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「天狐と天子(テンゴ)と(前編)」

 香は子供の頃から朝に弱い。いつもより早く起きた朝は、決まって頭がはっきりせず、千鳥足になる。今日もまた、例外ではなかった。

 香が目を覚ましたとき、功太は既に部屋にいなかった。重い瞼を擦って時計を見ると、振り子時計は六時半を指していた。普段功太が起きる時間よりも、一時間以上早い。香もそれを知っていたので、首をかしげた。不思議に思いながらも、部屋を出る。どこからともなく冷たい風が漂ってきて、身震いをした。欠伸をした息さえも凍えてしまいそうなほどだ。何度図書館に来ても、これだけは慣れることができないと、香ははっきりしない頭で思った。

 リビングに降りると、功太が朝食を準備しているところだった。タイマーで功太が起きる一時間前に暖房がセットしてあったようで、廊下に比べるとやや暖かい。見ると、ハムエッグを二人分に、トーストを一枚。香がまだ起きてこないと踏んで、トーストは自分の分しか用意していないようだった。

「おはよう」

 キッチンに入り、声を掛けると、功太は驚いて振り向いた。自分の生活音が香を起こしてしまったのかと勘ぐり、申し訳なさそうにする。

「おはよう。悪いね、起こした?」

「いや……ふわあ」

 香は半分眠っているようなものだった。常に船を漕いでいるし、語調も普段よりゆったりとしている。そんな様子を微笑ましく思いながら、功太はトーストを皿に移し、食パンをトースターに入れた。

「そこのトーストは香が食べていいよ。今、ハムエッグ出すからさ。ソファにでもいてくれ」

 人は反抗する意志が無いときは、命令に従うようにできている。睡眠状態の香はほとんど功太の言葉を理解できなかったが、頷くと、おぼつかない足取りでリビングへ戻っていった。功太は繋がってしまった二つのハムエッグを、菜箸で丁寧に丁寧に切り分ける。フライパンとの接地面が軽く焦げ付いてしまい、上手く分離できない。功太は力任せに焦げを削り取った。

 分けたハムエッグの一つを皿に乗せ、リビングへ運んだ。香は黒いソファの上で、同じくらい黒い寝間着を着てうつらうつらとしていた。音を立てないように、慎重に皿を差し出す。

「ん……ありがとう……?」

「なんで疑問系なんだ」

 香は焼き目の程良くついたトーストを手に取る。もうすっかり冷めてしまっていたが、証明の明かりを表面のマーガリンが反射し、輝いて見えた。香が小動物のように小さく口を開けて噛みつくと、ほつれるような小気味の良い音がした。触感は程良く。冷めたことが幸いして、熱がその味を邪魔してしまうこともない。沈んだ生地は染み込んだマーガリンを吐き出し、香の唇を濡らした。そのまま噛みきると、甘い香りが口の中に広がる。……しかし、香はその味を楽しめるほど、覚醒してはいなかった。

「寝てくれば?」

 功太が呆れて提案すると、香は首を横に振りながら「うん、ありがとう?」と言った。香は、自分以外の人間が活動しているときに寝ることを嫌った。諦めた功太は香の頭を一撫でするとキッチンに戻った。

 トーストを焼く間に、平行してお湯を沸かす。朝食をとって糖分が身体に回れば、香も目を覚ますだろうと功太は推察した。意識がはっきりすれば、当然紅茶をねだるはずだった。


 功太の予想は当たっており、トーストの半分を口に含んだ後、香はようやくまどろみから覚めた。それを確認して、功太は紅茶を差し出す。ハムエッグと紅茶。悪い組み合わせではない。香は功太を見上げた。

「うむ。ありがとう」

 先ほどまでと比べて、随分しっかりした口調だった。香は艶のある唇をカップに近づけた。勢いのある吐息が、紅い水面を揺らした。そして、慎重に、花柄のカップに口付けをする。その瞬間だけ、瞳を閉じた。熱を和らげるために音を立てて紅茶をすすると、功太の鼻にも甘い香りが漂ってくるかのようだった。

「……うむ」

 いつも通り、香はそれだけ呟いて満足そうにカップを置いた。

 しばらくの間、ハムエッグをつついたり、トーストをかじったりしていた香が、ふいに功太をみた。

「そうだ。今日はなんでこんなに早いんだ? まだ七時にもなっていないのに」

「管理人の、香坂冬美さんって方が今日いらっしゃるんだ」

 このとき初めて、功太は香と冬美に面識が無いことに気が付いた。二人は良く図書館にくるが、どういう偶然か、この二ヶ月会うことはなかった。

「管理人……そうか。つまり、私の一声で功太の首が……」

「割と本気で勘弁してください」

「土下座程度で許してやるとでも?」

「許されなきゃいけないようなことをした記憶はない」

「あ、あの夜のことを忘れたのね!」

 香が自分の身体を抱くようにして功太を睨んだ。含み笑いが隠せずにいることを、功太はもちろん気づいていた。

「昨日からずいぶんその手のネタ引っ張るなあ」

「しばらくはこっちの方向で攻めようかと思って」

「いいから、朝食早く済ませて。多分、香坂さんは七時に来るだろうから」

 古い振り子時計を見ると、もう十分も無かった。香もそれに気づいて、急いでハムエッグを片づける。

「全く。来客があるなら先に言ってくれ……」

 香は食べ終わるとすぐに洗面台へと走った。香は別に、すっぴんのまま他人の前に出ることに抵抗はない。功太の前でさえ、現れることがある。しかし、さすがに顔も洗わずに人と会うことは嫌うようだった。香にも焦ることがあるのだと、功太は感心してしまった。もっとも、香がわざわざ冬美の前に出る必要性は全くなく、冬美がいる間は部屋に戻っていれば良いことに功太は気づいていたので、複雑な気持ちであった。

 当の香はというと、顔を洗うと、すさまじい勢いでリビングを駆け抜け、二階へと駆けていった。騒がしい音に功太が天井を見ていると、三分もせずにその音がまたリビングへと帰ってきた。何をしているのかと疑問に思った功太だったが、それは香の姿を見てすぐに解決された。

 香は黒いワンピースの上に、同じ黒の長袖のパーカーを羽織っていた。寒々しい姿に、功太は顔をしかめる。

「寒くないか? その格好」

「ヒートテックき……」

 全力で階段を上り下りした香の息は酷く乱れていた。その息が白く濁る様が、空気の冷たさを良く表していた。

「着、てる」

 乱れる息を整えながら、無理矢理に声を出す。功太は香の頭を撫でると、ソファに座らせた。それと同時に、呼び鈴がなり、澄んだ音が空を裂いた。

「ぎりぎりだ」

 功太が香に笑い掛けると、香は照れたように頬を膨らませた。



「じゃあ、彼女が件の新藤香ちゃんなんだ」

 冬美は図書館に入ってくるなり、めざとく香を見つけた。数秒間玄関口で固まった後、冬美は功太の表情を確認した。そこから何を読みとったのか、冬美は図書館にいる女の子を、新藤香だと断定したのだった。

「件の、ってなんですか……」

 功太は不思議に思う。冬美と香の面識は無かったはずだし、功太は香について話したことはなかった。もちろん、香の名前も。

 冬美はそんな功太の様子を気にしていないかのように、香に近づいていった。香もそれに気づき、立ち上がる。

「新藤香ちゃんね。私は香坂冬美。この図書館の管理人で、荻原君の雇い主にあたるわ。よろしくね」

 冬美はさすがに大人だった。身振り手振りに加えて、自然な笑顔を浮かべることで香に警戒心を抱かせないようにしていた。香も、ほとんど本能的に、冬美が良い人だと判断して、力んでいた肩が降りる。

「新藤香だ。よろしく頼む」

 功太はぎょっとしたが、冬美はタメ口も笑って流した。冬美が手を差し出すと、香もそれに答える。

「香ちゃん、良く図書館に来ているのでしょう? 寒いわよね、ここ」

「ああ、まったくだ。功太の神経を疑う」

「ちゃんとした暖房設備を整えていない私の責任なのだけどね。でも、確かに荻原君は寒さに強いわよね」

 自分の責任だと認めつつも、話を功太に移すことで、直前の香の台詞を殺していない。かといって、功太を貶めた訳でもない。冬美の風に靡く藤のような柔軟な仕草に、功太は感服せざるを得なかった。


 女性同士だからか、あるいは香の口調が幸いしたのか、二人はあっと言う間に打ち解けた。功太が紅茶を淹れている間にも、二人の笑い声はリビングにキッチンに響いていた。それはとても楽しげなもので、紅茶をリビングに運ぶことを功太に躊躇わせた。香は独特の感性の持ち主である上に積極的にコミュニケーションをとろうとしない。香にとって冬美は、数少ない気の合う女友達でもあった。

「それで、私は何がそんなに面白いんだ? と彼らに訊いたのだが……それがどうにも気に食わなかったらしくてな。気まずそうに目を剃らされてしまった」

「なるほどねぇ……。確かに、変な話ね。もちろんその男の子たちの気持ちもわからなくはないけど、私は香ちゃんの方に考えが近いわ」

 冬美の言葉が社交辞令であれなんであれ、自分を理解される感覚は、香にはとても甘美なものだった。香にとって功太は、言葉を飲み込んでしまうブラックホールのようなものだった。どんな奇抜な言葉も、特異な感性も、功太を通すとなぜかそれが「可笑しいものではない」と感じられてしまう。功太の返す言葉には、例えそれが否定であっても、そんな、不思議な魔力があった。

 それに比べると、冬美はもっと柔らかい。香が次の言葉を紡ぎやすいように、優しく投げ返してくれる。母と子のような、暖かな上下関係がそこにあった。

 功太がリビングに入ると、二人の視線が功太に集まった。そのいたずらな笑みから、功太の話をしていたのだと悟った。

「紅茶、入りましたよ」

 功太にとって、紅茶は、一つの話を逸らす材料になりつつあった。


 紅茶を二人に出した功太は、二人に言及されるよりも早く、冬美に話しかけた。

「香坂さん、今日はどういった用事で?」

 冬美は名残惜しそうに香に笑い掛けたあと、普段の管理人の顔に戻った。

「ちょっと、荻原君に話があってね」

 冬美が功太に目で合図をする。功太はそれを上手に受け取った。

「せっかくの天気ですし、外で話しましょうか」

 どんなに良い天気、気温だとしても、功太が進んで外出するとは香には考えにくかった。香は、自分がいてはならない話なのだと悟る。紅茶を少量口に含み、舌に溶かしてから、二人に向けて言った。

「私は本でも読んでいる。紅茶もあるしな」

 功太は地下室には近づかないようにと再三の注意を促す。そして、そのときになってようやくすねこすりの存在を思い出した。それも、冬美に訊かなくてはなるまい。

 愛惜するように一言二言声を掛ける香をいなしながら、二人は図書館を出た。



 外は日差しが鋭く、図書館の中よりもよっぽど暖かかった。しかしひとたび日陰に入れば、やはり空気の冷たさは歯をならすほどだった。功太と冬美がいかに寒さに強いとは言え、好んで通りたい道ではない。二人は日向を縫うようにして、庭を歩きだした。

「来る度に思うけれど、酷い庭ね」

 庭は相変わらず、背丈の低い雑草が伸びていた。霜に塗れて薄くなった緑色が無人の哀愁を漂わせる。

「手をつけようとは希に思うんですけど。いかんせん広くて」

 そういうと、冬美は乾いた笑いを漏らした。

「真面目ねぇ。庭掃除には給料でないのに」

「その分、書庫の整理がスローペースですからね」

 給与査定者に対して言う言葉ではないなと功太は苦笑する。それでも、冬美になら問題無いだろうと、功太はそう思った。それがそのまま、功太の冬美に対する評価だった。

「ええと、そういえばですね。先日、すねこすりと思われる動物が図書館にいたのですが……」

 何か知っていますか、と繋げるよりも早く、功太は冬美が認知していることを確信した。その質問をまっていた、というような喜びが、かすかに冬美の目に灯ったからだ。

「すねこすりとは、最近ご無沙汰だなあ。久々に挨拶しようかしら」

「……何者なんですか? すねこすりって」

「妖怪よ。――それは知っているか。あの図書館に住み着いているの。心を許した相手には姿を現すそうよ」

 妖怪には不可視と可視の二種類がいる。影喰いのような姿は見えないが確かに存在しているものを不可視妖怪と呼び、金字の本や、日本に伝えられる数種の鬼などが可視妖怪である。すねこすりや追い犬はその中間に位置し、可視、不可視状態を自由に行き来できた。

「へえ……」

 どういう経緯かは知らないが、功太はすねこすりに気に入られたようだった。それは先日の様子を見れば一目瞭然なのだが、それでも功太は不思議に思わずにはいられなかった。

「どうして、気に入られたんでしょうか。特別なことはしていないはずなんですが……」

 冬美は複雑な顔を作る。それは苦い、というよりは、純粋にどう説明したものかと迷っているようだった。功太もそれを察し、追求せずに待った。

 一陣の風が二人の間を抜けた。風は図書館の壁にぶつかって、その壁に勝てないことを知り、逆らわずにそこに沿って進む。そんな北風の様子を肌で感じながら、功太は冬美に視線を移した。悩ましげな様子の奥底に、憂いの色が見える。日曜日、図書館の奥地から帰ってきたときと、同じ瞳の色だった。

「すねこすり、香ちゃんには懐かなかったでしょう?」

「え? ええ、まあ」

 冬美が独り言のように呟くので、功太は最初、自分に向けた言葉だとは思えなかった。語尾があがったのを聞いて、しどろもどろに答える。

 冬美は立ち止まって、功太を正面に据えた。

「それが一つの才能なのよ。あなたは妖怪に耐性があるんだ、と言ったの、覚えてる?」

「ええ、まあ。じゃあ香には耐性がないから、懐かないんですか?」

「そうじゃない。耐性があっても、懐かない人には懐かないものよ」

 同じ条件でも、動物に好かれる人、好かれない人がいることは功太にも実感できる。ただ、それを「才能」と呼ぶのは少し違う気がした。

 怪訝そうな功太に、冬美は照れたように頬を掻いた。

「うん、やっぱり私は説明が下手みたいね」

「いえ、そんなことは」

 功太が取り繕うとしたとき、冬美は手を功太の前に出してそれを留めた。打って変わって、真剣な表情だった。

「来なさい、追い犬」

 冬美がそう言うと、あたりにまた、風が吹いた。しかし不思議なのは、その風の冷たくないことだった。夏の夕暮れにあるような、生暖かい、人肌のような薫風。その空気に鼻を突く血と肉の生々しい臭いが混ざっているのに気づき、功太はかつての出会いを思い出した。

 いつ、どのように現れたのか、いつの間にかそこには追い犬がいた。異様に長い手足で地面を押し、茶色の毛を靡かせている。鋭い瞳には野生が感じられ、見る者を脅かした。

「貴様とは以前一度会ったはずだ。影の者や金字と相見、今更私に驚くこともあるまい」

 追い犬の重い声が功太を驚愕させたわけではなかった。なにより功太を硬直させたのは、冬美が追い犬を呼んだという点だった。彼女が妖怪について詳しいことはかねがね知っていたが、それでも、妖怪を自由に呼べるような存在であるとは露にも思わなかったのだ。

「香坂さん、これは……?」

 冬美の様子は相変わらずだった。困ったような、照れたような様子で、人差し指で頬を掻いている。

「私が言った才能というのは、妖怪と共存しうる存在である、ということなの。私のようにね。荻原君にも、その才能がある」

 追い犬が冬美を睨んだ。その意味を、功太が知ることはない。

「え、っと」

 冬美の「功太にもその才がある」という物言いは、酷く功太を困惑させた。功太は他人よりも多少成績は良かったし、多少運動も出来たが、それでも才能があると言われたことはない。その手の言葉は、功太をほかのどんな言葉よりも強く刺した。

「詳しくはまた説明するけれど、妖怪に協力することを、考えておいて欲しい。妖怪は人間の協力無くては暮らしていけない存在。あなたの力が必要なの」

「俺の、力? 俺、普通の人間ですよ。別に口から電撃がでたりもしませんし、猫型でも青色でもありません」

「彼女が言っているのはそういう意味ではない」

 追い犬が口を開いた。単純に説明を引き継いだだけなのだが、追い犬が言うとそれは功太を責めているように聞こえた。

「我々は人の傍には寄れぬ。人とは違う場所に、住処が必要なのだ。その住処を守るのが、天子テンゴとなった人間の役目」

 妖怪も、人間と同じだ。生きるためには土地がいる。人間ほど食が必要ではないが、人間の近くには生きられないという性質上、土地の大切さは人間よりも遥かに上だった。その土地を守るのが、功太のように妖怪への耐性を持つ人間だった。その人間のことを、妖怪の世界では天子と呼ぶ。

「天子?」

「妖怪の協力者の総称って考えれば分かりやすいかしらね。語弊はあるけれど」

 天命を受けた子だから天子と呼ぶのだと、冬美は説明した。

「荻原功太。貴様にはその才がある。天命を受けたのだ」

 追い立てるような言葉を追い犬がかけた。功太は二人の遠回しな言葉に混乱していた。結局、自分は何をすればいいのか、さっぱり見えてこなかった。それを悟ったかのように、冬美が肩に手を乗せた。

「別に、今すぐ何をしろということではないの。そうね……今まで図書館の住み込みバイトだったのが、正社員になる。こんな感じの考え方でどうかしら。私たちの協力者……つまり、天子になったからといって、すぐに何かあなたにしてもらおうってことはないわ」

 そこで、一同の会話は途切れた。功太はまだ二人の言葉を咀嚼しきれていなかったし、冬美もまた、これ以上どういった説明をなすべきか判断しかねていた。それを、話の終わりと判断したのか、追い犬はまた魔法のように姿を消してしまった。追い犬がいなくなったのを見て、冬美が大きく息を吐いた。

「あとで、天子に関する本を渡すわ。多分、荻原君の場合は文章で読んだ方が理解が早いと思うの。今は、香ちゃんのところへ戻りましょう」

 功太もひとまずそれに同意し、再び日向を通って、玄関口へと向かった。



 玄関を開けた功太は、違和感を覚えた。出てきたときとは異なる、何か不気味な静寂を感じ取ったのだ。その原因はすぐにわかる。あの騒がしい香がリビングにいなかったのだ。香の居なくなった図書館は、普段よりもよっぽど黒々しく見えた。暗く、人気の無い、とても寂しい場所だと、功太は初めて思った。

 歩きながら香の言葉を思い出し、部屋へ小説を取りに行っているのかと、功太は考えた。ちょうどそのとき、ソファの足もとに、黒い塊が転がっているのを見る。功太の心臓が跳ねた。見覚えがあったのだ。その、黒い、布に。漆黒と称するに相違ないパーカー。それと同じ色をした、ワンピース。それが何を意味するのか、功太の頭が汲み取った瞬間、功太は走ってソファのもとに駆け寄った。

 香が、倒れていた。苦しげに胸を上下させ、小さく呻き、少しでも苦痛を和らげようと、フローリングに爪を立てていた。

「香!」

 その顔は赤く、焼けるように熱い。目はどこか空をさまよい、功太の姿すら認識できないようであった。

 功太は混乱しながら香の手を取った。その様は、昨晩の優しげなものから一転して、乱暴なものだった。どうしてこんなことに。そう頭の中で問うても、答えは見えなかった。香の身体の細さが、今だけは不吉な影をもって功太の心を侵していった。香が呻いた。功太は目の前が真っ暗になるのを感じ、この後に及んでようやく、自分にとっての香が何者だったかを知る。だが、その香は、風前の灯火だった。

 そんな二人の様子を後方から眺め、冬美は密かに笑っていた。その狡猾な顔の歪みに、功太が気づくことはなかった。


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