「妖の声と追い犬と」
影喰い事件から二日後の金曜日、荻原功太は蔵書の整理に精を出していた。朝早くから電気ストーブを入れ、もう六時間になる。それでも冷える貯蔵庫は、まるで人の侵入を拒んでいるかのようだった。ここは妖のような存在がいるべき場所で、自分のような一般人は足を踏み入れてはいけないのではないだろうか。夜、誰もいない間に本は飛び交い、人にあらざるものたちが踊り回る――そんな途方もない想像をしながら、功太は単調な仕事の暇をつぶしていた。
功太は休日の予定を考えることがない。絶望的なまでの出不精である彼は、休日も篭もりきりだった。図書館には彼が立ち入ったことの無い部屋が無数にある。しかしそういった未知の領域に心惹かれるほど、彼は好奇心旺盛な男ではなかった。
オレンジの蛍光灯が貯蔵庫を薄暗く照らす。静謐な地下室に功太の足音だけが響く様子は、ひどく不気味だった。図書館の棚には番号が振ってあり、それに応じたジャンルを五十音順で並べていた。若い番号の棚の中から、あるべきでない本を探し出し、手にとる。乱雑に放り込まれた蔵書をどうにかしないことにはダンボールに詰まった大量の本にまで手が回らない。功太が図書館に来て二ヶ月になるが、本棚の整理はまだ半分も終わっていない。この図書館の膨大さに功太は呆れ返った。よくもこれほどの「曰く付き」を集められたものだ。管理人に対して畏怖の念すら抱く。
百十四番の棚を整理していると、階段の軋む鈍い音がした。誰かが地下貯蔵庫に降りてきたようだ。管理人が来るのは毎週日曜日と決まっているし、わざわざこんな辺鄙な場所まで来るような友人は一人しかいなかった。
「功太、いるか?」
だだっ広い地下室に、澄んだ声が反響した。功太は手に持った本を一旦棚に戻し、階段の方へと向かった。
「また今度、がまさか二日後とは思わなかった」
「うむ。私も思わなかった」
ピンと張った空気が新藤香の言葉を白く染色した。それを見て、功太は今更のように寒さを思い出す。手も足も、すっかり感覚がなくなっていた。
「とりあえず、リビングにいこうか」
功太は香の背中を押して、軋む木製の階段を上っていった。
「しかし、不思議な建物だなここは」
甘い紅茶を啜りながら、香は無表情に言った。砂糖が三つ。図書館に来るたびに、香が要求するものだった。功太もすっかり慣れてしまい、紅茶だけは常に在庫がある。功太自身も無糖であれば嫌いでなく、苦味と香りを楽しんでいた。
「不思議、というと?」
「外よりも中の方が遙かに寒い。一階は暖房を入れればそれなりだが、地下は足を踏み入れたくもない」
「住めば都、じゃないけどさ。慣れればどうということはなくなる」
「そういうレベルの寒さじゃないと思うが」
「マイナス五十度の地域で暮らしている人も世界にはいるわけだし。男は度胸。何でも慣れてみるもんさ」
「おまえほど度胸が似合わない奴も珍しいぞ引きこもり」
「ぐうの音もでない」
そこで二人の会話は途切れた。香が紅茶に手を付けると、無意識に功太もそれを真似る。秒針の音が二人の耳を抜けた。
「で、あんまり聞きたくないんだけど、今日はどうしてきたの?」
「うむ。そうだな」
香は土日や祝日を中心に訪れる。平日は香も大学があるし、何か緊急の用があるとき以外、滅多に来ることはなかった。香が両手を組んでテーブルの上に乗せた。わずかに揺れた黒髪から、シャンプーの甘い匂いが漂ってくる。子供の頃から変わらない、香の匂いだった。
「一昨日の帰宅中に、妙なものに尾行されたのだが」
「妙なもの?」
香は、性格はさておき容姿は良い。ストーカーに目を付けられても納得できる節がある。だが、功太は「妙なもの」という言い回しに不吉な違和を感じた。それに一昨日の帰りというのは、もちろんこの図書館からの帰宅を指すのだろう。ここに来るためには山道を車で二十分近く走らせる必要があり、香も自動車を足にしていた。ストーカーが車を追いかける、というのは少しおかしな話だ。
「ああ。犬人間……とでも言おうか。四足歩行をしていたが、犬にしては異様に長い手足で、痩せた人間みたいだった。顔は犬そのものだ」
犬人間、という言葉に功太は聞き覚えがなかった。一瞬困惑するも、冷静に香の表現した生物を想像する。名状し難い生物が頭の中に出来上がったが、その像にはかすかに見覚えがあった。
「……ん、なんとなく記憶にあるような。ちょっと待っていてくれ」
功太は走るようにして貯蔵庫へ向かった。
十分も経たずに、一冊の古びた本を持って来る。和綴じされたそれは正式な蔵書というよりは、個人的なレポートに近い印象を受けた。
テーブルの上にそれを置くと、素早く該当ページを開いた。
「追い犬……か。ああ、そうだ。ちょうどこんな感じだった」
香が声を上げる。開いたページには「追い犬」と呼ばれる妖怪の絵と、説明文が載っていた。絵は香が形容した通りで、ちょうど犬と人間の中間のような容姿をしていた。白黒なので色まではわからないが、全身を長い毛で覆われている。原始人の顔を犬にして、四足歩行させたような姿だった。
こんな化け物に追われて冷静にいることは難しい。それにも関わらず良く記憶していた香に感服しつつ、功太は文章を読み上げた。
「夕方から夜にかけて、一人で歩く女性の後ろを追いかける妖怪」
「変態だな」
香が野次を飛ばす。妖怪が変態、という妙な組み合わせに、功太は頬が緩むのをこらえた。
「相手が転ぶのを今か今かと待ち、追い犬が見ている間に転ぶと喰い殺されてしまう」
「獣姦とはマニアックな」
「うん、ちょっと黙ろうか。家に帰ったらまず足を洗い、見送りありがとう、と言うともう追われることはない――だそうだ」
「ふむ。捕まえる方法は載ってないのか?」
「えっ」
「ペットにしようかなと」
「かわいくなさすぎる」
「猫とかと似たようなものだろう」
「猫は人を喰わん。……ま、第一妖怪を捕まえるなんて無理だろ」
「そうか、残念だ」
頭を垂れて本当に残念そうにするあたりが香らしい。淡泊な黒のコートに落ちた黒髪が、哀愁を漂わせる。
「なら功太が私のペットになってくれてもいいぞ」
「本当に申し訳ないが俺にその手の趣味はない」
「やあよ、やあよ」
「そっちの趣味もない」
「……。そうか」
貯蔵庫に比べてリビングは狭く、暖まりやすい。室温は十八度を越え、コートで居るには少し暖かすぎる。香はコートを脱いで脇に置いた。胸元に白いフリルがついた黒ベースのブラウスと、紅色のスカートが露わになる。防寒対策であろうニーソックスは、ただでさえ細い彼女の足をさらに細く見せた。
「相変わらず病的に細い足だな。いい加減、ダイエット止めたらどうだ」
「女子の世界ではこれでようやく細いかな、ぐらいだそうだ」
傍若無人な彼女を見てきた功太にとって、眉唾な発言だった。一般的な女の子と同じように、他人の目を気にする香など想像もつかなかった。
「恐ろしい世界だな」
「ああ。そろそろ飽きてきたし、止めるかな」
「飽きてきた?」
「ダイエットって流行の遊びのようなものだろう? だから試してみたのだが、特に面白いとも思えなくてな。日進月歩と聞いたから長い間やってみたのだが」
皮肉めいた台詞だ。今の台詞を大学で言おうものなら、陰口を盛大にたたかれることになるだろう。苦笑しつつも、やめるという言葉に功太は安堵した。
「ときに、今日は追い犬の件できたんだろ? どうするんだこれから」
「とりあえず」
香は笑顔で、空になった花柄のティーカップを突き出した。
「紅茶を淹れてくれるか。久しぶりにたらふく飲める」
紅茶を二杯飲みきった香は、コートを羽織った。あまり遅くなると、暗い山道をゆくことになってしまう。まだ十五時で外は明るいが、これ以上の長居はできなかった。
「さて、行こうか」
そう行って功太を促す。功太は怪訝そうに香を見た。
「行くって、俺も?」
「何を言ってるんだ。お前がこないと追い犬が捕まえられないだろう」
「あれ本気だったんだ」
「うむ。というわけで、歩きで途中までついてきてくれ。私も速度を緩めて運転するから」
言い出したら止まらない。功太はげんなりした素振りをしながらも穏やかに笑った。壁に掛けてあるショルダーバッグを手に取り、出掛けの準備をする。時計代わりの携帯電話、財布、図書館の鍵はすでに鞄の中に入っていた。それを確認している功太の手が、不意に止まる。思案顔で天井を仰いだ後、香を振り返った。
「なあ。追い犬を捕まえるって何を持って行けばいいんだ」
「愛と勇気」
「追い犬は擬人化細菌かなんかなのか」
「じゃあ四十四口径自動拳銃と散弾銃」
「愛と勇気よりは捕まえられそうだ。持ってないけど」
「よし、じゃあ行くか」
「要するに丸腰ってことね」
功太はショルダーバッグを肩に掛けた。スーツとのアンバランスさがシュールさを醸し出しているが、功太はまったく気にする様子を見せなかった。
玄関を開けると、冷たい空気が流れ込んでくる。長く暖房の利いた部屋に居たせいか、功太でさえ肌寒く感じさせた。張りつめた空気のレンズは、背丈の低い雑草が生えた広大な庭を、厳かに映し出していた。
何週間ぶりか、功太は外から鍵をかける。久しぶりの外出で、鋭い日差しが目に染みた。扉を何度か引き、施錠されたことを確認すると、香の真っ黒な車に向かって歩きだした。
「お前、黒好きだよな。車も、どうせ親に反対されたろ」
香の両親は、彼女の黒好きを敬遠している。服も黒基調が多く、部屋の家具も香に選ばせると大抵のものが黒くなる。年頃の女の子の親としてはその趣向がどうにも心配なようだ。彼女の買い物に付き合ってはあれやこれやと口を出している。
「母も父も黒が嫌いみたいだ」
そう無邪気に言う姿を見て、功太は彼女の両親に同情する。両親が嫌っているのは黒ではなく、黒に固執する性癖の方なのは誰の目にも明らかだった。
「そういえば。スカートは赤なんだな」
そういうと、香は自分のスカートを見た後にこれ見よがしに嫌な顔をした。
「……最近、両親の小言が酷くてな。今日も黒スカートだったんだが、酷く反対されて、妥協した」
「まあ心配してるんだよ」
「全く、憑き物でも憑いたようだ。功太はどう思う? 赤いスカート」
「かわいいと思うよ。少なくとも、全身黒よりは」
「……そう、か」
香は目を伏せた。触れてはいけない点に触れてしまったかもしれない。功太が人知れず反省をしていると、先に沈黙を破ったのは香だった。
「まあ功太がそう言うならいいだろう」
「両親は駄目なのに?」
「うむ」
庭を抜けて、門の前まで来る。不思議と錆の無い鉄の門扉は、気味悪く口を開いていた。
功太や香の車は敷地の外にある。不用心かもしれないが、そもそもここに来る人間自体が少ないので、問題が起きたことはなかった。香に至っては、車のキーを外さずに降りることもあるくらいだ。
「じゃあ私は車でゆっくり行くから、ストーキングしてくれ」
「わざわざ嫌な言い方するな。というか俺の帰りはどうするんだ?」
山道は車がやっと一台通れるくらいの幅だ。ターンするには図書館かあるいは山の麓まで行く必要がある。功太が徒歩で付いていった後、香の車に乗せてもらった場合、一度山を下りてまた図書館に戻らなくてはいけなかった。
「? 徒歩で帰るに決まっているだろう」
「ですよね。まあそうなりますよね」
どこまで付いてゆくことになるかはわからないが、少なくとも香が納得するまでは歩くことになるだろう。そこからまた帰ることを考えると、酷く面倒なことに思えた。
だが、功太に反論する術はない。功太自身が香を受け入れている以上、双方の力関係は改善の余地がない。
ゆっくりとした速度で香の車が発進する。十メートル程度差が開いてから功太も歩き出す。本来ならもっと距離をあけ、香が追い犬を見つけた時点で詰めるべきだ。しかし携帯電話が使えない以上連絡の手段が無い。仕方が無く、二人はお互いが視認できる距離に留まった。
歩きだして十五分ほど経った。今回は徒歩と同じくらいのスピードで進んでいるため、十五分経った今も中間点にすら来ていなかった。しかしこれ以上進むと、さすがに功太の帰りが辛い。そろそろ香に声を掛けてあきらめさせようか。そう考えていたとき、功太の後方から低い低い声がした。
「お前は、あの娘の見送りか?」
生々しい血と肉の臭いがした。獣の臭いだ。普段見慣れている牛や豚の死肉からは漂うことの無い、生きた臭い。そのグロテスクなまでの臨場感。功太が振り返ると、そこには痩せ細った犬のようなものがいた。薄暗い空気がその姿をぼんやりの映し出す。異様に長い手足に、肩の骨が突き出ている。身体は茶色の体毛に覆われており、目は鋭利な殺意を功太に向けていた。
唖然として返事に窮する功太に、追い犬はさらに言葉をかける。
「もう一度問う。お前はあの娘の見送りか?」
その奇怪な見た目はなんなのか。何故犬がしゃべっているのか。それらの疑問を押し殺すほどの気迫が、追い犬にはあった。しどろもどろに功太は答える。
「いや、えっと……一応、見送り、です」
威圧的な重低音はいくらか緩和され、功太に対して好意的なものへと変化した。
「――そうか。ここらは危ない。あの洋館にも二度と近づかせないことだ」
功太は安堵し、追い犬が害を与える存在ではないことを理解する。それどころか、香の身を案じてさえいる。その事実に、功太は異形の追い犬にかすかな親近感を覚えた。
「犬っぽいのがしゃべってる……」
恐怖が消えた途端、功太の口から出た言葉はそれだった。さすがにまずかったと慌てて功太は口を手で覆うが、追い犬は笑うように口元を上げた。
「ほう。私が怖くないのか人間」
「怖いよりも、しゃべっているところが」
「……まあ良い」
こちらの様子が見えたのか、香が車を降りて走り寄ってくる。追い犬はそれを合図に俊敏な動きで森へ飛び込み、そのまま姿を消した。
「功太、今のは」
珍しく興奮した様子で、香が叫ぶ。功太は先ほどまでの白昼夢のような展開に呆然としていた。
「……こうた?」
功太は昔から、怪異というものに恐怖を抱いたことがない。子供なら誰でも怯えた経験があるホラー番組の数々も、彼の背筋を凍らせたことはなかった。
しかし妖を目した功太は混乱していた。妖怪や霊と言うと、もっと曖昧で存在感の無い、空気のようなものだと思っていた。功太が初めて出会った妖怪は、空気と片づけるにはあまりにも脈動していた。血の臭い、流れ。肉質。そのどれもが目に焼き付いて離れない。
自失する功太の肩が小さい手でゆすられ、はっと目を覚ました。
「あ、ああ。大丈夫だ」
「追い犬はどうしたんだ?」
「ん、居なくなったよ。……なんだか、お前を心配しているような口振りだった。というか犬がしゃべってた」
「心配? ……ああ、最近良く妖怪に話しかけられるからな。そのせいかもしれない」
「えっ]
「まあ、追い犬が居なくなったなら仕方ない。私はもう帰るぞ。ありがとうな」
香は一直線に車へと向かった。乗り込み際に、
「また来るぞ」
とだけ言って、器用に走り出してしまう。
残された功太は唖然としながら立ち尽くしていた。空気はだんだんと夜の模様を映し始める。良く話かけられる、の意味を確認することはもうできない。薄暗さに目を慣らしながら、功太はゆっくりと図書館へ帰ってゆくのだった。




