序・前編
よろしくお願いします。
窓が四角い。
四角の中に、明かりの消えたビルと、その上に立つ女が見える。女はこちらを見ている。月を背に、女はビルとビルの隙間に吸い込まれていった。
夢はそこで途切れる。
「キョウくーん」
ドンドンドン、近所迷惑な音が響き渡る。インターホンも鳴らさずドアを叩き続けられ、耐えきれずキョウはベッドから落ちて無理矢理目を覚まして、チェーンをかけた扉を少しだけ開けた。
「うるせえ」
ぱっちりとした目と目があった。扉の向こうに立っていたのは大学の先輩のサトウさんだ。佐藤明里。それがどうして、キョウが暮らすアパートの一室を訪ねてくるのか。キョウが何か言う前に、サトウさんは捲し立てた。
「キョウくん帰省でもしてた? 先週も来たんだけど返事ないし連絡入れても既読もつかないじゃん、何かの事件に巻き込まれたのかもって心配してたんだよ。あ、そうだ、私お盆に実家帰ってたんだけど、これお土産ね。冷やさなくても大丈夫だけど冷やした方が美味しいからね。今週中には食べきってよね。あと寝てたのはわかるけど人前に出るんなら顔ぐらい洗ってきなよ、私待ってるから」
「あ、はい……」
寝起きの回らない頭に、サトウさんのマシンガントークはつらいものがある。キョウは包装された箱を受け取って、がちゃんと扉を閉めた。ばしゃばしゃと顔を洗う。洗っても洗っても綺麗になった気がしないが、タオルで拭き取った後の顔を鏡に映すと多少はマシに思えた。
「これでいいすか」
「まあいいんじゃない? というか、待ってるって言ったけど、この季節に外で待たせちゃう? 部屋荒れてるの?」
キョウは振り返って、ワンルームを見渡した。人が座れるスペースはあった。
「あがりますか?」
「じゃあちょっとだけ。外出た? 今日やばいよ、めちゃくちゃあついよ、ここは向かいのビルが陰になってるからいいけどさ」
「そうですか」
「そうですかじゃない! 朝なら平気だと思ったのに暑くて仕方ないだもん! お土産配るの、夕方にしとけばよかった~」
ちらりとサトウさんの様子を窺うと、扇子でぱたぱたと扇いでなんとか涼をとっているようだが、それすら無意味だと嘲笑うように汗がぼたぼた顔の輪郭を伝って落ちている。しかしそれも、ワンルームに備え付けられたエアコンの風に触れた途端におさまった。風がよく当たる場所を確保して、その場に座り込んだサトウさんは後輩を顎でこき使った。
「お茶」
一見横暴な態度だが、それがサトウさんのいつも通りだった。好き嫌いの別れる人だ。そしてキョウは、そのサトウさんに、なんだか気に入られているようだった。
キョウは文句ひとつ言わず冷蔵庫に入っていた麦茶を取り出して注いだ。なんだか色が濁っている。恐ろしくなって、自分の分に口をつけて、すぐに吐き出した。
「キョウくん?」
「すいません、サトウさん……。お茶、無いです」
排水溝にばしゃばしゃと腐った麦茶を捨てていく。代わりにペットボトルの水(怖くなったので未開封のもの)を開けてそれを出した。サトウさんは呆れたようにため息をついた。
「なにやってんの?」
「なにやってんでしょうね」
水を飲むと、漸く目が覚めたような感覚がして、枕元に置きっぱなしのスマホを手に取った。充電が切れている。充電器に繋ぐと、サトウさんはあっと大きな声をあげた。
「このパン賞味期限切れてるじゃん、キョウくんずっぼら~」
テレビの近くに置きっぱなしだった菓子パンを手に取って、サトウさんがほら、と目の前に突き付けてくる。確かに一週間近く前に期限が切れていた。これ捨てとくよ、と返事も聞かずに先輩がゴミ箱にパンを突っ込む。
「まったく自堕落な生活してるねえ、キョウくんってもちょっと生活力なかったっけ? なんかあったの?」
「さあ……」
「何その返事。夏休みだからってたるんでるぞ」
壁に引っ掛けられたカレンダーを指さして、サトウさんは至極真面目な声を出した。
「見てごらん、夏休みはもうあと半月もないんだよ。だというのにキョウくんときたら、私が来なかったら夜まで寝てるつもりだったんじゃないの? 休みに入る前はバイトしまくってバイク買うって言ってたあのキョウくんがさ! 私は悲しいよ」
確かに、七月から八月前半にかけて、キョウは休みなく日雇いのバイトを入れて忙しなく働いていた。記帳しないことには分からないが、通帳には相当な金額が貯まっていることだろう。その生活サイクルが続いているなら、こうしてサトウさんを家に入れる暇すらないはずだった。
「……やっぱりキョウくん、なにかあった?」
サトウさんのぱっちりとした目に見つめられると、キョウは居心地が悪くなる。それはサトウさんと知り合った時からそうだった。
キョウがだんまりでいると、ふっと息を吐いてサトウさんは立ち上がった。
「いいや、帰るね。まだお土産配らなきゃいけない人残ってるし。キョウくんも、話したくなったらいつでも話してよ。いっこしか違わないけどさ、それでも私、人生の先輩だよ」
「なんか、……すいません」
「なんで謝るの。別に悪い事してないでしょ?」
サトウさんはにこりと笑って、玄関へ向かう。その背を慌てて追いかけた。扉を開けると風が大きく吹き込んで、サトウさんのワンピースの裾を膨らませた。
「じゃ、また。学校で」
「はい」
「あとちゃんとお風呂入りなよ。他の女の子に見られたら幻滅モノだぞ」
ぱたん、と扉が閉められる。一気に部屋が暗くなる。
キョウは自分の頭を少し強めに掻いた。ぽろぽろ落ちるフケと爪に挟まる頭皮の脂が、ここ数日キョウが風呂に入っていないことを示していた。その割に体臭が酷くないのは、恐らくずっと部屋の中にいたからだろうというのが分かる。
キョウは部屋に戻って、プラスチックのコップを片付けてからカレンダーを覗き込んだ。
「一週間、か……」
携帯の電源を入れる。
一週間分の着信履歴、SNSのメッセージがずらりと並ぶ。一つ一つに目を通していては時間がかかるだろう。一番新しいと思われる、サトウさんからのメッセージを開いた。
『明日の朝そっち行くね! 前にキョウくんが美味しいって言ってたお菓子持ってくから、楽しみにしてて』
机の上に置かれた箱の包装を破って、一つだけ取り出す。あとは冷蔵庫に突っ込んだ。それから一言、ありがとうございましたと、返信する。
漸く一息つけたところで、キョウは大きく溜息をついた。
「一週間、なにやってたんだろ、俺……」
なにかあった、なんて聞かれても、キョウは答えることができなかった。
今朝、サトウさんが訪ねてくるまでの約一週間分の記憶を、キョウは持っていなかったからだった。