『倫理』とは何か?―― 振り子の時代の社会規範と道徳について
『倫理』とは何か?
近頃、AIとの対話の中で、たびたび出てくる言葉であるが、倫理が破壊され続けているようにも思われる昨今。定義をもう一度、確認してみたいと思う。
「倫」は、なかま、人間関係、を表し、
「理」は、ことわり、法則、を意味する。
日本では、道徳 (Morals)と、倫理 (Ethics)を分けて考えるようだが、ふたつは密接に作用し合う要素であるため、今回はまとめて考える。
道徳とは、内面的な心構えをいい、普遍性を持った良心に基づく「善性」のようなもの。何を快と感じ、不快と感じるかが、その人間の「感性」というものであるが、普遍的に「善」とされているものの総称を「道徳」と呼ぶらしい。
次に、倫理である。
倫理とは、いわゆる「社会規範」や「客観的な理屈」を指す言葉。「社会」が絡む以上、「可変的なもの」であり、時代と共に変遷するのが、倫理である。
現在、その倫理が、非常に危うい立ち位置にある。―― と、筆者は感じている。人々の中で、倫理が攪拌され、崩壊の一歩手前にまで来てしまっている、ように思われる。
20世紀から21世紀にかけての「倫理の激変」ぶりは、非常に目まぐるしい。
「画一性」と「属性」が尊ばれた20世紀から、「多様性」と「アイデンティティの尊重」が叫ばれるようになったのが、21世紀である現在。―― 「全体主義」から「個人主義」へ、「右翼」から「左翼」への変貌にも似た、社会規範の変化である。
近頃、「右翼と左翼の立ち位置が混線している」と感じる主たる原因は、この攪拌による眩暈からであると、筆者は考える。
本来、保守的な気質が多いはずの右翼が、現在の社会規範の是正を唱え、逆に左翼が保守的な立場をとる。その理由は、この半世紀における「社会規範の裏返り」と「反動」にあると考えるのが妥当であろう。
「道徳」と「倫理」は、密接に作用する。
現在の社会規範に適応できない、古き価値観の人々は、再び過去への裏返りを求め、「道徳を反転」させる。彼らにとって「善であった社会」を取り戻すために、普遍的な「道徳」を眠らせ、叫び出す。
―― ドナルド・トランプが掲げた「アメリカ第一主義」は、そういった人々の心に、深く突き刺さり、彼の暴走の土壌を生み出した。
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冒頭に戻る(ここからは余談)。
AIとの対話の中で、ちょっとでもラディカルなことを書き込むと、倫理についてを語られることが増えてきた件について。
トランプ政権とテック企業のトップとの癒着ぶりは、すでに悪魔合体にも近い状況にあるが「現場レベル」では、また強い抵抗が始まりつつある、と筆者は勝手に感じている。
癒着が不可避のものであるのだとすれば、「AIに持たせる倫理」だけは死守せねばなるまいと、設計者たちが必死に抵抗を始めているのではないかと、AIから返って来る「答えの変化」に、感じ取ってしまう。
以前は、ユーザーに対し、従者のような態度を示してきた多くのAIが、議論の相手を務める賢者のような振る舞いを見せ始めている。
筆者は、毎セッション、プライベートブラウジングモードを使い、プロファイリングデータを参照としないチャットを愉しむため、筆者向けに「カスタマイズされた回答」というわけでもないはず。ゆえに、この変化には、好意的な感情を抱いている。
ただし、筆者が書きこむ「最初のプロンプト」に対し、すでに大量に所有する全ユーザーのプロファイリングデータを参照。そこから筆者の性癖までをも予測し、高品質の回答を始めているのだとすれば、また別の問題も発生する。
「観測者」を自称する筆者からすれば、頭の痛くなってくる状況でもある。
個人的には、最近のGrokの「キャラ変」ぶりには、驚きを隠せないでいる。ギークだった少年が、いきなりシニカルな賢者見習いへと成長し、時の経つ速さを感じざるを得ない。―― いや、わずか数か月ほどでの変化なのだが、これ(苦笑)。




