Episode 8 You are forget me
診察室は、静かだった。
白い壁と、整った机。
消毒液の匂いが、少しだけ強い。
神崎陽斗は、椅子に座っていた。
向かいには、担当医がいる。
「……白雪澪さんの状態について、お話しします」
落ち着いた声だった。
慣れているのだろう。
こういう説明に。
陽斗は、何も言わずに頷いた。
「まず、命に別状はありません」
その一言で、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「ただし」
続く言葉で、また重くなる。
「記憶に障害が出ています」
言葉が、少しだけ遅れて理解される。
「……記憶、障害」
「はい。いわゆる、記憶喪失の状態です」
はっきりと、言い切られる。
逃げ場のない言葉だった。
「事故や強いストレス、あるいは身体的な負担が重なったことで、一部の記憶が欠落しています」
医者は、淡々と説明を続ける。
「特に、ここ最近の出来事や、強く感情が関わっていた記憶が抜け落ちている可能性が高い」
心臓が、少しだけ強く鳴る。
理由は分からないのに。
嫌な予感だけが、はっきりとある。
「……人のことも、ですか」
ようやく言葉が出た。
「はい」
短い答えだった。
「個人差はありますが、特定の人物に関する記憶が抜け落ちることも珍しくありません」
陽斗は、視線を落とす。
手のひらに、少しだけ力が入る。
「……戻るんですか」
それが、一番知りたかった。
医者は、少しだけ間を置いた。
「可能性はあります」
その言葉に、ほんの少しだけ希望が差す。
「ただし」
また、その言葉。
「必ず戻るとは限りません」
静かに、現実が置かれる。
「時間をかけて自然に戻るケースもあれば、そのまま戻らないこともあります」
何も言えなかった。
分かっていた気がする。
でも、はっきり言われると違う。
「無理に思い出させようとするのは、逆効果になることもあります」
医者は、真っ直ぐにこちらを見る。
「焦らず、今の関係を築いていくことが大切です」
“今の関係”。
その言葉が、妙に引っかかる。
「……俺のことも、忘れてるってことですよね」
確認するように言う。
医者は、静かに頷いた。
「現時点では、その可能性が高いです」
それだけだった。
でも、十分だった。
診察室の空気が、少しだけ重くなる。
陽斗は、ゆっくりと息を吐いた。
不思議と、絶望ではなかった。
痛みはある。
でも、それだけじゃない。
「……分かりました」
短く、答える。
医者は、少しだけ表情を緩めた。
「会いに行かれますか」
その問いに、迷いはなかった。
「はい」
立ち上がる。
ドアに手をかける前に、少しだけ止まる。
振り返ることはなかった。
それでも、口に出す。
「……ありがとうございます」
それが、今できる全部だった。
廊下に出る。
静かな足音が響く。
胸の奥は、まだ少し重い。
でも。
歩みは止まらなかった。
覚えていないなら。
それでいい。
思い出せないなら。
それでもいい。
それでも――
会いに行く理由は、消えなかった。
そのまま、陽斗は歩き出す。
彼女のいる部屋へ。
今から始まるものを、選ぶために。




