「ノートパソコンの向こう」
今回は、少しだけ彼女の「観察癖」が出てしまったかもしれません。気づいたら目で追ってしまう、というか……。
あの人の、ノートパソコンの奥の世界。なにを書いてるんだろう、って。
でも、彼女は別に……詮索するつもりなんか……。
土曜日の昼下がり。
カフェのドアが、かすかに揺れた。
入ってきたのは、楠本さんだった。
姿を見つけた瞬間、心臓が跳ねた。
でも、うまく笑顔をつくって、「いらっしゃいませ」と声をかける。
今日はカウンターには来なかった。
窓際の席に、まっすぐ向かう。
それは、少し寂しくて、少し安心だった。
注文はカフェラテ。
私はそれを淹れながら、こっそり彼のほうを見る。
彼は、バッグからノートパソコンを取り出していた。
──あ。
それを見た瞬間、昨日の夜のことが頭に蘇った。
「書く人なんじゃないか」
そう思ったのは、ミナトさんの言葉がきっかけだった。
『あの人、作家だったりしてね』
冗談っぽく言っていたけど、私は妙に気になってしまって、寝る前までずっと考えていた。
そして今、目の前の彼がノートパソコンに向かっている。
やっぱり、書いてるんだろうか。
何を書いてるんだろう。
どうして、ここで?
カフェラテを運びながら、意識はそちらにばかり向いていた。
テーブルにそっとカップを置く。
彼は顔を上げて、穏やかに笑った。
「ありがとうございます」
その一言で、また胸が高鳴る。
思わず、訊いてしまいそうになった。
「それ、何を書いてるんですか?」って。
でも、ぐっとこらえた。
そういうのって、勝手に踏み込んじゃいけない気がする。
もし本当に作家だったとしても、ここでの時間はきっと、仕事から離れるためのものかもしれない。
だから私は、笑顔だけ置いて、カウンターに戻った。
*
それからしばらく、私はいつも通りに働いていた。
でも、楠本さんのことはどうしても気になって、何度もそっちを見てしまった。
彼は真剣な顔で画面を見つめていて、たまに、何かを打ち込む。
その横顔には、誰も近寄れないような静けさがあった。
見てはいけないものを、こっそり覗いているような気持ちになる。
だけど、それでも目が離せなかった。
──何を書いてるんですか。
胸の奥で、何度も何度も、そう問いかけていた。
*
午後三時を過ぎて、彼はパソコンを閉じた。
顔を上げて、こちらをちらっと見る。
目が合って、私は思わずカウンターの中で手を動かしてごまかした。
少しして、彼が席を立つ。
トレイを持って来てくれるかな、と思っていたら、そのまま出口のほうへ。
あっ、と思って追いかけようとしたそのとき──
彼がふいに振り返った。
「……あの、すみません」
声がかかった。
私は慌てて出て行く。
「はい、何か……?」
「これ、落としました?」
彼の手には、一枚の紙があった。
私が持っていたはずの短歌ノートのコピーだった。
昨日、書いたばかりの一首。
バッグのポケットに入れていたはずなのに、どこかで落としたらしい。
「わ、すみません……!」
私は慌ててそれを受け取った。
「いえ。……でも、きれいな歌でした」
彼はふっと笑った。
息が止まりそうになる。
……見られた。
よりにもよって、楠本さんに。
顔が熱くなって、まともに目を合わせられない。
「ご、ごめんなさい、こんなもの……!」
「謝ることじゃないですよ」
彼の声は、いつも通り穏やかだった。
「でも、ほんとに……なんというか、言葉がまっすぐで、いいと思いました」
その言葉が、まるで魔法のように胸に沁みた。
*
そのあと、彼は軽く会釈して、店を出て行った。
私はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
紙を見下ろす。
そこにあるのは、たった三十一文字の、拙い私の言葉。
それを彼が、いいと思ってくれた。
信じられなかった。
けれど、嬉しかった。
足の先から、じんわり温かくなってくるような感覚がした。
*
閉店後。
ノートを開いて、私は今日のことを記した。
何を書いているのかは、まだ聞けなかった。
でも、私の言葉を読んでくれた。
それだけで、今日は充分すぎる。
誰かに言葉が届くって、こんなにうれしいんだ。
そんなあたりまえのことを、私は初めて知った気がする。
短歌のページに、そっと新しい一首を添えた。
――「読まれたくない」と「読まれたい」のあいだで揺れる、はじめの気持ち。
読んでくださって、本当にありがとうございました。
楠本さんの、真剣なまなざし。見ていると、自分まで背筋が伸びる気がします。
だけど、彼女はまだ何も知らない。彼のことも、彼が向き合っているものも。
その「何も知らない」ことを、彼女自身が一番よく知っているのかもしれません。
……だから、ほんの少しでも、知りたくなった。
言い訳みたいな気持ちで、話しかけてしまった。らしいです。
次回も、また読んでいただけたら嬉しいです。