科と機関科に振り分けて、アナログ機器の操作と氷域での対応を教える側に回ってもらいます」
鵜飼が名簿の名前を一つ一つ見ていた。
「何人か知っている名前がある。こいつは使える。こいつも。こいつは——まだ生きてるのか」
「鵜飼さん」川崎が言った。
「冗談だ」鵜飼はニヤリとした。「みんな俺より若い。俺が一番年寄りだ」
「お前が一番元気だろう」黛が言った。
「元気じゃない。しぶといだけだ」
黛は岸壁の向こうを見た。SHIRASEのオレンジ色の船体が、岸壁の照明の中に浮かんでいた。ひときわ鮮やかに、動かずにいた。
コートの内ポケットに手を入れると、昨日買った入場券の半券が指に触れた。
今夜、もう一度、あのハッチをくぐる。
今度は敬礼する必要があるかもしれない。
第6話 鉄と図面
── ジャパンマリン、夜 ──
石黒が会社の倉庫に着いたのは、午後八時を過ぎていた。
守衛に事情を説明するのに十分かかった。現役を退いて五年、社員証はとっくに失効している。川崎海将補から連絡が来ていたおかげで、何とか通してもらえた。
倉庫は広い。棚が天井まで続いている。ほとんどは現役船の部品だが、奥の一角に古い区画がある。石黒は迷わずそこへ向かった。
棚のラベルを読んでいくと、目当てのものが見つかった。
「SHIRASE」
段ボール箱が三つ。ほこりが積もっている。石黒は一つを開けた。予備の絶縁材、コイル線材、整流器の予備部品、冷却水ポンプのシール材。十五年前に係留したとき、石黒自身がここに入れたものだった。
正確には、十五年前ではない。
船橋に係留される前、SHIRASEは鶴見造船所で最後の整備を受けた。石黒はそのとき、すでに係留が決まっていたこの船に、本来であれば不要な作業をいくつか施していた。燃料タンクの完全乾燥処理。主要配管の防錆フラッシング。冷却水系統のドレン抜きと密封処理。そして発電機の予備部品——予算で許される限りの絶縁材、コイル線材、整流器の予備品、シール材——を段ボール箱に詰めて、倉庫に運んだ。
上司には「念のため」と言った。念のためではなかった。石黒は、この船がいつか再び動く日が来ることを、根拠なく信じていた。同僚には笑われた。退役する船に、なぜそこまでやるのか。石黒は答えなかった。答える必要を感じなかった。自分が造ったものを、自分の基準で仕上げる。それだけのことだ。
「あった」
独り言だった。聞いている人間はいなかった。
倉庫を出たのは午後八時半だった。石黒は三人の元同僚に電話をかけた。夜にもかかわらず、全員がそろった。
三人とも、現役を退いて久しい。最年少の田代でさえ六十五歳だ。しかし石黒が電話をすると、全員が二つ返事で来た。理由は聞かなかった。聞く必要がなかった。
「あの船、動かすんですか」田代が助手席で聞いた。
「動かす」
「俺たちが造った船ですよ」
「そうだ」
「……行きましょう」
◇
船橋港に着いたのは、午後十時を回っていた。岸壁に川崎が待っていた。制服姿だった。
「石黒さんですか。ありがとうございます。閣議決定で特例措置が出ました。整備の許可も同時に下りています。必要な物は何でもおっしゃって下さい。できる限り準備します」
石黒は少し驚いた顔をした。「閣議決定まで出たのか」
「五百十二人の命がかかっています」川崎は言った。
石黒は黙って頷いた。「分かった。始める」
オレンジ色の船体は、街灯に浮かび上がっていた。舷側に、燃料のバージが横付けしていた。タラップを上ると、黛がデッキに立っていた。打ち合わせの後、そのまま船に残っていた。
「石黒さんか」
「はい。ジャパンマリンから四名、来ました」
「よく来てくれた」
「船は動いてなんぼだ」石黒は言った。「博物館になっても、俺の中ではずっと現役だった」
機関室に降りると、田代が発電機の列を見て息をついた。「懐かしいですね」
「感傷は後だ」石黒は言った。「六番から見る」
四人が手分けして点検を始めた。石黒が六番発電機の絶縁抵抗を測る。田代が冷却水系統を確認する。残りの二人が燃料ラインと排気系統を当たる。
設計図は開かなかった。四人とも、図面より先に体が動いた。どこに何があるか、手が知っていた。四十年以上前に自分たちが取り付けたものだ。忘れるはずがない。
「冷却水ポンプのシール材が硬化しています」田代が言った。「このまま回すと一時間以内に漏れる」
「代替品は」
「規格が古すぎて市販品では合わない」
石黒が段ボール箱の一つを指さした。「倉庫から持ってきた。三つ目の箱の底にある」
田代が箱を漁った。油紙に包まれたシール材が出てきた。
「あった。十五年前によく入れておいてくれましたね」
「たまたまだ」石黒は言った。
「燃料ライン、問題なし」残りの二人が下から声を上げた。「タンク、空だが錆びていない。よく乾燥させてあった」
「それは俺が係留前にやった」石黒は言った。「どうせいつか動かす日が来ると思っていたから」
「上に言ってくれ。燃料、入れていい」石黒が言った。
田代が石黒を見た。「本当に信じてたんですか。この船がまた動くって」
石黒は手を止めなかった。「信じてたわけじゃない。造った人間の義務だ。自分が造ったものは、最後まで面倒を見る。動くかどうかは、そのときの問題だ」
残りの二人が排気系統から上がってきた。「排気管、腐食なし。内壁のコーティングが生きてます。これも係留前の処理ですか」
「ああ」
「普通はやらないですよね。退役する船に」
「普通じゃないことをやったから、今夜ここにいる」石黒は言った。
「六番、やっぱり悪いですね」田代が六番発電機の数値を見て言った。「絶縁、かなり落ちてます」
「コイルの巻き直しが要る」
「出航までに間に合いますか?」
「やったことがある作業だ。材料は倉庫から持ってきた」
「用意してたんですか」
「してない。してたら怖い」石黒は真顔で言った。「たまたまあった」
田代が苦笑した。
零時半を回った頃、機関室に黛が降りてきた。
「自分の目で見ないと判断できない」黛は発電機の列を見渡した。
鵜飼も一緒だった。鵜飼は発電機を一台ずつ撫でるように手を当てて、順番に目を閉じた。
「一番から五番まで、生きてる」鵜飼が言った。「六番が問題だ」
「界磁コイルの絶縁が落ちている」石黒が答えた。「回しても励磁が安定しない」
黛は六番の原動機のそばにしゃがんだ。石黒が外した点検蓋の中を覗き込んだ。
「シリンダーヘッドに、歪みの跡がある」黛が言った。
石黒が手を止めた。「分かりますか」
「南氷洋の三航海目。嵐の中で過負荷がかかった。翌年、修復した。あのときの修復に立ち会ったのは——」
「俺です」石黒は言った。「シムの入れ方が少し特殊だ。普通に締めると偏る。あのときは俺が手でやった」
「覚えているか」
「忘れるわけがない。自分がやった仕事だ」
二人は少し黙った。四十年前の嵐の記憶が、機関室の蛍光灯の下で静かに重なった。
「動くか」黛は聞いた。
「動かす」石黒は言った。
「動く」鵜飼も言った。「冷えてるが、死んでない。鉄は記憶を持つ。長い間ちゃんとメンテされてきた機関は、止まっていても違う」
鵜飼は六台の発電機を順番に見ていった。一台ずつ手を当てて、何かを確かめるように目を閉じた。
「こいつら、待ってたな」鵜飼が言った。「十五年間、誰かが来るのを待ってた。手入れされてたから、待てたんだ」
石黒は何も言わなかった。ただ、作業を続けた。
黛は頷いた。機関室を出ていった。
その後、沢田が、タブレットを抱えて機関室への階段を降りてきた。最後の段で、足が一瞬止まった。何でもないという顔で残りを降りた。
踊り場の上から黛はそれを見ていた。初めての場所の戸惑いではない。忘れていたものを思い出した動きだった。
黛はもう一度、沢田の横顔を見た。
黛は艦橋へ戻った。
しばらくして、女性が声をかけた。「JAMSTECの沢田です。仕様書があれば、デジタル化できます。今後のために」
石黒は手を止めなかった。「細かい仕様書は頭の中にしかない」
「口述していただければ、私が入力します」
石黒は黙っていた。それから、独り言のように言った。
「ここは内径四十二ミリ、公差プラスマイナス〇・五」
タブレットのキーを叩く音が聞こえた。
「この配管は下から三番目のフランジで分岐している」
また、キーを叩く音。
石黒は手を止めなかった。作業をしながら、四十五年分の図面を、少しずつ吐き出し始めた。
午前一時前、田代が言った。「一番から五番まで、起動できます。六番は——まだ時間がかかる」
「どのくらいだ」黛が機関室に降りてきていた。
「コイルの巻き直しが残っている。開けてみなければ解らない」
黛は時計を見た。出航は午前三時。あと二時間。待てない。
「五台で出る」黛は言った。
石黒が顔を上げた。「六番なしでか」
「氷域に入るまでに間に合わせてくれ。それまでは五台で走る」
石黒は黛を見た。それから六番発電機を見た。
「……分かった。航海中にやる。揺れる中での巻き直しになるが、やれないことはない」
「頼む」
沢田のタブレットが、石黒の口から出る数字を一つも聞き漏らさずに記録していた。
第7話 乗組員
── 四十四名 ──
横須賀からの隊員が船橋港に到着したのは、夜の九時だった。バスが二台。朝霞からの陸自施設科と医療班は、その三十分後に別のバスで着いた。トラックが一台、後に続いた。荷台に、船外機付きのボートが積んであった。
黛が艦橋に全員を集めた。四十四名。
三種類の人間がいた。
OBが十一名。元海自隊員、特例で予備自衛官に採用され、招集された。平均年齢六十六歳。最年長は鵜飼の七十一歳。全員が、この船のアナログ機器を知っている世代だ。
海自の現役が十六名。横須賀から派遣された。航海科、機関科、主計科、運用班。平均年齢二十九歳。最年少は航海科の及川、二十三歳。全員がデジタル統合システムの護衛艦しか知らない。
陸自が十五名。朝霞から来た施設科一個分隊十名と医療班五名。船のことを何も知らない。しかし集落に着いてからは、彼らが主役になる。
そして民間人が二名。JAMSTECの沢田と、クライメイトリサーチ社から来た宮城という男だった。宮城は三十八歳、大きな防水ケースを二つ抱えて乗り込んできた。中身は海氷観測用合成開口レーダーの受信端末だった。
「宮城です。よろしくお願いします」声が大きかった。体育会系の人間特有の、よく通る声だった。
黛は全員を見た。
「この船は通常百七十名で動かしている。今回は四十四名だ。三直を二直に変更する。糧食は戦闘食で済ます。風呂はない。寝る時間も削る。それでも足りない分は、一人が二人分を動く。文句のある者は、今降りろ」
誰も動かなかった。
「一つだけ聞く」黛は海自の現役に向かって言った。
「機械式の羅針儀を扱ったことのある者は?」
全員が顔を見合わせた。及川が恐る恐る手を挙げた。「遠洋航海訓練で一度だけ……」
「伝声管を見たことがある者は?」
誰も手を挙げなかった。
「機関監視操作盤を扱った者は?」
沈黙。
黛は陸自の施設科隊員に目を向けた。全員が背筋を伸ばしている。
「船に乗ったことは」
「フェリーなら」施設科の分隊長が答えた。
「揺れたら吐くか」
「分かりません」
「吐いたら甲板で吐け。船内を汚すな。それだけだ」
「お前たちは何も知らない。だが時間がない。走りながら覚えろ。教える人間はここにいる。分からないことは全部聞け。プライドは要らない。この船では、知っているか知らないかだけが問題だ」
及川が口を開いた。
「あの……自分たちは、お荷物ですか」
黛は少し考えた。
「今はそうだ。だが氷域に入ったとき、お前たちの新しいノウハウと気象データと通信能力がなければ、俺たちは目が見えない老人と同じだ。お荷物かどうかは、氷の中で決まる」
施設科の分隊長が黛に聞いた。「集落に着いたら、何を最初にやればいいですか」
「医療班と灯油を先に降ろせ。次に毛布。三番目に水と食料」
「了解です」分隊長は振り返って部下に伝えた。短く、正確に。陸自の人間は、命令の伝達だけは速かった。
医療班の五名は、艦内の医務室を点検し、使える器材と使えない器材を仕分けた。棚の救急用品は、係留船として置いてある最小限のものだった。朝霞から持ってきた器材と薬を、その横に並べた。医療班長が尋ねた。「要介護者は何名ですか」
「三十二名」黛が答えた。「そのうち何名が低体温症か感染症にかかっているか、着いてみないと分からない」
医療班長が頷いた。「トリアージの準備をしておきます」
第8話 集落 ── 待つ ──
携帯電話は繋がらなかった。基地局が壊れたのだろう。防災無線だけが生きていた。
佐藤は町役場を呼んだ。
「羅臼の峯浜です。全員無事です。ただし港が壊れて、道路も——」
「国道が寸断されています」役場の声は硬かった。「ヘリを要請していますが、天候が悪く飛べない状況です」
「いつ来ますか」
「……分かりません。そうやが向かっています」
そうや。あの砕氷巡視船か。佐藤は少し息を吐いた。あの船なら、流氷を割って来てくれるかもしれない。
高台に簡易シェルターを作った。ブルーシートとロープと、無事だった家から運び出した毛布。灯油は限られていた。石油ストーブは二台だけ。高台の全員を暖めるには足りない。
要介護者を中心に、交代で暖を取った。車椅子の老人を、若い漁師が背負って移動させた。寝たきりの者は毛布で包み、ストーブの近くに寄せた。
子供たちが泣いた。母親が抱きしめた。老人たちは黙っていた。黙っている方が、泣いている者より心配だった。佐藤はそれを知っていた。声を出す力が残っているうちは、まだ大丈夫だ。
食料は、各家庭から持ち出したものを集約した。米、缶詰、乾パン。水は裏山の沢から引ける。問題は火だった。灯油が尽きれば、暖も取れない、湯も沸かせない。
佐藤は計算した。残りの灯油で、あと何時間持つか。答えは七十時間だった。三日足らず。それを超えたら、この高台は凍りつく。
夕方、防災無線から続報が入った。
「そうやが……被災したそうです。流氷帯の中で津波を受けて、動けなくなったと」
佐藤は無線機を握ったまま、しばらく動けなかった。
周囲の人々に伝えなければならない。しかし何と言えばいいのか。助けに来る船が、助けに来る途中で止まった。他に砕氷できる船はいない。ヘリは飛べない。道路は壊れている。
「佐藤さん」隣にいた若い母親が聞いた。「そうやは」
「来られないそうだ」佐藤は言った。それだけ言った。
若い母親は、子供を抱きしめたまま、何も言わなかった。
一日目の夜は、長かった。
風が強く、ブルーシートが何度もめくれた。要介護者の一人が体調を崩した。集落に医師はいない。
第9話 出航
── 技師と老兵と職人 ──
五台の発電機が立ち上がったのは、午前一時だった。
低い、重なり合う振動が、艦全体に満ちた。一台、また一台と回転数が上がり、五台が揃ったとき、床から伝わる振動の質が変わった。単なる騒音ではなく、力だった。黛は機関室の床に手をついてそれを感じた。隣で鵜飼が目を閉じていた。石黒は発電機の列を見渡し、計器を一つひとつ確認していった。六番だけが沈黙している。
「一番から五番、正常」沢田が、タブレットで数値を読み上げた。
誰も歓声を上げなかった。石黒は六番を一度だけ見た。それから黛に向き直った。「氷域までに仕上げる」
◇
黛が艦橋に戻ると、宮城が防水ケースを開け、中から海氷観測用合成開口レーダーの受信端末を取り出し、電源を入れ、衛星との接続テストを始めた。動作が速い。迷いがない。機材の扱いに慣れた人間の手つきだった。
端末の画面が光ったとき、隅に立っていた沢田と目が合った。
「……久しぶりですね」沢田が言った。
「おう。まさかここで会うとは」宮城は笑ったが、沢田は笑わなかった。
黛はその一瞬の空気を見逃さなかった。何かある、と思った。
衛星データの受信が始まった。
沢田が画面を覗き込みながら、「宮城さん、この解像度では使えません」
「使える。現場じゃ十分だ」宮城が言い返す。
「十分じゃない。氷の厚さの推定誤差が大きすぎます。検証データと照合してからでないと——」
「検証してる間に時間が過ぎる。現場で使いながら精度を上げるのがこのシステムの設計思想だ」
「設計思想と実用精度は別の問題です」
宮城が声を荒げた。「沢田さん、あんたはいつもそうだ。データが揃うまで動かない。だから共同開発プロジェクトが半年遅れてるんだろ」
沢田の目が、一瞬冷えた。
「精度が担保できないデータを現場に投入して、判断を誤った場合の責任は誰が取るんですか」
宮城が一瞬、言葉に詰まった。それから低い声で言った。
「責任なら俺が取る。このシステムは俺が現場に持ち込んだ。動かなければ俺のせいだ。だが動かさないまま人が死んだら、それは誰のせいだ」
沢田は答えなかった。
黛は口を挟まなかった。二人の間にある溝が何なのか、今は見ているだけでいい。どちらも間違っていない。検証なしに使えば誤判断のリスクがある。検証を待てば時間が失われる。この種の対立に正解はない。氷の中で、答えが出る。
出航一時間前、艦橋に黛と沢田の二人になる時間があった。鵜飼は機関室に降りていた。宮城はアンテナの配線を見に、上甲板へ出ていた。
機関室で、石黒が独り言のように吐き出す数字を、沢田は一つも聞き漏らさなかった。黛はそれを見ていた。
データの人間だ、と黛は思った。見るより先に測る。感じるより先に記録する。それ自体は悪いことではない。しかし氷の中では、データが追いつかない瞬間がある。
鵜飼が機関室から上がってきて、紙コップのコーヒーを三つ持っていた。一つを黛に、一つを沢田に渡した。
「SARの受信機ですが」沢田がタブレットから顔を上げた。「海図台の左、左舷側の窓寄りに置かせてください。ケーブルの取り回しが――」
沢田が言葉を止めた。
鵜飼が、紙コップに口をつけながら、横目で見た。
「『海図台』、ね」鵜飼が言った。「民間の研究者は、普通そう言わない」
沢田は短く息を吐いた。
「……川崎さんから、お聞きですか」
「いや」黛は言った。「川崎は何も言ってない」
沢田は窓の外を見た。岸壁の照明が、黒い水面に揺れていた。
「二〇〇〇年代の半ばに任官しました。女性を護衛艦に乗せるかどうか、検討していた頃です。その試行で、何人かが艦艇に回されました。私はしらせでした」
黛の手の中で、紙コップが止まった。
「一度だけ、南極への往路で。船酔いで居室から出られず、帰ってから陸上勤務に回されて、三年で退官しました」
「データの世界に入ったのは」
「感覚で動いて致命的に間違えた人間を、何人も見たからです。データは裏切ったとき、なぜ裏切ったかを検証できる。感覚はそれができない」
「ただ」沢田は窓の外を見たまま続けた。「この船は、体が覚えています。オレンジ色と、機関の音。氷を割るときの振動。あれだけは、データになりません」
黛は何も言わなかった。
「北極の氷と、オホーツクの流氷は性質が違う」黛は言った。
「知っています」沢田は答えた。「みらいで三シーズン、北極海の海氷を測り続けました。氷が生き物だということは、データを見る前に体で分かっていました」
「感覚とデータは、どちらが正しいと思うか」
「……どちらも正しいときと、どちらも間違うときがある。だから両方要る。ただ私はデータしか持っていないので、感覚を持っている人間が必要です」
「去年のデータは昨日の地震の前のデータだ。氷の中では、データより目の前の氷を信じろ」
「分かりました。でも、私のデータと宮城さんのSARがあれば、あなたの目が届かない部分を補えます」
黛はかすかに笑った。「そういう人間でいい。素直に従うだけの奴は、氷の中では役に立たない」
「あのタンカー」黛は窓の外を指さした。「何ノットで走っている」
沢田はタブレットを操作した。「AISデータでは……九・二ノット」
「俺の目には十に見える」鵜飼が後ろから言った。
「どうして分かるんですか」
「船首波の立ち方だ。九ノット台と十ノット台では、波が違う」
沢田はタブレットを下ろして、窓の外を見た。暗い海面に目を凝らした。
「……私には、まだ分かりません」
「分からなくていい」黛は言った。「今は覚えなくていい。見ることだけをしろ」
しばらくして、沢田が言った。
「この船が、本当に動くと思っていますか」
黛は窓の外を見た。船橋港の夜景が広がっていた。
「動く」黛は言った。
「根拠は」
「この船は、動くように造られている。四十年経っても、それは変わらない。造った人間が今夜、機関室にいる」
「機関は安定している。五台とも」鵜飼が言い、自分のコップに口をつけた。
「石黒は六番から離れない。出航までに少しでも進めるつもりだ」
「あの男が諦めないなら、六番は動く」黛は言った。
沢田はタブレットを伏せた。一度、大きく息を吸った。
「分かりました。私も乗ります」
「怖くないか」鵜飼が言った。
「怖いです」沢田はきっぱり言った。「でも、乗ります」
出航の一時間前から、岸壁に人が集まり始めた。
最初に岸壁に立ったのは川崎だった。次に石黒の元同僚が一人、作業着のまま、岸壁の端に立った。港の関係者が何人か来た。地震のニュースを聞いて来たのか、深夜にもかかわらず顔も知らない人間が、いつの間にか数十人、岸壁に立っていた。
誰も声をかけなかった。
黛は艦橋に立って、岸壁を見下ろしていた。この光景を、かつて何度も見た。晴海を出るとき、いつもこうだった。見送る側と、見送られる側。その間に水面が広がる。あの頃は、必ず帰ってくると思っていた。今回は——分からない。
係船索が外された。タグボートがオレンジ色の船体をゆっくりと岸壁から引き離した。舷側と岸壁の間に、黒い水面が少しずつ広がっていく。
艦橋から見下ろすと、川崎が帽子を取った。暗い岸壁に、小さな光が一つ灯った。その元同僚が、スマートフォンのライトを掲げていた。それを見た誰かが続いた。一つ、また一つ。岸壁に並んだ光が、静かに増えていった。
声はなかった。光の帯が、見送っていた。
及川が艦橋の隅で、岸壁を見ていた。拳を握りしめていた。
鵜飼がインターフォンに向かって言った。「機関室、出航準備完了。五台正常」
黛の声が返った。短く、「了解」とだけ。
オレンジ色の船体が、深夜の船橋港をゆっくりと離れていった。
東京湾の入り口に向かって、灯台の光が点滅していた。その先に、太平洋がある。津波の余波が残る海がある。三陸の沖がある。根室海峡がある。そして異常に密集した流氷帯が、五百十二人を閉じ込めたまま、待っている。
第10話 集落 ── 二日目 ──
二日目。天候は回復しなかった。雪が降り続いた。
防災無線で役場に確認したが、「ヘリはまだ飛べない」という答えが返ってきた。
「他に方法はないのか」佐藤は聞いた。
「……砕氷艦が船橋を出航しました。そちらに向かっています。」
砕氷艦。船橋。佐藤は頭の中で距離を計算した。船橋から羅臼まで、太平洋を回っても千三百キロ近くある。どんなに急いでも二日はかかる。
灯油が持つか、佐藤は計算した。
あと四十八時間。明後日の朝で尽きる。
昼前、要介護者の一人——八十七歳の女性が意識を失った。低体温症の初期症状だった。集落に医師はいない。佐藤は元看護師だった住民を呼んだ。毛布を重ね、湯たんぽ代わりのペットボトルに湯を入れて脇の下に挟んだ。一時間後、意識が戻った。しかし次はいつ来るか分からない。
夕方、子供が一人、佐藤のそばに来た。五歳くらいの男の子だった。
「おじいちゃん、船はいつ来るの」
佐藤は答えられなかった。来るとも、来ないとも言えなかった。
「分からない」佐藤は正直に言った。「でも、誰かが来てくれると思う」
根拠はなかった。七十三年の人生で身につけた、根拠のない信念だった。
第11話 海原
── 継承 ──
船橋港を出たSHIRASEは、東京湾を南下した。午前三時。夜の海だった。
黛は艦橋に立っていた。鵜飼が艦橋に上がってきた。「五台、全機正常。回転安定」
「何ノット出る」黛は聞いた。
鵜飼は少し間を置いた。「十五は出る。だが——」
「だが」
「この船、軽いぞ。南極に行くときは満載で一万九千トンだった。今は燃料も物資も最小限だ。一万三千か四千というところだ」
黛は黙って聞いていた。
「五台で二万五千馬力。満載なら十六がいいところだが、この排水量なら……公試のときに近い」
「十九、出るか」
「回してみないと分からない。四十年前の機関だ。だが船は軽い」
黛は暗算した。船橋から峯浜まで約七百海里。三陸沖までは十九ノット、そこから先は漂流物を警戒して減速、最後の流氷帯は、薄い氷を選んで平均六ノット。合わせて五十五時間あまり。明後日の昼前。地震からは七十四時間。
七十二時間には間に合わない。
鵜飼も同じ計算をしていた。「間に合わないな」
黛は前を向いたまま答えなかった。
「分かって乗ったんだろう」鵜飼が言った。
「遅れた分だけ、あの高台で誰かが死ぬ。一時間早く着けば、一人助かるかもしれない。その一時間を削るのが、俺たちの仕事だ」
鵜飼は何も言わずに機関室へ降りていった。
東京湾を抜け、太平洋に出た。北海道の大津波警報は、まだ解除されていなかった。黒い波が不穏だった。この海の下で、千キロにわたる岩盤が裂けた。その痕跡が、波に残っている。
艦橋の無線は、及川が受け持っていた。防衛省への定時連絡を、途切れずに送り続けている。「SHIRASE、太平洋を北上中。乗員四十七名。船体異常なし。機関正常」
走りながらの訓練が始まった。
最初の壁は、機関室で破れた。
若い機関科員が鵜飼のそばに立って計器を見ていた。針が一つ、じわりと動いた。まだ赤いゾーンには入っていない。
「すみません、鵜飼さん。この針が赤いゾーンに入ったとき、どっちのバルブを先に閉めるんですか」
鵜飼は一瞬、驚いた顔をした。それから笑った。
「右だ。左は後。順番を間違えると配管に圧がかかる」
「なんで右が先なんですか」
「この船の設計がそうなっている。なぜかは——石黒さんに聞け」
石黒が六番の作業から顔を上げた。機関科員が石黒に向き直った。
「教えてもらえますか」
石黒はゆっくりと口を開いた。
「右側の配管の方が断面積が小さい。流量を先に絞らないと、左を閉めたとき圧力が逃げ場を失う。設計上の問題じゃなくて、物理の問題だ」
「物理なら分かります」機関科員は言った。
その一言で、空気が変わった。
アナログもデジタルも、根っこにある物理は同じだ。OBが「なぜそうなっているか」を説明できれば、現役は「自分たちの知識と繋がる」と分かる。質問が止まらなくなった。
「この計器の誤差範囲はどのくらいですか」
「手動でやるとき、デジタルで言うとどのモードに相当しますか」
「緊急時に優先すべき系統の順番を教えてください」
OBたちは最初、質問の多さに戸惑っていた。自分たちが若い頃は、見て覚えるのが当たり前だった。しかし現役たちは、理解できれば飲み込みが速かった。デジタル世代は「なぜ」が分かれば「どうやって」に繋げるのが早い。
陸自の施設科隊員は船の操作には加わらなかったが、甲板作業と物資搬送を運用班と一緒に始めた。体力だけは圧倒的だった。重い係船索の扱いを、海自の隊員より先に覚えた。
後部甲板では、ジャパンマリンから来たもう一人の男が、救命艇と作業艇を見ていた。ダビットのワイヤーを一本ずつ確かめ、ウインチを回して艇を少し下ろし、また上げた。同じ甲板で、施設科の隊員が二人、持ち込んだボートの船外機を開けていた。
うねりの中、甲板で資材が倒れた。最初に動いたのは施設科だった。二人がかりで押さえ、ロープで固定した。海自の隊員が駆けつけたときには、もう終わっていた。
鵜飼が黛に耳打ちした。「案外、悪くないな」
「陸自がいなければ、集落に着いても何もできない」
◇
犬吠埼の沖に入った。黒潮と親潮がぶつかり合う海域に風が重なり、波が三方向から立つ。五台がフルで回っている。波頭に乗り上げるたび、機関室の負荷が跳ね上がった。
鵜飼がインターフォンで報告した。「三番の冷却水温、上昇中。まだ許容範囲だが、このまま十九ノットを維持すると一時間で警告域に入る」
「速力を落とすか」黛は聞いた。
「落とせば、岬を回るのに一時間近く余計にかかる」
「一時間を削る、と言ったのは俺だ。冷却水は持つか」
鵜飼は計器を見た。「持たせる。ただし岬を回ったら十分だけ回転を下げて冷やす」
「十分だけだ」
三方向から来る波の中で、鵜飼は五台の出力調整を続けた。四十年前の機械は、デジタル制御のような精密さはない。人間の手が、機械の動きを補う。
鵜飼が若い機関科員に言った。
「アナログ計器の監視にはコツがいる。ひとつひとつの計器ではなく全体を見渡し、イメージを描け、何かあるとイメージに変化が出てくる。」
「警報ランプがあれば大丈夫じゃ無いですか?」
「警報が出てからでは遅い。警報が出ないようにするのが監視員の役目だ。」
犬吠埼を回り、鹿島灘から常磐沖に出た。鵜飼が約束通り十分だけ回転を落とした。冷却水温が下がった。それから元に戻した。風が出始めていた。低気圧の前縁だった。
太平洋の外洋うねりが長くなった。波の谷ではプロペラが軽くなり、頂では船体が沈んで負荷がかかる。発電機の回転数が波のリズムで上下した。鵜飼はそのリズムを読んで出力を合わせ続けた。デジタル制御なら自動でやることを、人間の手でやっている。
艦橋に立つ黛の目の前で、海面の色が変わっていく。灰色から、鈍い緑へ。船体が緩やかに、しかし、確実にローリングの角度が増加してきた。
陸自の施設科隊員が何人か、甲板で吐いていた。施設科の分隊長だけが平然と立っていた。
「大丈夫か」黛が声をかけた。
「大丈夫です。明日には慣れます」
「これはまだ揺れていない」鵜飼が後ろから言った。
◇
三陸沖を抜けると、太平洋の海面が変わった。
見張りの隊員が、双眼鏡を下ろさずに言った。
「左舷前方、漂流物。木材、複数」
黛は窓に近づいた。探照灯の光の中に、長い角材が見えた。住宅の梁か、製材所から流されたものか。三陸の沿岸も、津波を受けていた。
「右舷、コンテナ。針路上」
「方位三四〇、転覆漁船。船底が見える」
地震から、まだ二日と経っていない。津波が沿岸から持っていったものが、もうこの海域まで出てきていた。プロペラに絡めば一気に止まる。コンテナに衝突すれば、外板に穴が空く。スクリューや船体を失えば、この船は氷を割る前にただの鉄塊になる。
「速力、十ノットに落とせ」黛は告げた。「見張りを倍に増やす」
「十ノットへ」操舵手が繰り返した。
機関室で鵜飼が回転数を落とした。発電機の音が一段低くなる。これまで快調に轟いていた振動が、抑えた響きに変わった。
陸自施設科の分隊長が艦橋に上がってきた。
「見張りに人数が要ると聞きました。施設科から五名、出します」
「船の動きには素人だぞ」
「目はあります」
分隊長は隊員を集めて、左右の舷側に配置した。海自の見張り員と二人一組にし、目視の死角を補い合う形に並べた。
しばらくして、若い陸自隊員が叫んだ。
「右舷四五度、距離二百、車両のような物体!」
海自の見張り員が双眼鏡を向けた。「……保冷車です。荷台が浮いて、運転席は沈んでいる」
舵が切られた。船体が左に大きく避けた。保冷車の残骸は、SHIRASEの右舷を二十メートルほどの距離でかわしていった。
分隊長が部下に短く言った。「いいぞ。続けろ」
鵜飼が艦橋に上がってきて、分隊長を見て言った。
「役に立ってるじゃないか」
「目だけは、海でも陸でも同じです」
◇
機関室では石黒が六番と格闘していた。揺れる中でのコイル巻き直し。うねりのたびに体が傾ぐ。精密作業には最悪の条件だった。
田代が横で支えていた。石黒が巻き線を張るとき、田代が船体の傾きと逆方向に体重をかけて工具を固定した。二人の息が合っている。四十年前から変わらない呼吸だった。
石黒は五台の音にも耳を傾けていた。巻き直しの手を止めて、首を傾げる瞬間がある。五台の音が変わったように聞こえたのだ。しかし田代が計器を確認し、「正常です」と言うと、また手を動かした。
釧路沖に差しかかる頃、石黒が田代に言った。「あと十二時間で仕上がる。氷域に入る前に間に合う」
「十二時間ちょうどですか」
「ちょうどだ。一時間の余裕もない」
◇
根室海峡南口が近づいていた。氷域に入る前に、黛は及川を呼んだ。
「氷域に入ったら、通信が途切れる場面がきっと来る。そのとき、優先する情報は何だ」
及川はすぐに答えた。「そうやの位置と状態、集落の生存者数、気象の変化。この順番です」
「なぜその順番だ」
「そうやが止まっている位置が、俺たちのゴールと救助対象の両方を決めるからです。気象は対策できるが、前の二つは対策できない」
黛は頷いた。それで十分だった。
及川が黛のそばに来た。
「一つ、聞いていいですか」
「なんだ」
「OBの皆さんは、なんでこんなにこの船のことが分かるんですか。十八年、乗っていないのに」
黛は少し考えた。
「お前は、子供の頃に乗った自転車の乗り方を忘れたか」
「忘れてないです」
「それと同じだ。ただし俺たちの自転車は一万トンある」
及川が笑った。初めて見る、力の抜けた顔だった。
第12話 集落 ── 三日目 ──
三日目の朝、雪はまだ止まなかった。風も同じだった。海は灰色に閉ざされ、流氷が動く気配もない。
佐藤は灯油の缶を持ち上げてみた。重さで残量が分かる。減りが速い。昨日まで予測通りだったはずなのに、今日は予測を上回って減っているように感じる。実際にはそんなはずはない。気のせいだ。気のせいだと自分に言い聞かせて、佐藤は缶を置いた。
子供たちは静かになっていた。泣き声が消えていた。五歳の男の子は、母親の膝に乗ったまま、雪を見ていた。
元看護師の女性が要介護者を一人ずつ見て回っていた。佐藤に短く首を振る。悪くなった者はいない。良くなった者もいない。
昼前、防災無線で役場を呼んだ。
「砕氷艦は、どこまで来てますか」
「太平洋を北上中だそうです。順調だと聞いています」
「いつ着きますか」
「……明日の午後とのことです」
佐藤は無線機を置いた。明日の午後。今、何時間先か。二十八時間ほど。灯油は――佐藤は計算しなかった。した結果が出ているのは分かっていた。
昼を過ぎても、雪は止まなかった。
誰も話さなくなった。話すことがなかった。佐藤は高台の端に立って、海を見ていた。何度見ても、海は変わらなかった。
夕暮れが来た。
六十年以上、この海の夕暮れを見てきた。しかし今日の夕暮れは、これまでと違う色だった。
三日目の夜。気温はマイナス十八度まで下がった。
佐藤は要介護者を中心に全員を寄せ集めた。毛布を重ね、体を寄せ合い、互いの体温だけで夜を越す。元看護師が要介護者を一人ずつ確認して回った。
深夜、二人目が意識を失った。八十一歳の男性だった。毛布を重ねた。お湯はもうない。
子供たちは泣かなくなっていた。泣く力が残っていないのか、泣いても無駄だと分かったのか。五歳の男の子は、佐藤のコートの裾を握ったまま、目を開けていた。眠れないのだ。佐藤も眠れなかった。
第13話 氷原
── 海峡へ ──
太平洋を北上し、納沙布岬を回り、珸瑤瑁水道を抜けて根室海峡南口に入ったのは夜明け前だった。
「SAR画像、入りました」宮城が言った。「方位二八〇から三四〇にかけて、広域に流氷帯。雲の下ですが、はっきり見えます」
「レーダーでも感あり。方位三一〇、距離十二海里」沢田が照合した。
宮城がSAR画面を広げた。衛星が捉えた流氷帯の全体像が映し出されていた。白と灰色の濃淡が、海面を埋め尽くしている。
「この画像を見る限り、方位三二〇から直進すれば氷密接度の低い帯がある」宮城が言った。「ここを突けば、砕氷しながら最短で集落に到達できる」
沢田が画面を覗き込んだ。しばらく黙っていた。
「待ってください」沢田が言った。「この画像は三時間前の撮影です。潮流と風向を考慮すると、薄い帯に見える部分は圧密氷域に変わっている可能性がある。過去の観測データでは、この海域の氷は三時間で状態が大きく変わります」
「三時間前の画像しかない」宮城が言った。「次の衛星通過まで待つのか。待っている間に集落の灯油が尽きる」
「待てとは言っていません。ただ、画像に映っているものを鵜呑みにするのは危険だと言っているんです。SAR画像は氷の表面しか捉えていない。下に潜り込んだ氷の厚さは分からない。薄い帯に見えて、実際には氷が折り重なっている場所がある」
「画像に映らない部分、か」宮城は少し考えてから言った。「それは分かる。だが、見えているものを使わなければ、何も判断できない」
「見えているものだけで判断すると、最悪の場合、バウが氷に刺さって動けなくなる。そうやの二の舞です」
沢田の声は冷静だったが、語尾に力があった。宮城が一瞬、黙った。
黛は二人のやり取りを聞きながら、窓の外を見ていた。まだ暗い。流氷帯はまだ見えない。
「ちょっと静かにしてくれ」黛は穏やかに言った。
艦橋が静まった。
「画像は参考にする。データも使う。だが最後は、俺がこの目で見て決める。流氷域に入ってから判断する。それまでは、どちらも口を閉じて準備しろ」
宮城と沢田が同時に頷いた。
黛は双眼鏡を持ち、暗い水平線を見た。まだ見えない。しかしいる、と分かった。空気が変わった。
「速力を落とせ。八ノット」
夜が明けると、氷が現れた。最初は一枚、二枚、水面を漂う白い板。それが十枚になり、百枚になり、やがて前方の海面全体が白く埋まった。
「見ろ」黛は言った。「データは後だ。まず目で見ろ」
沢田は窓の前に立った。しばらく、黙って見ていた。
氷の海は、静かだった。風があるのに、波音がない。白い板が互いを押しつけ、緩衝材のように波を殺している。船体に当たる音だけが、低く、不規則に響く。コン、コン、ゴン。大きさの違う氷が、それぞれの声で船を叩いた。
「綺麗だ」沢田が呟いた。
黛は何も言わなかった。綺麗だと思っている間は、まだ余裕があるということだ。本当に危ない氷の中では、綺麗かどうかを考える時間はない。音だけを聞く。船体が氷に当たる音の質で、氷の厚さが分かる。高い音は薄い氷。低い音は厚い。不規則に重なる音は、氷が折り重なっている証拠だ。
バウが最初の氷群に当たった。船体に振動が走る。鈍い衝撃が、足裏から腰へ伝わってきた。氷が割れた。船が進んだ。また当たった。また割れた。そのリズムが、しらせの砕氷のリズムだった。黛の体が覚えている。
◇
機関室では鵜飼と石黒が機関監視操作盤を見つめていた。
六番の針も、ほかの五台と並んで動いていた。
ドーン。船体が震えた。ガリガリと鋼板を引っ掻く音が続く。流氷が船体に当たるたび、機関室の壁が鳴った。
若い機関科員が不安そうに船殻を見上げた。そうやが流氷に襲われて破損したことは、艦内の全員が知っている。
石黒が手を止めずに言った。
「大丈夫だ。この船は南極に二十五回行って、無事に帰ってきている」
「それとな、この船は俺たちがしっかり造った。安心しろ」
◇
宮城が先ほどの画像を見て、黛のそばに来た。「さっきの薄い帯の件ですが——」
黛は前を見たまま答えた。「沢田の言う通りだった。方位三二〇は氷が重なっている。音で分かる」
宮城は黙って端末に戻った。
そうやの位置情報が入ったのは、氷域に入ってから三時間後だった。
「方位三五〇、距離二十八海里」沢田が読んだ。「乗組員三十八名、全員生存。負傷者六名。重傷はいない」
及川が無線で状態を確認し続けていた。「そうやの通信士が、一時間おきに状況を送ってきています。船体は安定しているが、自力脱出は不可能だそうです」
「まず集落だ。そうやはその後」
それから一時間あまり、SHIRASEは氷を割りながら北西へ進み続けた。
集落まで残り二十海里。そこで、氷の様相が変わった。
第14話 集落 ── 四日目 ──
四日目の朝、最後のストーブが消えた。灯油が尽きた。
火が消えた瞬間、高台の空気が変わった。それまでは小さくても炎があった。炎がある限り、人は耐えられる。火が消えると、寒さではなく、暗さが来た。
午後になっても雪は降り続いていた。風も止まない。視程は百メートルもなかった。
佐藤は朝から三度、港の方を見に行っていた。毎回、同じ景色だった。雪の向こうに白い平原が霞んでいる。水平線は見えない。
四度目だった。
もう見に行くなと、誰かが言った。佐藤は聞こえないふりをした。七十三歳の足で、高台の端まで歩いた。
六十年以上、この海を見てきた。流氷が来る冬は毎年のことだ。しかしこれほど密度が高いのは、記憶にない。地震が何かを変えた。海流が変わったのか、氷の動きがいつもと違う。
佐藤は思った。この氷を、本当に割ってこられるのか。
戻ろうとしたとき、何かが聞こえた。
最初は風の音だと思った。しかし違った。もっと低い、もっと遠い、規則的な音だった。何かが何かにぶつかる音。重い、鈍い音。
佐藤は足を止めた。雪の向こうを見た。何も見えない。
しかし音は続いていた。ドン。間があって、またドン。近づいてきている。
幻聴ではなかった。風の音とは違う。波の音とも違う。佐藤は六十年、この海の音を聞いてきた。この音は、氷が割れる音だ。
何かが、氷を割りながら来ている。
雪が、一瞬だけ薄くなった。
その切れ間に、色が見えた。
オレンジ色だった。
佐藤は声を上げた。何を叫んだか、自分でも分からなかった。後ろから、人々が駆け寄ってきた。高台の全員が、雪の向こうを見た。
雪の幕が、また薄くなった。今度は長かった。
オレンジ色の船が、氷を割りながら、こちらに向かっていた。
大きな船だった。雪の中に、鮮やかなオレンジ色が進んでいく。船首が氷に乗り上げ、砕く。ドン、ドン、という規則的な音。重くて、力強くて、止まらない音だった。
子供が叫んだ。「船だ! 船が来た!」
若い母親が泣いた。声を上げずに、ただ涙を流した。子供を抱きしめたまま。
老人たちも泣いた。黙っていた老人たちが、声もなく泣いた。
佐藤は泣かなかった。ただ、立っていた。
第15話 接岸へ
流氷の板が厚く重なり合い、海面が白というより灰白色に変わった。バウが乗り上げても、氷が割れない。船体が一度跳ね返された。
「氷厚、想定より増しています」沢田が言った。
宮城がSARの画面を指さした。「衛星画像で見ると、この先十海里にわたって氷が押し重なっている。地震後の海流変化で複数の流氷群が合流した跡だ」
「迂回できるか」黛は聞いた。
「東は参考ラインの向こうだ。回り込めない」宮城が言った。
「砕氷モードに切り替える」黛は言った。「全軸、電動機二台直列。全力で当たれ」
インターフォンから、鵜飼の復唱が返った。「砕氷モード。全軸電動機、直列接続」
「直列、よし」鵜飼の後ろで、石黒の声がした。
船が変わった。
床を伝わる振動の周波数が下がり、代わりにトルクが増した。バウが氷に乗り上げる。今度は割れた。鈍い、腹に響く音とともに、船が前に進んだ。
しかし三十分後、インターフォンが鳴った。石黒の声だった。
「六番発電機、出力が落ちてきている。励磁電流が不安定だ。砕氷モードを続けると、六番に繋がる電動機の出力が保証できない」
艦橋に沈黙が落ちた。六番発電機が息切れを起こしている。石黒が航海中に仕上げたコイルは、揺れる機関室での巻き直しだった。砕氷モードの高負荷が、その限界を突いていた。
「六番を切るか」インターフォンの向こうで、鵜飼が言った。「五台で続けるか」
「五台では砕氷モードで第三軸の電動機が一台になる。この氷の厚さでは——」
「残り十九海里。出力を落とすわけにはいきません」沢田が言った。
宮城がSAR画面を睨んでいた。「この先の氷の状態が分かれば、ルートを選べる。衛星が通過中だ」
黛は前を向いたまま、何も言わなかった。窓枠に置いた手が、動かなかった。
氷原が、水平線まで続いていた。五百十二名。あの集落で灯油が尽きた高台。四日間近く待ち続けている子供たち。そうやの艦橋で、救助を待つ三十八名の海保の乗組員。石黒が四十五年間守り続けた発電機。沢田が打ち込み続けた記録。鵜飼の「死んでない」という一言。すべてが、この氷の手前で止まろうとしていた。
鵜飼がインターフォン越しに言った。「黛。どうする」
黛は答えなかった。答えが出なかった。
沢田が黛を見ていた。宮城が見ていた。操舵手が見ていた。及川が見ていた。全員が黛の言葉を待っていた。
黛は目を閉じた。
三つの集落の高台に、四百七十四人がいる。そのうち三十二人は自分では動けない。灯油は尽きかけている。あと何時間持つか。それすら分からない。
目を開けた。
そのとき、黛は感じた。
足の裏から、何かが変わった。
振動が、変わった。
落ちかけていた六番の振動が、揺らぎながら、しかし確かに、力を取り戻してきた。床を通じて、ブーツの底から、膝へ、腰へと伝わってくる。六台が揃ったとき特有の、あの重なり合う振動のリズムが、また戻ってきた。
インターフォンのランプが点いた。石黒の声だった。息が上がっていた。
「……六番、持ち直した。励磁回路に直接介入した。手動で安定させている。このまま俺がここにいれば、持つ」
インターフォンの向こうで、鵜飼が笑った。「あの野郎、発電機を手で抑えてやがる」
「石黒さん」沢田がインターフォンに向かった。「どのくらい持ちますか」
「集落に着くまで持たせる。それだけだ」
宮城がSAR画面から顔を上げた。「新しい画像、来た。左前方——」
「薄い帯がある」沢田が同時に言った。レーダー画面を見ながら。
二人が顔を見合わせた。
「……レーダーでも同じものが見えています。取舵五度で入れます」沢田が言った。
宮城は一瞬、黙った。それから言った。「解像度、足りてたか」
「足りてました」沢田は画面から目を離さずに答えた。「あなたのSARがなかったら、この帯には気づけなかった」
宮城は何も言わなかった。ただ、端末に向き直って、次の衛星通過のタイミングを計算し始めた。
「舵、取舵五度」黛は操舵手に告げた。
船が左に傾く。氷の音が変わる。
「もう一度左。さらに三度」沢田が言った。
「根拠は」
「レーダーとSARの両方で確認しています」
黛は一瞬、考えた。自分の目には差異が見えなかった。しかし沢田のデータと宮城の衛星画像が同じ方向を指している。
「取舵、さらに三度」
バウが氷に当たる音が、少し、軽くなった。
「……当たりだ」黛は言った。
残り十五海里。速力、五ノット。
六番が回っている。石黒が機関室で手動制御を続けている。六十七歳の男が、自分が四十五年前に造った発電機を、自分の手で支えている。
残り十海里。
氷の色が変わり始めた。灰白色から、わずかに青みがかった白へ。押し重なりが減り、一枚一枚の板が薄くなっている。バウが当たる音が、ゴン、からコン、に変わっていた。
残り五海里。
「前方、氷が薄くなっています」沢田が言った。「もう少しです」
「沢田」
「はい」
「操船を頼む」
沢田が振り返った。「……私が、ですか」
「お前が最後まで氷を読め。私が後ろにいる」
沢田はしばらく黛を見た。黛は目を逸らさなかった。
沢田は前に出た。
艦長席に座って、タブレットを左手に持ち、右手を窓枠に添えた。窓の外の氷を見る。
データが見えた。レーダーの反射パターンが見えた。宮城のSARが示す氷の分布が見えてくる。そして——その向こうに、データでは捉えられない何かが見え始めた。氷の色のわずかな違い。表面の光の反射角。黛が「見ろ」と言い続けた、あのものが。
「取舵、二度」沢田の声は、静かだった。
「取舵、二度」操舵手が繰り返した。
船が動いた。氷が割れた。
残り一海里。氷が薄くなった。船の動きが軽くなった。
「前方、開水面」沢田は言った。それから、一度だけ窓の外から目を離して、振り返った。黛が後ろに立っていた。
「集落、確認」
雪が、小降りになっていた。艦橋の全員が、窓の外を見た。雪に埋もれた小さな集落が、午後の鈍い光の中にあった。防波堤に——いや、高台に人影が見えた。手を振っている人がいた。走っている人がいた。
石黒の声が入った。「六番……限界だ」
「もう着きます」沢田が答えた。「石黒さん、もう着きます」
短い沈黙。「……分かった」
船は、慣性で進んでいた。十分だった。
陸自の施設科隊員が、甲板に出た。救援物資を担ぎ、医療班がその後に続いた。彼らがこの船に乗った本当の理由が、今始まる。
防波堤に近づくにつれ、高台から降りてきた人影がはっきりしてきた。防寒着を着た老人、子供、若い女性。みんな同じ方向を向いて、このオレンジ色の船を見ていた。
一人の老人が叫んでいた。声は聞こえなかったが、口の形で分かった。
来てくれた、と言っていた。
その老人の後ろから、次々と人が降りてきた。子供を抱えた若い母親。車椅子を押す男性。毛布を巻いた老人。四日間、高台で待ち続けた人々が、オレンジ色の船に向かって歩いてきた。
陸自のボートが先に降りた。医療班と灯油の缶を積んで、防波堤へ向かった。ダビットが回り始めたのは、その後だった。救命艇と作業艇が、開水面に降りていった。
及川が無線を入れた。「防衛省、SHIRASE、集落に到達。住民の姿を確認。これより救援活動を開始します」
対策本部のスクリーンの前で、川崎がその声を聞いていた。立ったまま、一人で。
沢田は窓に手を当てた。冷たいガラスの向こうに、陸があった。
船は、着いた。
◇
機関室では、石黒が六番発電機の傍らに座り込んでいた。両手が油で黒く染まっている。指先が、小刻みに震えていた。田代が声をかけた。「石黒さん、着きましたよ」
石黒は顔を上げなかった。ただ、目を閉じて、止まった発電機に手を当てていた。
第16話 エピローグ
── もう二度と ──
桜が散って、三週間が経っていた。
船橋港の入場ゲートを抜けると、SHIRASEはいつもの場所にいた。オレンジ色の船体は、あの航海の前と変わらない。岸壁に係留され、社旗が艦尾に揺れている。見学者が数人、タラップを上り下りしていた。子供が甲板を走っていた。
あの夜のことを、知っている人間がここにどれだけいるか。黛には、どちらでもよかった。
後部甲板へ向かった。
デッキの継ぎ目の感触は、変わっていない。靴の底が、記憶を呼び覚ます。三ヶ月前にも、ここを歩いた。あのときと同じ歩幅で、同じ速度で歩いた。
見学者の親子が、格納庫の前で写真を撮っていた。父親がスマートフォンを構え、子供が敬礼の真似をしている。黛は少し立ち止まって、それを見ていた。
艦尾に立った。
東京湾が広がっていた。春の陽光の中で、水面が鈍く光っている。沖に、コンテナ船が一隻。あのときと同じように、ゆっくりと湾を出ていく。
記憶が、順番に浮かんだ。
石黒が油で汚れた顔で機関室から上がってきたこと。五台の発電機が揃ったとき、床から伝わってきたあの振動。及川が笑った、力の抜けた顔。宮城がSARの画面を指さした、あの一言。六番が持ち直したときの、鵜飼の笑い顔。
沢田の声で、初めて舵が切られたこと。
それが、一番鮮明だった。
陸自の隊員が、老人を背負ってタラップを登ってきたこと。集落の老人が叫んでいた口の形。来てくれた。そうやの乗組員三十八名を収容したときの、甲板の密度。帰路、石黒が機関室からほとんど出てこなかったこと。船橋港に戻る最後の夜、黛は艦橋に一人で立っていた。東京湾の光が見えてきた。
今は、静かだ。
あの航海の後、川崎から一度だけ電話があった。「ありがとうございました」それだけだ。黛は「任務だ」と答えた。
石黒からは連絡がない。鵜飼によれば、石黒は帰港後一週間入院したという。過労と脱水。退院後は自宅にいるらしい。黛は電話をかけなかった。石黒も、かけてこない。言葉は要らなかった。
帰港後の検査で、六番発電機は廃棄と判定された。界磁コイルは石黒が手動で支え続けた結果、限界を超えて逝っていた。残る五台も、次の本格航海に耐えられる状態ではないと鵜飼が言った。
この船は、もう二度と動かない。
黛には、それが分かっていた。あの氷原での最後の一戦が、この船の持てるすべてを使い果たした航海だったことを。
艦尾の社旗が、春風に揺れていた。
黛は、右手を上げた。
胸元へ。
止めなかった。
敬礼は、三秒間、続いた。
見学者の誰かが、こちらを見ているかもしれなかった。
どうでもよかった。
手を下ろした。もう一度だけ、艦尾を見た。それから、タラップへ向かった。
後ろを振り返らなかった。
〈 了 〉




