よく知る世界編 に
何となく浮ついた急ぎ足で、彼女は家路についていた。
そんなつもりではないが自然と顔が綻んでしまう。
葦原高校二年B組、岡崎亜希。
それが彼女の名前である。
急ぎ足になっている理由。それは彼女が今日、生まれて初めての経験をしたからだった。
「いやいやいやいや………」
誰かに答えるような呟きが、ひとりでに漏れる。
放課後。部活動へ行く友達を見送ってさて帰ろうか、というとき。一人の男子生徒に呼び止められた。
隣のA組の……そう、確かバスケ部に所属している金森という男子生徒だ。
結構イケメンで人気の男子だったはず。
まさか、とは思ったがそんな、とも思った。
亜希とて年頃の娘である。身だしなみには気を使っているつもりだし、自分の容姿に関してもそこまで悲観的というわけでもない。
しかし、実際に「付き合って欲しい」と告白されるとは思っていなかった。
その場は流石に金森の方から「突然済まない」と言われ、一旦は収まって……現在に至る。というわけだ。
落ち着いて帰宅しようと思ったがなかなかそうもいかない。車通りの多い道を帰ることはないが、誰も通らないというわけではない。
なにかとぶつかったりしないよう気をつけつつも、ドキドキした心を抱えて歩いていると、ふと厚い雲が空を覆い始めた。
確か天気予報では、本日の天気は降水確率0%。晴れマークのみだった気がするのだが。
そんな事を思っているとすぐに雨が降り出した。
雲は通学路からも見える小高い山の辺りから大きく張り出している。
慌てて走り出し、通学路の途中にある町工場の軒下へ一旦逃げ込む。
さっさと帰って友人から金森についての情報収集をしたいのに。きっと「どうしてそんなことを聞くのか」と問い質されてしまうに違いない。
そしてそれに対して「なんでもないよ」と答えてしまうのではないか。そんなシミュレーションまでしていた。
ここから家までは、走れば数分だ。亜希は帰宅部だが体力にはそこそこ自信がある。もっとも、学力もそこそこレベルなのだが。
雨は心なしかひどくなったようにも感じる。亜希は選択を迫られていた。
「(体はシャワーを浴びればいいし、明日は休み、制服は洗濯すればいい。スマホだけ守れれば……!)」
考えるが早いか、亜希は駆けだした。
走り出してしばらくすると土砂降りになる。雨宿り出来る場所はもうないし、こうなってしまったら走りきるしかなかった。
追い打ちをかけるように雷が鳴り始め、稲光がちかちかと輝いている。
「(山の方?なんか変な感じ)」
進行方向からすると、少し右手に見える山をちらりと見ながら、亜希は走る。
するとどんどん風雨は勢いを増し、雷も増えてきた。
どーん!と一際大きな音がして、避雷針にだろうか?雷が落ちた。
「うひゃー!?」
雷を怖がる方ではないが、流石に落雷が間近にあったかも解らないとなると驚いてしまう。
稲光の間隔はどんどん短くなっている気がする。
そして。
虹色の雷が瞬いたかと思うと、亜希は気を失った。
さて異世界では、再びオムレツ状の岩までやってきた男が、注意深く周辺を探っていた。
【お客さん】はいないようだが『扉』も見当たらない。
いや『扉』はあった。靄のような見た目はそのままに、ただしかなり薄く、大きさも小さくなっていた。今すぐに消えてもおかしくない。
「(やはり斬られた影響、か)」
男が見上げていると、その、消えかけた『扉』から滑るようになにかが出てくる――。
上空にある靄はどんどん小さくなっていく。
『扉』を物が通過しきれないままに閉じてしまったらどうなるのか。あまり考えたくはなかったが、ここは「なにか」を引っ張り出した方が良さそうだ。
男は力を込めて上空へ飛び上がる。
常人の能力を遥に超える跳躍を見せた男は、滑るように出てきた【もの】を『扉』から引きずり出す――それはまたも『娘』であった。
茶色の髪をした娘は、やはりというか完全に気を失っている。
「やれやれ……」
そう呟いた男が岩の上に着地する。
厄介だとは思わないが、しばらくは大変だろう。
ともかく、自分たちの前に現れたこの娘達は幸運なはずだ。そう、思いながら。
娘を抱え上げ、男は崖へと向かっていった。