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「天狐と天子(テンゴ)と(後編)」

 功太は静かに香をソファに運んだ。香の様子は相変わらずで、打ち上げられた魚のように空気を求めて喘いでいた。それを見て、功太は静かに冷静さを失う。自分の怒りや悲しみを表に出すことを、彼はあまりしない。今回も同じで、心の奥底で動揺し、焦燥していても、第三者からみるといやに冷静に見えた。内心に渦巻く不安を、冬美でさえ見抜けない。冬美は功太の落ち着きようを見て、安心したと同時に驚愕した。

 冷却シートでも貼れば苦痛が和らぐだろうか。そう考え、功太はキッチンにある冷蔵庫の方へ体の向きを変えたとき、目の端に、テーブルの上の二冊の本が映った。一冊は見覚えのブックカバーをしていて、功太の実家の近くにある本屋のもので、彼が持ってきたものだった。もう一つも見たことはあるものの、そこにあってはならないものだった。功太が息を飲み、硬直する。固まっている功太をみて、冬美はテーブルの上にゆっくりと視線を移して、そこにある赤い本を認めた。金色の筋が無尽蔵に彫り込まれており、それは文字とも、図系とも言えない形を模している。冬美が、それを丁寧に持ち上げた。

「禁字の本、ね」

 本を開き、中を確認する。何も書かれていないはずのそこには、大量の文字がぎっしりと詰まっていた。それは攻撃的な蟻の集団を思わせて、見る者をぞっとさせる様だった。功太が本を覗き込み、自分の名前が文章中に何度も出てくるのを見、そして、気づく。この本は、香の一人称で、その半生射が語られているのだった。

「これって……」

 香の過去だった。功太と出会い、そのとき考えたこと、思ったこと、感じたことが詳細に綴られている。香自身でしか知り得ないほど、細かく。功太はほとんど反射的に本を冬美の手から叩き落とした。読んではいけない。そう思ったのだ。香の過去は香だけのものであり、いかに自分であろうとも覗き見ることなど許されない。

「香ちゃんの過去が書いてあったのかしら? ……だとしたら、結構危ない状況ね」

 冬美は冷静に落ちた本拾い上げて、テーブルの上に置いた。

「書いて、ありました。どう危ないんですか」

 冬美が答えようとした瞬間、香が一際大きく唸った。功太はそれを見て走りだし、乱暴に冷蔵庫を開けて冷却シートを取ってきた。少しでも香の苦痛を和らげたいと思っての行動だったが、冬美はそれを冷ややかな目で見た。

「無駄だと思うわ。禁字の本に触れたのだと仮定すると、そんなものじゃ気休めにもならない」

 功太が珍しく感情を露にして、冬美を睨んだ。縋るような、怒るような複雑な表情だった。

「じゃあ、どうすればいいんですか」

 顔に反して声は実に落ち着いていた。穏やかに二十年を過ごしてきた功太は、もう怒り方も忘れてしまったのかもしれない。そんなことを考えさせるほど不揃いな声色だった。

「妖怪のことは、妖怪に訊くのが一番だと思うわ。どちらにせよ、私には応急処置ぐらいしかできないしね」

「応急処置は、できるんですか」

 功太が目を剥いた。そこに微かな希望を見いだせたのだ。取り敢えずは、香の苦痛を和らげられればそれが一番だった。

「出来るけど、そんなことをやっている暇があるなら禁字に詳しい妖怪……天狗のところに急ぐべきね。ついてきなさい」

 冬美の言い方にはどこか逆らえない、高貴なものが含まれていた。その昔、人型の神はその身分を明かさずとも、口先だけで相手を服従させられたという。冬美のそれはちょうどそう言った具合で、功太は憤怒も焦燥も引っ込み、不思議と反論する気も起きなかった。

 冬美は功太の沈黙を肯定と取り、玄関へと歩きだした。功太も、それに無言で従った。


 功太が次に口を開いたのは、庭を門に向けて歩いているときだった。

「どこに向かっているんですか?」

 早足で前を歩く冬美は、功太を振り返りもしなかった。いつもと違う様子に少し気後れしてしまう。

「追い犬を呼べるところまで。天狗の元に行くなら、追い犬に乗ったほうが早いわ」

「乗るんですか? 追い犬に?」

 功太が驚愕して声を上げるが、冬美はどこまでも落ち着いていた。歩みを一切緩めず、平然と答える。

「ええ。追い犬なら一瞬だからね。彼がどんな術を使っているのかは、私も知らないけれど……」

「――香坂さんは、追い犬を呼べますよね。天子、なんですか?」

「違うわ。……私のことは、また今度にしましょう。今は、香ちゃんが先決。そうでしょう?」

 功太は少し悩んでから、それでも力強く返事をした。

「はい」

 そこで図書館を出て、初めて冬美が振り向いた。満足そうな笑みを漏らしながら、手を挙げる。

「ここら辺なら、もう大丈夫でしょう」

 言うが早いか、気がついた時には追い犬はもう現れていた。その歪な容姿も、今の功太には頼もしく見えた。

「追い犬。荻原君を天狗のもとに」

 追い犬は、庭で話した時と同じように冬美を睨んだ。追い犬は冬美の言うことを素直にきくにも関わらず、敵対心を隠そうともしない。嫌悪すら垣間見られる表情に、功太は狼狽する。

 それでも、やはり冬美の言葉には逆らわない。追い犬は功太に背中に乗るよう催促した。

「……え? 俺が乗るんですか? 冬美さんじゃなくて」

「香ちゃんの処置ができるのはこの中で私だけでしょう? あなたが行って、私が残った方が効率的だと思うわ」

 功太は図書館を見た。香を覆うその建物の大きさに、息を呑んだ。しかし、意を決したように、冬美を振り返る。基本的に受動的な功太が、珍しく強い口調で言った。

「天狗さん? のところに行けば良いんですよね。連れてってください」

 冬美はそれを見て満足そうに笑った。気に食わなそうに追い犬が鼻を鳴らす。

「天狗は、貴様が思っているほど人間に友好的な妖怪ではないぞ」

「それでも、香を助ける手立てが他にないなら、行きます」

 追い犬は功太に背を向けた。早く乗れという合図だと、功太は悟る。

「香ちゃんの方は任せなさい。絶対に有事が無いとは言い切れないけれど、可能な限りはやってみるわ」

 功太は神妙な顔で頷く。ゆっくりと追い犬に近づくと、恐る恐るその背を跨いだ。

「バランスは崩さぬよう、気をつけろ」

 そう追い犬が言った途端、功太の世界は一転する。追い犬の周りに風が集まりだした。風が紫の色を纏い始める。それはまるで薄絹のように功太と追い犬にまとわりつき、そして次の瞬間、追い犬が地面を蹴ったと思うと、一人と一匹は凄まじい速度で地を駆けていた。追い犬の足の動きと、速度がどうにも一致しない。さらに不思議なことに、これほどの速さにも関わらず、功太は空気の抵抗を全く感じなかった。もはや原型すら留めていない景色を脇に見る。脚に筋肉の動く力強い脈動が感じられなければ、功太は自分が走っていることさえ忘れてしまいそうだった。

 功太の旅はわずか一分とかからずに終わる。紫の風が散会したと思ったら、いつの間にか、動く景色は止まっていた。

「すごい……」

 思わず声を漏らしてしまう。それに対し、追い犬は遠い目をして答えた。

「これが、妖怪の世界だ。荻原功太」


 功太らの目の前には防空壕のようなものがあった。入り口は非常に広く、巨大な穴のようにも見えた。闇は深く、中を覗き込んでも一向にその先を見通すことができない。

「ここに、天狗が住んでいる。……住んでいる、というよりは守っていると言った方が正しいな。本来天狗は、森の深くを好むものだ」

「天狗ってやっぱりあれですか。鼻が長くて赤くて――」

「それは人間の空想だ。顔は鷹が一番近いだろう。剣の扱いに関しては一級品だ。天狐に剣を教えたほどだ」

「鷹、ですか。天狐というのは?」

「天狐は」

 ハッとしたように、追い犬が穴へと視線を向けた。功太もそれに従うと、闇の奥から、地を掻く音が聞こえた。その音はやがて輪郭をなし、闇は一体の妖怪へと変容した。

 鷹のような顔に、鋭い瞳。背には鴉を思わせる黒翼があり、手や足には肉食動物のような爪を有していた。全身が刃物のような鱗に覆われている。その姿の全てが攻撃的で、功太はたじろいだ。天狗には、存在するだけで辺りの闇を裂いてしまうような気迫があった。

「なんの用だ、追い犬」

 容姿に反して、すっとした透明感のある男の声だった。高めの声にも関わらず、殴りつけるような声の重さがあるのを、功太はひしひしと感じていた。

 追い犬は黙って功太を顎で指した。天狗が、切れ味の良い瞳で功太を見る。数瞬の沈黙。功太は天狗が自分から口を開かないことに痺れを切らし、声をあげた。

「あの、天狗さん、ですよね。俺の友達が、金字の本に触れたんです。それで、香坂冬美さんが、天狗を尋ねろとおっしゃって……」

「簡潔に言え、人間」

 天狗が功太をぴしゃりと遮った。天狗本人に自覚があったかはわからないが、相手を威圧する声色だった。

「……俺の友達を、助けてください」

 功太は恐る恐る言った。天狗は真っ黒な翼を開き、笑った。

「舐められたものだ。我に人間の手助けをしろと?」

「その者は天子たるものだ。それがわからない天狗ではないだろう」

 追い犬がすかさずフォローを入れたが、天狗はそれを鼻であしらった。

「契約を済ますまでは、所詮は人だ」

「契約?」

 天狗は怪訝そうな顔をした。功太の無知さに呆れているというよりは、不思議がっているように見えた。

「天狐はそんなことも教えなかったのか? 天子は、才能のある人間がここ、黄泉平坂で契約を済ますことで生まれる。我々妖怪の掟となる書物にも、そう書かれている」

 結局、天狐とは誰だろうか、と功太は漠然と考えたが、今大事なのはそこではなかった。

「俺が天子になれば、香を助けてくれるんですか」

「天子は妖怪の協力者であり、天狐と並び妖怪の中でも最高位の位を得る。天子の命令であれば、我とて従わねばならない」

 より高位の妖怪の命令に従わなくてはならないという決まりはない。もちろん下位のものよりは発言力があるのは確かだが、強制力は無かった。

 それにも関わらず、こういった発言を天狗がするのは、荻原功太を天子にしようという意思に他ならなかった。

「なら、天子になります。……どういう役目があるのか、まだ全くわかりませんが」

 天狗は長い間口を閉ざしていた。天子の仕事を今ここで説明すべきか否かを迷ってのことだった。

「ついてこい、人間」

 天狗は黄泉平坂へと引き返してゆく。功太は追い犬の様子を確認した。追い犬が頷き、行ってこいと言ったので、力強く頷き返した。功太は確かな足取りで、黄泉平坂へと向かう。

 黄泉平坂というのは、古事記によればこの世とあの世……つまり現世と黄泉を繋ぐ坂だという。功太もそれを知っていたから、不安が無かった訳ではない。天子というものを功太はまだ理解できず、とにかくわからないこと尽くしだった。それでも追い犬に従い、天狗の後を追ったのは、ひとえに香のためだった。香の苦しげな表情が瞼の裏にちらつく。功太は最悪の想像を、頭から追い出した。きっと、冬美がなんとかしてくれているだろう、自分がすべきことは、天狗の協力を結び付けることだ。そう自分に言い聞かせた。


 黄泉平坂の内部は意外にも、天然の石で出来ていた。鍾乳洞のようにしっかりとした足場がある。緩やかに下降してゆく坂は、どこか青みを帯びた光を放っていた。故に、真っ暗なはずの坂でも功太の目は良く利いた。

「どこまで行くんですか?」

「最奧まで」

「……大丈夫なんですか?」

 唐突な言葉に天狗は怪訝な顔をするが、すぐに合点がゆく。

「ここは古事記の伝承にある黄泉比良坂とは違う。いわば、出来損ないのような場所だ」

「出来損ない、ですか」

「そうだ。出来損ないであるここを、我々が天子との契約場所として利用している。……あるいは、初めからそういう場所として作ったのかもしれんな。我には、知る由もないことだ」

 黄泉平坂。現世と黄泉を繋ぐ坂。そんな途方もない道さえも、誰かが作ったのだろうかと、功太は考えた。人か、妖怪か、それともそれ以外の何者か。答えは出るはずも無く、疑問は長い石の坂に木霊して消えた。

「出来損ない、ということは、本物の黄泉比良坂もどこかにあるんですか」

 天狗は一度唖然とし、そのあと小気味よく笑った。

「貴様が天子になるとは全く信じられんな。黄泉比良坂は、貴様が住んでいるすぐ近くにあるじゃないか」

「すぐ、近く?」

 天狗からの答えは、なかった。


 坂は奥に進めば進むほど明るさを増していった。どれくらい歩いたか功太には実感が無かったが、坂はもうすっかり青白い光に包まれて、壁の突起や影すらも良く見えるほどだった。

「天子の仕事って、何があるんですか」

 冬美も追い犬も、この質問をすると言い淀んだ。そしてそれは天狗も同じで、答えることはなかった。不穏な空気を感じた功太は、それ以上言及することができなかった。天狗もまた、自分から積極的に語ろうとはしなかった。


 さらに歩くと、功太の前に平坦な広場が見えてきた。青い光が更に強く、眩しいほどだった。円形の広場の壁にはクリスタルのような半透明の石が敷き詰められており、それらが光を発しているようだった。地は先ほどまでとは違い、アスファルトで舗装された道路のように端正に整っている。その一番奥に祭壇があり、日本刀のようなものが捧げられていた。

「さあ、人間よ。祭壇に奉られた蜘蛛切クモギリの刀を取れ。それが、天子になった証となる」

 天狗が慎重に言う。場の神聖さが天狗の言葉にも宿り、それは啓示のように功太を射抜いた。

 功太は丁寧に歩き出す。地面を踏む度に、体中に形容しがたい興奮が入り込んできた。全身の毛が逆立ち、背中がぞくぞくとした感覚に包まれる。最初は純粋な興奮だったそれは、しかし徐々に恐怖へと移行した。一歩、歩みを進めるごとに、足取りが重くなる。祭壇の前にたったとき、その恐怖の感情が刀から発せられていることに、功太は気づいた。

 天狗の言った通り、功太は蜘蛛切を取ろうとする。しかし手が近づくほど心を侵す恐怖が大きくなり、直前で功太の手はついに動かなくなった。刀を取ろう、そう功太は思っているのに、身体がついてゆかない。本能的に身体がそれを拒絶しているかのようだった。

 その様子を見た天狗が、静かに口を開く。

「蜘蛛切は、最初の天子たる者が妖怪・大蜘蛛を切り捨てた刀。多くの妖怪と、多くの人間の血にまみれたその呪われた刀は、人間も、妖怪さえも扱うことができない。――ただ、天子その者以外は」

「妖怪と、人間の血……」

 功太の不吉な想像が形をなして、頭の中に流れ込んできた。男が、その手の刀で巨大な蜘蛛を殺す映像。その映像は引きちぎられた紙のように乱暴に止められ、また別の場面に切り替わった。先程と同じ男が、人間を、切り殺していた。男は涙すら枯れ、死んだような目をしていた。吐き気を催す映像に、功太は眩暈を覚えた。

「天子は、人を、殺すんですか」

「妖怪との共存関係を脅かす者であれば、人間であれ、妖怪であれ排除するのが天子、そして天狐の役割だ。お前ら人間と我らは、そうして微妙なバランスを守ってきたのだ」

 明治以前、妖怪の存在を知る人間は多く、闇に生きる妖怪を疎む者は多かった。同時に、そんな人間を嫌う妖怪もまた多かった。その仲裁を図るのが天子と天狐であり、彼らは双方の種族から恐れられたと、天狗は語る。

「尤も、最近では人を殺すも妖怪も殺すも随分少なくなった。妖怪を知る人間が少なくなったからだ。我々も、人間らと争わずに済むのならそれに越したことはない」

人とも、妖怪ともつかない相容れぬ存在。功太は、蜘蛛切から目を離すことができなかった。今離してしまえば、刀が功太を取り込んでしまうのではないかと思わせるほどの、禍々しさがあった。

「荻原功太。お前は同族たる人間、そして妖怪を切る覚悟があるか。その覚悟をしてまでも、天子になりたいと望むか」

 功太の頭に、香の顔がよぎった。全身黒尽くめの奇妙な服に、こんな時にも関わらず苦笑いを漏らした。次に、ソファの上でもがき苦しむ姿が浮かんだ。助けたい、と思った途端、金縛りにかかっていた腕が、軽くなる。

 功太は意を決して、蜘蛛切を手に取った。祭壇から切り離された蜘蛛切はそのおぞましい覇気を収め、功太の手にすっぽりとはまった。

「……歓迎しよう、新たな天子。お前は今、正式に図書館の天子となった」

 功太は額からどっと汗が流れるのを感じた。腰が抜けたようにその場に倒れ込む。青い光が、暖かく功太を包み込んだ。




 冬美は禁字の本を開き、その中身をつまらなそうに眺めていた。ソファに横たわる香の姿は穏やかなものだ。冬美の応急処置が効果を示したのは明白だった。

 それでも、香が危険な状況におかれていることには変わりない。苦しみがなくなっただけで、その命が脅かされている現状は何一つ変わらないのだ。

 冬美には、功太は天子となるという強い確信があった。功太が香を見捨てるはずがないと考えていたからだ。それでも、万が一ということもあるだろうと、冬美の内心は穏やかではなかった。それが一パーセントに満たない可能性でも、直接その目で確認するまでは安心できなかった。

 そんなとき、図書館の扉が開いた。冬美はあわてて禁字の本を閉じる。入ってきた人物は、当然、冬美も良く知る人物だった。

「お帰りなさい、荻原君」

 その手に持った蜘蛛切を見て、冬美は胸をなで下ろす。功太は、天子になったのだ。

「香は無事ですか」

「今はずいぶん落ち着いているわ」

 功太は香の元により、その左手を握った。天狗からもらった腕輪を彼女の左腕にはめる。

「それは?」

「……金字などの、弱い妖怪の影響を消すためのものらしいです。すねこすりとか、禁字程度ならば、この腕輪があれば大丈夫だと」

 真っ赤になっていた香の顔は、見る見るうちに本来の白さを取り戻した。禁字の本からも、香の過去を記した文字が消える。功太はそれを確認すると、優しげな顔でほほえんだ。

「よかった……」

 五分もかからずに、香は目覚めた。功太を見てすぐに、「何か、あったのか」と聞いたが、功太はそれには答えず、静かに紅茶を差し出した。砂糖を三つ。香の顔が綻ぶのを見て、手に持つ蜘蛛切の意味を強く感じていた。

 冬美はそれを見届けると、忍び足で図書館を出た。


 玄関を開けると、冬美は大きく息をついた。彼女の、一つの大きな仕事が終わったのだ。庭を越えて、門までゆくと、追い犬が彼女を迎えた。

「主の予定り、荻原功太は天子となった」

「ええ、わかっているわ」

 追い犬の声が硬いことに、冬美は気づいていた。

「もう、主の正体を隠すこともないだろう。――同族殺しの天狐、香坂冬美。いや、香坂冬美という名ももういらぬか。天狐よ」

「もちろん、隠すつもりはないわ」

 そう言った冬美の瞳は、普段の黒ではなかった。紅茶よりも赤く、夕日よりも透き通る紅だ。紅の瞳が笑うと、攻撃的な天狗よりも、ずっと深い狂気を感じさせた。

 追い犬から見た冬美は、西洋の洋館のような、数奇な図書館を背負っていた。天狐の表情に陰が落ちているのを、追い犬が問いただすことはなく、ただ闇に消えていくのだった。


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