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時計人形のネジを巻くのは、彼女が世界を『忘れる』ため

作者: キュラス
掲載日:2026/07/05

「十九、二十……うん、これでよし」


私は小さなため息をつきながら、金属製の大きなネジ巻き(キィ)をトルソーの背中から引き抜いた。

カチカチ、カチカチ。

静まり返った部屋の中に、規則正しく、けれどどこか冷徹な歯車の噛み合う音が響き始める。


私の目の前に立っているのは、透き通るような磁器の肌と、夜の闇を溶かしたような黒い髪を持つ、息を呑むほどに美しい少女の姿をした人形――自動人形オートマタだ。私が背中のネジを規定の回数だけ巻いてあげると、彼女はまるで深い眠りから覚めたかのように、ゆっくりと長い睫毛を震わせ、ガラス細工の瞳を開いた。


「おはよう、エルダ」

私が声をかけると、エルダは滑らかな動きで首を傾げ、人工の唇を微かに動かした。

「……オハヨウ、シエル。キョウモ、ネジヲ巻イテクレテ、アリガトウ」


抑揚のない、けれど鈴を転がすような美しい歌声。

私はホッと胸を撫で下ろし、彼女の美しいドレスの裾を軽く整えてあげた。


ここは、王都の最果て、霧の深い崖の上にひっそりと佇む古い時計塔。

そして私の仕事は、この時計塔の主であり、国一番の天才時計職人であるクラウス様が作り出した、美しすぎる自動人形たちのネジを毎日決まった時間に巻くことだ。


私の名前はシエル。

自分で言うのも悲しいけれど、私はひどく不器用で、おまけに記憶力が極端に悪い。

自分がいつからこの時計塔で働いているのか、自分の両親が誰で、どこで生まれたのかさえ、頭に深い霧がかかったように思い出すことができないのだ。昨日食べた夕食のメニューや、クラウス様にきつく叱られた理由でさえ、朝起きるとすっぽりと忘れてしまうことが日常茶飯事だった。


「おい、シエル。またそうやって人形に見とれて手を止めているのか。お前の頭のネジは、ハエの羽よりも軽いようだな」


背後から、凍てつくような冷たい声が響いた。

振り返ると、作業台の前に座り、片目に拡大鏡ルーペを嵌めた黒髪の青年が、ひどく不機嫌そうに私を睨みつけていた。


この時計塔の主、クラウス様だ。

二十代半ばほどの若さでありながら、彼の作る時計や自動人形は王侯貴族がこぞって大金を積むほどの最高傑作ばかり。けれど、その才能とは裏腹に、彼の性格はひどく偏屈で、冷酷だった。


「申し訳ありません、クラウス様! すぐに次の子のネジを巻きにいきます!」

「フン、口を動かす暇があるなら、その鈍い手足を動かせ。お前のような無能をここに置いてやっているのは、ただの気まぐれに過ぎないんだからな」


クラウス様はフイと顔を背け、再び手元の小さな歯車の調整に戻ってしまった。

いつものことだ。彼は私に対して、毎日「本当に頭が悪いな」「出来損ないめ」と冷たい言葉を浴びせる。

けれど、不思議なことが一つだけあった。


これほど私を無能だと罵り、私のやることを信用していないクラウス様なのに、なぜかこの「自動人形たちのネジを巻く」という重要極まりない仕事だけは、決して他の誰にも触らせず、毎日必ず私一人に任せてくれるのだ。


一度、王宮から高名な職人の見習いが手伝いに来たことがあった。その時、彼がエルダのネジを巻こうとした瞬間、クラウス様は見たこともないような恐ろしい形相で激怒し、その見習いを今すぐ塔から叩き出せと命じたという。


(どうして、私なんかにはこの仕事を任せてくれるんだろう……)


私は自分の小さくて、少し傷だらけの手を見つめた。

記憶力も悪く、時計の仕組みも何一つ分からない私。けれど、この金属のネジ巻きを人形たちの背中に差し込み、ゆっくりと回している時間だけは、私の胸の奥が、言葉にできないほどの切なさと愛おしさでいっぱいになるのだった。


「カチ、カチ、カチ……」


時計塔の巨大な歯車が回る音が、今日も私たちの静かな境界を包み込んでいく。

私は次の人形へと歩み寄り、また静かにネジ巻きを構えた。


*****


「……シエル、今日の分の油差しは終わったのか」


作業台からクラウス様の冷ややかな声が飛んでくる。私はハッとして、手に持っていた真鍮製の油差しをきゅっと握りしめた。


「は、はい! エルダたち主要な人形の関節部分には、すべて注油を終えました!」


「ならいい。お前のことだ、どうせまたどこかの手順を忘れて、人形の歯車を焼き付かせるのではないかと肝を冷やしていたところだ。本当に、手際が悪い上に物忘れが激しい。お前のような出来損ないの脳味噌には、一体何が詰まっているんだか」


クラウス様は片目に嵌めたルーペを外し、ひどく疲れたように眉間を指先で揉んだ。

いつもの、容赦のない罵倒。胸の奥がチクリと痛むけれど、私はそれに言い返す言葉を持たなかった。だって、本当に彼の言う通りなのだから。


私は毎朝、自分がなぜこの時計塔にいるのか、昨日何をしていたのかを思い出すのに数分を要する。日記帳に書かれた自分の文字を見て、ようやく「私はシエル。ここで人形のネジを巻く仕事をしている」と納得するのだ。そんな壊れた時計のような私を、クラウス様は「無能」「出来損ない」と呼びながらも、この塔から追い出さずにいてくれる。


「申し訳ありません、クラウス様。……あの、クラウス様は、今日も夜遅くまで作業をされるのですか?」


「……お前には関係のないことだ。さっさと奥の部屋へ行って眠れ。お前が夜更かしをしたところで、明日の朝にはその貧弱な記憶からすべてが綺麗に消え失せているのだろう。時間を無駄にするな」


「あ、はい……おやすみなさい、クラウス様」


私はペコリと頭を下げ、作業場を後にした。

背後で、再びカチカチと時計の部品を弄ぶ金属音が響き始める。クラウス様はいつもそうだ。私を激しく突き放し、決してその心の奥に踏み込ませようとはしない。


自室に戻り、私は古い木製のベッドに横たわった。

窓の外からは、崖の下に打ち寄せる波の音と、時計塔の巨大な歯車が噛み合う「ゴト、コン、ゴト、コン」という重々しい地鳴りのような音が聞こえてくる。


(どうして、あんなに冷たいのに……ネジを巻く仕事だけは、私にやらせてくれるんだろう)


私は自分の胸元に手を当てた。

パジャマ越しに触れる私の胸の奥。そこからは、トクトクという人間の心臓の鼓動に混じって、なぜか「チク、タク、チク、タク」という、ひどく微かな、けれど金属質な音が聞こえるような気がしてならなかった。けれど、眠気が急激に押し寄せてきて、私の思考はそこで途切れてしまった。


*****


夜が更け、時計塔が完全に静寂に包まれた頃。


私は、奇妙な『違和感』で目を覚ました。

喉がひどく渇いていた。部屋に置いてある水差しは空だったため、私は静かにベッドを抜け出し、一階の台所へ水を飲みに行こうと部屋を出た。


薄暗い廊下を通り、作業場の前を通りかかったとき。

ドアの隙間から、漏れ出しているランプの灯りが見えた。まだクラウス様が作業をしているのだろうか。そう思った瞬間、中から、低く、押し殺したような男の「泣き声」が聞こえてきた。


「……っ、う……、ああ……」


あの傲慢で冷酷なクラウス様が、声を震わせて泣いている?

私は息を呑み、そっとドアの隙間から中を覗き込んだ。


作業場の中央。いつもエルダたちが置かれている調整台の上に、一人の『少女』が横たわっていた。

衣服を剥ぎ取られ、剥き出しになったその少女の身体を見て、私は恐怖で叫びそうになり、咄嗟に自分の口を手で塞いだ。


その少女の胸元には、人間の生々しい肉体ではなく、精巧極まる真鍮製の歯車と、複雑に絡み合った銀のワイヤーがびっしりと埋め込まれていた。中央で狂ったように高速で回転しているのは、歪んだ形をした『時計の心臓(脱進機)』。


そして何より、その人形の『顔』は。

磁器で作られた人工の頭部は、今、壁の鏡に映っている私自身の顔と、寸分違わず同じものだった。


「……ごめん、な、シエル……っ。今日も、お前のネジを、僕が巻くことになってしまった……」


クラウス様は、大粒の涙をボロボロと流しながら、人形の――いや、私と同じ顔をした人形の背中にある、巨大な真鍮のネジ穴に、あの金属製のネジ巻きを差し込んでいた。


ガチリ、ガチリ、ガチリ。


彼がネジ巻きを回すたびに、人形の胸の中の歯車が軋んだ音を立てる。


「お前の記憶容量ゼンマイは、もう限界なんだ……。毎日、新しい記憶を詰め込めば、お前の精巧な脳の歯車は一日で破綻して、今度こそ完全に壊れてしまう。……だから、僕がお前を罵り、お前を『無能』だと定義し、新しい記憶を持たせないようにするしかないんだ。……お前が世界を忘れることでしか、お前という人形の命を繋ぎ止める方法がないんだ……っ!」


クラウス様は、人形の白磁の頬に自らの額を押し当て、狂ったように泣き叫んでいた。


「人間のお前は、五年前、僕の不注意で時計塔の歯車に巻き込まれて死んだ。……だから僕は、禁忌を犯してお前を『時計人形』として作り直した。……でも、不完全だった。お前は毎日、ネジを巻き直さなければ、すべての記憶がリセットされ、動かなくなってしまう出来損ないの人形だ……。それでもいい、生きていてくれ、シエル……。僕を忘れてもいい、毎日『はじめまして』の顔で僕を見ていいから……っ!!」


ドアの隙間からその光景を見ていた私は、頭が割れるような激しい痛みに襲われた。


カチ、カチ、カチ、カチ、カチカチカチカチカチカチ!!!!!


脳裏で、何万個もの歯車が悲鳴を上げて高速回転を始める。

記憶の濁流が、押し殺されていた本当の過去が、一気に脳内へと溢れ出してきた。


(ああ……そうだった。私は……人間じゃない。私は、クラウス様の娘として、五年前に死んで……彼に作られた、時計人形だったんだ)


私が毎日、他の自動人形のネジを巻いていたのは、私自身の背中にあるネジを、クラウス様が毎夜、涙を流しながら巻き直しているという事実から目を逸らさせるための、残酷なカモフラージュだったのだ。


私が「世界を忘れる」こと。それこそが、クラウス様が私をこの世界に繋ぎ止めるための、唯一の、そして最も切ない「呪い」だった。


*****


「……あ、あ、ぐ……っ、あ……!」


頭蓋の奥で、真鍮の歯車が噛み合わずに激しく空転するような、耳をつんざく金属音が鳴り響いていた。

痛い。痛い。痛い。

人形であるはずの私の身体が、存在しないはずの神経の悲鳴を上げている。脳の奥に強引に流し込まれた「真実」という名の高電圧の負荷に、私の脆弱な思考回路システムは完全に焼き切れそうになっていた。


ドアの隙間から見える、ランプの淡い光。

その中心で、私と同じ顔をした『人形』を抱きしめ、狂ったように涙を流しているクラウス様。

彼が口にした言葉のひとつひとつが、鋭い針となって私の記憶のゼンマイを深く、深く突き刺す。


(私は、人間じゃない。五年前に死んで、クラウス様に作られた、時計人形……)


「シエル」という人間の少女は、もうこの世界のどこにもいない。

ここにいる私は、彼女の記憶データと容姿を模して作られた、精巧な模造品。真鍮の骨組みと、銀のワイヤーと、磁器の肌で組み立てられた、ただの動くガラクタ。


「カチ、カチ、カチ、カチカチカチカチカチカチ!!」


脳内のノイズが最高潮に達した瞬間、私の視界は突如としてモノクロの砂嵐に覆われ、身体の自由が完全に奪われた。

指先ひとつ動かせない。声を出すこともできない。

ガタ、と情けない音を立てて、私の身体は廊下のコンクリートの床へと倒れ込んだ。


「――シエル!?」


部屋の中から、クラウス様の驚愕した声が聞こえた。

急いでドアが開け放たれ、激しい足音がこちらへと近づいてくる。

倒れた私の身体を、クラウス様の細く、けれど力強い両手が強い力で抱き起こした。拡大鏡ルーペを外した彼の瞳は、恐怖と絶望に大きく見開かれている。


「シエル、どうしてここに……! 起きてくれ、シエル! 目を開けるんだ!!」


彼の叫び声が、遠く、水の底から聞こえるかのように霞んでいく。

私の視界の端では、システムエラーを示すかのように、時計塔の巨大な歯車の影がぐにゃりと歪んで、闇の中に溶けていこうとしていた。


(ああ……クラウス様。ごめんなさい。私、また……壊れちゃったみたいです……)


私の胸の奥の小さな時計(心臓)が、最後に「チク……」と弱々しい音を立てたのを最後に、私の意識は深い、深い暗黒の底へと沈んでいった。


*****


「……十九、二十……うん、これでよし」


私は小さなため息をつきながら、金属製の大きなネジ巻き(キィ)をトルソーの背中から引き抜いた。

カチカチ、カチカチ。

静まり返った部屋の中に、規則正しく、けれどどこか冷徹な歯車の噛み合う音が響き始める。


私の目の前に立っているのは、透き通るような磁器の肌と、夜の闇を溶かしたような黒い髪を持つ、息を呑むほどに美しい少女の姿をした人形――自動人形オートマタだ。私が背中のネジを規定の回数だけ巻いてあげると、彼女はまるで深い眠りから覚めたかのように、ゆっくりと長い睫毛を震わせ、ガラス細工の瞳を開いた。


「おはよう、エルダ」

私が声をかけると、エルダは滑らかな動きで首を傾げ、人工の唇を微かに動かした。

「……オハヨウ、シエル。キョウモ、ネジヲ巻イテクレテ、アリガトウ」


抑揚のない、けれど鈴を転がすような美しい歌声。

私はホッと胸を撫で下ろし、彼女の美しいドレスの裾を軽く整えてあげた。


ここは、王都の最果て、霧の深い崖の上にひっそりと佇む古い時計塔。

そして私の仕事は、この時計塔の主であり、国一番の天才時計職人であるクラウス様が作り出した、美しすぎる自動人形たちのネジを毎日決まった時間に巻くことだ。


私の名前はシエル。

自分で言うのも悲しいけれど、私はひどく不器用で、おまけに記憶力が極端に悪い。

自分がいつからこの時計塔で働いているのか、自分の両親が誰で、どこで生まれたのかさえ、頭に深い霧がかかったように思い出すことができないのだ。昨日食べた夕食のメニューや、クラウス様にきつく叱られた理由でさえ、朝起きるとすっぽりと忘れてしまうことが日常茶飯事だった。


「おい、シエル。またそうやって人形で遊んでいるのか。お前の頭のネジは、ハエの羽よりも軽いようだな。少しは自分の仕事の遅さを自覚したらどうだ」


背後から、凍てつくような冷たい声が響いた。

振り返ると、作業台の前に座り、片目に拡大鏡ルーペを嵌めた黒髪の青年が、ひどく不気味なほどに冷ややかな目で私を睨みつけていた。


この時計塔の主、クラウス様だ。

二十代半ばほどの若さでありながら、彼の作る時計や自動人形は王侯貴族がこぞって大金を積むほどの最高傑作ばかり。けれど、その才能とは裏腹に、彼の性格はひどく偏屈で、冷酷だった。


「申し訳ありません、クラウス様! すぐに次の子のネジを巻きにいきます!」

「フン、口を動かす暇があるなら、その鈍い手足を動かせ。お前のような無能をここに置いてやっているのは、ただの気まぐれに過ぎないんだからな。明日には、そのお気楽な頭から私の小言も綺麗に消え失せているのだろうが」


クラウス様はフイと顔を背け、再び手元の小さな歯車の調整に戻ってしまった。

いつものことだ。彼は私に対して、毎日「本当に頭が悪いな」「出来損ないめ」と冷たい言葉を浴びせる。


けれど、私は不思議と、彼のその冷たい言葉に嫌な気持ちにはならなかった。

むしろ、彼が私を叱ってくれるたびに、私の胸の奥が、ほんの少しだけトクトクと温かくなるような、そんな妙な安心感を覚えるのだ。


(私は本当に物覚えが悪いから、クラウス様を困らせてばかりだな。明日こそは、もっとちゃんと仕事を覚えよう)


私は日記帳を開き、今日の出来事を不器用な文字で書き留めた。

『○月○日。エルダの注油成功。クラウス様にまた叱られた。明日はもっと頑張る。私の名前はシエル』


日記を書き終え、私は自分の部屋のベッドに入った。

窓の外からは、崖の下に打ち寄せる波の音と、時計塔の巨大な歯車が噛み合う「ゴト、コン」という重々しい音が聞こえてくる。

私は胸に手を当てた。そこからは、規則正しい「チク、タク」という微かな音が聞こえるような気がしたけれど、私はすぐに深い眠りへと落ちていった。


*****


夜が更け、時計塔が完全に静寂に包まれた頃。


作業場の中央、淡いランプの灯りの下で、クラウスは一人、机に突っ伏して肩を震わせていた。

彼の前には、先ほどまで「シエル」が使っていた日記帳が開かれている。そこには、彼女の拙い文字で、今日一日の出来事が書き連ねられていた。


「……う、あ……っ、シエル……」


クラウスは、自らの髪をかきむしり、押し殺した声で慟哭した。

彼の目からは、大粒の涙がボロボロと溢れ、日記帳の紙を濡らしていく。


「また、リセットされた……。これで、百四十二回目だ……」


昨夜、シエルは真実を知ってしまった。自分が人間ではなく、五年前の事故で死んだ後に作られた『時計人形』であるという、残酷な事実を。

その結果、彼女の脳を構成する精巧な魔術回路は、過度な精神的ショック(精神負荷)に耐えきれず、完全にメルトダウンを起こして停止してしまったのだ。


クラウスは一晩中、一睡もせずに彼女の身体を解体し、焼き切れた真鍮のワイヤーを張り替え、歪んだ歯車を一つずつ交換した。

そして、彼女の壊れた脳のゼンマイを一度完全に巻き戻し、彼女の記憶を、昨日の朝の時点――「自分は不器用で記憶力の悪い、人間の使用人である」という幸福な勘違いの初期状態へと、再びリセットしたのだ。


「ごめん、な、シエル……っ。僕が、またお前から世界を奪ってしまった……」


クラウスは、調整台の上で静かに眠るシエルの白磁の頬に、自らの濡れた額を押し当てた。


彼女が「自分が人間である」と信じている限り、彼女の記憶容量ゼンマイは一日しか持たない。今日一日の新しい思い出、新しい感情、そしてクラウスへの愛着。それらのデータが蓄積されるたびに、彼女の頭の中のゼンマイはキリキリと限界まで巻き上げられ、深夜には必ず、限界を迎えて破綻バグを起こす。


だからクラウスは、彼女に新しい記憶を定着させないよう、毎日わざと冷たい言葉を浴びせ、彼女を「無能」だと罵り、彼女の心を傷つけない程度の一定の距離を保ち続けていた。彼女が彼に深く依存し、強い感情(負荷)を持てば持つほど、ゼンマイの巻かれる速度は加速し、彼女の寿命を縮めることになるからだ。


「僕を憎んでいい。出来損ないだと罵られて、毎日泣いたっていい……。だから、お願いだ、シエル。僕の前から、消えないでくれ……」


クラウスの震える指先が、シエルの冷たい、けれど美しい髪をそっとなぞる。


彼は知っていた。このリセットを繰り返すたびに、彼女の魂のコアである魔鉱石が、少しずつ、確実に摩耗していっていることを。

長く持って、あと数ヶ月。それが、この不完全な奇跡の、本当の限界だった。


けれど、クラウスにはもう、彼女を手放す勇気など残されていなかった。五年前に自分の不注意で彼女の命を奪ってしまったあの日の絶望に比べれば、毎日彼女に嫌われ、毎日彼女の記憶を消し去る地獄の方が、遥かにマシだったのだから。


「……カチ、カチ、カチ……」


夜明けを告げる時計塔の鐘の音が、冷酷に響き渡る。

クラウスは涙を拭い、いつもの冷徹で偏屈な『天才時計職人』の仮面を再び顔に張り付けた。

もうすぐ、何も知らない彼女が、また「はじめまして」の笑顔を浮かべて、この部屋の扉を開ける時間がやってくる。


*****


「おはようございます、クラウス様!」


カラン、と部屋の入り口に吊るされた真鍮のベルが、朝の澄んだ空気を震わせた。

開け放たれた扉から差し込む眩しい太陽の光を背に受けて、シエルはいつものように、屈託のない満面の笑顔を浮かべて作業場へと入ってきた。その手には、毎朝欠かさず淹れることになっている、少し苦めのハーブティーが載ったトレイが握られている。


クラウスは、手元の細かな歯車の噛み合わせを調整していた手を一瞬だけ止め、片目に嵌めた拡大鏡ルーペの奥の瞳を、ひどく冷徹に、そして無機質にシエルへと向けた。


昨夜、彼の腕の中で完全に動作を停止し、一晩中かかってすべてのパーツを組み直したばかりの、愛しい「人形むすめ」。

今、彼女の脳裏からは、昨夜目撃してしまった凄まじい絶望の記憶も、自分が人間ではないという残酷な真実も、すべてが綺麗に消し去られている。彼女にとっては、今日もまた、いつもと変わらない「使用人としての退屈な一日」の始まりでしかなかった。


「……遅い、シエル。お前の朝の行動は、カタツムリの歩みよりも呪わしいな。私がどれほどお前の茶を待っていたと思っているんだ」


クラウスは、わざとトゲのある、冷え切った声を絞り出した。

胸の奥が、自らの言葉によって鋭く抉られるような痛みを覚える。けれど、こうして彼女の心を傷つけ、新しい記憶を刻ませないことだけが、彼女のゼンマイ(命)を長持ちさせる唯一の手段なのだ。


「うぅ、申し訳ありませんクラウス様! 今日はなんだか、起きがけに頭がいつもより少しぼんやりしてしまって……。日記帳を確認するのに時間がかかってしまったんです」


シエルは困ったように眉を下げ、トレイを机の端に置いた。

「起きがけに頭がぼんやりした」――それは、脳の魔術回路を一度完全に初期化した際に出る、典型的な再起動エラーの症状ノイズだった。


「言い訳はいい。どうせお前のその貧弱な脳味噌だ、昨日言った注意も、半分は霧の向こうに消え失せているのだろう。……茶を置いたらさっさと仕事をしろ。エルダたちのネジを巻く時間が過ぎているぞ」


「はい! すぐに行ってきます!」


シエルは叱られたことにもめげる様子を見せず、むしろクラウスが自分に声をかけてくれたこと自体が嬉しいと言わんばかりに、元気に返事をして自動人形オートマタたちが並ぶ一画へと駆けていった。


その小さな、けれど滑らかな背中を見送りながら、クラウスは静かにハーブティーに口をつけた。

喉を通る温かい液体は、ひどく苦く、そして哀しい味がした。


(あと、数ヶ月……)


昨夜の修理の際、彼女の魂の核である『魔鉱石』の表面に、また新しい無数のひび割れが走っているのを見てしまった。

どれほど彼が完璧に肉体を組み直そうとも、魂そのものの摩耗だけは、人間の技術(時計魔術)では止めることができない。このまま一日ごとにリセットを繰り返せば、遠くない未来、彼女は本当に二度と目覚めない「ただのガラクタ」へと戻ってしまう。


クラウスはギリ、と奥歯を噛み締め、手元の作業台を拳で強く叩いた。


「神様……もし本当にあなたがいるのなら、なぜ僕から、二度もシエルを奪おうとするんだ……!」


押し殺した彼の呪詛は、時計塔のゴト、コン、という巨大な歯車の回転音にかき消され、誰に届くこともなく消えていった。


*****


「十九、二十……うん、今日もバッチリだね、エルダ」


シエルは、エルダの背中から金属製の大きなネジ巻きを引き抜き、満足そうに微笑んだ。

カチカチ、カチカチ。

エルダの胸の奥から響くその規則正しい音を聞いていると、シエルはなぜか、自分の胸の奥も同じように心地よく脈打つような、不思議な一体感を覚えるのだった。


「……シエル。お前は毎日、その人形のネジを巻いて、楽しいのか?」


不意に、作業台の方からクラウスの声が響いた。

いつもなら「さっさと手を動かせ」と突き放すだけの彼が、珍しく、シエル自身の『感情』について問いかけてきたのだ。


シエルは驚いて振り返り、ネジ巻きを胸に抱きしめながら、少し考えてから答えた。


「はい! とっても楽しいです。なんだか、このネジ巻きを通じて、エルダたちに『今日も生きてね』って命を吹き込んでいるような気持ちになるんです。不器用な私だけど、この仕事だけは、世界で一番大切なことのような気がして……」


シエルの純粋な、一点の曇りもない言葉。

それを聞いたクラウスの顔が、一瞬だけ、見るに堪えないほどに酷く歪んだのを、シエルは見逃さなかった。


「クラウス、様……? どこか、お身体の調子でも悪いのですか?」


心配になって一歩近づこうとしたシエルを、クラウスは遮るように、激しく手を振った。


「黙れ……! 命を吹き込む、だと? 片腹痛い。ただの歯車と螺子の塊に、命などあるはずがないだろう。お前は本当に、頭の中までお花畑だな! 人形は人形だ、どれほど美しく動こうとも、それはあらかじめ決められた命令に従っているだけの、空っぽの器に過ぎないんだ!」


彼の声は、怒りというよりも、何か大きな恐怖に怯えているかのように激しく震えていた。


「ひっ……!」


シエルはその凄まじい剣幕に身をすくめ、その場に立ち尽くした。

クラウス様はいつも厳しいけれど、こんな風に、何かに絶望したような目で自分を睨みつけたことはなかった。


「……もういい。お前と話していると、こちらの歯車まで狂いそうだ。今日の作業は終わりだ。シエル、お前は今すぐ自室へ戻れ。そして、明日の朝まで二度と私の前に顔を出すな」


クラウス様はそう吐き捨てると、シエルに背を向け、耳を塞ぐようにして作業台に覆い被さってしまった。


「……申し訳ありません、でした」


シエルは小さな声で謝ると、逃げるように作業場を後にした。

胸の奥が、まるで硬い万力でギチギチと締め付けられるように痛かった。クラウス様に嫌われてしまったのだろうか。どうして、あんなに悲しい顔をさせてしまったのだろうか。


自室に戻ったシエルは、机の上の日記帳を開いた。

震える手で羽根ペンを握り、今日の出来事を書き留めていく。


『○月○日。今日もエルダのネジを巻いた。クラウス様に、とても酷い言葉で怒られてしまった。クラウス様は、人形に命なんてないって言った。でも、クラウス様のあの目は、まるで……』


そこまで書いたとき、シエルの指先が、ピタリと止まった。

頭の奥で、カチ、と奇妙な音が響く。


(……まるで、何を思い出そうとしているの、私?)


日記帳の前のページをめくってみる。

そこには、毎日同じような、拙い文字で書かれた「私の名前はシエル」「クラウス様に叱られた」という文字が並んでいる。

けれど、よく見ると、いくつかのページの端に、小さな、掠れた文字で、日記の本文とは違う『メモ』が残されているのを見つけた。


【クラウス様が夜、泣いている。私は何かを忘れている】

【胸の奥の音が、時計と同じなのはなぜ?】

【私は本当に、人間なの?】


「え……?」


シエルは、自分の心臓がドクンと大きく跳ね上がるのを感じた。

その文字は、間違いなく、自分自身の筆跡だった。

けれど、そんなことを書いた記憶は、私の頭の中には一滴も残されていない。


昨日までの私が、今日の私に向けて遺した、血を吐くような疑問の数々。

シエルは震える手で、自分のパジャマの胸元に触れた。

トクトク、トクトク。

皮膚のすぐ下から響いてくるのは、生きている人間の心臓の鼓動。……いや、違う。

その音の裏側で、確かに、金属の歯車が噛み合い、狂ったように時を刻み続けている「チク、タク、チク、タク」という、冷たい機械の音が、はっきりと聞こえてしまった。


「私は……一体、誰……?」


シエルの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、日記帳の紙を濡らした。

その瞬間、時計塔の最上階から、夜の訪れを告げる重々しい鐘の音が、ゴォォォン、ゴォォォンと鳴り響いた。


シエルの指先が、自分の胸の感触を確かめるように、さらに強くパジャマの上から押し付けられた。


チク、タク、チク、タク。


皮膚を透過して脳髄に直接響いてくるような、規則正しくも無機質な冷たい金属音。それは生きている人間の肉体が刻む不規則な鼓動などではなく、狂いなく時を刻むために調整された『脱進機』の音そのものだった。


「私が……時計、人形……?」


その言葉を口にした瞬間、シエルの頭の中で、何万個もの小さな歯車が一斉に悲鳴を上げて逆回転を始めるような、凄まじい激痛が走った。

視界がぐにゃりと歪み、部屋の壁や天井がセピア色のノイズとなって明滅する。


日記帳に遺された、過去の自分が書いたはずの不穏な言葉。

クラウス様が夜、泣いていた姿。

「命を吹き込むなど片腹痛い」と、何かに怯えるように絶叫した彼の引きつった顔。


忘れていたはずの、けれど私の身体パーツそのものに刻み込まれていた『記憶の残渣』が、堰を切ったように溢れ出し、彼女の精巧な脳の回路を濁流となって駆け巡る。


(私は人間じゃない。クラウス様の娘のシエルは、五年前に死んだ。ここにいる私は、彼がその寂しさを埋めるために作った、不完全な、毎日記憶がリセットされる出来損ないの自動人形――)


「ああ、あ、ぐ……っ、あ……!」


頭蓋の奥で、真鍮のワイヤーが焼き切れるような熱い痛みが走る。

シエルは頭を抱えてベッドから床へと転がり落ちた。

昨日、一昨日、あるいはもっと前に、彼女が真実に触れてメルトダウンを起こした時と全く同じシステムエラーが、彼女の身体を襲っていた。


指先が急速に冷たくなり、自由が利かなくなっていく。

感覚の麻痺が腕から肩へ、そして胸へと広がっていく。胸の奥の時計(心臓)の音が、徐々にその速度を落とし、重く、鈍い音へと変わっていくのが分かった。


(また、壊れちゃう……。また、クラウス様を困らせて、泣かせてしまうんだ……)


シエルは薄れゆく視界の中で、自室の扉の向こうを見つめた。

今夜もきっと、クラウス様は私が眠った後に、涙を流しながら私の背中のネジを巻きに来てくれるはずだった。彼が私を無能だと罵っていたのは、私を傷つけるためではなく、私に新しい記憶(不可)を与えず、少しでも長く生かすための、彼なりの悲しい『嘘』だったのに。


「クラウス、さま……ごめ、なさ……」


シエルのガラスの瞳から、最後の一滴の涙がこぼれ落ち、床の木目に吸い込まれていく。

それと同時に、彼女の胸の奥の歯車は完全にその噛み合わせを停止し、シエルの世界は深い、深い暗黒の静寂へと包まれた。


*****


どれほどの時間が経ったのだろうか。

永遠のようでもあり、ほんの一瞬のようでもある深い闇の向こうから、突如として、ガチリ、という重々しい金属の噛み合う音が響いた。


ガチリ、ガチリ、ガチリ。


背中の中心、衣服の隙間に設けられた巨大な真鍮のネジ穴に、見覚えのある大きなネジ巻きが差し込まれ、強い力で回されている。

一回、二回、三回。

ネジが巻き上げられるたびに、冷え切っていた私の身体の隅々に、魔力の電流がドクドクと流れ込んでいく。機能停止していた歯車が一つずつ噛み合い、潤滑油が関節に行き渡り、私の「肉体」が再び起動していく。


「……十九、二十。よし、これで繋がった……」


すぐ耳元で、ひどく掠れた、今にも擦り切れそうな男の声が聞こえた。

クラウス様の声だ。けれど、いつも私を怒鳴りつける時の冷酷なトーンではない。すべての希望を失い、それでもなお諦めることのできない、絶望の淵にいる人間の声。


ゆっくりと、私の視覚センサー――ガラスの瞳に光が戻っていく。

映し出されたのは、いつもの自室ではなく、無数の工具と油の匂いが立ち込める一階の作業場だった。私は調整台の上に横たえられており、衣服は胸元まで大きくはだけていた。


「クラウス……様……?」


私が小さな声を出すと、私の背中に手を当てていたクラウス様の身体が、弾かれたように強張った。

彼はゆっくりと私の前に回り込み、拡大鏡ルーペを外したその両目で、私をじっと見つめた。


その瞳の周りには、真っ黒な隈が浮き出ており、何日も眠っていないことが一目で分かった。彼の頬は涙の跡で汚れ、唇は白く乾燥して震えている。


「シエル……お前、目覚めたのか……? 記憶の消去リセットの術式は、まだ完了していないはずなのに、なぜ……」


クラウス様は、信じられないものを見るように私を見つめ、それからハッとしたように、私の胸元へと視線を落とした。


私も自分の視線を下に向ける。

そこには、はだけた衣服の隙間から、私の本物の『中身』が剥き出しになっていた。

美しい磁器の肌の内側にびっしりと詰め込まれた、真鍮製の歯車、銀のワイヤー、そして、中央で狂ったように火花を散らしながら不規則に明滅している、ひび割れた一塊の『魔鉱石』。


その魔鉱石の表面には、まるで限界を迎えた硝子細工のように、無数の細い亀裂が走り、今にも粉々に砕け散りそうになっていた。


「あ……」

言葉が出なかった。

すべてを、思い出していた。

私は、昨夜だけではなく、これまで百回以上も同じように真実を知り、そのたびに脳の回路を焼き切って、クラウス様に記憶を消されてきたのだ。


「もう……限界なんだな、シエル」


クラウス様は力なく笑い、その場に崩れ落ちるように跪いた。

彼の手から、金属製の大きなネジ巻きが、ガランと虚しい音を立てて床へと転がっていく。


「一晩中、お前の身体を修復しようと手を尽くした。焼き切れたワイヤーを換え、歪んだ歯車をすべて新品にした。……だけど、お前の魂の核である魔鉱石の寿命だけは、僕の技術ではどうしようもない。……お前が真実を知るたびに受ける精神負荷は、もうお前の魂そのものを内部から破壊しているんだ」


クラウス様は自らの顔を両手で覆い、子供のように肩を震わせて泣き始めた。


「ごめん、な、シエル……。僕が不完全な人形なんかにしたせいで、お前に何度も、何度も同じ絶望を味わわせてしまった……。お前を『無能』だと罵って、僕を嫌わせることで、少しでも感情の負荷を減らそうとしたけれど、それすらも無駄だった。……お前は、僕がどれだけ冷たくしても、僕のために毎朝お茶を淹れて、僕のために笑ってくれた……。その優しい心が、お前の寿命を縮めていたんだ……っ!」


彼の血を吐くような告白が、私の胸の奥の、壊れかけの歯車を優しく、そして切なく締め付ける。


私はゆっくりと調整台から身を起こした。

ギィ、と関節のパーツが微かな摩擦音を立てる。私はベッドの上に足を下ろし、床に跪いて泣き続けるクラウス様の前に立ち、その細い肩を、私の冷たい磁器の手で、そっと抱きしめた。


「クラウス様。……いいえ、お父様」


その呼び方に、クラウス様の身体が激しく跳ね上がった。


「泣かないでください。私は……私は、ちっとも惨めなんかじゃありません。毎日、朝起きるたびにあなたの顔を見て、毎日、あなたに叱られて……それでも、あなたの淹れてくれた苦いハーブティーの味を美味しいと思える一日一日が、私は世界で一番幸せだったんです」


「シエル……」


「お父様が私をこの世界に繋ぎ止めるために、毎夜、涙を流しながらネジを巻いてくれていたこと、私は忘れません。……たとえ、私の記憶が明日には消えてしまうとしても、この真鍮の身体に刻まれたお父様の愛だけは、絶対に消えたりしないから」


私は微笑んだ。ガラスの瞳からは涙は出ないけれど、私の魂は、今、間違いなく本物の幸福で満たされていた。


しかし、無情にも、私の胸の奥から「ミシッ……」と、不穏な亀裂の音が響いた。

中央の魔鉱石の光が、急速にその輝きを失い、細かな破片がパラパラと真鍮の床へと落ちていく。


「ゼンマイが……切れるわ、お父様」


私は静かに告げた。

時計人形としての私の命の、これが本当の、最後の『時間』だった。


*****


「シエル、ダメだ……! 壊れないでくれ……!」


クラウスは、狂ったように叫びながら床を這い、転がっていた真鍮のネジ巻き(キィ)を血の滲む手でひっつかんだ。その瞳は完全に血走り、愛娘の形をした最高傑作を、何が何でもこの世界に繋ぎ止めようという執念だけで動いていた。


「まだ巻き直せる! 僕の魔力をすべて注ぎ込めば、魔鉱石の崩壊だって一時的になら止められるはずだ! もう一度、もう一度だけ僕に時間をくれ、シエル!」


震える手で、クラウスは私の背中にあるネジ穴に、金属のキィをねじ込もうとする。

だが、その細く美しい指先を、私は自分の磁器の手で、そっと優しく制した。


「もう、いいのです。お父様」


ギィ、と胸の奥の脱進機が、最期の、そして最も重苦しい摩擦音を立てた。

中央の魔鉱石のひび割れはさらに深く、広く広がり、翡翠色の淡い光が、剥がれ落ちる鱗のようにパラパラと足元へ零れ落ちていく。


「お前のネジを巻くのは……お前が僕を、世界を、すべて『忘れる』ためだったんだ……」


クラウスはキィを握りしめたまま、ついにその場に崩れ落ち、私の膝に顔を埋めて激しく慟哭した。


「お前が真実を知るたびに、お前の頭の中のゼンマイは、自分自身を破壊するほどの狂った速度で巻き上げられてしまう……。だから僕は、お前を無能だと罵り、お前に新しい記憶を持たせないようにして、毎日、お前が世界を忘れた瞬間にネジを巻き直すしかなかった……! お前を騙し続けてでも、偽物の朝を迎えることしか、僕にはできなかったんだ……っ!」


彼の背中が、私の膝の上で小さく、激しく震えている。

冷酷で偏屈だと言われていた天才時計職人の、これが剥き出しの、本物の心だった。


私はゆっくりと視線を下ろし、自分の手のひらを見つめた。

五指の関節に仕込まれた細かな歯車。それを動かす銀のワイヤー。

私は確かに人間ではない。けれど、私のこの胸の奥にある、壊れかけの、けれど今この瞬間も熱く脈打っている『何か』は、本当にただの歯車の塊に過ぎないのだろうか。


「お父様。私は、忘れてなんか(・・・・・・・)いませんでした(・・・・・・・)」


私のハスキーな、けれど不思議と滑らかな声が、静まり返った作業場に響く。

クラウスは涙に濡れた顔をゆっくりと上げ、包帯の取れた私のガラスの瞳をじっと見つめ返した。


「え……?」


「毎朝、目が覚めるたびに、私の頭は確かに空っぽでした。日記を見なければ、自分が誰なのかも分からなかった。……でもね、お父様。この真鍮の胸の奥は、昨日までの私が、お父様をどれほど愛していたかを、ちゃんと覚えていた(・・・・・・・・・)んです」


私は、クラウスの涙を、冷たい指先でそっと拭った。


「だから私は、どんなに酷い言葉で叱られても、お父様のために毎朝お茶を淹れた。お父様のあの寂しそうな目が、私の胸の中の歯車を、いつも優しく温めてくれていたから。……記憶を失っても、心が(・・)覚えている。それが、お父様が私にくれた、本当の『命』だったんですよ」


「シエル……、あ、ああ……!」


クラウスは、私の手を両手で包み込み、自らの頬に押し当てた。

彼の手からは、あの幻影の記憶にはない、生きた人間の、痛いほどの熱い体温が伝わってくる。


その時、時計塔の最上階の巨大な歯車が、ゴト、コン、と、一際大きく、重い音を立てて噛み合った。

朝の光が、東の窓から作業場へと斜めに差し込み、私たちの足元を、黄金色に染め上げていく。


私の視界が、急速に白く、霞み始めていた。

輪郭がぼやけ、クラウスの顔が、光の粒子の中に溶けていこうとしている。魔鉱石の崩壊が、ついに脳の精神回路にまで達したのだ。


「お父様。最後のお願いです」


私は、弱々しくなった腕を動かし、彼の首にそっと回した。


「私の背中のネジを、もう一度だけ、巻いてくれませんか」


「……っ、だけど、これ以上巻いたら、お前の魔鉱石は本当に……!」


「リセットするためでは、ありません。……次に目覚める時、私が本当の、ただの空っぽの人形に戻って、二度とお父様を呼べなくなったとしても。……私の最後のこの時間が、お父様への『大好き』の気持ちで満たされたまま、止まってほしいから」


私は、彼の耳元で、そっと囁いた。


「お父様の紡いでくれた五年間は、私の永遠です。……だから、笑顔で、私のネジを巻いて」


クラウスは、唇を血が出るほど強く噛み締めた。

その目から、最後の涙がこぼれ落ちる。彼は、震える手で、私の背中のネジ穴に、あの真鍮のキィを、カチャリと差し込んだ。


そして、彼は、泣きそうな、けれど愛おしさに満ちた、世界で一番優しい『嘘つきの笑顔』を浮かべて。


「……おはよう、シエル。今日も、最高のハーブティーを、僕に淹れておくれ」


ガチリ。


彼が、キィを回した。

私の胸の奥で、カチ、と、すべての歯車が完全に噛み合い、そして――。


私の世界は、美しく、そして完全に、静止した。


*****


それから、数年後。


崖の上の古い時計塔は、今日も変わらず、王都の最果てで巨大な鐘の音を響かせていた。

けれど、かつて国一番の天才時計職人と呼ばれたクラウスは、もう大貴族からの華やかな依頼を受けることは一切やめていた。


作業場の中央。

そこには、透き通るような磁器の肌と、夜の闇を溶かしたような黒い髪を持つ、一人の美しい少女の人形が、静かに椅子に座っていた。

彼女の胸元は、もう開かれてはいない。美しい、白いレースのドレスを着せられ、その手には、一本の真鍮製のローズマリーの花が、大切そうに握られている。


彼女は、もう動かない。

背中のネジを巻いても、ガラスの瞳が開くことも、鈴を転がすような声で「おはよう」と言うことも、二度となかった。彼女の魂の核は、あの日、完全に燃え尽きて、ただの美しいガラクタへと戻ってしまったのだから。


けれど、クラウスは、今日も彼女の隣に座り、楽しそうに手元の小さな時計を修理していた。


「シエル。今日の王都は、とてもいい天気だよ。市場で、新しいハーブの苗を買ってきたんだ。君の好きだった、ローズマリーの苗だよ」


クラウスは優しく笑い、動かない彼女の頭を、そっと撫でた。


彼の片目に嵌められたルーペには、もう、かつての孤独や絶望の影はなかった。

彼女はもう動かない。けれど、彼女が最後に遺してくれた「心が覚えている」という言葉が、クラウスの止まっていた時間を、今度こそ本当の意味で動かしてくれたのだ。


彼は、彼女を忘れない。

彼女が世界を忘れることで紡いでくれた、あの優しくて、少し苦い、五年間の奇跡の日々。

そのすべての記憶ゼンマイを胸に抱きしめながら、天才時計職人は、これからも彼女の傍らで、静かに、愛おしい時を刻み続けていく。


窓の外からは、爽やかな潮風が吹き込み、二人の静かな境界を、どこまでも優しく包み込んでいた。

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