「彼の言葉が、光になる」
こんにちは。御堂華の物語を、ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回のお話は、前回に引き続き、少し心情寄りの内容になってしまいました。華の気持ちが少しずつ揺れていく様子を丁寧に描きたいと思ったのですが、もしかすると地味に感じられる部分もあるかもしれません……。
こういった「心のつぶやき」中心のお話、読んでいてどう感じられるでしょうか。よろしければご感想をいただけたら、とても励みになります。
土曜日の朝は、カフェの開店準備よりも少しだけ早く始まる。
冷たい水で顔を洗っても、昨夜の夢の名残が頬の奥に残っているようで、私はまだ少しぼんやりしていた。
夢のなかで誰かと話していた。
けれど、相手の顔も言葉も、目を覚ましたとたんに曖昧になってしまった。
ただ、ひとつだけ──何か大切なことを言われた気がしてならない。
鏡の前でまつげを整えながら、私はふと、前に聞いたある言葉を思い出した。
「うまく言えないんですけど、言葉って、置いていくものだと思ってるんです」
あの日、楠本さんが、マグカップの縁をなぞるようにして言った言葉だった。
言葉は、置いていくもの。
そのフレーズが、昨日からずっと頭の中にこびりついている。
店に着いた私は、少しだけ早く出勤していたミナトさんと、のれんの外で鉢合わせた。
「おはよ、御堂さん。今日、なんかいい顔してるね?」
「え? そ、そうですか?」
ミナトさんは目を細めて、私の髪をくるりと指先で巻くような仕草をした。
そのしぐさがどこか猫っぽくて、思わず笑ってしまう。
「うん、恋してる顔だ。いや、片思いしてる顔?」
「ちょ、ちょっと……!」
慌てて声を潜めたけれど、店内にはまだ誰もいない。
それでもなんだか、言葉が空気に残ってしまいそうで、私は顔を赤くした。
朝の光が差し込むガラス戸をふくと、私の頬に陽が当たる。
そのぬくもりが、彼の言葉と重なって、不意に胸がいっぱいになった。
「置いていく」って、どういう意味だったんだろう。
書くこと? 話すこと? それとも──
その日、楠本さんは午後に来た。
灰色のコートを片手に、小さな文庫本を胸のポケットに入れていて、カウンターの端に静かに座る。
いつもと変わらない、その姿に安心してしまうのが、ちょっと悔しい。
「こんにちは」
そう声をかけた私に、彼は少しだけ微笑んだ。
「今日、明るいですね」
それは空の話だったのか、私のことだったのか、わからなかった。
けれど、そんなふうに話しかけてもらえるだけで、私は胸の奥が少しずつやわらいでいく。
「……あの、昨日のことなんですけど」
勇気を出して言ってみた。
けれど、その先が出てこなかった。
「うん?」と彼が小さくうなずく。
「“言葉って置いていくもの”って、言ってましたよね。あれって……どういう意味だったんですか?」
彼は一瞬だけ目を伏せた。そして、ゆっくり息を吐いてから、答えてくれた。
「昔、ある先生に言われたんです。『本当の言葉は、誰かの心に置かれて、やがて芽を出す』って」
「……芽?」
「はい。すぐに伝わらなくてもいい。時間が経ってから、“ああ、あれってこういうことだったのか”って、気づく言葉。そういうのが、書きたいなって」
私は、ただ頷いていた。
言葉を、残すんじゃなくて、置いていく。
誰かの心に、そっと置かれるもの。
それは、誰かが自分のために選んでくれた贈り物みたいだと思った。
その日の帰り道。
私は久しぶりに、あの短歌ノートを開いた。
ページのすみっこに、あの言葉を書きとめる。
「本当の言葉は、誰かの心に置かれて、やがて芽を出す」
なんてきれいな響きなんだろう。
そう思いながら、私は手のひらを温めるようにして、その言葉をそっとノートに包んだ。
そして、自分なりの一首を添える。
ふりむけば 言葉の影が 揺れていた
ひかりのような あなたの声に
書き終えてノートを閉じたとき、胸の奥でなにかが、確かに音を立てた。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
今回は、楠本さんの言葉が華の中でどう響いたのか、それを確かめるような回でした。彼の存在が、まだ「好き」とまでは言えないけれど、確実に特別になりつつある。その曖昧で繊細な段階を、華らしく表現できていたら嬉しいです。
次回はいよいよ、少しだけ「距離」が近づく予感です。よろしければ、引き続きお付き合いくださいませ。