「淡い同棲とスネコスリと」
朝起きて、荻原功太は足に違和感を覚えた。何か余計なものが脛にくっついているような居心地の悪さがあった。捻挫をして腫れた時の感覚に似ている。その正体を確かめようと、功太は思い切り布団を捲った。
自分の脚が目に入った途端、時間が止まった気がした。人は予想外のことが起こると十数秒もの間リアクションが取れなくなると言われている。今の功太の状態はまさにそうだった。十秒くらいの間布団を捲ったままで制止し、そしてようやく固まっている自分に気づいて、息を吐いた。
――なんだ、これ。
功太の脛の上に、オコジョのような生物がいた。黒味を帯びた茶色の体毛が、腹のほうだけ白くなっている。ふわふわとした容姿が猫や犬のような愛玩動物を思わせる。功太は猫にするように、優しく胴を掴み顔の前へと連れてきた。功太の目とその生物のつぶらな瞳が交差する。
「……。なんだこれ……」
うっかり独り言を漏らしてしまう。一人暮らしをすると独り言が多くなるというが、その話を功太は今初めて信じた。じっと小動物を見つめる。狐のような耳に、オコジョの様に細長い胴体。多くの四足動物と同じように体毛に覆われた四足。
「もしかして」
すっかり独り言に抵抗を覚えなくなってしまった。口にしてから、功太は苦笑いする。
スネコスリという妖怪がいた記憶がある。その名の通り人間の脛を擦り続けるだけの妖怪だ。基本的に害は無い上に(もっとも、冬美の話では妖怪が近くにいるだけで厄災が起こるらしいが)愛玩動物のような見た目をしているので、妙な言い方だが人気の高い妖怪だった。
「お前、すねこすりで良いの?」
そう功太が問うと、すねこすりは頷くように何度も何度も首を縦に振った。日本語がわかるのかと感心する。追い犬といい、妖怪という生き物は日本語が公用語なのかと功太は考えた。妖怪は日本独自の生き物だと聞いたことすらある。あながち間違いではないのかもしれない。
ひとまず、功太はベッドから出た。予定時刻よりも随分遅れてしまったが問題ないだろう。壁にかかっている、シンプルなカレンダーを見た。二月の末の、月曜日だった。
顔を洗い、さて朝食をというところで、功太は重要なことに気付く。――すねこすりは物を食べるのか。食べるとしら、なにを与えるべきなのか。先ほどからしつこく臑に頬ずりを続ける小動物を見やる。どうやらそれが気持ちの良い行為らしく、すねこすりはご満悦な顔をしていた。しゃがみ込んで、すねこすりと視線を合わせる。忙しなく動いていたすねこすりが、縫い止められたようにとまった。
しばらくの沈黙。功太は「よし」と呟くと、勢い良く立ち上がった。
「ミルクでいいだろ」
そういった途端、功太の足取りを邪魔するかのごとく、すねこすりが動き回る。……やっていることは単に臑を擦っているだけだが。
その行為を抗議と捕らえた功太の足が止まる。もう一度しゃがみ込んで、すねこすりをみた。
「ミルク」
そう呟くと、すねこすりは頭を大きく横に振った。あまりの形相に、そんなにいやかと呆れてしまう。
「水」
反応は相変わらず。水すら嫌がるとはどういうことだとげんなりした。
「紅茶」
やけっぱちに言ったのだが、すねこすりは意外な反応を示した。金縛りにかかったように停止した後、今度は縦に首を振った。唖然としながらも、功太は紅茶の準備に取りかかった。
「とはいえ」
底の浅い皿に入った紅茶を、すねこすりは一心に飲んでいた。舐めた、のほうが表現としては適切かもしれない。短くざらざらした舌を出し入れしながら紅茶を汲み取っている。
水物だけじゃまずいだろうかと、功太は思考する。しかし物を食べさせるとなると、適当なものは与えられない。幸いすねこすりは日本語が通じるようであるし、直接聞けば良いか、と功太は一心不乱に紅茶を飲むすねこすりを流し見た。第一、すねこすりは今まで一体どこに居たのか。そしてどうやって暮らしていたのか。それを功太が知る術はなく、今のところは取り敢えず世話をするほかなかった。
トーストを貪りながら、今後のことを考えた。仮に飼うことになったとして、香坂冬美の許しは出るのか。許しが出なかった場合、自分にこの子を捨てる勇気があるのか。
なんやかんや言ってもすねこすりの見た目は可愛く、無下にするには少し忍びない。功太の中での妖怪は、初めて会った追い犬のイメージが強かった。だからこそすねこすりの存在は意外であり、また好ましくもあった。功太は妖怪に恐怖も嫌悪も抱かなかったが、それでも追い犬は愛着の沸く見た目とは言い難かった。
あれこれと思考を侍らせていると、玄関の開く音がした。それと同時に鈴を転がしたような声が聞こえる。
「功太、来たぞ」
黒いコートに身を包んだ細身の女性が入ってきた。白い吐息がどことなく子供っぽさを表現していた。美人というよりは、可愛げのある容姿に、功太は目を細めた。
「どうした。平日にくるなんて……」
珍しい、と言いかけて、そうでもないなと思い直した。ここ最近、どういうわけか異常に来訪の多い新藤香をみた。今日もまたよくわからない事件を持ち込んできたのだろうか。そう勘ぐる功太に、香はほがらかに笑った。
「今日は違うぞ。泊まりにきた」
よく見ると、香は大きな旅行バッグを抱えていた。冗談ではないらしい。わざわざ香に伝わるように、功太は大きくため息をついた。
「また突拍子のないことを言う……」
「電話がないんだから仕方ない」
「電話はあるんだけどね」
香はどうもここの固定番号を覚えない。携帯も圏外なため、来訪が唯一の情報伝達手段となっていた。
泊まるという言葉について詳細を訊こうとすると、香は紅茶を要求した。よくも飽きないものだ、と功太は思う。しかし、功太にとっても紅茶を差し出すことは一つの楽しみとなっていた。内向的で出不精の彼に訪れた、わずかな変化だった。
功太がキッチンにゆくと、香を垣間見て怯えるすねこすりが目に入った。功太が近づいたのを見ると、弾かれたように功太の脛にまとわりついた。
彼女がすねこすりの存在に気づく。水を得た魚とはよく言ったもので、まさにそんな魚のように目を輝かせた。
「功太、なんだそれ、なんだそれ」
「なぜ二回言った。……自称すねこすり。有名な妖怪だ」
香はすねこすりを刺激させないよう、ゆっくりと近づいた。二人の距離が二メートルを切った頃、突然すねこすりは尻尾を踏まれた猫のように飛び上がり、さっとリビングを越して図書館の入り口まで逃げてしまう。ソファの脇にいる香とすねこすりの視線が絡む。牽制をするように鋭くにらむすねこすりに対して、香の表情は涼しいものだ。それどころか、逃げるすねこすりの態度が火をつけたらしい。意地悪な笑みを浮かべて、功太を振り向いた。
「あいつ、襲っていいか」
「やめてあげてくれ」
「逃げる背中をみたら襲わざるを得ない」
「外道すぎる。第一、襲ってどうするんだ」
「鍋にする」
「ペットじゃないのか」
すねこすりを助けるために、功太は迅速に紅茶の準備を進めた。紅茶さえ入れば香も落ち着くだろう。お湯を沸かしながら、功太はすねこすりの怯えようを考えた。自分にはすぐ懐いたのに、香には近づこうともしない。野性の感と結論付けるのはたやすいが、それにしても少し異常なまでの嫌われようだった。
そこまで考えが至って、功太は冬美の話を思い出した。冬美が言うには、妖怪は人間と近くにいるだけで害を受けるらしい。逆もしかりだ。人間も、妖怪と近くにいると悪いことが起こるらしい。その具体例が、先週の「影喰い」事件だ。香がどんな偶然か、影喰いの近くに行ってしまったことがことの発端だった。
「香、あんまりいじめてやるなよ」
となると、香の行為はすねこすりだけではなく、香自身の首を絞めていることになる。双方に損があるなら、止める以外の選択肢はない。積極的に香の阻害をする功太が珍しかったのか、香は目を丸くした。
「功太……」
香がしゅんとする。少し言い方がきつかったかもしれない。あるいは、発言が唐突すぎたかもしれない。そんな風に思い始めた頃、香が顔を上げた。
「功太がグレた……」
「どうしてそうなった」
「あなたをそんな風に育てた覚えはありません」
「ごめん、育てられた記憶もない」
「むう、そうか」
あれこれと言いながらも、さすがに聞き分けは良い。おとなしくすねこすりいじめを諦め、ソファに腰を下ろした。すねこすりもそれを見てほっと胸をなで下ろす。さながら人間のような反応だった。
沸騰したお湯を、ティーパックの入った花柄のカップへ注ぐ。水道水を使ったお湯特有の塩素の混じった臭いに、紅茶の香りが混ざる。鼻を突く異臭だったのは最初だけで、徐々にアールグレイの香りが勝っていった。
香は角砂糖を三つ入れる。そのため、少し濃く淹れるのが通例だった。ふつうよりも長めにパックを浸し、薄紅の濁りが見えた頃を見計らってパックを取り出した。
「どうぞ」
香にカップを差し出した。香は「うむ」と言って受け取った。カップから蒸気する葉の香りに、頬を緩ませる。それを見て、功太も満足そうに微笑んだ。香と対面してソファに座る。すねこすりもそれくらいの距離は許容範囲なようで、ソファの背もたれに乗り、功太の肩辺りから顔を覗かせた。
「ずいぶん懐いているな」
「今朝突如現れた謎の未確認生物だけどね」
「いいな。鍋にしたら美味そうだ」
「毒持ちかもよ」
「毒抜きが必要だな」
そう言ってすねこすりを見る。すねこすりは毛を逆立てて、功太の頭の後ろに隠れた。功太はひとまず、香にすねこすりに近づかないよう注意を促した。妖怪と人間が近くにいると、互いに良くない影響があること、先日の影喰いもそれが原因だと思われることなどを端的に伝えると、香はうなずいた。
「それなら仕方ないな」
それはすねこすりに近づかないことを示唆しているのか、それとも影喰いに対する言葉なのか、功太には判断つかなかった。追求するつもりもないので、すねこすりについての話はこれで切り上げることにする。
「ところで、さっき泊まるとか言ってなかったか? どういう意味?」
「そのまんまだ」
「説明を一から十までとすると、香のはマイナス四くらいの位置にある」
「むぅ。まあ大学恒例の入試休みだ。しばらく暇になるから、ここに通おうと思ったのだが、さすがに毎日行き帰りは面倒でな。ならいっそのこと泊まってしまえば良いと」
「部屋、俺が使っているところ以外埃だらけなんですが」
「功太の部屋を使えばいいじゃないか」
「布団も着替えも歯ブラシも化粧もないんですが」
「一緒に寝ればいいじゃないか。着替えと歯ブラシは持ってきてる。化粧もまあ最低限は」
香はいわゆるナチュラルメイクという奴で、あまり厚い化粧をしない。化粧をさほど必要としない素材に恵まれているからこそだろう。功太は香の無防備さに言葉を失った。いくら勝手知ったる幼馴染とは言え、年頃の女性が不用意に異性と屋根を、ましては部屋を一緒にするべきではない。布団など言語道断だ。
「いくら何でも無防備すぎるぞ」
「優しくしてね」
「いや、しないから」
「つまり強引に……」
「いや、しないから」
香はくすくすと笑った。上機嫌な様子を見て、功太は参ってしまう。功太もまた若い男だ。この手のからかいの始末はどうも切れ味が鈍くなる。
「布団……無い、よなあ」
この図書館の生活品は、主に功太が頼んだ物を冬美が買うことで揃えている。逆に言えば功太が頼んでいないものは基本的にこの図書館にはない。いくら探っても、自分以外の布団を依頼した記憶はでてこなかった。
「嫌、だったか?」
突然考え込んだ功太に、香が不安そうに目を伏せた。恐らく演技だろう、そうわかっていても、フォローせずにはいられなかった。
「そんなわけはない。ただ、なんというか、恥ずかしいんだよ」
彼女はいたずらな目を功太に向けた。ああ、またからかわれるのだなと悟る。思わず頬が緩んだ。何となく、暖かい時間だ。
「よし、じゃあ書庫の整理を……」
そこで、言葉が切れた。手伝ってくれ、と言おうとしたのだが、金字の本のことを思い出した。あれも妖怪の一種なら、あまり香に触れさせない方が良いのではないだろうか。さらに妖怪というワードで、すねこすりについても頭をよぎる。香が泊まるとなると、すねこすりもどうにかしなければならない。首もとに感じる暖かな感触に、溜息を付いた。
「香、今日は平日だ。よって俺は仕事をしなきゃいけない」
「うむ。時給五十円くらいで手伝うぞ」
「意外と安くてびっくりした。手伝いは良いから、昼飯とか作ってくれないか? それまでは本でも読んでいてくれ」
香は意外なほど読書好きだった。聞く話では、大学でも読書ばかりしているらしい。功太はそれを心配したが、当の香が気にもとめていない様子なので、考えることをやめた。
「了解した。ご飯は食べられれば何でも良いか?」
「冷蔵庫に入ってる材料で、おおよそ人類が食せるものなら構わないよ。つまり、すねこすりをつっこまなければ」
香は頬を膨らませて、功太を睨んだ。高校の頃、功太が香の話を無視すると、決まってこういう顔をした。
「……むう。今日の功太は、少し意地が悪い」
本は二階の功太の部屋にあると伝えた後、功太はすねこすりと共に地下で作業をこなしていた。共に、という表現は語弊を生む。すねこすりは功太の脛にまとわりついて、邪魔をしているに近かった。それでも香の近くに妖怪をおいて置くのは危険なので、連れて来ざるをなかった。
功太が動く度に、足に小動物を蹴り飛ばすような感触が残る。それを嫌うと結局作業はいつもよりも捗らなかった。悩んだ結果、功太はすねこすりを持ち上げて肩に乗せた。
棚から本を手に取ろうとする。突然不器用になった感じがして、うっかり本が手から滑り落ちる。乾いた音が共鳴し、地下室を染めあげた。フェードアウトしてゆく落下音に、ふと冷静になる。ここ最近……具体的に言うならば、香が影喰いを連れてきて以降、少々おかしなことが起こりすぎではないだろうか。
今まで妖怪の影すらなかったのに、突然追い犬は現れるし、偶然手にとった本は妖怪の一種だし、見慣れない小動物はいるし。一体、自分の周りでなにが起こっているのかと、功太は考えた。
何か良くない空気が漂っている気がした。図書館の冷たい大気は何一つ変わっていないはずなのだが、どうしてか何かが淀んでいる。まるで鏡の中の世界に来てしまったようなちぐはぐさを感じていた。
功太は無感動に本を拾い、タイトルを確認する。「何でも辞典五十音順」。こんな本でも、やはり何か曰く付きの物なのだろうか。妖怪関係か、あるいは人が死の関係か。功太の腕に、それが重くのし掛かっていた。図書館にきて以来、初めての感覚だった。
肩で騒ぐすねこすりを横目で見た。
「お前、何者なんだ?」
人の言葉を理解する妖怪は、こんな時ばかり普通の動物に戻ってしまったようだ。小首を傾げるだけで、功太の期待する答えは帰ってこなかった。
香の作った昼食は地味なものであったが、功太にとって酷く美味だった。香の料理の腕前は一般的なものだ。実家暮らし故に、自炊にも慣れていない。それでも普段よりよっぽど美味しく感じたのは、功太が自分の味に慣れきってしまっているからだった。何と無く感動を覚えた功太は、夕飯も香に頼むこととなった。
迷ったあげく、すねこすりには地下に居てもらうことで合致した。すねこすりは図書館の寒さなどどうということも無いようで、涼しげな顔をしていた。功太は当面の問題が解決したことに安心し、自室でくつろいでいた。
図書館には本以外の娯楽品はない。となれば、わざわざ肌寒いリビングにいるよりは暖房の利きの良い自室に居た方がよっぽどよい。この図書館の中で、功太の部屋は空気すら犯されない聖地だった。
香は一階で入浴中だった。入る寸前までからかい続けた彼女だが、それもまたしっぽを振る猫のようで、功太は微笑ましく思った。
本をいじったり、ベッドを転がったりして時間を潰しているうちに、扉がノックされた。
「どうぞ」
言うよりも早く扉が開いて、功太は苦笑する。香は黒い長袖の寝間着を着ており、頭から白い蒸気が上っていた。
「出たぞ」
「ああ」
功太は本を仕舞って香を見た。火照って赤く染まった頬や、塗れた髪が艶やかだった。普段は綺麗なストレートの黒髪が水を吸って固まり、乱れる。その普段とのギャップが功太をドキリとさせた。
「本気で、一緒に寝るの?」
香とは幼馴染とはいえど、功太も男だ。こういったシチュエーションに頬を染めないほど、出来た人間ではない。一方で、香の顔はさも当然のことを言っているかのようだ。何を戸惑っている。私たちは家族のようなものだろう。そう、無垢な信頼が功太に向けられていた。
功太は古いものでも良いから布団が無いものかとあれこれ探したのだが、結局見つからず今に至る。その課程であけたこともない二階の扉をいくつも開ける羽目になってしまった。風呂に入る前で良かったと、功太は心底ほっとする事となった。
「ま、いいけどさ」
冷静さを全面に出すように努める。普段ならそんな功太をからかう香も、今回ばかりはそれ以上追いつめることは無かった。
短針が十一を刺した頃、功太たちは布団に入った。シングルベッドといっても、土地だけはある図書館だ。なかなかの大きさがあり、二人で入ってもさほど狭いと感じることはなかった。もちろん、香の身体の細さが一因していることも間違いない。香の小ささを改めて感じた功太は、ふと昔の二人を思いだしていた。
「電気、豆が無いんだけど大丈夫?」
香はむっとしたように功太を睨んだ。
「むう。一体いつの話をしているんだ。もう、暗いのも平気だ」
功太は別に香と眠った記憶は無い。そもそも、幼稚園から高校までずっと同じだったが、二人が積極的に関わり始めたのは中学校の頃からだ。一つの布団に入ったことはおろか、一夜を過ごしたことも数えるほどしかない。それにも関わらず弁解をする香に、功太は微笑んだ。
「はいはい」
蛍光灯から垂らした紐を引いて、明かりを消した。布団に入り直して、瞳を閉じる。瞼の裏に蛍光灯の青い光の名残が走った。
隣に香がいると思うと、上手く寝付けない。自分の寝相はどうだったろうか。いびきはかいただろうか。普段、一人では気にならないことがやたらと気に付く。結局、功太は香が寝るまでは不寝番をすると決め込んだ。
「功太?」
眠りを妨げないようにと、慎重な声が掛けられる。
「どうした?」
壁の方を向いていた功太が寝返ろうとすると、香は額をつけてそれを妨害した。振り向いて欲しくないという意思表示を速やかに受け取って、功太は抵抗をやめる。
「手、繋いで良いか」
まるで図書館に入るときの「来たぞ」と同じくらい自然な声色だった。だからこそ、功太は躊躇せずにその手をとることが出来る。功太の右手が香の左手に触れた途端、わずかに香の手が震えた。
「ありがとう」
今度は少し、震えた声だった。壁を向いて居た功太が、仰向けに直る。功太の背中を見ていた香も、合わせて仰向けになった。
「感謝、してるんだ。いつも私の無茶につき合ってくれること。功太のおかげで、中学校も、高校も……大学は、違うけど。ずいぶん楽しくなった」
香は中学校の前半、不登校になった経歴がある。功太も詳しい経緯は知らないが、香の個性に起因しているのだろうと漠然と考えていた。学校に戻ってきた香は、功太と仲良くなり……それからはずっとこんな調子だった。独特の感性を元に無茶をする香と、それに口を出しながらも付き合う功太。周囲からは功太が無理矢理引きずられているように見えたが、二人にとっては理想的な共存関係だった。
「どうした急に。香らしくもない」
感謝されて功太もまんざらではない。照れ隠しに、笑いを含んだ声を作った。
「何となく、今言わなくちゃ一生言えない気がしてな」
「一生、付き合わせる気か」
「嫌か?」
「悪くないな」
香の表情を盗み見ると、そこには穏やかな笑顔が広がっていた。
不意に、功太は香を抱きしめたくなった。でも、それは行きすぎた行動なのだろうと、自分を咎める。二人の関係は、こうでいい。つながった手がそれを物語っている。その手のか細いつながりを、大事に、大事にしていこうと、功太はそう思った。
香が目を瞑ったので、功太もそれを真似る。夜が更けてゆくのだ。胸に露が染み入るように、そう感じた。




