第2話:父娘の遊興
ジルベール・ル・ブルトンは陰鬱とした顔で執務室へと繋がる廊下を歩いていた。
この屋敷に住まうようになって数年。
自分の家として馴染みも覚えてきたが、日々山のように積み重なる執務だけはいつになっても慣れない。
ジルベールは騎士家系の生まれだ。
品行方正、剣に身を捧げたジルベールは同期の中でも実力が高く、上からの覚えも良かった。みるみるうちに騎士団の要職へと昇り、先の戦においても功を挙げた。
偶然にも男爵家の息女たるシャルロット・ル・ブルトンと出会ったのは十年前。
トントン拍子に縁談は進み、貴族の仲間入りを果たしたのは自分でも幸運と思っている。
夫婦仲も良好で、一人娘も元気に育っている。
どうやらかなり頭が良いらしいが仕事に忙しく直接話す機会は少ない。父は寂しい。
親子水入らずで過ごす時間が欲しい、と心底願いつつ執務室の扉を開けた。
「よっと」
軽く頭を下げる。一瞬前まで首があった場所を剣閃が通過する。
「おはよう、セバスチャン」
「おはようございます主様」
快音を立てて刃を腰に収めるのは執事のセバスチャン。カロルと共にル・ブルトン家に長年仕える召使いだ。
主に乳母・教育係のカロルに対してセバスチャンは主に身辺警護を勤めている。
「いつものことだが、仮にも主人に攻撃するのはどうなんだセバス」
「主様が日頃訓練時間がないと嘆いていらっしゃいますので、僭越ながら機会を提供しております」
何度言ってもこの調子で止める気配はないので、ジルベールの生活にも心地良い緊張感が生まれている。本当に当たりそうになったら止めるであろう、という信頼もある。
「この程度の不意打ちを食らう主様ではないと確信しておりますので」
……本当に止めてくれるのだろうか。今、少しだけ不安になった。
セバスチャンに意識を向けつつ執務机に着く。既に今日の分の案件は整理されて山積みになっていた。
「本当に、この書類仕事さえ無ければ天国のような生活なんだがな」
「この仕事があるからこその生活で御座います」
全くその通りだ。今日も元気に嫌いな書類に向かい合うとしよう。今日はいつもよりは少なめなので昼過ぎには終わることだろう。
「ああ、主様。一つお耳に入れておきたいことが」
「なんだ? 珍しいな」
いつもなら退出して何処かに消えるセバスチャンが語りかけてきたことに些か驚く。
何か重要な案件でもあったのだろうか、と羊皮紙の山を軽く捲ってみるが一目では分からなかった。
「いえ、執務関連ではありませぬ。御息女のことで御座います」
「リリアンヌの?」
「はい。このところ、朝の食前、昼の食後に裏庭で棒振りをしているようでして」
「棒振りというと……」
騎士のジルベールにとって棒振りと言えば剣を握る者の鍛錬だ。まだ三歳の彼女に誰がそんなことをさせているのか?
「一人で、淡々と振っては休んでいるとのことです」
「ふぅーむ?」
これは直接本人に聞いた方が良い……というより、セバスがそう望んでいると考えるべきか。彼は有能で主を立てる立派な従者なのである。
とはいえ自分には自分の仕事がある。
早めに仕事を終わらせて彼女に会いに行こう、とジルベールはペンを取った。
結論だけ言えば、その日は仕事に集中出来ずむしろいつもより遅れた。裏庭に行けた頃には彼女の鍛錬が終わっていたのだった。
リリアンヌは夜明けと共に目を覚ます。薄らと明るくなり始めた窓をちらりと見て、一つ深呼吸。
シーツを跳ね飛ばしてベッドから飛び出し……すぐぱたぱたとベッドに戻って畳み直す。
勢い良く飛び起きるのは、そうでないと身体が目覚めないからだ。癖と言ってもいい。
ぐるりと手足を回して、動きやすいシャツとズボンに着替えたら裏庭で運動するのが毎日の日課となっていた。
今日は二十回を目標に頑張ろう、といつも通り裏庭に飛び出すと。
「百二十一、百二十ニ………おお、リリ。おはよう」
「おとうさま?」
薄着の偉丈夫が木剣を振り回していた。
「朝会ったら、まずすることがあったろう」
「お、おはようございます」
「うむ」
先客の父・ジルベールは満足気に頷くと素振りに戻った。
「百二十三、百二十四………」
動きに淀みはなく、疲れた様子も見えない。一線を退いて長いと聞いたが未だ胸板は厚く腕はがっしりと太い。剣の動きに合わせて盛り上がった筋肉が収縮する。
何故いきなり父が素振りを始めたのかは分からないが、ぼーっとしていては朝食に遅れてしまう。
ジルベールに続いてリリアンヌも棒振りを始めた。
「いち、に、さん………」
この一週間、自分なりに鍛錬をしてみて気付いたことがある。
(―――腰回りが揺れている)
腰とは重心。重心が不安定ならば全身が大きく揺らぐことになり、上手く棒を振れぬし負荷も余計にかかる。だから棒先は歪んだ弧を描き、息が上がる。
それに比べて、どうだ。
横をちらりと見る。
「百五十三、百五十四、百五十五………」
真剣な顔で木剣を握る父親の動きを全身くまなく観察する。
がっしりを両足で地面を踏みしめ、両手で剣を振り上げる。
後足を蹴り前足で踏み込みながら、剣を振り下ろす。
「百五十六」
姿勢を正してまた剣を振り上げ、今度は前足で地面を蹴り後ろへと下がりながら。
「百五十七」
一挙手一投足に一分の乱れもない。素人の自分でもわかる、見事な素振りだ。
「おとうさま」
「百六十。……ん、どうしたリリ?」
「なんでおとうさまは疲れないんですか?」
「はは、疲れてるよ。最近あまりやってなかったからもうへとへとだ」
「でも腰がゆれてないです」
「――――――――」
「どうすればゆれないですか?」
暫しの沈黙。
「………はは、なるほど。こりゃあ俺じゃないとダメだ」
ぽつりとジルベールが呟く。
「なあリリ?」
「はい、おとうさま」
「なんで、棒振りをしようと思った?」
何故と言われれば運動の為だが、それでは答えとして不適であろう。何故運動をするに棒振りを選んだのかという問いだ。それならば。
「リリは、皆をまもりたいです」
「皆って?」
「おとうさまも、おかあさまも、ばあやも、じいやも。これからともだちになるひとも、ならないひとも」
「全部守りたいのかい?」
「はい、おとうさま」
世界を護るという御大層な志はない。でもせめて、いずれ来るであろう危機に備えて可能な限り力を付けたい。そう言うと偉そうだが、単に目の前で人が苦しむのを見たくないだけだ。
転生の前、神様は苦難が待っていると言った。知識も腕っ節もなるべく備えておくべきだろう。
「リリは女の子だから、守られる側だと思うんだがなあ……」
「だめですか?」
「いいや、立派なことだ」
頭をぐりぐりと撫でられる。ジルベールの撫で撫ではちょっと乱暴だが親しみを感じられて嫌いではない。子供なりに整えた髪を乱されるのでそれは困るけど。
「ル・ブルトン家を継ぐなら貴族としての心意気を備えてなくっちゃあな。それに女の子だって剣は持っていいんだ。女騎士だって何人もいたぞ」
そういえば父・ジルベールはこの家に婿として迎えられる前は高名な騎士であったと、セバスチャンが言っていた。
「おとうさま」
「ん、なんだい?」
「リリに剣をおしえてもらえませんか?」
「まだ駄目だなあ」
笑いながら拒否される。
「リリはまだ三つだろう。剣を握る力もない。ほら、父さんの木剣を持ってみろ」
「しょ、っと……わわわっ」
柄を両手でしっかりと握り締めるも、剣先が持ち上がらずに地面を叩いた。
「ふぬ、ふぬぅっ」
なんとか持ち上げようと踏ん張るが、ずりずりと地面に線を描くだけ。
「ははは。本物の剣はもっと重いぞ? リリ、そんな調子で剣の稽古なんかできるのかい?」
「でき………ないです」
「よろしい」
ジルベールは木剣を取り返すと片手で軽く回してみせた。本物より軽い木剣でこれでは、確かに稽古どころではあるまい。
「だがまあ、剣はまだ無理でもその準備はできる」
「じゅんび」
「そうさ」
木剣を壁に立てかけてジルベールは笑った。
「遊ぼうか、リリ」
「おやおや」
ジルベールとリリアンヌのやり取りを窓から眺めているのは、屋敷の執事を務めるセバスチャン。
ジルベールに剣の稽古をしてもらうべく差し向けた者でもある。
だがリリアンヌにまだ剣は早い。それはセバスチャンにも解っていた。だから主人が娘の要望にどう対応するのか楽しみにしていたのだが。
「遊戯、ですか。なるほど」
垣間見える裏庭では父娘が球蹴りに興じていた。
内側を空洞に作った木製の球体を、足で蹴り合う球蹴り遊び。
単純に見えて、全身を上手く動かさなければ思い通りの場所に蹴ることは出来ない。奥の深い遊びだ。
それを三歳になったばかりのリリアンヌと、最近腰回りに不安を覚えてきたというジルベールがやっている。
「まあ、今は蹴るので精一杯のようですが」
球を思い切り蹴ろうとしたリリアンヌが派手にすっ転んだ。慌ててジルベールが走り寄って抱き起こす。
大人でも練習が必要な球蹴り遊びを、普通に歩くだけでふらふらと安定しない三歳児が行うのだ。
当然ながら上手くはいかない。しかし、上手くいかないという経験を積み重ねることで徐々に動きは最適化されていく。
「主様もよく考えたものですな」
あるいは彼もそうして鍛えられたのかもしれない。
今後に期待、というところか。セバスチャンは小さく笑うといつもの職務に戻っていった。
女子力を鍛え続ける回。