皇兄を殺した父を追って、浮幽士司馬李玄は旅に出る
◆その一 別界の浮幽士
○ 1
「司馬どの、司馬どの……」
自らの口が、自らの名を呼んでいる……。
森の景色が目に飛びこんできた。その景色は急速に後ろへ流れていた。
ほんの寸前まで気絶していたというのに、李玄の渾身は猛烈に動いて鞭のように地を蹴っている。
「デュナンか?」
と李玄は自らの口をつかい呼びかける。
契約霊のデュナンが李玄の体を借りて、汪豹のこもる洞穴から命からがら逃げ出してきたところだった。
デュナンは気絶した鉄斎をしっかりと背負ってきたようだ。
いつものことだが、デュナンが入ると、李玄は金縛りにあったように感じる。
彼は遮断された目玉に意識をつなげて、ギョロギョロと動かし周囲を見た。
「デュナン、ここはどこだ?」
「まだ後山を出ておりませぬ。早くこの場を離れねば」
とすると、気絶してさほど経っていないようだった。デュナンは口を使わずとも李玄と意志を通じ合わすことが出来た(一つの体を共有しているのだから当然だが)。が、利口な彼は司馬の意識を保つために体を使うことに決めたようだ。
李玄は鉄斎の体が重く背にのしかかるのを感じた。霊力のほとんどを使い果たし、仮死状態とかしている。ときおり鉄斎の体を揺すって名を呼んだ。
「師匠、死んだらだめだ。一緒に本界に帰るんだ」
李玄は、父上を連れて、という言葉を飲みこむ。
その父が、息子の李玄と、師である鉄斎を迷いもなく殺そうとしたのだ。
5年ぶりにあった父親に殺され掛かったことで、李玄の心は深く傷ついていた。
膨大な霊力をもつ李玄の体は、汪豹に受けた裂傷もどんどん回復していった。攻撃は師匠以上に喰らったが、見た目ほどの重傷ではない。
今は鉄斎が死んでしまわないか心配だった。八十才を越える五体はなんとも軽い。
一方、汪豹は40代の壮年である。正面から戦うこと自体に無理があったのだ。鉄斎は、口ではなんと言おうと弟子を殺すつもりなど、なかったのだから。
「ちくしょう、俺に霊術が使えたら」
「そう申しますな。あの場から逃げられたのは、司馬殿なればこそですぞ」
「お前のおかげだよ、デュナン……」
李玄は背後に首を回す。デュナンは霊体だから、首が後ろを向こうが、視界に支障はない。
後山は、三人の霊力合戦で、地形まで変わり果てている。別界の住人がくれば、すぐに騒ぎになるだろう。
「デュナン、父上はどうした?」
と李玄は言った。今は体が一人でに走るのに身を任せている。
「デュナン、きかせてくれ。お前は父上を殺したのか?」
「霊術使いを剣で倒せとは、奇っ怪な……」
とデュナンは言った。だが、李玄が意識を失う寸前、鉄斎は霊術を仕掛けていたはずである。岩石の牢獄に汪豹を閉じこめたのだ。霊力を喪失した鉄斎が、汪豹の手を逃れることができたのは、汪豹もまた動けぬ身であったからだった。
「司馬殿は父上の死を望んでおられない。だから拙者は逃げ申した」
「ありがとう……デュナン」
と言ったきり、李玄は疲れ果て、再び意識を無くした。デュナンは鉄斎を(正確には李玄をも)連れて、後山を後にした。