書簡
拝啓
あなたに手紙を差し上げることを、最後まで迷いました。決して美しく言葉を綴れないことも、いまだにどこまで書くべきか決断せずにいることも、どうか許してください。今夜のうちに投函する覚悟を決めました。あなたには、この乱心につきあって戴く。
きっかけは、翔伍が立ったことでした。そう、あの一枚板の椈の飴色の曲線にぴったりと、紅葉のような手を揃えて掴んで、あの子はぐっと爪先へ重力を集中させました。もちろん、あの図体ですから、まっすぐにというわけにはいきません。正月の飾り餅みたいな尻よりも尚毛髪の薄い頭のほうがあれで重いのだから、すぐに大叔父の灰皿へ額から突っ込みました。
今、なにが気にかかりましたか。
話を続けましょう。もちろん、俺はあなたがそう望んでいると思うからそうするのです。
青い墨で雲を描いたような、あの瀬戸物ですよ。もしかしたら、覚えているんじゃあないでしょうか。あなたはよく、隠れて彼処に灰を落としていましたね。万一見つかっても、あの愛煙家が犯人に決めつけられると油断したのじゃないですか。国産の手巻きシャグと、刻みの桔梗の香りの違いに全員が全く無頓着だと信じたなら、その人物はよっぽど能天気な迂闊者です。
先日、授業で黒田長政について先生が熱く語ってきました。罵倒でした。あの教師は、官兵衛に夢を見ているところがあって、このバカ長男が愚直にも調略に奔走しなければ、江戸時代なんて来なかったと嬉しそうに高説をぶち上げました。ところが、そんならまだまだ戦国乱世が続いたんですか、それとももっと洗練された〇〇幕府を開闢する計画だったのですかと平野が問うたところ、先生は「知らん」と言いました。実現しなかった、それも過去のことをあれこれ言う男はたちまち女性の支持を失うと云うのです。俺はだから先生は婚約者に逃げられたのだと察しましたし、後で確認したところ平野も同意見でした。
この件であなたに問うてみたいことは、二つあります。
長政は後に福岡藩主に就いたので、官兵衛は己の野望をめった刺しに踏み壊した息子の命までは獲らなかったということになりますが、この理由はあなたにはわかりますか。
もう一つは、もっと単純な疑問です。
なぜ官兵衛は、家族にも、他でもない自分の長男にさえ、それほど壮大な夢をたった一言でもうちあけなかったのでしょう。
本当に迂闊なのは、秘密主義の父親と、父に褒めてもらいたい一心だった息子と、いったいどちらだったろうと、これは平野が言っていたので、俺の讒言などでは断じてありません。
思い返すと、俺はあなたによく物を習いました。博多に日本一の拉麺があることも、女性の支持をやんわりと集め続ける横顔の微細な角度も、血の気の多い愚連な輩に骨の一本でお引き取り願う方法も、すべてあなたに教わった。恩人にこんなことを云いたくはないが、あなたは本当なら、俺が大叔父に怒鳴られている時、横で静かに頷いて責任の半分くらいは受け持ってくれるべき人だと思う。
これを云うと、あなたはものすごく面倒だという顔をするだろうが、俺はその何千倍も強く、あなたがこの家に居ないことを面倒だと感じています。
この間、一人旅をしました。湖の綺麗な場所です。方角を気にしないまま辿り着いたので、正確な位置はわかりません。そこで、さるご令嬢と出逢いました。特に家柄などは知りませんが、指の形がある人物に似ていたので、俺は彼女へ敬語を遣いました。本当は、どこかその辺りの農家の娘さんであったら話が速いのにな、と思いもしましたが、結果として彼女は俺の行儀のよさに一目置いてくれたので、人生は何が役に立つかわかりません。
この件に関しては、あなたにとって重要度が極めて低いと思うから、要点のみ抜粋します。
あなたのせいで、俺は自由に恋人を家族に紹介もできない。こんな不自由は、一青少年として、看過してはならないとふと思い立ちました。平野もやはり同じように激憤してくれました。あいつは頭がきれるばかりでなく、非常によい着眼点を持ったやつです。あなたもあいつに一度会えば、目が覚めるのではないでしょうか。
あいつは博覧家で、濫読というかほとんどインキに溺れるような活字中毒なので、大抵の夕刻には函屋さんの古書店の二階奥に立て籠もっています。きちんと名前を呼んでやれば、普通の学生のように返事をするので、ぜひ試してみてほしいです。ちなみに、俺はあれほど厳密に挙動を制限される空間に長居はできないので、木曜の半時くらいしか姿を見せません。向かいの珈琲屋に座っているほうが大分マシです。
あなたに云いたいことがもっとあった筈だけど、限界なので筆を折ります。
健康も幸福も祈れないほど、俺が未熟なのか、あなたがいけないのか、また平野に訊いておきます。
返事が来なかったら、たぶん俺は、もっと気味の悪いことを考えると思う。
脅しではなく、単なる事実です。
これを書いたことが知れたら歯が飛ぶくらい殴られるので、返事は平野に預けてください。
敬具
追申
あなたの無事は祈っていますよ。本心です。だからどうか、俺のことを怖がらずに、穏和な心持ちで前向きに捉えてください。平野は話のわかるやつです。
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淑気満つ初春の候、貴君も益々御清栄の由と願っていた俺の気持ちがわかるだろうか。
あんな不気味な手紙をもらったのは初めてです。怒りのあまり、駅で始発を待とうかとも思ったが、それこそ君の術中に嵌ったと受け取られても不愉快だから、筆を執った次第です。
まず、君は最初に、一歳児が灰皿に頭を突っ込んだ話をしました。あれで無事かどうかを気にかけない人間がいたら、そいつは君の次手に非道な冷血漢だ。いつその後が書かれるのかと目を皿にして読んだが、君は戦国武将と令嬢と平野くんの話ばかりで、俺は何度も読み逃しかと思って首を上下した。翔伍がどうなったか、一言も書いていなかった。君は異常だ。
仕方なく、俺は佑一さんに電話をした。それまでにも様々な苦労があったが、これを書くと三日後には君が訪ねて来そうだから、敢えて伏せます。君には俺が十五の少年に怯える不甲斐無い男に思えたようだが、改めて明記しておく。俺は君が怖ろしい。神田の辺りをぶらついている愚連が三ダース束になって掛かって来るより、君から一枚の紙きれが送られてくるほうが怖い。君には昔から、俺のような大男を問答無用で怖がらせる神鬼の才能があります。
そういう人間を怒らせるのは、俺の数少ない致命的な欠点です。
佑一さんは、君のことは歯が飛ぶ程度で許すだろう。それも、きっと乳歯だったんじゃないかな。今はもっと手加減してくれるはずだから、もし万一悪事を働いた場合は逸早く、包み隠さず誠実に白状することを勧める。あのような御仁に庇護される立場を、最大限活用するように。
電話越しに人を殺せるとしたら、たぶんああいう人だな。しかし、俺は未だに生きてはいるので、たぶん手加減してくださったんだろう。
とにかく俺は命を拾い、事の顛末を聞きました。佑一さんは、突然の慶事に真っ先に宇水さんを呼びに行ったというから、結果しか話してくれませんでしたが、俺にはその光景が目に見えるようでした。君が、初めて掴まり立ちした翔伍から一瞬でも目を離す姿は想像もできない。君に心から感謝している。君の瞬発力と仁慈の心は、尊く本当に有難い。君は俺には残酷な異常者だが、同時に愛すべき恩人でもある。君の恨みを受けとめてやれないことは本当に心苦しいが、君も学んでくれたように、人は長じると矛盾した複雑な感情の板挟みになって結局いちばん益体もない選択を採る羽目に陥る。それが俺の場合、最悪の形で君に迷惑をかけることになったわけだが、君の想定する最悪と俺が予測した最悪はまた別種の事態だ。君に言い訳をするといつも烈火の如く怒り出すが、この手紙の第二の目的は君を怒らせることだから、俺も腹を括る。
翔伍のことを安心したら、次は君のことが心配になってきた。何度読み直しても不思議なんだが、なぜ君はその不思議で魅力的な令嬢との馴れ初めではなく、執拗に平野何某という学友について熱心に書き綴ったのだろう。癖なのか?君はいつも平野くんと議論し、時を過ごし、挙句の果てにこんな危険極まりない橋渡し役を頼んだのか。会ってみると、彼は非常に気の良い、しかし一般的な感性の少年だ。とても君の陰惨な感情の爆発に賛同するような博奕者には見えない。もしかすると、君は無口な男だから、親友との間になにか看過してはならぬ齟齬が生じているのではないか。とにかく、落ち着いて冷静に話し合うことを勧めます。それから、いくら君が平野くんを高く評価していても、何でもまず相談して同意を求めるという姿勢は、一青少年としてやや不健全な傾向ではないかと憂慮してしまう。君は人に相談する時、実はさっき邏卒でサーベルを強奪してきたんだが…と話し始めるような趣と謎の迫力があるので、あれで平野くんを困らせないように。
それから、俺が君と令嬢のロマンスに極めて関心が薄いというような誤解がありましたが、そんな不自然なことがあり得るでしょうか。君は俺と深宇が初めて待ち合わせをして出かけた日からもれなく付いて来て、行き先をキネマから動物園へ変更させた歴戦の猛者です。あんなに堂々たる佇まいで人の恋路に大股で並走しておきながら、自分の失恋はひっそりと穏便に秘匿しようなんて、そんな不条理が罷り通ると本気で思いましたか。そう、俺はその恋が儚く散ってしまったことを言外にもう悟っています。隠すことはなにもありません。侘しい一人住いに華を添えると思って、君の恋心の発芽とその麗しい令嬢との不器用な交流の詳細を求めます。こんなに強い希求は、実に数年以来、久方振りに憶えました。最近では娯楽が本当に何もなくて、口寂しい時には君がよく歌っていた黒猫の童謡に小節を利かせる程度です。
最後に、佑一さんは君が二週間近くも家出をした時、おそらく富山県に居ると踏んで知り合いに尾行を頼み、安全を把握しながらも激怒していました。人のことは言えませんが、あの人を怒らせるのは本当にやめたほうがいいです。さらに言えば、君はあの人に心配をかけるのは極力やめなさい。佑一さんは、いつも君を叱った後はひどく塞ぎ込んで、煙も喉を通らない様子でした。
本当は、君にこんな手紙を書く資格は俺にはない。それでも筆を執ってしまったのは、君が賢く、優しく、俺への情を断ち切れていないからだ。君にはもっと考えることも伸ばす資質も財宝でできた島の如くに有るのだから、俺のような存在のことをいつまでも覚えている余力など使うな。君が俺を忘れてくれたら、と常に思っている。
今、平野くんの目の前でこれを書いている。というのも、汽車の中で書いてきたボロ紙を、この平野くんに情け容赦なく破られたからだ。彼は、俺が声を掛けると、一切の躊躇も断わりもなく俺の懐に手を突っ込んでくたびれた財布を床に投げ棄て、君宛ての手紙を読んだ。それから、チラッと俺を見て一呼吸も置かずにこう云ったんだ。「あれが機嫌をそこねると、子育て中の雪豹に麻酔銃を撃ち込むよりも神経と時間が要るんです」。俺は君のことを常々変わった少年だと考えてきたが、流石に君は友人の選び方にもひとかたならぬセンスがある。断わればあることないことを三、七の割合で君に吹き込むと言われたから、さっきは仕方なくこの少年をまるで不運な常識人のように書いたが、俺の印象ではそれは彼に相対した人間を指す、つまり今は俺だ。俺の奢りでアマレロのブラックを涼しい顔で飲むこの平野くんを、確かに困らせてはならないが、君は君でこの平野くんともう少し適切な距離を置いて普通の少年への道を歩み直す気はないのか。本心からの忠告だ、どうか真摯に受け止めて呉れよ。
平野くんに右の文章をまたビリっとやられないように、ここからは真実を書く。
君から手紙が来て嬉しかった。住所が見つかって滝のように汗をかいたし、君が怖ろしくて堪らないが、深宇の次に君と翔伍に会いたい。本当は謝罪をするべきなんだろうが、一生涯雪げはしないし会えないことが俺には一番の罰だから、俺の苦行につきあわず忘れてくれ。その方が、君は幸せになれる。
翔伍の健康も幸福も、俺は祈らない。それは、君と佑一さんと宇水さんが生きているだけで保証される。
だから、君の幸先を願わせてくれ。君が俺を忘れて、二度と心を乱したり手紙を書いたりしないことを願う。もう十分だ。君のことだけを考えて生きて行って欲しい。
追申
平野くんに信田の鼈甲飴を七袋渡しました。減っていたら、平野くんが横領しています。
敬具・または警句
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三寒四温の候、貴殿におかれましては益々捩じれた方向に妄想逞しく自縛に耽ってあらせられるかと思うと、握り閉めた拳の中で梅花が血塊のように鮮やかに赤く滲む心地です。
もう少し普通の少年らしい言い様を選ぶと、俺は怒り狂っています。
最初に手紙を書いた時は、ここまで感情に制御が効かなくなるとは思わなかった。あなたがこんなに莫迦だなんて、深宇は俺に一言も云いませんでした。今更、間接的に惚気るのはやめてください。あなたたち二人は、どうしようもないほどお互いに対して盲目です。俺の目から見ると、その様子は熟練の芸人の域です。
どうして俺に会いたいだなんて書いて寄越すのですか。まず、そんな手紙は何が起こらずともまず出すべき相手がいるのに、あなたは十五のガキに何を気をつかっているのですか。そんなだから俺はあんたを放っておけないのです。そんなだから、七つのガキに初デートに乱入されるのです。迂闊で信心深いのも大概にしてください。
はっきり言いますが、佑じぃはもうすぐ古希です。あなたの頭の中では、炎を吐く龍と相討ちになっても強くなって甦る不撓不屈の黒魔術師かもしれませんが、この間蔵から七輪を出そうとして寝込みました。腰を痛めたのです。俺が学校で一対一の進路相談をしている最中でした。俺の大叔父は、世が世なら市中曳き回しの上風呂に突っ込みたいと考えている相手が、蔵から七輪を取って来たら、ひとまず執行猶予を六日は勘定するような文明人です。その六日の間に、宇水ばぁのために米俵をひょいと運んだら、それでまた情状酌量の余地が出ます。こんなに簡単なことがわからないから、あなたはいけないのです。ここまで書いても俺がどんな風にあなたの不在を許し難く、不可解に、非合理に感じて激憤しているか、伝わらなければ斬るほかない。是非もなしとは、こういうことだと俺は平野に聞きました。
大体、なぜ平野があなたにとやかく言われるのです。俺の交友に口を出す暇があったら、自分の人生と家族にもっと言葉を尽くしてください。平野は常識を知らないのではなく、敢えて棄てるべきを無視しているのです。俺は今回のことで、さらに平野への敬意と信頼を深めました。あの手紙を出すよう俺を励ましてくれたのも、次の日から毎日あの珈琲屋の隅の席で張り込むよう助言してくれたのも、すべては平野の慧眼です。本当にぜんぶあいつの言う通りになった。真実怖い男というのは、ああした隙のない男を云うのです。
ちなみに、鼈甲飴は三袋渡されました。宇水ばぁは最近甘い物を控えているし、翔伍のお八つにもまだ早いからです。この件だけとってみても、いかに平野があなたよりも堅実でスマートな男か、明らかだと思います。
裏文字の筆記体の硝子越しに、二年振りにあなたの姿を見た時は、驚きました。あなたは痩せて白くなると、まるで本物の罪人みたいに後ろ暗い風貌になるのですね。蓬髪で、髭面で、目ばかり炯炯と忙しなくて、あれでは百年の恋も褪めるでしょう。でも、隣に快闊な美人を侍らせていたり、翔伍ではない子どもの手を引いたりしていたら、もっと我慢ならなかったと思うので、次までにせめて髪は切ってください。さもなくば、あなたは玩具が如き紅葉の指に力任せに毛根から引き抜かれる痛みと諦念とを、厭と云うほど味わうことになります。どうです、あなたに比べて、俺の警告はまさしく的を射て有用有実、実践的だ。
正直に云うと俺は、あなたが珈琲屋を避けるように目を伏せた時点で、かなり怒っていました。そのまま迷いのない足取りで古書店へ入って行って、振り返りもせずに二階へ上がったので、首を絞めてやりたくなった。否、ああまで書いたのに、あの場所へ現れたのが月曜だった時点でもう不愉快でした。木曜から一番遠い曜日を選ぶとは、どういうことですか。そこまで平野の云う通りにする必要はありません。矢っ張り、俺に会いたいなんていうのは嘘ですか。それとも、まさか翔伍に会いたいという部分まで、本心ではないのですか。ついでだから書いておきますが、今度から翔伍と俺の名前を書く時は、必ず翔伍を先にしてください。これは非常に大事な点です。
俺はひどく激昂していましたが、平野とあなたの会話は冷静に聞いていました。平野がそうしろと云ったからです。そして、有益な情報をいくつも得ました。確かに平野は尋常の男ではない。けれど、あなたは少し、十五の少年に対する防御力と防衛本能の欠如が著し過ぎるのではないですか。昔からそうですが、あなたは俺に対して、何かを隠し遂せたことがない。それとも、寅年の早生まれが鬼門なんですか。平野も如月生まれなんですよ。良いでしょう。
あなたが俺の長期外出と件の令嬢との顛末、学校での生活態度や成績なんかをしつこく訊き出そうと、平野に対して全く迂遠な質問を試みる間に、俺たちは必要な準備を終えていました。
まず、あの二週間の遠出は、事前に平野と計画して実行しました。目的は、大叔父が俺に付けるだろう尾行者でした。佑じぃに心酔する人間は、大体皆とても優秀で話が通じやすいので、あの人も俺の言い分に耳を傾け、協力を約束してくれた。
目的地はどこでもよかったのですが、どうせだったら宇水ばぁの実家を見てみたかったので、実際には平野に完璧に道筋を教えてもらって年賀状の住所を目指しました。その家の近くで偶然会った女の子が、明らかに深宇と血のつながった顔立ちをしていたので、おもしろく思って手紙に書きました。あんなに食いつくと思わなかったので、実は俺のほうが気味の悪い思いをしました。なんであなたは、自分があれから誰とも交際どころか食事すら共にしていないなんて不名誉なことを、尋問開始直後にさらっと一文で告白するのに、俺が例の令嬢とどこまで進んだか、本当にきっぱり未練なく爽やかにお別れできたのかと、そんな話題ばかり執拗に繰り返したのですか。佑じぃより宇水ばぁよりしつこかったです。誓って言いますが、彼女は俺の氏姓も家族構成も知っているし、教科書に載るくらい清らかな二週間でした。それから、彼女は年上の男とは絶対に恋愛はしないそうです。絶対に。良い判断だ。
「絶対にもう吸わない」。これは、俺にとっては次に吸ったら泣くまで怒っていいからね、って言われているのとほとんど同義です。俺は、平野と女の子の言う「絶対」は信じるけれど、愛煙家の「絶対」はもう絶対に信じないと決めている。だからといって、こんなに大事なことを、あんな風に一行でお道化て済ませるやつがいますか。俺は断じて、黒猫の歌なんか呑気に唄って回るような幼児ではなかったし、万が一、そういう時期があったのだとしても、あんたの前で歌ったりしたはずがないです。そういう幻とごっちゃにするから、あんたの言葉はいつも無駄に軽く聞こえるんだ。大体、ようやっと禁煙に成功したことは、あんたが寄越した手紙を手に取った時からわかっていました。
あんたが変なことを書くから、俺は大叔父の健康のためにこれから益々一層力を注いで佑じぃを怒らせなければならないのかと悲愴な覚悟を決めかけていましたが、平野が指摘してくれた通り、翔伍が初めて立ったあの日から、佑じぃはとっくに灰皿を蔵へ仕舞い込んでいました。そもそも、あの時、灰なんかひと欠片も入ってなかった。そういう、象徴としての品を、居間に置いて眺め続けていたことにこそ、俺の誤りは集約している。
俺の欠点は、あんたを甘やかすことだ。そしてこれは、完全に血筋から貰っている。
あんたを逃がすんじゃなかった。あんたが逃げたがっているからって、放って置いたら勝手にどんどん不幸になる。深宇が目を覚ました時、あんたが不幸だったら、誰が一番怒られるかわかっていますか。
俺は深宇のために、もっと感情的で、我儘で、怖い男になるべきだった。それか、もっと狡賢く無力な子どもの振りをすればよかったんだ。実際に、俺はひどく感情的で、無力ではないが非力ではあるから、これを書くことに別に躊躇いはない。あんたが鈍感で莫迦なんだから、俺が無口で居ちゃだめだった。
はっきり云うが、翔伍にはあんたが必要だ。
ついでに俺にも。俺はまだ子どもだから。
結局、深宇しか愛せないなら、翔伍と俺に全部寄越せ。そうしたら、あんたを幸せにしてやる。翔伍と一緒にいると、深宇が生きてるってことをきちんと実感できる。俺の言葉が信用できないなら、試しに一緒に暮らしてみればわかるだろう。それか、平野に聞け。
もうすぐ、駅に着きます。あんたに倣って、汽車の蝶台でこれを書いていますが、揺れが酷くて読めたもんじゃありません。
どうしてここにいるのかって、訊いたら心底莫迦にしてやります。あれからすぐに転居すると思って、平野は優秀な尾行者を手に入れたがっていたんだ。それにしたって、たったの六町引っ越すだけだなんて、本当に大人の逃げ方だろうか。本当の本当は、俺に会いたいんじゃないのか。違っても、もう会いに行くけど。
平野がついてきてくれなかったので、この手紙は自分で破ります。あんたの目の前で。それから、教えてやる。
本当に大事なことは、直接云わないと意味がありません。相手が逃げた時、そのまま掴まえておかないといけないから。
離れたことも、俺を放っておいたことも、取り返しのつかない悪手です。
幸せにならなかったあんたが悪い。
これは警告じゃありません。
勝利宣言です。
ご多幸を心から切にお祈り申し上げ、今からあなたの平穏無事を討ち壊しに参上致します。
どうかめいっぱい驚愕して、逃げられないことに恐怖してください。
追申
翔伍は俺の五十倍は怖いし、可愛いです。
草々