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よろしい。ならば、裁判です

作者: 江合 花果
掲載日:2026/10/15

「ヴィオレッタ・ハーシェル様。あなたは十日前、西棟の階段で私を突き落としました」


楽団の弓が、弦の上で止まった。


王立学園の卒業前夜会。大広間の真ん中で、栗色の髪の少女がこちらを指さしていた。


平民出身の特待生、ミア。額の生え際に、まだ薄い傷跡が残っている。


「それだけではありません。入学してから、ずっとでした」


ミアの声は震えていた。けれど、途中で止まりはしなかった。


「教科書を破られました。制服にインクをかけられました。靴を噴水に捨てられて、裸足で寮まで帰りました。全部、あなたの差し金です」


広間がざわめいた。何人かの令嬢が、扇の陰で顔を見合わせた。


ヴィオレッタは、手にしていたグラスを近くの給仕の盆に戻した。指先が震えていたので、そうするしかなかった。


「身に覚えがございません」

「覚えがない?」


ミアの頬に、さっと血がのぼった。


「私は、階段の下で気を失っていたんです。目が覚めてすぐに、殿下から聞きました。あなたが階段から下りてきたところを、見た人がいるって」

「ええ。下りましたわ。忘れ物を取りに戻った帰りでした」

「そんな都合のいい話がありますか」

「都合がいいかどうかは存じませんけれど、本当のことです」


言いながら、ヴィオレッタは自分の声が硬くなっているのに気づいた。王妃教育で教わったとおりの、角の立たない声。それが今は、ひどく冷たく響いている気がした。


「二人とも、そこまでにしてくれ」


人垣を分けて、第一王子ジュリアンが歩み出た。ヴィオレッタの婚約者だ。


王子は、ミアとヴィオレッタのちょうど真ん中で足を止めた。どちらの側にも寄らなかった。


「ミア。君が怪我をしたのは事実だ。それを、なかったことにはしない」


それから、ヴィオレッタのほうへ向き直った。


「だが、ヴィオレッタ。私は、君が犯人だと決めつけるつもりもない。これだけの告発があった以上、父上にもご報告して、正式に調べなければならないだろう」


王子は、苦しそうに眉を寄せた。


「もし君の罪が認められれば、我々の婚約を続けることも難しくなる。だからこそ、私は事実を知りたい。君にも、言いたいことがあるなら、ここで言ってほしい」


広間の視線が、ヴィオレッタに集まった。


公正な人だ、と、誰もが思っただろう。ヴィオレッタも、そう思った。婚約者が告発されたこの場で、どちらの肩も持たずに立っている。それが、王族としての正しい振る舞いなのだと。


「お心遣い、感謝いたします」


ヴィオレッタは裾をつまんで、一礼した。


「私は、どれにも覚えがございません。それだけです」

「まだそんなことを」


ミアが一歩前に出た。


「あなたが私をどう思っていたか、学園のみんなが知っています。特待生なんて目障りだって、あなたがおっしゃっていたことも」

「私は、そんなことを言った覚えはありません」

「みんなが聞いています!」


言い合いになれば、こうなる。どちらも引かない。周りの人間は、声の大きいほうか、身分の高いほうか、自分の気に入ったほうを信じる。王家の調べが入れば、それはそれで、学園の外で、知らないうちに何かが決まってしまう。


ヴィオレッタは扇を閉じた。


「殿下。王家にお調べいただく前に、一つ、お許しいただきたいことがございます」


王子が、目で先を促した。


「リステア王国法、第十八条。公衆の面前で重大な罪を告発された者は、身分を問わず、王立法廷に公開審理を請求できる、とあります」


広間が、しんとした。


「私の潔白は、皆さまの前で確かめていただきたいのですが、私への糾弾、訂正する気はありませんか」


ヴィオレッタの視線を受け止めながら、ミアは言う。


「訂正なんて、絶対にしません」


「よろしい。ならば、裁判です」


ミアは、一瞬だけ目を見開いた。


それから、唇を引き結んで頷いた。


「望むところです。法廷でなら、身分でごまかすことはできませんから」

「ええ。そのための法廷ですもの」


王子は、少し考えてから頷いた。


「分かった。公開の場で確かめるなら、それが一番公正だ」


それから、ミアのほうを見た。


「ミア、傷はまだ痛むだろう。今夜はもう休みなさい。法廷では、無理をしなくていい」

「大丈夫です、殿下。私、ちゃんと戦えます」


ミアは、ヴィオレッタから目を逸らさなかった。


◇


「被告人の欄も、弁護人の欄も、同じお名前ですね」


翌朝、王立法廷の受付で、書記官は請求書を二度見した。


「法務資格の写しはこちらです」

「……確かに。受理いたします。審理は三日後になります」


屋敷に戻ると、父が書斎で待っていた。


足元で、年寄りの猟犬のグレイが尻尾を振った。ヴィオレッタがしゃがんで耳の後ろをかいてやると、グレイは目を細めて、彼女の膝に顎をのせた。


「弁護士を頼みなさい」


父は、前置きなしに言った。


「王都で一番の者を呼ぶ。費用はいくらかかってもいい」

「ありがとうございます、お父様。でも、自分でやります」

「ヴィオレッタ」

「資格を取ったのは、飾りにするためではありません」


父は、深いため息をついた。


「お前が法務官の試験を受けたいと言い出したとき、私は止めた。王妃になる娘に必要なものではないと言ってな。覚えているか」

「覚えています。結局、こっそり受けましたけれど」

「それも覚えている」


父の口元が、少しだけゆるんだ。


「子どものころ、お前はよく法廷の傍聴席にもぐりこんでいた。家庭教師をまいて、裏の木戸からな。戻ってくると、靴を泥だらけにして、判事の真似をしていた」

「グレイを証人にして、ですわね」


足元の犬が、名前を呼ばれて耳を立てた。


「それにしても」


父は、眉間に皺を寄せた。


「階段の件、なぜ私に言わなかった。お前は、あの日あそこにいたのだろう」

「言えば、お父様は翌朝には学園に乗り込んでいらしたでしょう」


ヴィオレッタは、グレイの頭を撫でた。


「先生がミアさんを運んでいかれるところでした。報告は、先生がなさると思ったんです。私が騒げば、ミアさんの怪我より、公爵家の娘がその場にいたことのほうが噂になります」


父は、しばらく娘を見ていた。それから、何も言わずにため息をついた。


ヴィオレッタは、自分の手を見た。法廷の椅子に座る自分を思い浮かべると、指先が冷たくなった。


「怖くないと言ったら、嘘になります」


正直に言った。


「でも、これは私が疑われている事件です。私が一番よく知っていて、私が一番、確かめたいんです。誰かに任せて、知らないうちに終わってしまうのは嫌なんです」


父は、しばらく黙っていた。


やがて、机の引き出しから、背の擦り切れた法典を一冊取り出した。


「祖父の代から使っている本だ。重いだけで、たいして役には立たん」

「お借りします」


ヴィオレッタは両手で受け取った。思っていたより、ずっと重かった。


◇


三日後。王立法廷の傍聴席は、学園の生徒と、噂を聞きつけた貴族たちで埋まっていた。


裁判長は、白い髭のオルド判事。どんな身分の者にも同じ顔で同じことを聞く人物として知られている。


告発の側には、ミアと王立検事。証人席の脇の椅子に、ジュリアン王子と、生徒会書記のノエル・グラントの姿があった。王子はミアの後見人として、ノエルは生徒会の記録係として呼ばれている。


被告人席に座るのは、ヴィオレッタ一人だった。


検事が告発の趣旨を読み上げた。半年にわたる嫌がらせの教唆。そして西棟の階段での傷害。


「被告人。何か述べることは」


ヴィオレッタは立ち上がった。用意してきた言葉はいくつもあった。どれも長すぎる気がした。


「ミアさんが傷つけられたことは、事実だと思います。傷つけたのが私ではないことを、これから確かめます」


裁判長は、何も言わずに頷いた。


「第一の証人を」


呼ばれたのは、実技教師のボリスだった。熊のような大男で、証人席の椅子がきしんだ。


「あの日のことを話してください」


検事に促されて、ボリスは頭をかいた。


「ええと、夕方の、四時半ごろだったかな。西棟一階の用具室で、壊れた的の修理をしてたんですよ。そしたら、階段のほうでどすんと音がして、悲鳴がした。女の子の声でした」


ボリスは、ミアのほうを見て、顔をしかめた。


「飛んでいったら、階段の下で、こいつが……ミアが倒れてた。頭から血が出てて、呼んでも返事がない。息はしてたんで、とにかく動かさないようにして、脈をとって。それで、顔を上げたら」


ボリスは、ヴィオレッタのほうを見た。


「二階から、公爵令嬢が下りてくるところだった」


傍聴席がざわめいた。


検事は満足そうに頷いた。


「被告人の様子は」

「書類の束を抱えてましたね。俺と目が合って、顔色を変えて駆け下りてきた。手を貸すと言われたが、断りました。下手に動かすと危ないんでね。俺がミアを抱えて医務室へ運ぶから、あんたはもう帰りなさい、と」

「被告人のほかに、階段を下りてきた者は」

「いませんでした。少なくとも、俺が見ていた間は」


検事が席に戻った。


「被告人。質問を」


ヴィオレッタは立ち上がった。膝が硬かった。


「ボリス先生。あのときは、ありがとうございました。先生がすぐに駆けつけてくださらなかったら、ミアさんはもっとひどいことになっていたと思います」


ボリスは、意外そうに瞬きをした。


「それで、先生。先生は、ミアさんが落ちる瞬間をご覧になりましたか」

「いや。用具室の中にいたんで。音と悲鳴が先で、見たのは倒れてるところからです」

「階段の上のほうは、ご覧になりましたか」

「……正直、見てる余裕はなかったですね。ミアの顔ばっかり見てた」

「その階段は、三階まで続いていますね」

「ええ。二階の生徒会室の前を通って、三階まで」

「上から足音のようなものは、聞こえましたか」


ボリスは腕を組んで、記憶をたどるように天井を見上げた。


「どうだったかな。……聞こえたような気もするし、自分の心臓の音だった気もする。すみません、そこは、はっきりしない」

「いいえ。正直にお答えくださって、ありがとうございます」


ヴィオレッタは、手元の紙に目を落とした。


「ミアさんを医務室へ運ばれたあとは、どうなさいましたか」


ボリスは、少し考えた。


「医務官の先生に、怪我の具合と、倒れてたときの様子を話しました。頭を打ってる、呼んでも返事がなかった、ってね。それから、その晩のうちに学園長へ、西棟の階段で生徒が落ちて怪我をした、と報告を出しました。夜中までミアについてて、あとは医務官の先生と交代です」

「その報告に、私の名前は」

「書いてません」


ボリスは、きっぱりと言った。


「見ただけで、何も分かってないのに、生徒の名前を書くわけにはいかんでしょう。それで噂にでもなったら、取り返しがつかん」

「私を見たことを、どなたかにお話しになりましたか」

「いいや。誰にも。正式に聞かれたのは、夜会のあとで警吏の方が来たときが初めてです。そのときは、見たとおりに話しました」


検事が、手元の書類を確かめて頷いた。警吏の調書の日付と合っているということだ。


ヴィオレッタは、手元の紙に短く書きつけた。


「最後に一つだけ。先生は、私が階段を下りてくるのを見て、すぐに私を疑いましたか」


ボリスの太い眉が寄った。


「……疑いました」


傍聴席が静まった。


「ミアから、相談を受けてたんでね。嫌がらせが続いてる、もしかしたら公爵令嬢の差し金かもしれないって。だから、あんたが下りてきたのを見たとき、まさか、と思った」


ボリスは、膝の上で大きな拳を握った。


「でも、俺が見たのは、あんたが下りてきたところだけです。突き落としたところは見てない。それは、はっきり言っておきます」

「ありがとうございます」


ヴィオレッタは裁判長に一礼して、席に戻った。


勝ったわけではない。自分が階段にいたことは、何も変わらない。ただ、自分が突き落としたと示すものも、まだ何もない。


告発の側の席で、ミアが唇を噛んでいた。


◇


「告発人、ミア。前へ」


ミアは証言台に立った。小柄な体を、精一杯まっすぐに伸ばしていた。


検事の質問に、ミアは被害を一つずつ語った。教科書のこと、制服のこと、靴のこと。そして階段のこと。


声は時々かすれた。それでも、言葉は崩れなかった。


「被告人。質問を」


ヴィオレッタは立ち上がって、ミアの前に立った。


「ミアさん。嫌がらせは、全部本当にあったことですね」

「当たり前です」


ミアは、ヴィオレッタをにらんだ。


「あなたに、今さら確かめてもらう必要はありません」


ヴィオレッタは、言いかけた言葉を飲み込んだ。それはお辛かったでしょう、と言うつもりだった。この子に向かって言える言葉ではなかった。


「では、事実だけを伺います。まず、階段の日のことから。あなたはなぜ、あの時間に西棟の階段を下りたのですか」

「呼び出しの手紙が、机に入っていたんです。最後の授業のあとに見つけました。四時半に、西棟一階の資料室へ。奨学金のことで話がある、と」

「差出人は」

「書いてありませんでした」


ミアは、ヴィオレッタをにらんだ。


「あなたが書いたんじゃないんですか」

「私は書いていません。と言っても、あなたは信じないでしょうね」


ヴィオレッタは、手元の紙に何かを書きつけた。


「手紙は、今もお持ちですか」

「夜会のあとで、警吏の方に渡しました。……名前も紋章もない、ただの紙でした」


検事が、小さく頷いた。手紙からは、何も分からなかったということだ。


「では、嫌がらせのほうを伺います。教科書が破られていたのは、いつでしたか」

「九の月の二十四日です」

「よく覚えていらっしゃるのね」

「忘れられるわけがありません」


ミアは即座に言った。


「三冊、全部です。歴史と、法学概論と、算術。法学概論は、奨学金で買った新品でした」

「破られているのに気づいたのは、どこで」

「教室です。実技の授業から戻ったら、鞄の中で」

「実技の授業のあいだ、鞄は教室に置いたままだったのですね」

「そうです。みんなそうしています」


ヴィオレッタは手元の紙に、日付と時間を書き込んだ。


「その日は、何曜日でしたか」

「……火曜日です」

「火曜の午後、私は王宮で王妃教育を受けておりました。毎週、欠かさずです。王宮の出入りの記録が残っています」


検事が立ち上がった。


「被告人が自ら手を下さなくとも、人に命じることはできます」

「ええ、その通りです」


ヴィオレッタは頷いた。


「ですから、もう少し伺います。ミアさん、制服のときは」


ミアは、唇を結んだ。


「……十の月の三日です。実技の授業が終わって、鍵当番の人に更衣室を開けてもらって、着替えようとしたら、ロッカーの中の制服に、インクがかけられていました」

「靴は」

「十の月の十日。同じロッカーに入れていた通学靴が、なくなっていました。噴水の中から見つかりました」

「どちらも、実技の授業中ですね」


ミアの目が、わずかに揺れた。


「それが、何だというんですか」

「十の月の三日は木曜日。私は生徒会の予算会議に出ていました。議事録に名前が残っています。十日も、同じ会議です」

「だから、人に命じたんでしょう」


ミアの声が大きくなった。


「あなたは自分では手を汚さない。そういう人だって、みんな言っていました」

「では、命じられた誰かが、その時間にそこにいたはずですね」


ヴィオレッタは、静かに言った。


「ミアさん。あなたのクラスが実技の授業を受けているあいだ、教室と更衣室に入れたのは誰でしょう」


ミアは答えなかった。


答えられなかったのだと、ヴィオレッタには分かった。この子は頭がいい。質問の意味が、もう分かってしまったのだ。


「授業に出ている生徒は、運動場にいます。私たち三年生は、別の授業か、私のように学園の外です」

「……誰でも、入ろうと思えば入れます」

「ええ。でも、誰がその時間に、運動場にいなかったのか。それを記録している方がいます」


ヴィオレッタは裁判長のほうへ向き直った。


「裁判長。ボリス先生を、もう一度お呼びすることをお許しください。実技の授業の出席簿をお持ちのはずです」


裁判長は、髭に手をやった。


「許可します」


◇


ボリスは、使い込んだ革の手帳を証人席で広げた。


「教師は、出席簿を手放さないもんでね」


照れたように言って、ページをめくった。


「九の月二十四日、二年乙組。見学が三人。十の月三日、見学三人。十日も三人」


ボリスの指が止まった。


「……同じ三人だ」


傍聴席が、ざわりと揺れた。


「名前を」


裁判長が言った。


ボリスは、一度ミアのほうを見た。それから、手帳に目を落としたまま、三つの名前を読み上げた。


最初の名前は、コルネリア・アッシュベリー。伯爵家の令嬢だった。


告発の側の席で、ミアの肩がびくりと跳ねた。


ヴィオレッタは、その横顔を見ていた。驚いている顔だった。それ以上に、信じたくないという顔だった。


「ミアさん。コルネリア様をご存じですか」

「……同じクラスです」


ミアの声が、かすれていた。


「クラスで、ときどき噂話を聞かせてくれた人です。ヴィオレッタ様が特待生を嫌っているって、最初に教えてくれたのも……」


◇


コルネリア・アッシュベリーは、傍聴席から証人席へ呼ばれた。


亜麻色の髪を丁寧に巻いた令嬢は、青ざめてはいたが、証人席に座ると背筋を伸ばした。


「三日とも、なぜ実技を見学なさったのですか」


ヴィオレッタが尋ねると、コルネリアは扇を開いた。


「貧血ですの。季節の変わり目は、いつもそうなりますの」


「三回とも、同じお二人と」

「仲のよい友人ですもの。具合の悪いときくらい、一緒にいて何がいけませんの」


コルネリアは、扇の陰からヴィオレッタを見た。


「おっしゃりたいことは分かりますわ。私たちが、ミアさんの教科書を破ったとでも? でも、それは無理です。私たちは、授業のあいだずっと、運動場のベンチに座っていましたもの。ボリス先生の目の前で」


ヴィオレッタは、ボリスのほうを見た。


ボリスは、太い腕を組んで、うなずいた。


「ああ。見学のやつらは、運動場の端のベンチに座らせてる。あの三人も、そこにいた。それは間違いない」


傍聴席が、ざわめいた。


さっきとは、逆の方向へ。


「ほらご覧なさい」


コルネリアは、扇を閉じた。


「公爵令嬢ともあろう方が、ご自分の罪を逃れるために、見学していただけの私たちに疑いをかけるなんて。ねえ、ミアさん。あなたも、そう思うでしょう」


告発の側の席で、ミアは、唇を噛んで黙っていた。


ヴィオレッタは、手元の紙を見下ろした。


出席簿に同じ三人の名前があった。それだけで、もう答えが出たような気がしていた。浅はかだった。名前が並んでいたことと、その三人が何かをしたことは、まるで別の話だ。


頬が熱くなるのを感じながら、ヴィオレッタは質問を組み直した。


三人がベンチにいたことを疑うのではない。確かめるべきなのは、ベンチにいた時間のほうだ。


「ボリス先生。実技の授業は、どのように進むのですか。始まりから、終わりまで」


ボリスは、意外そうに眉を上げた。


「どのようにって……最初に準備運動をして、それから外周を走らせて、戻ってきたら剣か弓の稽古、最後に整理運動だ。九十分」

「外周、というのは」

「学園の敷地の外側の林道を、ぐるっと一周。二十分ちょっとかな」

「そのあいだ、先生は」

「一緒に走りますよ。誰かがへばったら、引っ張って帰らなきゃならないんでね」


ボリスは答えてから、口をつぐんだ。


自分の言葉の意味に、遅れて気づいた顔だった。


「では、先生が外周を走っていらっしゃる二十分のあいだ、ベンチの三人をご覧になっていた方は」

「……いない」


ボリスの声が、低くなった。


「始まりと終わりに、ベンチにいたのは見ていたんだ。だから、ずっとそこにいたと思ってしまっていた」


傍聴席が、また揺れた。


コルネリアは、扇を握りしめた。


「二十分で、何ができるとおっしゃるの。それに、教室ならともかく、更衣室には鍵がかかっていますわ。授業のあいだは、誰も入れません」

「ええ。そこを伺いたかったんです」


ヴィオレッタは、ボリスに向き直った。


「先生。授業中、更衣室の鍵は、どなたが持っていらっしゃるのですか」


ボリスは、深いため息をついた。


「去年、着替えの盗難があったでしょう。あれから学園の決まりで、授業中の更衣室の鍵は誰かに預けて、その名前を出席簿の端に書くことになってるんです。何かあったとき、誰の責任か分かるように。走らない者がいれば、そいつに預ける」


ボリスは、手帳のページを指でなぞった。指が、端の小さな欄で止まった。


「九の月二十四日、鍵、アッシュベリー。十の月三日、アッシュベリー。十日も、アッシュベリー」


法廷が、しんとした。


コルネリアの唇が、白くなっていた。


「誰も入れません、とおっしゃいましたね」


ヴィオレッタは、静かに言った。


「その鍵を持っていたのは、あなたです」


コルネリアは、答えなかった。


裁判長が、手元の紙に何かを書きつけた。


「証人に申し上げておく。この法廷で偽りを述べれば、それ自体が罪になる。伯爵家の令嬢であっても、例外はない。今の証言を、改めるつもりはありますか」


コルネリアは、傍聴席のほうを見た。


中ほどの席で、二人の令嬢が顔を伏せていた。ボリスが読み上げた、残りの二つの名前の持ち主だった。一人は、肩を震わせて泣いていた。


ヴィオレッタは、その様子を見て、口を開いた。


「裁判長。残りのお二人にも、ご自分の口からお話しいただかなければなりません。同じ時間、同じ場所にいらしたのですから」


コルネリアが、弾かれたように顔を上げた。


「二人は関係ありません」


声が、裏返っていた。


「鍵を受け取ったのは私です。言い出したのも私です。二人は、私が誘ったから、ついてきただけ」


コルネリアは、傍聴席の二人のほうを見なかった。


「二人の家は、うちの寄子ですの。私が誘えば、断れない。……断れないと分かっていて、誘いました。だから、二人には聞かないでください」


長い沈黙があった。


コルネリアは、扇を膝の上に置いた。


「……私たちが、やりました。教科書も、制服も、靴も」


ミアが、両手で口を覆った。


「被告人に命じられたのですか」


検事が、すがるように聞いた。


コルネリアは首を振った。


「いいえ。ヴィオレッタ様とは、お話ししたこともありません」

「では、なぜ」

「ヴィオレッタ様が、特待生を快く思っていらっしゃらないと聞いたからです」


コルネリアは、扇の陰で目を伏せた。


「次の王妃様になる方が、特待生を目障りに思っていらっしゃる。だったら、あの子が学園に居づらくなれば、ヴィオレッタ様のお役に立てる。ゆくゆくは、王宮でお取り立ていただけるかもしれない。……そう思いました」

「では、ミアさんに噂を聞かせていたのは」

「疑われないためですわ」


コルネリアは、ミアのほうを見ずに言った。


「親しげにしていれば、まさか私たちだとは思わないでしょう」


告発の側の席で、ミアが目を閉じた。


検事が、気を取り直したように立ち上がった。


「では、十の月十八日。西棟の階段の件も、あなた方が」

「違います!」


コルネリアの声が、初めて裏返った。


「あの日は、四時の鐘から、マダム・ロウの礼法の補習でした。三人とも、お辞儀がなっていないと言われて。五時の鐘まで、ずっとです」


裁判長が、傍聴席を見渡した。


「マダム・ロウは、おいでですか」


傍聴席の前のほうで、灰色の髪を結い上げた婦人が立ち上がった。女子寮の寮監で、三人に付き添って来ていた礼法の教師だった。


「おります。補習は、確かに四時の鐘から五時の鐘まで、私の部屋で行いました。三人とも、一度も席を外しておりません。ずっと、私の目の前でお辞儀をしておりましたから」


婦人は、三人の令嬢をちらりと見た。


「少しも上達はしませんでしたけれど」


傍聴席の何人かが、こらえきれずに笑った。


嫌がらせの犯人は、分かった。けれど、階段の犯人ではない。


ヴィオレッタは、手元の紙に引いた線を、そこで止めた。


ヴィオレッタは、自分の名前が誰かの出世の道具にされていたことを、黙って聞いていた。腹が立つより先に、背筋が冷えた。


「ちなみに、私が特待生を快く思っていらっしゃらないというのは、誰から聞いたのですか」


ヴィオレッタは尋ねた。


「その話を、最初に貴方に言ったのは誰ですか」


コルネリアは、ためらった。


その視線が、証人席の脇の椅子へ、一瞬だけ流れた。


「……生徒会のノエル様です。九の月の、十二日。生徒会室へ書類を取りに行ったときに」


傍聴席の視線が、一斉にノエルへ向いた。


ノエル・グラントは、手元の書類から顔を上げた。表情は、変わらなかった。


「……ノエル様が?」


告発の側の席で、ミアが小さな声を漏らした。


「教科書を破られた次の日に、生徒会の予備を三冊、届けてくださった方です。殿下のお心遣いだと言って」


ミアは、それ以上は言わなかった。膝の上で握った手が、白くなっていた。


「ノエル様は、何とおっしゃったのですか」

「ヴィオレッタ様が、こうおっしゃっていたと」


コルネリアは、一言ずつ思い出すように言った。


「特待生制度は、今の形のままではいけない。見直さなければ、と」


ヴィオレッタは、息を止めた。


その言葉には、覚えがあった。


九の月十日。生徒会の茶会のあと、王子と二人きりになった部屋で、自分が口にした言葉だった。


特待生制度は、今の形のままではいけない。見直さなければ。もっと多くの子が、もっと上の職まで進めるように。


殿下は、素晴らしい考えだと言った。ティーカップを受け皿に戻しながら。かちりと、いつもより少しだけ大きな音がした。そのことを、なぜか今、思い出した。


あの部屋に、ノエル様はいただろうか。


茶会の片づけをしていた気がする。先に下がった気もする。どうしても、思い出せなかった。


◇


「証人、ノエル・グラント。前へ」


ノエルは、背筋を伸ばして証言台に立った。侯爵家の次男で、王子の一番近くにいる生徒だ。黒い髪をきちんと撫でつけ、制服の襟には皺ひとつない。


「お呼びとあらば、いくらでもお答えします」


ノエルは、裁判長に軽く頭を下げた。


「ただ、先に申し上げておきますと、私は嫌がらせなど誰にも頼んでいませんよ。アッシュベリー嬢が何を聞き違えたのかは知りませんが」

「九の月十二日に、コルネリア様とお話しになったことは」


ヴィオレッタが尋ねた。


「書類を渡したのは覚えています。雑談も少ししたでしょう。生徒会には、学園中の話が集まってきますから」

「その雑談で、私が特待生制度を見直したがっている、とおっしゃいましたか」

「言ったかもしれませんね」


ノエルは、あっさり認めた。


「事実ですから。あなたご自身が、そうおっしゃった」

「どこで、お聞きになったのですか」

「九の月十日の茶会のあとです。私は片づけのために、部屋の隅におりました。あなたが殿下にそうおっしゃるのを、この耳で聞きました」


ヴィオレッタは、言葉に詰まった。


いたのかもしれない。自分が覚えていないだけで。


「殿下と二人きりのつもりでいらしたなら、申し訳ない。書記というのは、家具のようなものですから」


ノエルは、薄く笑った。傍聴席の何人かが、つられて笑った。


ヴィオレッタは、手元の紙を握りしめた。頬が熱かった。


落ち着いて。自分に言い聞かせた。言葉の出どころが分かったところで、それだけでは何も変わらない。


「では、伺います。私の言葉を聞いて、あなたは、それをどういう意味だと受け取りましたか」

「どういう意味も何も」


ノエルは肩をすくめた。


「見直す。つまり、減らすということでしょう。特待生の数を、あるいは枠そのものを」

「なぜ、そう思われたのですか」

「普通、そう取りますよ。公爵家のご令嬢が、平民の特待生を増やしたがるとは、誰も思わない」

「私は、増やすために見直すと申し上げました」


ヴィオレッタは、ノエルを見た。


「もっと多くの子が、もっと上の職まで進めるように、と。その場にいらしたのなら、続きもお聞きになったはずです」


ノエルは、すぐには答えなかった。


「……そこまでは、聞いていなかったかもしれません。片づけをしていたので」

「でしたら、なぜ、減らすという意味だと言い切れたのですか」

「申し上げたでしょう。普通、そう取ると。殿下も、削るおつもりだと――」


ノエルは、口をつぐんだ。


法廷が、しんとした。


「殿下も、何ですって」


ヴィオレッタは、ゆっくり聞き返した。


「……殿下も、そう受け取られるだろう、と。そう言いたかっただけです」


ノエルの声は平らだった。ただ、その目は、ヴィオレッタではなく、証人席の脇の椅子のほうを向いていた。返事を待つように。


ヴィオレッタは、王子のほうを見なかった。見たら、自分が何を考えているのか、顔に出てしまいそうだった。


「ノエル様。あなたは、殿下の一番近くにいらっしゃる方です。殿下は、特待生制度について、どのようにお考えですか」

「殿下は、身分にかかわらず人を見る方です」


答えは、早かった。


「特待生を支援し、平民にも機会を与えておられる。私のような者にも、目をかけてくださった」


最後の一言だけ、声の温度が違った。


「では、あなたご自身は。特待生を、どう思われますか」

「殿下と同じです」

「ミアさんのことは」


ノエルは、告発の側の席に目をやった。


ミアが、まっすぐにノエルを見返していた。


「……殿下のご厚意に、少し甘えすぎているとは思いますね」

「甘えすぎ、とは」

「自分の立場を、わきまえていない。殿下がお優しいから手を差し伸べておられるのに、まるで自分も同じ場所に立てるかのように振る舞う」

「それは、殿下のお考えとは違うようですけれど」

「違いません」


ノエルの声が、わずかに上ずった。


「殿下はお優しい。だが、お優しいからこそ、つけこむ者が出る。誰かが、殿下の代わりに線を引かなければならない」

「線、とは」

「分というものです」


「生まれには、生まれにふさわしい場所がある。平民が、殿下のお情けを自分の力だと勘違いして、上へ上へと手を伸ばす。そんなことを許していたら、この国はどうなりますか。殿下が守ろうとしておられるのは、そういう秩序なんだ。身分の秩序は、守られなければならない」


言い終えて、ノエルは、自分の声が法廷じゅうに響いていたことに気づいたようだった。


誰も、何も言わなかった。


ノエルは、ゆっくりと、王子のほうを振り返った。


王子は、椅子から立ち上がっていた。


「裁判長」


いつもの、穏やかな声だった。


「今のは、ノエル個人の考えです。私の考えとは違う。彼は、私を慕ってくれるあまり、言葉を誤ったのだと思います。……ノエル、座りなさい」


ノエルの肩が、びくりと揺れた。


ヴィオレッタは、ノエルに尋ねた。


「ノエル様。今のお言葉は、殿下のお考えとは違う。そういうことでよろしいですか」


ノエルは、王子を見た。


王子は、もうノエルを見ていなかった。裁判長のほうへ向き直り、心から申し訳なさそうに目を伏せていた。


ノエルの喉が、一度、動いた。


「……違います」


かすれた声だった。


「私の、考えです。殿下は、関係ない」


言い終えると、ノエルは黙って座った。


傍聴席のどこかで、誰かが聞こえよがしに言った。


「妾腹のくせに、身分の秩序とはね」


ノエルは、顔を上げなかった。


◇


裁判長が休廷を告げた。


ヴィオレッタは、法廷の裏の廊下で窓を開けた。秋の冷たい風が、火照った頬に当たった。


手袋を外すと、指先が白くなっていた。


足音がした。


振り返ると、ミアが立っていた。廊下の角で、付き添いの書記官が困った顔をしている。


ミアは、近づいては来なかった。三歩ほど離れたところで、立ち止まった。


「……ノエル様が、あんなことを考えていたなんて」


ミアは、床を見たまま言った。


「教科書を届けてくださったとき、困ったことがあれば何でも言いなさいって。殿下のおそばの方だから、殿下と同じように、平民にも分け隔てのない方なんだと思っていました」


ミアの指が、制服の袖をつまんでいた。


「身の程を知らない平民。……あの方は、ずっと、私をそう見ていたんでしょうか」

「分かりません」


ヴィオレッタは、正直に答えた。


「殿下は、ご存じだったんでしょうか」

「それも、分かりません」


ミアは、しばらく黙っていた。それから、顔を上げた。目が赤かった。


「だからって、あなたを信じたわけじゃありません。嫌がらせは、あなたじゃなかった。それは分かりました。でも、階段のことは何も分かっていない。あの時間、あそこにいたのは、あなたです」

「ええ。その通りです」


ヴィオレッタは頷いた。


「私を信じる必要はありませんわ。誰の言葉でもなく、法廷で確かめられたことで決めればいいの」


ミアは、唇を噛んだ。


書記官が、そろそろ、と声をかけた。ミアは一礼して、廊下を戻っていった。


◇


再開した法廷で、ヴィオレッタはジュリアンに証人としての質問を求めた。

そして、ジュリアンは、ためらいなく証言台に立つ。


ヴィオレッタが、証言台の前に立った。


「殿下。先ほどノエル様は、殿下も削るおつもりだと、言いかけました」

「ああ。聞いていたよ」


王子は、ためらわなかった。


「ヴィオレッタ。君が特待生制度を広げたいと考えていたことは、私も理解していたつもりだ。茶会の日に、君がそう話してくれたからね」


王子は、ヴィオレッタをまっすぐに見た。


「だが、急な改革は、貴族の強い反発を招く。そうなれば、ミアのような特待生が、かえって危ない立場に置かれる。私はそれを心配していた。ノエルにも、その不安を話したことがある。それが、削るべきだと聞こえたのなら、私の言葉が足りなかったのだろう」


傍聴席の何人かが、うなずいた。


「ミアにも、同じ不安を伝えた。だが、言葉を選び損ねて、結果として君への誤解を招いてしまった。それは、私の責任だ」


王子は、ヴィオレッタに向かって、それから裁判長に向かって、頭を下げた。


「申し訳ないことをした。ヴィオレッタにも、ミアにも」


見事だった。


理想は理解していた。だから心配した。伝え方を誤った。責任は自分にある。どこにも、つけいる隙がない。


傍聴席から、感心したようなため息が聞こえた。


「ヴィオレッタ」


王子は、困ったように眉を下げた。


「今回のことで、君が私に不満を持つのは分かる。あの夜、婚約者として、君を庇ってやれなかったからね。だが、ここは君の気持ちを晴らす場所じゃない。法廷だ。ミアの一連の事件について、私をここに立たせて、どうしようと言うんだい」


傍聴席の何人かが、またうなずいた。


ヴィオレッタの頬が、熱くなった。違うと言いかけて、言葉を飲み込んだ。ここで声を荒らげれば、殿下の言ったとおりの女になる。


手元の紙に目を落とした。


そのとき、告発の側の席で、ミアが立ち上がった。


「裁判長。告発人として、殿下にお尋ねしてもよろしいでしょうか」


裁判長は、眼鏡の奥からミアを見た。


「告発人には、その権利がある。許可します」


ミアは、証言台の前まで歩いた。足が震えていた。


「殿下。九の月の十日の夜のことを、覚えていらっしゃいますか。奨学金の継続の通知が届いた日です。殿下は、寮の前まで、お祝いを言いに来てくださいました」

「もちろん覚えているよ」

「そのとき、殿下はこうおっしゃいました。ヴィオレッタは、特待生制度を見直さなければと言っていた。君のような者が増えるのを、好まないらしい、と」


傍聴席が、静かになった。


「さっき殿下は、ヴィオレッタ様が制度を広げたいとお考えだと、理解していたとおっしゃいました」


ミアは、王子を見上げた。


「それなら、どうして、私のような者を好まない、とおっしゃったんですか」

「言葉を選び損ねた、と言っただろう」


王子の声は、穏やかだった。


「あの夜、私は言うべきではなかったと言ったはずだ。忘れてくれ、とも」

「忘れられませんでした」


ミアは言った。


「その夜は、眠れませんでした。次の日から、ヴィオレッタ様とすれ違うのが怖くなりました。そのことを、殿下に何度もご相談しました。教科書のときも、制服のときも」


ミアの声が、かすれた。


「そのたびに殿下は、ヴィオレッタは悪い人間じゃない、ただ、とおっしゃいました。ただ、昔から、自分より目立つ者が好きではないんだ、と。……一度も、誤解だったとは、おっしゃいませんでした」


王子は、答えなかった。


「殿下」


ミアは、まっすぐに王子を見た。


「殿下は、本当に、私の夢を応援してくださっていたのですか」


法廷が、静まり返った。


「入学したとき、誰も私に話しかけてくれませんでした。殿下だけが、声をかけてくださいました。判事になりたいと言ったら、素晴らしいと言ってくださいました」


ミアの目から、涙がこぼれた。拭おうとはしなかった。


「だから私は、殿下のおっしゃることは、全部正しいと思っていました。殿下が心配だと言えば、心配するべきことなんだと。殿下が言いにくそうにした人のことは、悪い人なんだと」


ミアは、王子から目を逸らさなかった。


「でも、私は何も確かめていなかった。殿下のお言葉だけで、ろくに話したこともない人を憎んでいました」


王子の唇が、薄く開いた。


「もう、そういうことはしません。誰の言葉でも、そのまま信じて人を憎んだりしません。たとえ殿下のお言葉でも。自分で確かめます。今日、ヴィオレッタ様がそうしたように」


ミアは、そう言って、深く頭を下げた。


それは、礼ではなかった。別れの挨拶だった。


王子は、しばらく何も言わなかった。


やがて、ゆっくりと口を開いた。


「ミア。君は疲れているんだ。今日は、たくさんのことがあったからね」


声は、いつものように柔らかかった。


「落ち着いて、思い出してごらん。君を特待生に推薦したのは、誰だった。誰も君に話しかけなかったとき、手を差し伸べたのは」


ミアは、頭を下げたまま動かなかった。


王子の指が、証言台の縁を、一度だけ叩いた。


「顔を上げなさい」


ミアは、上げなかった。


「……私が何もしなければ」


王子は、微笑んだままだった。ただ、ミアを見下ろす目が、まるで靴の裏についた泥を見るようだった。


「誰のおかげで、お前のような平民が、この学園の門をくぐれたと思っている」


誰も、動かなかった。


王子の唇が、閉じた。


閉じてから、彼は自分の言葉を聞いたのだと、ヴィオレッタには分かった。


傍聴席の一番後ろ、柱の陰で、椅子の倒れる音がした。ミアと同じ制服の生徒たちが、立ち上がっていた。特待生の席だ。五、六人の顔が、黙って王子を見ていた。


「裁判長。今のは」

「記録しました」


オルド裁判長が、平らな声で言った。


王子は、ゆっくりと息を吐いた。


それから、顔を上げた。いつもの、穏やかな表情に戻っていた。


「失言だった。認めよう。私も人間だ。……だが、それは私の不徳であって、罪ではない。もちろん今回の一連の件にも、何の関係もない」


傍聴席が、ためらうように静まった。


その通りだった。差別的な言葉を吐いたことは、人を突き落とすよう命じた証にはならない。王子は、それをよく分かっていた。


ヴィオレッタは、立ち上がった。


「裁判長。殿下に、もう一度だけお尋ねしてもよろしいでしょうか」


裁判長は、王子とヴィオレッタを順に見た。


「許可します。被告人は、本件に関わることだけを」

「はい」


ヴィオレッタは、証言台の前に立った。


王子と、目が合った。夜会の夜から、何度も合わせてきた目だった。今は、その目の奥に、さっきまでなかったものが見えた。


膝は、もう硬くなかった。


ヴィオレッタは、最初にミアが階段から落とされたとされる時刻、どこにいたかを聞いた。


王子はよどみなくスラスラと回答をした。

階段の事件の時刻、自分は職員室にいた。三人の教員が、四時の鐘から五時過ぎまで、それを見ている。検事の確認でも、それは間違いなかった。


「殿下。ミアさんが階段から落ちた翌朝、医務室へお見舞いにいらっしゃいましたね」

「ああ。誰より先に行った。当然だろう」

「そのとき、ミアさんに、何をお話しになりましたか」


王子の眉が、わずかに動いた。


「怪我の具合を聞いた。それから、ゆっくり休むようにと」

「それだけですか」

「……覚えていないな。ずいぶん前のことだ」

「ミアさんは、夜会で、こうおっしゃいました」


ヴィオレッタは、手元の紙に目を落とした。


「目が覚めてすぐに、殿下から聞きました。あなたが階段から下りてきたところを、見た人がいるって」


王子の顔から、笑みが薄れた。


「殿下は、ミアさんに、私が階段を下りてきたとお伝えになりましたね」


王子は、ミアのほうを見た。ミアは、告発の側の席で、まっすぐに王子を見返していた。


「……伝えたかもしれない。被害者には、知る権利がある」

「では、伺います」


ヴィオレッタは、顔を上げた。


「殿下は、そのことを、どなたからお聞きになったのですか」


法廷が、静まり返った。


「ボリス教師だろう。現場にいたのは、彼だ」

「ボリス先生」


ヴィオレッタは、証人席の脇を見た。


ボリスは、太い腕を組んだまま、首を横に振った。


「最初に申し上げたとおりです。俺は、警吏の方が来るまで、誰にも話してません。殿下にも」

「では、医務官が――」

「医務官の先生にお伝えになったのは、ミアさんの怪我の具合と、倒れていたときの様子だけ。ボリス先生は、そう証言なさいました。学園長への報告にも、私の名前は書かれていませんでした」


王子は、口を開いて、閉じた。


ヴィオレッタは、一つずつ、言葉を置いていった。


「殿下。あの日、私が階段を下りてきたのを見たのは、ボリス先生だけです。ボリス先生は、夜会の後に、ミアさんの告発により初めて警吏が来るまで、誰にもそれを話していません。私自身も、父にさえ話しておりません。そして殿下は、その時刻、職員室にいらした」


王子の顔から、表情が消えていった。


「それなのに、殿下は翌朝、授業が始まる前に、もうご存じだった」


ヴィオレッタは、王子をまっすぐに見た。


「殿下は、どこで、それをお知りになったのですか」


王子は、答えなかった。


ヴィオレッタは、静かに告げた。


「その場にいらしたか。そうなるように仕組んだのでなければ、ご存じのはずがありません」


一瞬、何の音もしなかった。


それから、傍聴席が揺れた。今日いちばん大きな、どよめきだった。裁判長の木槌が二度、三度と鳴った。


その間、王子は、証言台の縁を握りしめていた。


その目が、ヴィオレッタを睨んでいた。穏やかさも、困ったような眉も、どこにもなかった。剥き出しの憎しみだけが、そこにあった。


ヴィオレッタは、その視線を受け止めた。


逸らさなかった。


「私からの質問は、以上です」


◇


判決は、その日の夕方に言い渡された。


「被告人ヴィオレッタ・ハーシェルに対する告発について。被告人が告発人への嫌がらせを命じたと認める証拠はない。また、西棟の階段における傷害を、被告人が実行し、または指示したと認めるに足る証拠もない」


主文。被告人は無罪。


傍聴席から、ため息のような声が漏れた。


証人席の脇で、ボリスが腕を組んだまま、ヴィオレッタのほうへ小さく顎を引いた。


「なお、告発人が受けた嫌がらせについては、アッシュベリー嬢ほか二名の関与を認め、学園及び王立警吏に送る。階段の傷害の実行者については、本法廷では特定に至らない」


裁判長は、そこで一度、言葉を切った。


「第一王子殿下が、事件の翌朝、正式な報告より前に被告人の所在を知っていた経緯は、本法廷では明らかにならなかった。王立警吏は、この点を含めて、階段の件の調査を継続すること」


裁判長は、一度だけノエルのほうを見た。それから、王子のほうを見た。


王子を有罪とする言葉は、どこにもなかった。彼が階段の事件を命じたという証拠も、どこにもない。


ただ、公明正大で知られた第一王子の口から出た一言と、答えられなかった一つの問いを、王都の半分の貴族が自分の耳で聞いていた。


閉廷の前に、ヴィオレッタは手を挙げた。


「裁判長。もう一点だけ。第一王子殿下との婚約の解消を、私の側から、正式に申し立てます」


王子は、何も言わなかった。


「申し立ては、王室典範に基づき、陛下へ送られます」


裁判長は言った。


◇


王宮の北の端に、使われなくなった離宮がある。


ノエル・グラントがそこを訪ねたのは、判決から二か月後の、雨の夜だった。


階段の事件の調べは、まだ続いていた。ノエルは生徒会を解かれ、侯爵家の門からも締め出されていた。殿下を王太子候補から外すかどうか、近く評議会が開かれる。そう聞いていた。


離宮の廊下を歩きながら、ノエルは、初めて殿下に声をかけられた日のことを思い出していた。


入学したばかりの春。兄に命じられて、兄の課題を夜通し清書していた。屋敷では、妾腹の字が兄の名の書類に混じるだけで、正妻に叱られた。


その清書を生徒会室に届けたとき、殿下が紙に目を通して言った。


この字は、誰のものだ。


叱られると思った。僕です、と答えた。


殿下は、笑った。


君は、誰よりも優秀だね。私のそばにいてくれないか。


その一言で、十六年分の夜が、全部報われた気がした。


暖炉のある部屋の扉を開けると、殿下は椅子に座っていた。


「殿下」


ノエルは、膝をついた。


「まだ、お役に立てます。評議会の議員のうち、三人は賭博の借金を抱えています。一人は、領地の税を二重に取っている。証拠は、私の手元にあります。それを使えば、評決はまだ」

「ノエル」


殿下は、暖炉の火を見たまま言った。


「お前には、もう使い道がない」


ノエルは、すぐには意味を飲み込めなかった。


「……法廷で、殿下が私をお切り捨てになったのは、お立場のためだと分かっています。恨んでなどおりません。私は、殿下のご命令どおりに動いただけで」

「命令?」


殿下は、初めてノエルを見た。


「私が、何を命じた」

「茶会のあとで、ヴィオレッタ様のお話を……それに、階段の」

「私は、ヴィオレッタが特待生を削りたがっていると皆が思えばいい、と言った。あの平民が目障りだ、とも言ったかな。ヴィオレッタがあの時刻に生徒会室へ戻れば面白い、とも」


殿下は、肘掛けに頬杖をついた。


「手紙を書いたのはお前だ。書類を書棚に残したのも、お前だ。背中を押したのも、お前だ。私は、こうなればいいと言っただけだよ。いつも、そうだった」


暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。


「……あの朝、殿下がミアに、ヴィオレッタ様のことをお話しにならなければ」


ノエルは、膝の上で拳を握った。


「法廷で、あんな問いを向けられることもなかったはずです」

「そうなっているはずだったからね」


殿下は、つまらなそうに言った。


「あの女が書類を取りに戻って、あの階段を下りてくる。お前がそう段取りしたんだろう。あの三人が補習で縛られている時刻を選んだのも、お前だった。……本当に見ていた教師がいたと知ったのは、あの法廷でだよ。運がいいと思ったんだがな」


殿下は、暖炉の火に目を戻した。


「あの女が、あそこまで食い下がるとは思わなかった」


「なぜ」


ノエルの声が、かすれた。


「なぜ、私を、おそばに置いてくださったのですか。私を分かってくださったのは、殿下だけでした」

「分かっていたさ」


殿下は、短く笑った。法廷で見せたのとは違う笑い方だった。


「お前は、一度も褒められたことのない犬の目をしていた。一度撫でてやれば、どこまでもついてくる。使いやすかったよ」


ノエルの唇が、震えた。


「それに、見ていて面白かった。平民の女の腹から出てきた者が、必死に貴族の真似をしているのは」


あなたは貴族なのよ。


母の声が、どこかで聞こえた気がした。


離れの狭い部屋で、熱にうかされながら、母は何度もそう言った。あなたは侯爵様の子。誰よりも立派な貴族になるの。


母は、最後まで、本館に一度も呼ばれなかった。


「……殿下」


ノエルは、膝をついたまま、殿下の袖に手を伸ばした。


「お願いです。私には、殿下しか」


殿下は、その手を振り払った。


「触るな。卑しい手で」


ノエルの手が、宙に浮いたまま止まった。


殿下は、もう彼を見ていなかった。暖炉に向き直り、肘掛けの上の手紙の束に手を伸ばした。


手紙の横に、銀のペーパーナイフが置いてあった。


ノエルが毎朝、殿下宛ての手紙を開けるのに使っていたものだった。


ノエルの手が、それに触れた。


◇


第一王子が離宮で腹心に刺されたという話は、翌朝には王都じゅうに広まっていた。


傷は深かったが、命は取り留めたという。


ノエル・グラントは、その場で取り押さえられた。階段の事件も自分がやったと認めた。ただ、誰の指図だったかと聞かれると、何も答えなかったという。


評議会は、三日で結論を出した。法廷での失言。最も近い側近に刺されるまでの、歪んだ主従関係。統治者として、人を見る目にも、人を治める力にも、重大な疑いがある。


ジュリアンは、王位継承の資格を失った。


その後、王子の姿を見た者はほとんどいない。離宮の一室に閉じこもり、侍従が部屋に入るたびに、その手に何を持っているか確かめずにはいられない。そんな噂だけが聞こえてきた。


学園では、コルネリア・アッシュベリーと友人二人が退学になった。


◇


ミアが公爵家を訪ねてきたのは、王都の噂が落ち着いたころだった。


応接間のソファに浅く腰かけて、ミアはなかなか口を開かなかった。紅茶が冷めていくのを、ヴィオレッタは黙って待っていた。足元では、グレイが客の靴の匂いを熱心に嗅いでいた。


「私は、愚かでした」


やがて、ミアは深く頭を下げた。


「殿下の言葉を、何も疑わずに……本当に、ごめんなさい」


ヴィオレッタは、カップを置いた。


「まったく。あなた方平民の、悪い癖ね」

「……え?」

「すぐに頭を下げることよ」


ミアが顔を上げた。


「謝れば、自分が悪いと認めたことになる。そうして、頭を下げた人間だけが責められるの」

「でも、私が間違っていたのは、事実です」

「ええ。間違っていましたね」


ヴィオレッタは、あっさり言った。ミアの肩が、小さく縮んだ。


「それから、あなたが謝るなら、私も一つ、言っておかなければならないことがあります」

「……何ですか」

「あの夜会で裁判を言い出したのは、身の潔白を示すためだけではなかったの。殿下が何を考えていらっしゃるのか、確かめたい気持ちもあった。茶会の日から、何かが小さく引っかかっていたから」


ヴィオレッタは、紅茶の表面を見つめた。


「あなたが傷ついた事件を、私は自分の疑問を確かめる場にもしました。それは、あなたを助けるためではなかった」


ミアは、目を瞬いた。


「それは、謝ることなんですか」

「謝りはしません。間違ったことをしたとは思っていないもの。ただ、あなたには知っておいてほしかったの。私も、全部が善意だったわけではない、と」


ミアは、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。


「間違いを認めたことまで、恥じる必要はありませんわ」


ヴィオレッタは、ミアのカップに熱い紅茶を注ぎ足した。


「頭を下げた人間が、そのせいで踏みつけられる。そんな世の中を変えるために、あなたは学園へ来たのでしょう?」

「……はい」

「でしたら、頑張りましょう。お互いに」


ミアは、注ぎ足された紅茶を見つめていた。


それから、両手でカップを持って、一口飲んだ。


「熱いです」

「冷めたのを飲むより、ましでしょう」


ミアが、やっと少しだけ笑った。


◇


一年が過ぎた、春。


王都の下町の、古い石造りの建物の二階。看板も出ていない小さな部屋に、机が二つ並んでいる。


一つは、王妃にならなかった公爵令嬢のもの。もう一つは、王立学園を首席で卒業したばかりの平民のものだ。


法律相談所、と呼ぶには、まだ小さすぎる。依頼人の大半は、代金を払ってもらえない職人や、主家に給金を踏み倒された使用人だ。報酬は、パンだったり、繕い物だったりする。


二人の意見は、だいたい三回に一回は合わない。


「ですから、まず相手方に書面で」

「書面なんて送ったら、証拠を隠されます。先に現場を見に行くべきです」

「あなた、先月もそう言って、子爵家の料理長さんを訪ねていきましたわよね。台所の仕入れ帳を見せてもらうって」

「料理長さんが、ものすごく親切だったんです」

「親切だったのは、あなたが洗い物を三時間手伝ったからでしょう」

「ヴィオレッタ様だって、今朝、乗馬服のまま事務所に来ましたよね。郊外を一周してきたって」

「それは、その、馬にも運動が必要ですもの」

「グレイまで連れて」

「グレイにも、運動が必要ですもの」


扉が叩かれたのは、そんな言い合いの最中だった。


入ってきたのは、粉だらけの前掛けをつけたままの、十五、六の少年だった。


「あの……ここで、話を聞いてくれるって」


少年は、帽子を握りしめていた。


近くのパン屋で働いている。主人が子爵家に納めたパンの代金を、もう半年も払ってもらえない。催促に行ったら、門番に追い返された。平民がつけで商売をするのが悪いと言われた。主人は寝込んでしまった。


ヴィオレッタは、少年の話を最後まで聞いた。


納品の記録はあるか。受け取りの署名は。子爵家の誰が受け取ったか。


一つずつ確かめるたびに、少年の答えははっきりしていった。記録は、主人が全部帳面につけていた。受け取りの署名も、毎回もらっていた。


ヴィオレッタは、ペンを置いた。


「なるほど。よろしい、それでは……」


隣の机で、ミアが立ち上がった。


「裁判、ですね」

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― 新着の感想 ―
ものすごく面白かった!!
裁判モノ面白かったです。 わかりにくくなりやすい時系列の説明もAIで整えられていたし、私としては読みやすかったです。 パン屋の案件、その裏にはなんと国家を揺るがす陰謀が、なーんて、二人の活躍がまた読み…
ゾクゾクしました!面白い!
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