「恋を知らない花は、風に揺れるだけ」
はじめて小説を書いてみました。
至らぬところも多いと思いますが、やさしい気持ちで読んでいただけたら嬉しいです。
今朝は珍しく、髪がうまくまとまった。
前髪の流れも、左のカールの感じも悪くない。化粧ノリもよし。唇にだけ、ちょっと控えめに色を差した。
「……うん」
鏡に映る自分に、めずらしく合格点をあげて、私はエプロンを手に取った。
昼前の喫茶店は、まだお客さんもまばらで、カウンターの上に差し込む光がまっすぐだ。
窓際の定位置――そこに、彼が座っていた。
楠本さん。いつもひとりでやってきて、決まってアイスカフェラテを頼む人。ノートとペンを取り出して、しばらく無言で書いて、それからぼんやりと外を眺める。その間、コースターの上に置かれたグラスの水滴が、ゆっくりと輪を描いていく。
その姿が、妙に静かで、好きだった。
いや、ちがう。別に「好き」だなんて、そこまでじゃない。……たぶん。
私がテーブルを拭いてまわっていたとき、楠本さんのグラスを下げようと手を伸ばした。指先がふちに触れた、その瞬間。
「……あ」
微熱みたいなものが、手の先から全身にひろがった。
触れたのは、ほんのすこしの水滴。なのに、そこに、彼の体温があるような気がして。まさか、と思いながらも、私は急いで手を引っ込めた。
カップに触れただけで、なに。
おかしい。私、何を意識してるの。そんなの――そんなの、ただの容器じゃん。お冷と一緒じゃん。なのに。
カウンターに戻った私は、手を洗いながら、自分の指先を睨んだ。
「……恋とか、じゃない。断じて」
そう呟いて、さらにもう一回、石けんをつけてこすった。柑橘系の香りが鼻先をかすめる。うん、さっぱりした。気のせいだった。完全に。
でも――
そのあともしばらく、私は他のお客さんのグラスを下げるたび、あの冷たい輪郭を思い出してしまって、手元がおぼつかなかった。
夕方、楠本さんが帰ったあと、私はひとつ息をついた。
「……ふう……」
はたから見たら、ただのお客さん。特別でもなんでもない。常連、っていうだけ。
たぶん。きっと。いや、ぜったい。
「華ちゃん、そんな顔してると、おでこに“初恋”って書かれるわよ?」
カウンター越しに声をかけてきたのは、うちの副店長にして、私の同居人であり、オネエのミナトさん。
背は私よりずっと高くて、前髪は完璧に整ってて、唇には薄いピンクのグロス。しかも今日、白のシャツが眩しいくらい似合ってる。
「そ、そんな顔してません!」
「してるわよぉ~。“カップが熱かった”とか言ってたけど、あれ完全に“カレが熱かった”でしょ?」
「なにそれ恥ずかしいっ!」
「恥ずかしがるってことは、やっぱりそういうことなのねぇ」
ミナトさんは、ふふふ、とまるで推理小説の犯人を当てた探偵のように笑った。
「でもね、華ちゃん。恋っていうのは、窓みたいなものなの」
「窓?」
「そう。今まで気づかなかった世界に、風がふっと入ってくるのよ。……で、髪がちょっと乱れて、頬が赤くなるの」
「……うわ、それ、今の私?」
「正解!」
からかわれてるんだろうけど、ミナトさんの言葉は、ちょっとだけ心に沁みた。
そうか。
これは、風なんだ。突然、部屋に入り込んできた見知らぬ空気。
でも――
だからといって、私はまだ、窓の鍵を開ける準備なんてしてない。
夜。アパートに戻って、私は短歌ノートをひらいた。
あの人に触れた カップを洗って
なぜか右手を 何度も洗う
書きながら、私は自分の掌をもう一度見つめた。
たった数秒の出来事で、心がこうもざわつくなんて。こんなの、私じゃない。
けれど、こんな自分を――ほんのすこしだけ、面白いと思ってしまっているのだった。
ささやかな恋の予感が、まだ言葉にならないまま揺れています。
読んでくださってありがとうございました、次回もよろしくお願いします。