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花影は知らず  作者: おにぎりん
出会いと芽吹き
5/5

「ノートパソコンの向こう」

 今回は、少しだけ彼女の「観察癖」が出てしまったかもしれません。気づいたら目で追ってしまう、というか……。

 あの人の、ノートパソコンの奥の世界。なにを書いてるんだろう、って。

 でも、彼女は別に……詮索するつもりなんか……。

 土曜日の昼下がり。

 カフェのドアが、かすかに揺れた。


 入ってきたのは、楠本さんだった。


 姿を見つけた瞬間、心臓が跳ねた。

 でも、うまく笑顔をつくって、「いらっしゃいませ」と声をかける。


 今日はカウンターには来なかった。

 窓際の席に、まっすぐ向かう。

 それは、少し寂しくて、少し安心だった。


 注文はカフェラテ。

 私はそれを淹れながら、こっそり彼のほうを見る。


 彼は、バッグからノートパソコンを取り出していた。


 ──あ。


 それを見た瞬間、昨日の夜のことが頭に(よみがえ)った。


 「書く人なんじゃないか」

 そう思ったのは、ミナトさんの言葉がきっかけだった。


『あの人、作家だったりしてね』


 冗談っぽく言っていたけど、私は妙に気になってしまって、寝る前までずっと考えていた。

 そして今、目の前の彼がノートパソコンに向かっている。


 やっぱり、書いてるんだろうか。

 何を書いてるんだろう。

 どうして、ここで?


 カフェラテを運びながら、意識はそちらにばかり向いていた。


 テーブルにそっとカップを置く。

 彼は顔を上げて、穏やかに笑った。


「ありがとうございます」


 その一言で、また胸が高鳴る。


 思わず、訊いてしまいそうになった。

 「それ、何を書いてるんですか?」って。


 でも、ぐっとこらえた。


 そういうのって、勝手に踏み込んじゃいけない気がする。

 もし本当に作家だったとしても、ここでの時間はきっと、仕事から離れるためのものかもしれない。


 だから私は、笑顔だけ置いて、カウンターに戻った。


     *


 それからしばらく、私はいつも通りに働いていた。


 でも、楠本さんのことはどうしても気になって、何度もそっちを見てしまった。


 彼は真剣な顔で画面を見つめていて、たまに、何かを打ち込む。


 その横顔には、誰も近寄れないような静けさがあった。


 見てはいけないものを、こっそり覗いているような気持ちになる。


 だけど、それでも目が離せなかった。


 ──何を書いてるんですか。


 胸の奥で、何度も何度も、そう問いかけていた。


     *


 午後三時を過ぎて、彼はパソコンを閉じた。


 顔を上げて、こちらをちらっと見る。


 目が合って、私は思わずカウンターの中で手を動かしてごまかした。


 少しして、彼が席を立つ。


 トレイを持って来てくれるかな、と思っていたら、そのまま出口のほうへ。


 あっ、と思って追いかけようとしたそのとき──


 彼がふいに振り返った。


「……あの、すみません」


 声がかかった。


 私は慌てて出て行く。


「はい、何か……?」


「これ、落としました?」


 彼の手には、一枚の紙があった。


 私が持っていたはずの短歌ノートのコピーだった。


 昨日、書いたばかりの一首。

 バッグのポケットに入れていたはずなのに、どこかで落としたらしい。


「わ、すみません……!」


 私は慌ててそれを受け取った。


「いえ。……でも、きれいな歌でした」


 彼はふっと笑った。


 息が止まりそうになる。


 ……見られた。

 よりにもよって、楠本さんに。


 顔が熱くなって、まともに目を合わせられない。


「ご、ごめんなさい、こんなもの……!」


「謝ることじゃないですよ」


 彼の声は、いつも通り穏やかだった。


「でも、ほんとに……なんというか、言葉がまっすぐで、いいと思いました」


 その言葉が、まるで魔法のように胸に()みた。


     *


 そのあと、彼は軽く会釈して、店を出て行った。


 私はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。


 紙を見下ろす。


 そこにあるのは、たった三十一文字の、(つたな)い私の言葉。


 それを彼が、いいと思ってくれた。


 信じられなかった。


 けれど、嬉しかった。


 足の先から、じんわり温かくなってくるような感覚がした。


     *


 閉店後。

 ノートを開いて、私は今日のことを記した。


 何を書いているのかは、まだ聞けなかった。

 でも、私の言葉を読んでくれた。


 それだけで、今日は充分すぎる。


 誰かに言葉が届くって、こんなにうれしいんだ。

 そんなあたりまえのことを、私は初めて知った気がする。


 短歌のページに、そっと新しい一首を添えた。


 ――「読まれたくない」と「読まれたい」のあいだで揺れる、はじめの気持ち。

 読んでくださって、本当にありがとうございました。

 楠本さんの、真剣なまなざし。見ていると、自分まで背筋が伸びる気がします。


 だけど、彼女はまだ何も知らない。彼のことも、彼が向き合っているものも。

 その「何も知らない」ことを、彼女自身が一番よく知っているのかもしれません。


 ……だから、ほんの少しでも、知りたくなった。

 言い訳みたいな気持ちで、話しかけてしまった。らしいです。


 次回も、また読んでいただけたら嬉しいです。

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