『人を好きになること』を知りたいのです
地味だった私が、突然モテ始めた——
そんな話、他人事だと思っていた。
きっかけは、先週の社交会だった。
これまで異性から見向きもされなかった私が、急に次々と誘われるようになったのだ。
その理由は、髪型を変えたせいだと、ずっと思っていた。
癖毛を隠すように編み込んだ髪。
姉のメリンダに選んでもらったドレス。
どちらも自分では決して選ばないようなものだったけれど、だからこそ——ほんの少し、自信が持てた。
「変わったね」「雰囲気、いいと思うよ」
そんな言葉をもらった気もする。だから私は、てっきりそういうことだと思っていた。
でも、違ったのだ。
そのことを教えてくれたのは、親友のベイシアだった。
ベイシアは呆れたような顔をして、こともなげに言った。
「エレナナ、あんた、あの日に“事故”ったでしょ?」
「事故?」
首をかしげた私に、彼女は容赦なく告げる。
「自分のドレスの裾を踏んで、盛大にテーブルひっくり返したでしょ? ケーキも紅茶もぶちまけて、ドレスも派手にずれ落ちてさ……」
あの瞬間、私は確かに派手に倒れ込んだ。
そして、姉に「勝負よ」と言われて身に着けていた、刺繍入りの下着が……
あろうことか、胸元からちらりとあらわになってしまったのだ。
それを見た男性たちが、私を“女”として意識するようになった。
少なくともベイシアは、そう言った。
「つまりね、モテた理由は“色気”ってやつ。偶然露出してしまったそれに、男たちが釘付けになったってわけよ」
顔が熱くなるのを止められなかった。
なにがドレスと髪型のおかげよ。私は勘違いしていただけだった。
ベイシアは笑って言った。
「でもまあ、それで人生が変わることもあるでしょ? “きっかけ”なんて、案外くだらないものなんだから」
私は、そのときまだ知らなかった。
これが、三人の男性と、そして自分自身を知る旅の、始まりになることを——
その日、私は鏡の前で立ち尽くしていた。
映っているのは、いつもより髪が落ち着いていて、肌の色が明るく見える気がする、少しだけ“別人みたいな”自分だった。
「……ほんとに、これが私?」
髪はメリンダ姉さまが丁寧に編んでまとめてくれた。
いつもはぼさっと広がってしまう癖毛も、しっとりとまとまり、後れ毛までもが計算されたように揺れている。
「ええ、似合っているわよ。可愛いじゃない、エレナナ」
そう言って姉は、にこりと笑った。
完璧な貴婦人である姉に褒められたのは、少しむずがゆくて、でもうれしかった。
ドレスも、姉が選んでくれたものだった。
柔らかな赤に金の刺繍が施された、華やかで品のある一着。胸元のカッティングは少し大胆だったけれど、姉に「このくらいは常識よ」と押し切られた。
下着も、姉が用意していたものをそのまま着た。
深紅のレースと細やかなリボンがあしらわれた、とても……派手で、私の感覚では“勝負下着”というやつに分類されるものだったけれど。
「今日は少し背伸びするの。いい? あなたの良さは、自分で思っているよりずっと素敵なんだから」
姉の言葉に背中を押され、私はその格好で社交会へ向かった。
それが、すべての始まりだった。
実を言えば、期待はしていた。
“少しくらいは見てもらえるかもしれない”なんて、そんな淡い期待が心のどこかにあった。
けれど——
それがまさか、あんな形で注目を浴びることになるなんて、思いもしなかった。
最初に声をかけてきたのは、あのアルデンだった。
ミカシュ侯爵家の次期当主にして、いま最も“社交界で踊る令嬢の夢”の対象となっている男。
彼が、私に手を差し伸べてきたのだ。
「先週のあなた、とても魅力的だった。もう一度、あなたと話してみたくて」
彼の微笑みは、まるで陽だまりのように優しかった。
でも私は、そのときすでに、胸の奥で小さな疑問を感じていた。
——ねぇ、あなたは、私のどこを見ていたの?
社交会の会場は、上位貴族たちが主催する、年に一度の華やかな催しだった。
姉・メリンダが完璧に仕立ててくれた私の装いも、その場にまぎれれば、そう浮いてはいなかったと思う。たぶん。
でも、私は普段どおりに動くことができなかった。
袖の広がりが、歩くたびにふわりと揺れて気になって仕方がない。
慣れないドレスの裾に足を取られぬよう、神経をすり減らしながら、私は必死に“上品に”立ち振る舞おうとしていた。
そして、事件は起きた。
声をかけられて、とっさに振り返ったその瞬間——
かかとが、裾に引っかかった。
「……えっ?」
ぐらりと視界が傾いた。
手を伸ばしたけれど、誰にも届かず、私はそのまま前のテーブルへと突っ込んだ。
——ガシャアアンッ!
上品な音楽が流れていた会場に、紅茶のポットが砕ける派手な音が響く。
カップが跳ねて、ケーキの断面が宙を舞った。
テーブルクロスがずるりと滑り落ち、金糸の飾りが床を引きずった。
気がつけば、私は床に倒れ込んでいた。
そして。
「あっ……!」
ずるりと、胸元の布がずれていた。
視線の先、何人もの男性たちの目が、ぴたりとこちらに釘付けになっている。
姉の選んだ深紅の下着が、鮮やかに視界に焼き付いていた。
露出の多いそれは、たぶん見る人によっては“あえて”そうしたのだと誤解されたに違いない。
誰かが、音を立てて息を呑んだ。
もう誰の目も、逸れていなかった。
私は顔から火が出るほどの羞恥を抱えながら、そっとずれたドレスを引き上げた。
周囲はすぐに気を利かせた給仕たちが動いて片付け始めたが、その光景も、あの視線も、私の記憶からは消えなかった。
……あれが、始まりだったのだ。
私が異性から“女”として見られるようになった、最初のきっかけ。
私のことを「気になる」と言いはじめた男性たちは、皆、あの日の事故を見ていた。
笑えるような、泣きたくなるような——でも確かに、あれが私の転機だった。
それから、世界が変わった。
次々と届く茶会の招待状。
廊下ですれ違っただけで声をかけてくる令息たち。
私のことなど見てもいなかった人たちが、急に「雰囲気、変わったね」と微笑みかけてくる。
……正直、戸惑っていた。
でも、少しだけ浮かれてもいた。
「やっぱり、髪型とドレスのおかげ、だよね」
そう言った私に、向かいのベイシアはため息まじりに笑った。
「違うって言ってるでしょ。あんた、まだわかってないの?」
彼女はあきれ顔で、首を横に振る。
「エレナナ。あんたが“異性”として意識され始めたのは、間違いなく“あの日”からだよ。社交会で、ドレスずれたでしょ?」
「うっ……」
何度思い出しても顔から火が出そうになる、その場面。
私は曖昧に笑ってごまかそうとするが、ベイシアは畳みかける。
「しかも着てた下着、あれでしょ? メリンダ様の“勝負用”。赤いやつ。フリルとレースついてて、背中まで編み上げの」
「そ、そんなに詳しく覚えなくても……!」
「いや、あれは忘れようとしても無理よ。だって、男たち、あれ見て明らかに顔変わったもん」
そう言って、ベイシアはくすくすと笑う。
「でもまあ、わかるよ。普段控えめな子が急にそんな姿見せたら、ギャップってやつで刺さるんだよね」
「ギャップって……それ、私の本質と関係ないじゃない……」
思わず漏れた本音に、ベイシアはぴたりと笑みを止めた。
そして、静かに言う。
「だからこそ、ちゃんと考えた方がいいよ。
本当にあんたを“見て”る人がいるのか。
それとも、あの下着しか見てなかったのか」
その言葉に、私はなぜか背筋を正した。
おかしいな。モテるのは嬉しいはずなのに、胸の奥がざらついて、落ち着かなかった。
もしかして私は——
自分でも気づかないうちに、「ちゃんと見てくれる人」を、探していたのかもしれない。
--
アルデン・ミカシュ。
名門ミカシュ侯爵家の嫡男であり、端正な顔立ちに涼やかな微笑みを浮かべた“完璧な貴公子”。
……そんな彼が、今、私の前に座っている。
上品な紅茶の香りと、ほのかに香水の香りが混じる空間。私は落ち着かない指先でカップを握り直す。
「先日の社交会でのこと、僕、ずっと気になっていたんです。あのときのあなた……すごく、魅力的でした」
あのとき——
つまり、ドレスがずれて、あらわになったあのとき。
どうしてもその意味がよぎって、返事が詰まる。
「まるで、眠っていた花がふわっと咲いたみたいで。ねえ、またお会いしてもいいですか?」
甘い声と、優しい眼差し。
誰もが憧れるアルデンから、そんなふうに言われて、きっと普通なら舞い上がるところだ。
でも。
(“あのとき”を見て、私を好きになった?)
心の奥が、少しだけざわめいた。
たしかにアルデンは魅力的だし、こんな好意を向けられて悪い気はしない。
けれど、彼が見ていた“私”は、本当に私だったのだろうか。
「……どうして、私に?」
思わず聞いてしまった言葉に、アルデンは微笑みを深めた。
「どうして? そんなの、決まってるじゃないですか。あなたが、あんなに綺麗だったから」
心がぴたりと、冷えた。
綺麗。
あの日、“見られてしまった”私を指して、彼はそう言った。
それが本心で、悪気がないことも、私にはわかる。けれど。
(私は、あなたにとって“見た目の印象”でしかないの……?)
返事は曖昧なまま、会話は続いていたけれど、私はずっと、心のどこかで——距離を感じていた。
「エレナナ、最近……なんか変わったね」
そう言ったのは、カレルだった。
彼は男爵家の三男で、私とは小さい頃からの付き合いがある幼なじみ。
昔から、特に目立つわけでもなく、けれどいつも、穏やかな笑みを浮かべていた。
「変わった……って、髪型のこと?」
私が尋ねると、彼は首を傾げて笑う。
「それもあるけど。なんていうか、雰囲気? いや、でも……やっぱり、ちょっと寂しいかな」
「寂しい?」
「うん。急に遠くに行っちゃった感じ。
昔は、もっと地味だったのにさ」
その“地味だった”という言葉に、一瞬ぴりりと胸が疼く。
でも、悪意がないのはわかっていた。彼はいつもそう。何も飾らず、思ったことをそのまま言う人だった。
「でも、綺麗になったって思うよ。ドレス姿も、似合ってたし」
「……見てたの?」
「うん。あの社交会、僕も隅っこでこっそりお菓子食べてた。エレナナが転んだとき、びっくりしてチョコを落としたもん」
なんだそれ、と笑いながら、私は少しだけ、ほっとした。
カレルは、笑いながら続ける。
「でもさ、すぐ顔隠してたよね。あれ、恥ずかしかった?」
「……当たり前でしょ」
「そっか。でも僕、あれで変わったと思ってないよ?」
その一言に、私はまばたきを忘れた。
「転んでも、顔を真っ赤にしても、ちゃんと起き上がったエレナナのほうが、なんか、偉いって思ったから」
優しく、でもまっすぐな目で、彼は私を見つめていた。
(ああ……なんだろう)
その視線は、どこか懐かしくて、温かかった。
アルデンの言葉が光のように眩しかったなら、
カレルの声は、遠くの家の灯のように、ほのかに心に残った。
でも——
だからこそ、逆に不安にもなった。
彼は私を、幼なじみとして見ているだけじゃないのか。
それとも、この変化を“悲しい”と思っているなら……いっそ、私が変わらなければ、よかったの?
優しさの奥に、境界線が引かれている気がして、私はそっと目を伏せた。
ベルシュは、言葉を多く交わさない男だった。
姉・メリンダに仕える専属の侍従。
長身で、無口で、感情が読みづらい。
でも、無礼なそぶりを見せたことは一度もなく、姉の信頼も厚い。
けれど、最近——その視線を、よく感じるようになった。
ふと振り向いたとき。
廊下ですれ違ったとき。
食堂の入り口で立ち止まったとき。
目が合うと、彼はすぐに逸らす。けれど、見ていたのは確かだった。
(……気のせい、じゃない)
もともと目立つ人ではない。むしろ、人の気配を消してしまうような静かな空気を纏っていた。
けれど今は、その沈黙のなかに、なぜか“意志”のようなものを感じてしまう。
「ベルシュ。今日も……見てました?」
意を決して声をかけると、彼は一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、視線を逸らして、ほんのわずかに頷く。
その仕草に、私はどう返していいかわからなくなる。
「……なんで?」
「……目が、行くからです」
短く、けれどまっすぐにそう答えた。
それ以上、何も言わない。
でも、ほんの少しだけ、頬が赤くなっているように見えたのは、気のせいじゃなかったと思う。
(目が行くって……なにそれ)
胸の奥が、かすかにざわつく。
アルデンのように流麗な言葉でも、カレルのように懐かしい温度でもない。
ただただ、不器用で、ぎこちない。
けれど、だからこそ——
どこか、誠実さが滲んでいた。
……でも。
「私の、何を見て……?」
問いかけると、ベルシュはわずかに口を動かしかけたが、言葉にならなかった。
それが彼の限界なのだと思った。
けれど、不思議とそれでいい気がした。言葉にしないからこそ、嘘もない。
でも、それでも私は——
(ちゃんと、聞いてみたくなる)
彼が、私をどんなふうに見ているのかを。
それぞれの言葉と、それぞれの視線が、心の中で静かに交差していた。
アルデンは、美しさを褒めてくれた。
あの日の私を「魅力的だった」と言ってくれた。
けれど、それは偶然の事故で見えた“外側”だけで、私は彼に何ひとつ知られていない。
カレルは、幼なじみとしての私を覚えていてくれた。
昔の、そばかすと癖毛の“地味だった”私も、ちゃんと見ていた。
でも今の私は、彼にとって変わってしまった存在なのかもしれない。
そして、ベルシュは——
何も語らないまま、ただ、私を見ていた。
目が合うと逸らすくせに、見つめていた理由を尋ねれば「目が行くから」と答えた。
その答えが、なぜか一番、心に残っていた。
どれが本当の“好き”なのだろう。
どれが、本当に“私”を見てくれているのだろう。
「……でも、答えを急ぐ必要はないよね」
私はぽつりと、ベッドの上で呟いた。
社交界では、求められれば応じるのが礼儀だと教えられてきた。
けれどそれは、誰かの期待に応えるだけの恋になってしまう。
そうじゃなくて、私は。
ちゃんと、自分の心が動く人を、選びたい。
誰かに好かれるだけじゃなく、私自身が、その人の“中身”を知って、惹かれていきたい。
(見た目だけでモテ始めてしまった今だからこそ、きっとそれを間違えたくない)
もしあの日の事故がなければ、こんなふうに迷うこともなかったかもしれない。
でも、迷っている自分のことを、どこかで誇らしくも感じていた。
変わったのは、髪型でもドレスでもない。
たぶん——自分自身だったのだ。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
誰にも急かされず、誰にも縛られず、自分の足で恋を見つけていく未来を、静かに思い描きながら。
夜会の光は、まるで天井に散らした星のようにきらめいていた。
ミカシュ侯爵家が主催する、今季最大規模の社交イベント。
豪奢な衣装と香水の香りが入り混じる中で、私はひとり、場違いな心臓の音を抱えていた。
「ようこそ、エレナナ嬢。お越しくださって光栄です」
そう微笑んだのは、アルデン。
銀の縁取りが施された燕尾服を纏い、涼やかな眼差しをこちらに向ける彼は、完璧すぎるほどの“貴公子”だった。
彼の差し出す手を取れば、舞踏の中心に導かれる。
どこを切り取っても絵になるその振る舞いに、周囲の令嬢たちの視線が集まるのがわかる。
けれど——
私は、自分の手の温度ばかりを気にしていた。
「今日のあなたも、眩しいくらいだ。まるで一輪の薔薇のようだよ」
言葉は甘く、所作は滑らか。
けれど、それは“私”に向けられた言葉だろうか?
“令嬢”としての私に言っているだけでは?
「……私の、どんなところが眩しいと?」
思わず出てしまった問いに、アルデンは少し目を見張って、それからまた柔らかく笑った。
「あなたの赤のドレスが、夜会の光に映えていたから。あと、先日の社交会でも、あなたの姿に惹かれたんだ。あのとき、ずいぶんと目を引いていたよね」
あのとき——
事故でドレスがずれた、あの場面。
心の中で、そっとため息がこぼれた。
彼の目に映っていたのは、たぶん“演出された美しさ”だった。
誰かに整えられ、偶然露わになった何かに釘付けになった視線。
それを「惹かれた」と言われても、私の中には、空虚だけが残る。
「すみません、少し、風に当たりたくて……」
踊りの途中で言い訳をして、私は会場の外へ逃げ出した。
外の空気は少し冷たくて、ほっとする。
目の前にいた“理想”は、本当は私のことを何ひとつ知らない。
私の声も、言葉も、笑い方も、知らないまま——それでも“好き”と言えてしまうことに、怖さを覚えていた。
私は、そんなふうに、選ばれたいわけじゃない。
着飾っていない、失敗もする、気の利いた言葉ひとつ出てこない、そんな私のまま——それでも、って言ってほしいのだ。
それは贅沢なのかもしれないけれど、でも、今の私は——
そういう恋じゃないと、きっと前へ進めない。
(だったら私は……)
胸に芽生えた、かすかな熱を抱きながら、私は踊りの音が遠のく方へと、ゆっくりと歩き出した。
久しぶりに、あの湖まで歩いた。
城館から少し離れた森の奥、夏になると水面が空を映して青く染まる、小さな湖。
かつて私は、毎週のようにここでカレルと一緒に、石を投げて遊んでいた。
「まだ覚えてる?」
水辺で足を止めたカレルが、にこりと笑う。
その笑顔は、昔と変わっていなかった。
「覚えてるよ。あそこでカレル、靴のまま落ちたこともあるし」
「あれ、内緒って言ったのに!」
そう言って笑い合うと、空気がふっと緩む。
優しい時間だった。穏やかで、無理がなくて。
この人となら、なにかが始まってもいいのかもしれない。そんな気が一瞬だけ、心をよぎる。
「エレナナは、ずいぶん遠くに行った気がする」
ふと、カレルがそう言った。
「……そうかな?」
「昔は、誰の目にも留まらなくて。でも今は、社交界でも有名になりかけてる。綺麗になったし、堂々としてる。……でも、なんか、心配になるんだ」
その言葉には、確かに温かさがあった。
けれど、どこか“過去に戻ってほしい”という願いのようにも聞こえて、私は少しだけ、胸の奥がざわついた。
「心配って……何が?」
「ほら、エレナナって、無理するじゃん。慣れないドレス着たり、髪とか変えたりして……無理してると、疲れるよ」
その瞬間、私は思った。
(無理してる……?)
たしかに、昔の私は人目を避けて生きてきた。
でも、今はほんの少しだけ、変わりたいと思っていた。
髪型も、ドレスも、“誰かのため”じゃなく“自分のため”に選んでみたかった。
それを——否定されたような気がした。
「でも私、自分で変わろうと思ってるんだよ。少しずつでも、今の自分を好きになれるようにって……」
声に出すと、カレルは黙った。
風が吹き、湖面が波立つ。
彼は静かに立ち尽くしていた。
「……ごめん、そうだよね。エレナナが決めたことだもんね」
その言葉は、まっすぐだった。
でもその背後に、どこか“置いていかれた側”の寂しさが見えた。
彼は私を、変わる前のままでいてほしかったのだろうか。
それともただ、今の私に追いつけないだけなのか。
優しさに守られた時間は心地よかった。
けれど、それだけでは——もう、前に進めないのかもしれない。
その日、姉の部屋から呼び出された帰りだった。
渡り廊下を抜けた先の収納室の扉が、わずかに開いていた。中から微かな音がする。
(誰かいる……?)
静かに近づいて、そっと覗き込んだ私は——
思わず、息を止めた。
ベルシュがいた。
私が知っている彼ではなかった。
シャツの袖をまくり、床に膝をついて、黙々と棚の修理をしている。
木材のきしむ音と、時折金槌を打つ音だけが響いていた。
乱れた前髪の隙間から覗く横顔に、何かに集中する人特有の、無防備さがあった。
(……こんな顔、初めて見た)
彼は振り返らない。けれど、ふいに私の足元に釘が転がってきた。
反射的にしゃがみ込んで拾おうとした、そのとき——
「あ」
また、胸元が見えてしまうと思っていたら、棚の角で指をぶつけてしまった。爪の脇がうっすらと赤くなる。
その瞬間、ベルシュがこちらを見た。
目が合う。
いつもより、ほんの少し、焦ったような目をしていた。
彼は無言のまま立ち上がり、どこからか取り出した布と小さな瓶を手に、私の前にしゃがみ込んだ。
抗議する暇もなく、傷に薬が塗られる。
少ししみたけれど、なぜだろう。
それよりも——彼の手の震えの方が、気になった。
ベルシュの指先が、ほんの少しだけ震えていたのだ。
「……痛く、ないか?」
いつもはほとんど喋らない彼の、低くかすれた声。
その音が、胸の奥で、思いがけず静かに波紋を広げていく。
何も言えずにいると、彼は黙って絆創膏を貼ってくれた。
ぶっきらぼうな仕草。でも、やさしかった。
「ありがとう……」
そう言うと、彼は少しだけ顔を伏せて、ぽつりとつぶやいた。
「……俺は、見てました」
鼓動が、跳ねる。
「エレナナ様が、転んだときも。ドレスが、ずれたときも……」
言葉が喉につかえた。けれど彼は続ける。
「他の男たちと違って、俺は……あれで“好き”になったわけじゃないです。
それより前から、目が……勝手に追ってました」
私の胸に、何かが、ふっと落ちてきた。
それは音を立てず、でも確かな重さを持っていた。
「……気づいてました。エレナナ様が、変わろうとしてるのも。無理してるんじゃなくて、自分で選んでることも。……だから、見てました」
ベルシュの言葉は、どれも短い。飾りもない。
けれどそれは、誰よりもまっすぐだった。
私は、ずっと知りたかった。
見た目じゃなく、表面じゃなく、“私自身”を見てくれる人が、本当にいるのかどうか。
(……いた)
ふいに、涙が滲みそうになるのを、私はぎりぎりで堪えた。
泣きたいわけじゃない。ただ、うれしかった。
「……そんなふうに思ってくれてたなんて、知らなかった」
私がそう言うと、ベルシュは真っ赤になって、言葉を飲み込んだ。
気まずそうに視線を逸らす彼が、なんだか、ものすごく可笑しくて。
私は、そっと笑った。
心が、ゆっくりと、ふくらんでいく。
花が開くように、音もなく、けれど確実に。
この気持ちが、恋なのかどうかは、まだわからない。
でも——
(もし、落ちるなら)
この人の沈黙の中に、落ちていきたいと思った。
あの日から、ベルシュと目が合う回数が増えた。
以前の彼は、こちらが見てもすぐに視線を逸らしていたのに。
今は——ほんの一瞬だけ、見つめ返してくる。
それが、たまらなく照れくさくて。
でも、嫌じゃなくて。
心のどこかが、あたたかくなる。
(これが、恋なのかな)
そう思いかけた。
けれど、そうだと決めるには、まだ何かが足りなかった。
たとえば、触れた指先の温度。
交わした言葉の数。
同じ景色を見て、笑い合った時間。
まだ、どれも足りていない気がした。
アルデンの甘い声が、頭の片隅で残響している。
カレルの優しさも、湖の風も、思い出すと心が揺れる。
(でも、どれも“決定打”じゃない)
好きかもしれない。
でも、まだ確かじゃない。
私の中にあるのは、ただの期待と、淡い憧れ。
その境界線を越えるには、勇気が足りなかった。
ベッドに寝転がり、天井を見上げる。
白い天井。ゆっくりと揺れるカーテン。
部屋に差し込む午後の光が、ぼんやりと瞳に映る。
「どの恋も、綺麗だけど……どこか、触れきれない」
誰かを選ぶって、思っていたよりもずっと難しい。
相手を知ること。
相手に知られること。
その両方がなければ、きっと恋は始まらない。
私は今、少しだけ、恋に近づいた。
でも、それだけじゃ足りない。
“好き”と“わかる”には、時間が必要なのだ。
心に降り積もる何かを、一つひとつ確かめていく時間が。
「急がなくて、いいよね……」
自分に言い聞かせるように呟く。
焦らなくていい。決めなくていい。
恋は、競争でも義務でもないのだから。
それでも。
私の中で、確かに“誰か”が、他の誰かよりも近づいている気はしていた。
ベルシュのことを思い出す。
あのときの手の震え。
何も言わない沈黙の奥にあった、確かな温度。
(あれが恋なら、きっと私は……)
まだ名付けられない感情を抱きしめながら、私はそっと目を閉じた。
光が差す。
風が通る。
未来の気配が、遠くから、ほんの少しだけ届いていた。
--
「で? 結局、誰も選べなかったわけ?」
紅茶のカップを口に運びながら、ベイシアがあっさりと尋ねた。
その口調が軽すぎて、思わずむくれそうになる。
「……うん。でも、それでいいと思ってる」
「ふーん。まあ、そうだよね」
ベイシアはあくまで他人事みたいに頷いた。けれど、次の一言には毒が混ざっていた。
「エレナナって、なんだかんだ“好かれること”が怖いんじゃない?」
「えっ?」
カップを持つ手が止まる。
「誰かに好かれたら、その人の“理想”にならなきゃいけないって思ってるでしょ。
ドレスの色も、髪型も、態度も。相手の目に映る“いい子”でいなきゃって。疲れるでしょ、それ」
それは——図星だった。
私は、うまく笑えなかった。
ベイシアはため息をひとつ落として、さらりと言った。
「誰かに好かれるって、嬉しいはずなのに、なんでこんなに疲れるんだろうって思ったこと、あるでしょ?」
……ある。何度も。
「当たり前じゃない。好かれてるんじゃなくて、期待されてるんだもん。
“理想のエレナナ”を演じさせられて、それで『素敵だね』って言われて、嬉しいわけないでしょ」
その瞬間、胸の奥がごそっと崩れた気がした。
私が求めていたのは、ただ“見られる”ことじゃなかった。
“見抜かれる”ことだったのだ。
飾らない自分を、わがままなところも含めて、知ってもらったうえで——
それでも好きだと言ってくれる人。
私は、そういう人に出会いたかった。
「……誰かを選ばないのも、選択肢なんだよ」
ベイシアは静かに微笑む。
「でもそのかわり、エレナナ自身が、ちゃんと“選ぶ側”に立つこと。
誰に好かれるかじゃなくて、自分が誰を好きになるかで決めなきゃ、ずっと誰かの理想で終わっちゃう」
その言葉は、鏡のようだった。
部屋に戻って、鏡の前に立つ。
きれいなドレスを着て、髪も整っている。
でもその奥にいるのは、まだ少し、自信なさげな女の子だった。
「……選びたい」
ぽつりとつぶやく。
「誰かの理想になりたいんじゃない。私自身で、誰かを好きになりたいんだ」
その言葉が、心の奥で、小さく光った。
「姉さまって、ずっと完璧ですよね」
ぽろりとこぼした言葉に、メリンダ姉さまは笑った。
でもその笑みは、いつもの誇り高いそれではなかった。
「そう見えるように、振る舞ってきたの。
“優等生の令嬢”をね。嫌われないように、失敗しないように。
でもね、ある日ふと思ったの。
私の中身を知ってる人なんて、誰もいないって」
私は黙って聞いていた。
姉の言葉の端々が、静かに胸に染みてくる。
「誉められるたびに、空っぽになるのよ。
『完璧なメリンダ』は褒められても、私がどんな思いでそれを続けてるかなんて、誰も見ていない」
姉さまもまた、“選ばれるため”に生きてきたのだ。
私とは、違うようでいて、本当は似ていた。
「エレナナ。あなたには選ぶ力がある。
誰かの期待に合わせるんじゃなく、自分が好きだと思うものを、選んでいいのよ」
「でも……間違えたら?」
私の問いに、姉は一度だけ瞬きして、こう返した。
「間違えるわよ。絶対に。
でも、自分で選んだ間違いなら、ちゃんと前に進めるわ」
その言葉は、背中を押すというより、心をほどくような優しさだった。
完璧に見えた姉も、本当は演じていた。
そのことに気づいたとき、私は初めて、自分の小さな不安を許せた気がした。
夜の空気が少し冷たくて、背筋がすっと伸びる。
夜会の帰り道、人混みを避けて中庭を抜けると、そこにベルシュがいた。
私に気づくと、彼はほんのわずかに会釈した。
それだけで、私はなぜかほっとした。
並んで歩く。何も話さないまま。
けれど、その沈黙が心地よかった。
言葉の代わりに、靴音と風の音が響く。
(どうして、こんなに安心するんだろう)
アルデンとも、カレルとも違う。
“言葉で飾らない”彼の存在が、今夜はやけに優しく感じた。
「……夜会、疲れましたか?」
不意にベルシュが声を落とした。
私は驚きながらも、そっと頷く。
「うん。でも、良かったかも。いろいろ、考えられたから」
彼は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。
そのさりげない気遣いに、胸が静かに揺れる。
私はふと、自分の気持ちを確かめたくなった。
「ベルシュは……もし、私が“誰も選ばない”って言ったら、変だと思う?」
彼は立ち止まり、少しだけ首を傾げて、それから真っ直ぐに言った。
「……思いません。選ばないのも、選ぶことです」
その声は静かで、強かった。
私は、なぜだか泣きそうになって、慌てて前を向いた。
「ありがとう……じゃあ、ここで。おやすみなさい」
ベルシュは軽く頭を下げ、それ以上なにも言わなかった。
振り返ると、彼はまだその場に立っていた。
でも、追いかけてこようとはしなかった。
それが、なぜか——優しさに思えた。
扉を閉めた瞬間、静けさが背中を撫でた。
さっきまで胸を満たしていたベルシュの声も、もう遠い。
鏡に映るのは、丁寧に着飾った自分。
でも、その奥にいるのは——まだ決められない女の子だった。
「……誰も、選べなかったな」
その言葉に、痛みはなかった。むしろ、少しだけ清々しかった。
アルデンの甘さも、カレルの優しさも、ベルシュの静けさも、
どれも大切。でも、“これ”だと確信できなかった。
私は恋にすがりたかったんじゃない。
自分の足で立って、「この人がいい」と胸を張って言いたかったのだ。
——それが、今はまだできない。ただそれだけのこと。
「いいよ、まだ。焦らなくて」
そう自分に言い聞かせて、もう一度、鏡を見た。
そこにいたのは、誰の理想でもない。
“ちゃんと選びたい”と願った、自分だ。
--
再び足を踏み入れた社交会の会場は、以前と同じはずなのに、どこか違って見えた。
煌びやかなシャンデリアも、賑やかな笑い声も、過剰なほど甘い香水の香りも——
今はもう、圧し掛かってくるようには感じなかった。
ドレスは控えめなローズグレー。
飾りすぎない編み込みの髪に、小さなリボンをひとつ。
今日は“見られる”ためじゃない。
誰かに認められるためでもない。
ただ、自分らしく、ここにいるために。
エレナナ・ロージェンとして、この場所に立つために。
「エレナナ嬢、お久しぶりですわね」
「まあ、ずいぶん印象が変わったわ」
笑顔で交わす挨拶も、以前よりずっと自然だった。
背伸びでも、媚びでもなく、自分の言葉で話す。
そんな小さな違いが、自分でもはっきりわかった。
(ああ、私はちゃんと……変わってる)
気づけば、誰かと恋に落ちようと焦っていたあの日の自分が、少しだけ遠くに感じられた。
たくさんの視線に戸惑い、期待に縛られ、どれが“自分”なのか見えなくなっていた私。
今なら、その子にそっと言ってあげられる。
「大丈夫、ゆっくりでいいよ」って。
会場の奥、見慣れた背中を見つけた。
壁際で控えるように立っていた、無口な侍従——ベルシュ。
彼はただ静かに、まるで景色の一部のようにそこにいた。
私が視線を向けると、彼は少し驚いた顔で、でもすぐに目を逸らした。
それがなんだか懐かしくて、つい口元がゆるむ。
私が彼に近づく理由は、もう“あのときのこと”ではない。
事故でも、偶然でも、衝動でもなくて。
ちゃんと、自分の足で選んで、歩いていく。
今日という日は、その一歩。
ベルシュと並んで立つのは、これが何度目だろう。
言葉は相変わらず少ない。でも、それでいいと思えるようになった。
彼の静けさに、私はもう怯えていない。むしろ、安心している自分がいる。
そばにいられることが、嬉しいと思えるのは、初めてだった。
何かを話さなきゃと焦ることもなくなった。
ただ、沈黙のなかに一緒にいられることが、どこか心地よい。
あの日、私は「変わりたい」と願った。
誰かの期待に合わせるんじゃなくて、自分の意思で歩きたいと。
今なら、それが少しだけ叶っている気がした。
風が吹いた。スカートの裾が揺れ、バランスを崩しそうになる。
思わず一歩踏み出した瞬間、誰かの手がすっと差し出された。
ベルシュだった。
黙って、でも迷いなく。私の腕を支えてくれた。
その手のあたたかさに、胸がぎゅっとなる。
彼の手は、あの事故のときみたいな衝動じゃなかった。
偶然でも同情でもない。ただ、必要なときに差し伸べられた手だった。
私はそっと顔を上げた。
ベルシュは何も言わなかった。ただ、少しだけ、目を細めていた。
それが、まるで微笑んでいるように見えた。
ああ、この人のことを——
もっと知りたい。
恋かどうかなんて、今はまだわからない。
でも確かに、私の中に何かが芽吹いている。
ゆっくりでいい。焦らずに。
自分で選んで、自分の足で近づいていく。
私は、初めてそう思えた。
夜会が終わり、少しだけ冷えた廊下を歩く。
人の気配が薄れた静けさのなか、私は扉の前でふと立ち止まった。
今日は、何も起こらなかった。
でも、たくさんのことが心の中で、ゆっくりと形を変えていった気がする。
ドレスの裾が揺れるたび、私は少しずつ、自分の選んだ姿に慣れてきた。
この服も、この髪も、この歩き方も。
誰かのためではなく、“自分のため”に選んだものだ。
足音が聞こえた。振り向くと、ベルシュが立っていた。
いつものように言葉少なに、こちらを見る。
「……帰るところ?」
私がそう聞くと、彼は小さく頷いた。
その仕草が、なぜか嬉しかった。
「少しずつでいいので、仲良くなれたらいいな」
ぽつんと、呟くように伝えた言葉。
何の前触れもなく出たくせに、ずっと前から言いたかった気がする。
ベルシュは驚いたようにこちらを見た。
すぐに返事はなかった。でもその代わりに、彼は、
ほんの少しだけ頷いてくれた。
それが、とてもゆっくりで、
とても静かな、“はじまり”に思えた。
この人を、もっと知りたい。
まだ“好き”とは言えないけれど、心はもう、そちらに向いている。
急がなくていい。
比べなくていい。
私の速度で、私の選ぶ道で、ちゃんと恋を見つけたい。
そう思える今の私が、
きっと一番、私らしい。