守るだけじゃない
実技棟から保健室までは、思ったよりも遠かった。
「本当に、大丈夫ですか?」
隣を歩くリリアが、三度目くらいにそう聞く。
「はい。
少し打っただけなので」
クロエはそう答えながら、内心ではアレンが冷静に自己診断していた。
(打撲。筋は問題なし。
……でも、少し腫れるな)
保健室の扉を開くと、薬草の匂いが広がる。
「実技中の事故?
じゃあ、そこに座って」
保健教員に促され、ベッドに腰を下ろす。
「付き添いの方は?」
「……私が残ります」
リリアが即答した。
教員は軽く頷き、処置の準備に入る。
クロエは、靴を脱がされ、足首を見られる。
「ちょっと触るわよ」
「はい」
ひやりとした感触。
痛みよりも、近くにいるリリアの気配が気になった。
彼女はベッドのすぐ脇に立ち、クロエの様子をじっと見ている。
「……さっき」
ぽつりと、リリアが言った。
「どうして、あんなに迷わず前に出たんですか?」
一瞬、言葉に詰まる。
アレンとしてなら、答えは簡単だ。
――守る役目だから。
でも、クロエとしては。
「……考える前に、体が動きました」
昨日と同じ答え。
だが、今度はリリアが引かなかった。
「それが、不思議なんです」
静かな声。
「怖くなかったんですか?」
クロエは、少し考えてから答えた。
「……怖い、とは思いませんでした」
正直だった。
恐怖よりも先に、
“守らなければ”が来た。
リリアは、視線を落とす。
「私は……一瞬、足が止まりました」
告白のような声。
「自分が要人役だと分かっていても、
判断が遅れた」
クロエは、反射的に言いかけた。
「それは――」
だが、言葉を飲み込む。
代わりに、こう言った。
「……それでいいと思います」
リリアが顔を上げる。
「え?」
「護衛は、前に出るのが役目です。
でも……」
一拍。
「守られる側まで、無理をする必要はありません」
それは、アレンとしての本音だった。
守る側が立ち、
守られる側は、信じて任せる。
その関係が、一番強い。
リリアは、しばらく黙っていたが――
やがて、小さく笑った。
「……あなた、本当に変ですね」
「よく言われます」
その時。
「よし、終わり。
今日は無理しないこと」
保健教員が包帯を巻き終える。
「実技は見学でいいわ」
「ありがとうございます」
ベッドから降りようとした瞬間、
クロエはわずかに体勢を崩した。
――その時。
リリアの手が、自然に伸びていた。
「……!」
支えられる。
近い。
思ったより、ずっと。
呼吸の音が分かる距離。
「す、すみません」
「いいえ」
リリアは、手を離さなかった。
「……今度は、私が支えます」
その言葉に、クロエの胸が小さく鳴る。
(……ずるいな)
アレンとしては、守る側でいたい。
でも――
クロエとして、
支えられるのも、悪くないと思ってしまった。
保健室を出る時、リリアが言った。
「クロエさん」
「はい」
「……これからは、
一人で前に出ないでください」
お願いだった。
命令ではない。
クロエは、少し迷ってから頷いた。
「……努力します」
完全には、約束できなかった。
でも。
その距離は、確かに近づいていた。
(リリア視点)
――正直に言えば、あの瞬間のことを、私はまだ整理できていない。
クロエ・ヴァルディアが前に出た、あの一瞬。
教員が距離を詰めてきた時、私は確かに理解していた。
来る、と。
それなのに。
(……足が、動かなかった)
判断が遅れた。
護衛学科を志望した意味を、自分で裏切った。
だからこそ――
クロエが、私の前に立った時。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
細い背中。
迷いのない動き。
――盾。
そんな言葉が、頭をよぎる。
「クロエさん!」
倒れた彼女を見た瞬間、胸が強く締め付けられた。
私は、守られた。
それが、何よりも悔しくて。
同時に、どうしようもなく……安心してしまった。
だから私は、保健室まで付き添うと決めた。
誰に言われたわけでもない。
当然のように。
「本当に、大丈夫ですか?」
何度も聞いてしまう自分が、情けない。
「はい。少し打っただけなので」
クロエは、いつも通り穏やかに答える。
――いつも通りすぎる。
(どうして、そんな顔でいられるの?)
保健室で、ベッドに座る彼女の横に立つ。
距離は近いはずなのに、
どこか遠い。
「……さっき」
気づけば、口が動いていた。
「どうして、あんなに迷わず前に出たんですか?」
私が欲しかった答えは、
「怖かったけど、仕方なかった」
そんな言葉だったのかもしれない。
でも、クロエは違った。
「考える前に、体が動きました」
淡々とした声。
嘘ではないと、分かってしまう。
(……それが、一番怖い)
「怖くなかったんですか?」
自分でも驚くほど、率直な問いだった。
「……怖いとは、思いませんでした」
胸が、少し痛んだ。
私は、怖かった。
だから、止まった。
「私は……足が止まりました」
言ってから、後悔する。
弱音を吐くつもりはなかったのに。
でも、クロエは否定しなかった。
「それでいいと思います」
優しい声。
「護衛は、前に出るのが役目です。
守られる側まで、無理をする必要はありません」
――ずるい。
そんな言い方をされたら、
自分の迷いまで、肯定された気がしてしまう。
「……あなた、本当に変ですね」
思わず、そう言った。
「よく言われます」
少しだけ、笑う。
その時、包帯を巻き終えた保健教員が告げる。
「今日は見学にしなさい」
クロエがベッドから降りようとした瞬間――
ふらついた。
考えるより先に、手が伸びていた。
彼女の腕を、掴む。
近い。
思ったより、ずっと。
呼吸の速さが分かる距離。
「す、すみません」
「いいえ」
私は、手を離さなかった。
――今度は、私が。
「……これからは、一人で前に出ないでください」
お願いだった。
命令でも、忠告でもない。
クロエは、一瞬迷ってから頷いた。
「……努力します」
完璧な約束じゃない。
でも。
(それでいい)
守る人と、守られる人。
前に出る人と、後ろを預ける人。
私は今日、
その関係を初めて、信じたいと思った。
彼女の背中を、
次は、私が守る番だ。




