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「あぁあ、もう元気になっちゃったね」
まだ腕の固定が取れない田上が不満げに呟いた。その顔はいつも以上にやつれている。隈はいつもの倍黒々と、肌はなんとも青暗い。
城田が悩んでいると安心するというおかしな田上は、顔色よく何事もないように出勤してくる城田に喜びながら少し面白くなく思っているようだ。城田は田上の着替えを手伝いながら曖昧に笑った。
あれから一週間ちょっと、何事もなく前の生活に戻っていると言っていいだろうが、生活が変わらないからといって全てが変わらないわけではない。ふとした瞬間に江口のことが頭を過ぎる。仕事と美里の事ばかりが占めていた頭の中に、あの危うい美貌が巣くっている。衝撃を薄れさせ、甘美な余韻ばかりが後を引く。記憶は少しずつ変容していた。そのために頭が忘れようとしない。夢の苦しみが解消されなければそれはそれで忘れられはしなかっただろうが、それにしても厄介な残り方をしてしまった。城田は自分が新たな刺激を求めずにはいられない危険な人間にさせられてしまったように感じた。
「気に入らないなら田上さんも元気になればいい」
「気に入らないのはそういうことじゃないんだけどな」
田上の全てを整えて自分も着替えを済ます。ロッカーの整理をしていると、まだ作業時間になっていないのにどしどしと岸がよってきた。
「おいおい聞けよ、動物虐待事件がおきてる」
岸はばしばしと右手に持った新聞で城田の頭を叩いた。岸は城田が田上といるときでも必ず城田ばかりを叩く。絶対に田上のことは叩かない。入れ代わりの激しいこの職場では一年でも先輩になると待遇が変わるのかもしれない。それでなければ単に城田がからかいやすいだけか。
「ほらこれ、すぐ近くだろ」
城田は岸が差し出した新聞を受け取る。紙面の片隅にまだ小さく、この近くで相次いで動物の刺殺体が発見されていると記されていた。覗き見た田上が眉をよせた。
「ストレス発散か何かかな。利用されて殺された彼等がかわいそうだ」
「それも、見ろ、犯人は学生だとよ。この間も学生を処理したばっかりだ、最近の若者ってやつは」
年寄りのように岸がお決まりの言葉を呟いた。記事を見直してみると、犯人はまだ捕まっていないが現場で何度も学生服姿の少年が目撃されているらしい。城田が処理した少年といい、江口といい、この犯人といい、この近辺の少年に何がおきているのだろう。何か神経をおかしくする物質が充満でもしているのだろうか。
「きっとここにくるんだろうな」
ぽつりと田上が呟いた。もの憂げなその調子が何とも気にかかり、城田の頭の中に響き続けた。
何となくその日は美里の所に行きたくなった。ドアを開けると美里は今日もにこにこと笑って出迎えてくれて、城田は少しほっとした気持ちになった。
「来るなんて思ってなかった。驚いたけど、嬉しいわ」
美里はダイニングの机に城田を促し、紅茶をいれる。食事は済んでるの、と優しく問い掛けた。キッチンを伺うと美里はもう済ませた後のようだったので、本当はまだ食べていなかったが城田は嘘を吐いた。美里は笑顔のまま一言、そう、と言った。
ふと違和感を覚えた。城田は部屋を見回す。そして気付いた。チッチョがいない。人懐こい彼女は城田が来るといつも足元に擦り寄ってくるというのに、今日は鳴き声の一つもしない。
「なぁ、チッチョは」
「いなくなったの」
「え」
「少し前から、いないの」
寝耳に水で城田は言葉が出ず、足元と美里を交互に見た。美里の張り付いたうす笑いに背筋が凍る。
「猫って寿命が来ると家を出て、人の見てない所で死ぬって言うじゃない。だから、探さないことにしたの」
「言ってくれればよかったのに」
美里は伏し目がちに紅茶のカップを見つめた。何度も右の親指でカップの縁を撫で、決まりのつかない顔をする。艶やかな髪が落ちかかって、薄紅の唇に触れた。
「落ち着いたら、言おうと思っていたのよ」
「そう、か」
美里には親兄弟がいない。だからチッチョは言い方はおかしいがただ一匹の家族だった。そのチッチョを失って平静を保てるわけもないのだと思い、城田にさえチッチョの失踪を伝えられなかった美里を痛ましく感じた。
「淋しかったろうね」
言うと美里が顔を上げ、城田を見つめた。きらきらと潤んだ寂しい目だった。城田は少し間の机を邪魔に感じた。
「ええ、そう。凄く、淋しかったのよ」
それは切実な哀訴だった。今にも涙が零れそうで、絶対に零れない。抱き締めてあげたくなって、でもわざわざ立ち上がるのも滑稽な気がして、城田はティーカップにそえられた美里の手を包み込むように握った。その指は動揺を隠せないように冷えて硬かった。
「ねぇ泊まっていって」
「いいよ」
無言で美里は城田を見つめた。すうっと何かが消えていったような不思議な色だった。あんまりにも瞬きをしないのでコンピュータがフリーズしたようだ。心配した城田が指を握る力を強めると、美里はふわりと淡く笑った。
「ありがとう、凄く嬉しい」
翌日は美里の部屋からそのまま出勤した。そして一日、失踪したチッチョの事を考えた。チッチョはいつも部屋の中で、そこ出ることなどできなかったはずだ。それがいなくなった。美里の目をかい潜って。あんなにも美里を愛した猫が、死に際だからといって美里の元を離れるのだろうか。愛したからこそ見せたくはなかったのだろうか。
そう考えるとともに、城田の頭の中ではあの動物虐待事件のことが小さく主張していた。襲われたのは猫や犬、チッチョだって猫だ。無理に連れ出して殺したということはなくとも、偶然外に出てしまったチッチョをその犯人が殺したかもしれない。
そんなことを考えていたら、いつもは通らない住宅街を通り帰宅しようとしていた。暗く、人気のない細い道。事件のあったのはこんな場所だったかもしれない。犯人はもしや今日もこんな住宅街で犯行を行っているのではないか、という根拠のない疑いが襲い城田は辺りを見渡した。
そして城田は戦慄した。横に逸れた細い小路の先、暗闇に紛れて小さな人影があるのに気付いてしまったのだ。一人で突っ走るのはよくないと分かっているはずなのに、チッチョの仇かもしれないという思いが衝動を呼び起こした。城田は気配を殺して人影に近づいていた。
「そこで何してる」
逃げられない距離まで間隔を詰めて、城田は低めた声で相手に凄んだ。やはり黒い詰め襟の学生服。犯行現場で目撃されていた学生ではないか。
「やっぱり会えましたね」
その声に耳を疑い、城田は飛び付くように相手の顔を引きよせた。暗闇でもこれだけ近ければ分かる。それにもう夜目がきくようになってきていた。黄味を帯びた遠い街灯を背に、くいと口角を上げ笑ったのが分かった。
「城田さん、この日がくるのを待ってた」
「名前」
「調べさせてもらいました」
教えたはずのない名を調べたの一言で軽く口にする少年に驚きを隠せなかった。江口はただ嬉しそうに笑い、城田は硬直する。
「君は一体何なんだ」
城田は絞り出すような声で言った。警戒心に満ちた声を浴びせられてなお笑顔のまま、江口は城田に抱き付き、城田は身を硬くした。その肩越しに赤黒い塊が見え、城田の頭の中で全てが繋がっ気がした。今までどんな人間にも抱いたことのない強く重い感情が沸き起こる。
「お前がやったのか」
「何を」
白々しくもおもしろがるような声音が返る。目の前が真っ赤になる心地がした。
教えてもいない名を調べる江口なら、他のことまで調べが及んでいてもおかしくない。婚約者のこと、その家、そこで飼われていた小さな猫のこと。美里に対する当て付けか城田の関心を引きたかったか、何にせよ江口はチッチョを殺し、それだけでは飽き足らず近隣の犬猫を殺し続けたのだ。ただ城田に見つけてもらうため、気を引くため。ぞくりと城田は悪寒を覚えた。
「お前が殺したんだろう」
本当にこいつは害性生物だった、と城田は息巻き声を荒げた。すると江口が少し身を離し、真面目な顔で城田を見つめた。
「そうかもしれませんね」
「何だその人ごとみたいな返事は」
「犯人は淋しくてしょうがなかったんですよ」
またも江口は他人事のように言った。何が淋しかっただ一度会ったきりの相手に、と憤慨する。むきになる城田を嘲笑うかのように江口は笑い、そしておもむろに携帯電話を弄りだした。自分がいることを無視するようなその態度にさらに城田の怒りがます。それも何の偶然かその携帯電話は城田のものとそっくり同じで、城田は不愉快に感じた。
「わざわざ買い替えたわけじゃないだろうな」
「何をです」
画面から目を離さず江口が聞き返す。青白いライトで照らし出されたその顔は、その造りものめいた美貌とあいまって酷く不気味だ。
「その携帯電話」
言うやいなや夜の住宅街を叩き起こすような笑い声が響いた。江口が笑い転げている。造りものめいた顔も優等生然とした装いも全て吹き飛ばしてその時は本当に中学生だった。
「貴方のですよ」
「は」
「返します」
江口にその携帯電話を握らされ、ようやく城田は自身の携帯電話が掠め取られていたのだと気付きぶわりと赤面した。ふっふと息を乱したまま江口は潤んだ目で笑う。
「名残惜しいですがもう僕は帰ることにします」
「待て、俺と警察に付き合え」
「また今度にしましょう」
江口はそう笑うとまた城田の携帯電話を奪い取り、近くの民家の庭に投げ込む。
「また会う時は今度こそ名前を呼んでくれますよね」
それだけ言い残し強引に城田の唇を指で撫でて江口は逃げた。追おうかとも考えたが庭に捨てられた携帯電話がそうさせてくれなかった。こんなことで疑われたくない。
携帯電話を回収しようと庭に向き直った城田は血溜まりに横たわる犬の死骸をまじまじと見てしまい、胸の中に冷凍室のように冷たい風が過ぎた。