人生体験貸与契約
優は普遍的な人間だった。
成績は中の中。身長も体重も平均レベル。
それなりの中小企業に入り、ある程度のノルマをこなして、会社の後輩と社内結婚。
よくある話だ。何も褒めるべき点、けなすべき点が見つからない、特にこれといった突出したものもない、実に普遍的人生。
何か特技でもあれば別なのだろうが、絵にしろ歌にしろ、誇れるレベルのものがあるわけではなかった。
まさに、絵に書いたレベルの普通。
それが優であった。
今日も優は、1日の仕事を終え帰宅。
妻の恵子は、友達と今日から慰安旅行とかで、子供と共に京都へ行き、3日は帰ってこないという。
腹が減ったことに気づき、台所に立つ。
料理もそこまで上手くはないが、一人暮らしの経験から、ある程度は作れる。そこもまた普遍的人間の特徴ともいえる。
自分の人生のスリルのなさに嫌気がさし、少しため息をついて、コショウを手に取った時、部屋のチャイムがなった。
「誰だろうか、もう夜も遅いというのに。」
ドアの覗き穴から外を見ると、ビシッとスーツを着こなした、40代ほどの中年男性が立っている。
「見たこともないやつだ。一体なんの用だろうか。」
ドアを開け、その男に声をかけた。
「どちら様でしょう。新聞の契約でしたら間に合っておりますが」
男はそれを聞くとにこやかに答えた。
「いえいえ、そういうわけではございません。確かに契約、という点では間違いはございませんが、新聞ではありません。現在は情報化社会に伴い、新聞もだいぶ衰退してしまいました。今は携帯でニュースなどは事足りますしね。」
「ふむ、そうなりますと化粧品か何かかな?妻は今出かけて、いないのだが。」
「いえ、私はあなた様に契約をおすすめしたいのでございます。」
そういうと男はパンフレットを1枚取り出し、優の前に見せた。
「…人生体験貸与契約??」
「その通りでございます。ここにありますのは、貴方様の記憶を少しばかり吸い取る装置です。」
男は小さな吸盤のついたマイクロチップのはいったボールのようなものを取り出した。
「ここにあります、我社が開発したマイクロチップに、記憶を書き込み、持ち帰ります。そこで、この記憶を我社の社員でVR化し、契約したクライアントにお渡しするのです。記憶を書き込む、と言っても、あなたさまの記憶が無くなるわけではございません。いわば、CDの音源を、更にCDに焼き増しする感じだと思ってください。」
「なるほど…しかしながらそんな人がいるのかね?自分の記憶をどこの誰かも分からぬ人に渡す様な人が…。仮に私がうんと頷いたところで、私の人生は実に普遍的だ。何の面白みもあったもんじゃない。欲しがる人なんていないと思うのだが。」
するとその男は目を見開き笑った。
「ハッハッハ…何をおっしゃいますか。あなた様の人生こそ最上級のお客様に提供できるものです。」
「なぜなのだ。どうして私の普通の人生を体験したがるのだ。」
「世の中には沢山の方がおります。貧乏な方、裕福な方、スポーツができる方、勉強ができる方…。そんな様々な人間の中で、特に、最上級のお客様、つまり裕福な方が望まれる人生は、今とは全く違ったものを御所望されます。つまり、裕福とも貧乏とも行かない普通の人生なのです。勝手ながら、あなたの人生を少しばかり調べさせて頂きましたところ、あなたの人生は絵に書いたような普通の人生。可もなく不可もない歩みをされておられます。このような人生こそ、実は1番高く売れるのです。」
「信じられん…。まさかこれまで歩いてきた人生を体験したがる人がいるとは。」
「時として人生は思いがけないことが舞い込むことがございます。今がまさにその時。これまでの普遍的人生を脱却するチャンスなのです。」
「うむ…こんな人生でさえ、喜んでくれる方がいるのなら、提供してもいいとは思う。だが、契約金はいかほどなのだ。私ほどの人間だと、収入など知れているだろう。」
「いえいえ、契約金などはいりません。お客様には提供して頂いている立場。それどころか、月に一度、提供したクライアントから頂いた金額の2割をお支払い致します。」
「なんだと、記憶を提供した上に謝礼までもらえるのか。なんだか出来すぎた話の気もするが、1度だけやってみて、それを鑑みてからお返事をしても構わないだろうか。」
「ええ構いません。では、1ヶ月だけ体験期間ということで。記憶を少し頂きます。」
男はボールを頭のてっぺんにくっつけるとボタンを押した。ピピピ…という音と発光とともに、ボールに記憶がおさめられた。
「ありがとうございます。明後日、謝礼の方を振り込ませて頂きます。」
そういうと男は名刺を渡すと帰っていった。
翌々日。
優は自分の通帳を確認した。
そこに書かれていたのはなんと500万円だった。
「なんという大金だ。私の人生は今変わった。これからは妻にも息子にも、何不自由ない生活をさせてやることができる。」
優は喜んで1ヶ月を満喫した。
しばらくして、あの男がやってきた。
「いかがでしたでしょうか。」
「やぁ君か、素晴らしい。少しばかり記憶を提供しただけであの大金。なぜ私は巡り合わなかったのだろう。それだけが悔やまれる。」
「人間は往々にしてチャンスと隣合わせなのです。いつ訪れるかは分かりません。あなた様の場合は今回がそれだっただけのこと。こちらのクライアントも大変満足しておられました。出来ればこれからもお願いしたい、とのことでしたがどうされますか?」
「断る理由などない。これからも是非お願いしたいところだ。」
「そうですか。では改めて本契約に参ります。こちらの契約書にサインを。」
優は少しばかり読んだあと、高ぶる気持ちでサインをした。
「ありがとうございます。ではこれから毎月1度、あなた様の人生を書き込みにまいります。謝礼は三日後にお支払い致します。ではこれにて。」
男は帰っていった。
その日から優の素晴らしい人生が始まった。
1ヶ月500万円の副収入ともなれば、なんでもできる。
優雅な旅行、高級なレストラン、高価な品物も沢山買った。
時には妻が使い込んでしまうことがあるがなんということはない。1ヶ月500万円だ。すぐに払える。
気持ちにも余裕が生まれた。
それから3年の月日が流れた。
優は変わってしまった。
普遍的だったあの頃から一転した際の反動か、見下した態度が目立ち、妻ともよく喧嘩をするようになった。
妻の恵子もまたお金を毎月のように使い込み、借金もするようになった。
しかしながら、毎月500万円の金額に支えられ、借金もなんとか返済できていた。
数ヶ月後。
500万円はピタリと止まってしまった。
何度通帳を確認しても振り込まれていない。
慌てて優は名刺に書いてあった電話番号に連絡した。
「おい、一体どういうことなのだ。500万円が毎月振り込まれるはずではないのか」
「確かに毎月2割、クライアントの支払い金額から2割の500万円の金額をお支払いしておりました。しかし、今月からお支払いはございません」
「何故だ。私はちゃんと記憶を提供している。」
「確かに記憶を頂いておりますが、クライアントの体験記憶が、今のあなた様の現在の記憶に追いつきました。元々裕福な方ですので、今現在裕福なあなたの人生はすでにクライアントにとっては体験済みなのでございます。1度体験したものはクライアントは飽きてしまった、とのこと。ですので、契約書に書いてあります通り、『クライアントが契約を解除したい場合、記憶の提供及び、契約金の支払いも、意向によって解除される』という項目が適用されたのでございます。」
優は契約書を急いで確認した。
たしかに書いてある。
「お客様、確かに私は人生はチャンスと隣合わせだと言いました。しかしながら、人生はピンチとも隣合わせなのです。そのことをよくご理解頂けていると思っておりました。これにて契約は終了でございます。ありがとうございます。お疲れ様でした。」
電話は切れた。
優はうなだれ、これから始まるであろう災難な人生に頭を抱えた。
普遍は普遍のままで構わないのかもしれない。
むしろそれでよかったと、優は涙を流して噛み締めた。