古典・漢文を殺したい
私が古典を殺したい動機について書きます。
ある時、古典・漢文が消えてしまうという話題をツイッターで見ました。
最近まで高校生だったから、古典・漢文のうざったらしさと役立たずさを実感していたので、それを見てどこかすっきりした気持ちに私はなりました。眠くなるような授業の数々と泡のように浮かんでくる不満の数々を思い出すと、せいせいします。
しかし、そのツイートの返信欄には幾つもそれに対して反対する声が上がってたのです。
日本人らしさが失われてしまう。
歴史をどうやって習うつもりだ。
昔があって今があるというのにそれを蔑ろにするのか。
昔の言葉でしかできない表現があるんだ。
こんな具合に様々な切り口から古典を廃止することに意義を唱え、その必要性を説く人たちが現れていました。古典の美しさに取りつかれ、先人を大事にしてほしいという温故知新の精神を先鋭化している方々。
役に立たないのに年だけ食ったモノを神のようにあがめるその様子は熱狂的に見えました。
英国数理社の中で相対的に実用性のない学問、実生活において役立たずに等しいというのにこの人たちには何が見えているのでしょう。
授業から古典や漢文が失われたからと言って支障があるようには感じられません。古典にしかない表現はそれこそ『古典』の中にしか出てきません。というか、今の中高の授業なんて受験やテストに向けて作られたものばかりで古典の美しさを論じるものなんて全くと言っていいほどないのです。
あるのは一つの教科書にまとめられた『活用表』『古語』『助詞・助動詞の意味一覧』。並べられているのはその当時の時代背景よりも、暗号のような古文の羅列を切り分けて現代語に直す作業に必要な知識だけ。そこから感慨深さも日本人らしさも感じ取れはしないのです。
過去の教訓だって殆どないと思います。学校で習う古典は大体悲恋と別れの折に俳句を詠んで泣くだけで、そこから読み解ける文意なんてあってないものでしょう。
漢文は論語なんかがあるから教訓も含んでいるでしょうけれど、古典から学べることなんてその当時の道徳観くらい。
全てを引き継いでいくことはできないのです。いずれ古典を扱えなくなる臨界点となる年がやってきます。それが一千年後か、二千年後か、明日か、そのくらいの違いだというのに擁護派の人たちは藻掻くのです。
擁護派の人が望む「古典の授業」というのはもうきっと存在しません。
実用性にばかり傾倒して心が貧しくなると憂い悲しまないでください。
過去の文献を読めることの大切さを説かないでください。
目先の利益や実用性ばかり追うことを嫌がらないでください。
最近では、老いたものが若手の活躍を阻むことを老害というそうです。
古典は老害になってしまったのです。新しい技術を若い人たちに教えるためには古いものが退くしかありません。
古典を殺して、英語を話せるようにしましょう。
古典を殺して、税の仕組みについて教えましょう。
古典を殺して、プログラミングができるようにしましょう。
古典を殺して、SDGsに配慮した国際的道徳を教えましょう。
そうしたらいずれ古いものが顧みられない社会が来るでしょう。流れるままに技術と価値観を受け入れては消費し、誰も一つのことにとらわれない社会。いわば新しいことに流れるほかない社会が来るのです。
流動性が高まった社会。ある意味でそれは老いない社会で、すべてが新鮮で活気に満ち溢れているかもしれません。新陳代謝の高まった社会であれば新しいことに挑んだ際の多くの傷も癒してくれることでしょう。道は消え、すべてが開拓の一歩になるのです。いつだって切り開くときには多くの利益を生み出すもの。我々は満ち溢れる利益に邁進できるようになるのです。
核兵器を保有してみたり、クローン人間を作ってみたり、安楽死が導入されたり、従来の道徳に縛られて禁忌呼ばわりされていたものの悉くは新しき道として採用されるかもしれません。
ディストピアしか生まないとされていた要素が認められたおかげで救われることもあるかもしれません。
今のままでは可能性すら摘まれてしまっている進歩の切り口に光を当てたい。
古きを大切にしろという心構えは邪魔になるんです。
だから、古典を殺したい。
未来と若者のために。
ですが、古典を殺したいもっと単純な理由があります。
心の豊かさ、国有文化、教養、無意味さの娯楽、温故知新、過去の遺産、そんな言葉を並べ立てる古典擁護派が大切にしていたものを焼かれて苦しむ様が見たいからです。
途中まで読んでくれた人たちは私の書いたエッセイの内容をこき下ろすような感想・反論を書きたかったかもしれませんが、最後の一文があることでその行為が馬鹿らしくなり、やり場のない反論心を持て余したことでしょう。深呼吸をして自慰に励み、おおらかな気持ちを保ってください。