003「異世界人としての第一歩」
「スマートと 言いしばかりの 板ッ切れ」
いや、一句詠んでる場合じゃない。仮に電源が入ったとしても、基地局があるとは思えないし、何しろ、このヒビ割れ具合だ。せっかく手荷物が戻ってきたと思ったのに、使えないなぁ。しまっておこう。
「あとは、化粧直しの道具とか、替えのストッキングとか、リングメモとボールペンとか、取るに足らないものばかりだもんね。――ハーイ!」
金属製のノッカーか何かがドアを叩くコツコツという音がしたので、手荷物をサイドテーブルの下に置き、返事をしてみた。すると、ドアの向こうから黒い猫耳を生やした金色の眼のハンサムな青年が、そっと顔をのぞかせた。何も言わなくても、彼があの黒猫の正体だというのは、一目瞭然だ。
「入っても良い?」
「どうぞ」
青年は、ホッと胸を撫で下ろしながら部屋に入ると、ツカツカと私のそばに駆け寄って跪き、私の右手を両手で持ったと思うやいなや、いきなり手の甲に口づけをしてきた。
「先日は、ありがとう。わが麗しの貴婦人」
「あっ、いえ。こちらこそ。えーっと、ミネット辺境伯?」
「僕のことはレオで結構だよ、アミ。無事でよかった」
夢見がちな乙女なら、ときめいて絆されるところなんだろうけど、あいにく、彼氏いない歴イコール年齢の私には、芝居くさくて堪らない。ラブロマンス成分の過剰摂取で、身体がアレルギー反応を示している。
「レオくん。そろそろ、手を離してもらえるかな?」
「オッと、失礼。少しばかり、感動に浸りすぎてしまったね。しかし、この手に掴まれていなければ、重傷を負っていただろうと想像すると、背筋が凍りつくよ」
耳を立てて喜んでるところ悪いけど、ここはハッキリさせておかなくちゃいけない。最初に雰囲気にのまれて流されては、あとあと困ったことになるに決まってる。
「恩返しなら、もう充分だから。すっかり目が覚めたし、体調も、どこも悪いところが無いから、もう、元の世界に帰りたいんだけど。――キャッ!」
「遠慮しなくて良い。僕の愛を受け取ってくれ」
右手を離せといったら、両手を包み込んできたか。美形の王子じゃなければ、蹴っ飛ばしてるところだ。よーし。それなら、そもそも論から始めよう。
「あのね、レオくん。あなた、まだ未成年でしょう? 私は、身体こそ子供じみてるけれども、顔を見て分かる通り、もう二十一歳なの。レオくんが成人する頃には、私は立派なオバサンになってしまうわ。ねっ? だから、私のことは忘れて、もっと良い人を。――うわっ」
「駄目。僕は、アミが良い。いや、アミじゃなきゃ駄目なんだ。やっと見つけた運命の人を、僕は手放すことなど出来ない。だから、お願いだよ。欲しい物は何でも手に入れて見せるから、僕の前から姿を消すことだけは考えないで」
どんな事情があるのかは知らないけど、抱きついて涙声で訴えることないじゃない。顔は見えないけど、小刻みに震えながら力なく垂れ下がった耳を見る限り、これ以上、強くは言えないな。私の負けだ。
「……分かったわ。ひとまず、ここから出ていくことは諦めましょう」
「やったー!」
「ただし。あなたと結婚して后になるかどうかは、まだ保留させていただきます。良いですね?」
「もちろん。愛を育むには、お互いのことを知るところから始めないとね」
満面の笑みで言ってるけど、そんなキザなキラースマイルにやられるほど、私は単純な女じゃないから。何はともあれ、知らないことが多すぎるのは困る。
「それじゃあ、さっそく頼みがあるんだけど」
「何だい? 何でも言って」
「この世界のことが分かる文献を、書物なり地図なり持ってきて。日本にいたときに使ってた検索ツールが、ここでは使えなくて困ってるの」
「お安い御用だよ。すぐに、ジャンに持って来させよう」
そう言って、レオくんは背中に羽根が生えたかのように、足取りも軽く、飛ぶように部屋を出て行った。
こうして私は、半ば強制的に異世界人としての一歩を踏み出すことになったのである。