第12話:城砦都市カステール
ル・ブルトン領の大半は農地だ。それは男爵の屋敷の近くでも変わらない。
がたごと、がたごと。
土を固めただけの、しかし手入れの行き届いた街道を大きな馬車が行く。
さわ、さわ。
柔らかな風が一面の麦畑を撫で、牧歌的な風景を演出する。
平和な昼下がり。そんな中をのんびり走る馬車の中で、リリアンヌは。
「おうええええええ………」
ダウンしていた。
「ほら、桶」
「おろろろろろ」
嘔吐感のままに木桶へ吐き戻す。酸っぱいものが鼻を突いて、涙で視界がぼやける。
「そういえば長時間馬車に乗るのは初めてだったか」
「ええ、リリ様は初めてのはずです」
「お嬢様の子供の頃を思い出しますな」
「思い出さなくてよろしい」
微笑ましく会話するジルベール、シャルロット夫妻とセバスチャン、カロルの侍従組。
平気平素の彼らに思わぬところが無いではないが、そんなことより嘔吐感が辛い。衝動に任せて胃の中のものを全部出してしまう。
原因は考えるまでもない。車酔いだ。
(馬車がこんなに気持ち悪いものだとは)
走り始めた頃は、がたごとと揺れる馬車を楽しんでいたのだが、すぐに嫌な不快感に襲われ。気付けば前後不覚。
自動車でオフロードを走るより十倍は酷い揺れに、馬車での長距離移動は初体験のリリアンヌはすっかり参ってしまっていた。
「げっほ、げほ」
こういう時は吐けるだけ吐いてしまうに限る。
我慢することなく木桶へ放出していると、少しだけ気分が楽になった。
代わりに空腹感と食道の不快感がこみ上げてくるが嘔吐感よりは何倍もマシだ。
「リリ様、お口をゆすいでくだされ」
「あ゛り゛がどう゛……」
カロルに差し出された水袋から、口をつけないよう気をつけて水を含む。
くちゅくちゅと口の中や奥を念入りに流してぺっと吐き出す。
続けてもう一口、今度はうがいをするように口中を洗う。
そして最後に三口目を含み、今度はごくりと呑み込んだ。これで食道も少しは流せただろう。
「ふう。………ありがとう、ばあや」
水袋を返す。少し喉が焼けた感触があるが、これは水を飲んでも治るまい。吐くモノが増えるだけなのでぐっと我慢する。
「リリ様、何か手慣れておりませんか?」
「あー……いえ、本で読んだことがあったので」
前世で覚えたので、とは言えない。幸い本を無節操に読み漁ってるので怪しまれることはない。
「セバス、どこか木陰に寄せてくれ。桶の中身を捨てよう」
「はい、すぐに」
「すみません……」
酷い臭いを放つ吐瀉物を、道から外れたところに捨てる。念のため桶を水で洗い、土を掘って深めに吐瀉物を埋める。こういう時に魔法は便利だ。
軽食の提案を断りつつ、時間潰しがてら思索に耽る。
一度全部吐いたせいか、今度は落ち着いて馬車の乗り心地を分析できた。
(とにかく、路面から伝わる揺れが凄い。ケツが痺れる)
衝撃を吸収する機構……自動車で言うところのサスペンションが未発達なせいだろう。
木製の車輪はダイレクトに路面の状況を伝えるし、その車輪の振動を吸収するバネがないのか、または出来が良くないのか。
尻にそのまま振動が伝わってしまう。
知識として、どうすればいいかの理論は分かる。
車輪を弾力のある素材にするか、車輪から客席までの機構にサスペンションを噛ませれば良い。
それは分かるのだが。
(……どういう素材で、どんな構造のものを作ればいい?)
悲しいかな生前の自分は工学に明るくなかった。いずれ技術者と知り合うことがあれば、サスペンションの概念を導入しよう。
リリアンヌは痺れる臀部をもぞもぞを動かしつつ、旅がさっさと終わらないかと念じ始めた。
数日の旅路。リリアンヌが嘔吐感を抑えられるようになり、尻の痺れとの付き合い方も覚えた頃。
「ほぁー……」
間抜けな顔で眼前の光景を眺める。
正面にあるのは、馬車が余裕で擦れ違える幅の立派な石橋。
その長さは歩いて暫しの時間が必要なほど。橋の路面は使い込まれた様子が見えつつも綺麗に均され、定期的な補修をしている事実が伺える。
その石橋の下は豊かな水を湛える川。
否、濠だ。
近くを流れる河川から人工的に支流を造り、流しているのだ。恐らくはこの都市を囲う防衛設備。
都市を包む濠の内側にあるのは、街をぐるりと囲む石壁。
最上部が鼠返しになった市壁だ。上は通路になっているのか、鎧姿の衛士が歩いているのが見えた。
ここがイーストエッジ王国最大の防壁たる城砦。オーランド公爵の住まう、王国西部地方では右に並ぶものなき経済の中心地。
「着いたぞ、リリ。ここがオーランド公の居城―――都市カステールだ」
セバスが封書と印章を見せると、門衛は整列して馬車を出迎えた。
男爵位とはいえ貴族は貴族なのだと、今更になって実感する。
案内されるがままに中央通りを進み、都市中心部にある一際大きな邸宅に入った。
「侍従長のギュスターヴで御座います。此度は遠方より遥々ようこそいらっしゃいました。オーランド公に代わって歓迎致します」
「お久しぶりです、ギュスターヴ殿。今年もお世話になります」
「はい、お久ぶりですジルベール様。今年も部屋は同じ場所に御用意致しました。早速ご案内を……おや?」
形式を踏まえつつ、どこか手慣れた二人のやり取りをぼんやりと眺めていると、ギュスターヴと名乗る男がこちらに気付いた。
「ああ、今年は連れてきた。紹介しよう。うちの愛娘、リリアンヌだ」
「おおっ、お初にお目に掛かりますっ」
慌てて馬車から飛び降りた。気を抜いていたせいで上手く口が回らない。
「リリアンヌ・ル・ブルトンです! その、今回はこのような催しにお誘い頂き、あのっ」
「初めまして、リリアンヌ様。オーランド公にお仕えしております侍従のギュスターヴです。ジルベール様、シャルロット様にはいつもお世話になっております」
「ははは、ギュスターヴ殿。それは我々が言う台詞ですよ」
焦るリリアンヌに対して、二人は和やかだ。これが大人の余裕というものか。
「リリ。焦らず、いつも通りに振る舞えばそれでいい。子供の拙い作法に本気で怒るような狭量な者は此処にはいないさ」
「う。……はい、お父様」
乱れた呼吸を意識し、息を吸う。吐く。
思い出すのは、ジルベールと重ねた相対。シャルロットとの戦闘。
ここは戦場だと、自分の身体を立ち上げていく。そう割り切ってしまえば、慣れた作業だ。
一定の呼吸で、全身に漲らせたエネルギーを制御しながら、改めてギュスターヴに向かい合う。
「お見苦しいところをお見せしました。ル・ブルトンの娘、リリアンヌ・ル・ブルトンです。此度は若輩者らしく、皆様の胸を借りるつもりで楽しませて頂きたく思います」
宜しくお願いします、と深く一礼。
今度はギュスターヴが少し驚いた様子で、しかしきっちりと返礼をする。
「なるほど、自慢の御息女でありますか」
「ええ。勿体無いほどの娘です」
「これは、張り切って歓待させて頂きませんとな。さあ、部屋へご案内致します」
二度手を叩くと、じっと待機していた侍従達が馬車に近寄り、荷物を担ぎ出した。ギュスターヴがすっと合図を送れば統制の取れた反応をする。
「こちらへ」
先導するギュスターヴに連れられ、ジルベール達は屋敷へと入っていった。
ホリデー嘔吐。
既に原稿のストックが切れているのは秘密。