明太マヨたこ焼き
ひと月前までは暗かった、初春の午後五時過ぎ。仕事帰りの社会人や部活帰りの高校生が、これから増えてくる。
駅前の居酒屋の外壁に、屋台は寄生していた。ここからは駅が直接見えない。しかし、電車の止まる音なら聞こえる。そろそろ、降り立った人の群れがこの前を通るだろう。
「おおきに!」
たこ焼き三人前を主婦のお客に渡すと、彼女はそれを自転車のカゴに入れ、軽く会釈してから走り出した。夕食にたこ焼きは珍しいが、たまに出すと小学生のお子さんに喜ばれるらしい。冷めてから帰ってくる夫はげんなりした顔を見せるらしいが。
駅から群れがやってくる。コートを羽織った集団の中に、美しい衣装の女性が映えていた。春色に目を奪われていると、彼女の足がこちらに向き、群れから抜けた。
あ、お客か。
いらっしゃい、と言おうとした矢先、彼女は笑顔で手を振った。
「やっほーお兄ちゃん」
「……お! 咲良か! いつもの芋らしい格好じゃないから気づかんかった」
「失礼な」
常連の少女はその場でくるっと周り、布をふわりと舞わせる。まるで花が咲くような可憐な動きだが、慣れない格好をしているせいか、半回転くらいのところでバランスを崩した。
「危なっ、こけるとこやった」
「それはこけてから言うセリフや」
「新喜劇に汚染されすぎ。注文はいつものでヨロ」
「はいよ、明太マヨ紅生姜マシマシ六つね」
先ほどのお客さんで鉄板一枚ぶん焼いた残りがあるが、それらには紅生姜が入っていない。うっかり咲良に渡してしまうと「作り直せ。ネットに悪口書き込むで」と脅されることは経験済みなので、鉄板に新しく生地を流しこむ。
くぼみ半分ほどまで流し、たこの切身をひとつずつ入れていく。紅生姜を振りまくと、引き寄せられたみたいに咲良の顔が近づいてきた。
「たこ焼き屋さんって、ぶっちゃけ儲かるん?」
「いいや。なんべん安定した職業に転職しようと思ったか」
「お兄ちゃんの顔じゃ無理やな」
「うるさいわ」
第二陣の生地を投入する。今度は大胆に、溢れ出すくらい。
数秒おいた後、第三陣をなみなみ流しこむ。ムラができないよう細かく、慎重に。
この後はしばらく様子見。焼いている様子を楽しみにしているお客もいるので、この手持ち無沙汰の時間は、たこ焼き屋の腕の見せ所――口の見せ所でもある。
「今やから言うけど、明太マヨは期間限定の予定やったんよ」
「そうなん?」
「でも、部活帰りのお前が毎日のように頼むわ、友だち呼ぶわで、辞めるに辞められんくなって。他のより原価高くて全然儲からんから、めっちゃ恨んどる」
「あはは、ごめんごめん」
「末代まで呪うから覚えとけ」
「そんなに!?」
キリを手に取り、ひとつひとつひっくり返していく。慣れた作業なので喋りの片手間でもできるが、駆け出しの頃からの常連である咲良は話しかけてこない。いつもはスマホなどを見ているが、今日は小学生のような目で回転する球体に目を輝かせていた。
ひっくり返し終えると、隙間に最後の生地を流し入れる。
「おお〜、うまくなったな、お兄ちゃん」
「お褒めに預かり光栄です、師匠」
「うむ、苦しゅうない苦しゅうない。話戻るけど、辞めよう思ったんなら、なんでずっと続けとるん?」
「お前みたいなおてんば娘を野放しにしたら街が危ないやろ。俺はこの街を守っとるんや」
「お勤めご苦労様です!」
「なんかムカつく」
くぼみの外の生地を球にくっつけさせるように回転させていく。完成が近づいてきた。
あえて触れてこなかった話題へ先に手を出したのは、咲良だった。
「こうやってお兄ちゃんと喋るのも、今日で最後やな」
目の前の少女は、もう少女ではない。
若芽のような着物の袴姿は、すっかり一人前の大人。ロングヘアを毛糸の帽子のように編んでいる。目の周りが赤く腫れていて、アイラインの流れた跡が薄く残っていた。
「明日の朝には東京やっけ」
「うん」
「初めて会った頃は、お前もまだ母さんと手を繋いでたってのに。時間ってのは、早いな」
「お兄ちゃんもすっかりおっちゃんやな。独身やけど」
「やかましい」
再びたこ焼きを回していくと、粗がなくなり、形が整った。火を弱める。
「なあ、お兄ちゃん」
「なんや」
「さみしい?」
焼きあがったたこ焼きを舟皿に乗せる。ネギをいつもより指一本多くつまみ、振りかけた。明太マヨのチューブを手に取り、桜色で球の隙間を埋めていく。
「せやな。お兄ちゃんって呼んでくれる人がおらんなる思うと、さみしいな」
最後にかつおぶしをかければ、いっちょあがり。踊るかつおぶしを押さえ込むように蓋をして、輪ゴムで止める。
「どうぞ」
「やったー! ありがとう!」
代金は要らん、おごりや。
そう言いたかった。でも、どうしてか、口を開くことができない。
どうぞ、とは言えたのに。
結局、小銭を受け取ってしまう。さらりとした指は、冷たかった。
「いただきまーっす」
蓋を開け、楊枝で頬張ると、咲良はいつものように「あつっ!」と飛び跳ねた。