14話 デジャブ
自分のメンタルと相談して20話予定を急遽早めることになりそうです
一気に飛びましたがご了承ください
その日、二人は病院の外をゆっくり歩いていた。
特別なことは、何もしていない。
どこかへ出かけたわけでもないし、映画を観たわけでも、店に入ったわけでもなかった。
ただ、並んで歩いていた。
それだけだった。
でも、その“それだけ”が、今の二人には何より大事だった。
病院の敷地を出て、桜並木の続く歩道を進む。
風は少し冷たい。それでも春の匂いがした。
白雪澪は、陽斗の半歩隣を歩いている。
前みたいに無理に距離を詰めることもなく、かといって離れすぎることもない、曖昧で、でも居心地の悪くない距離だった。
「……静かだね」
澪がぽつりと言う。
「お前が大人しいだけだろ」
陽斗が返す。
澪は少しだけ口を尖らせた。
「なにそれ。私いつもうるさい人みたいじゃん」
「実際そうだろ」
「ひど」
でも、その声は少しだけ嬉しそうだった。
こんなふうに軽口を言い合えるだけで、少しずつ戻ってきている気がした。前とは違う。前のようにはもう戻れない。それでも、前よりちゃんと、“今の二人”として歩けている気がした。
澪がふと空を見上げる。
「今日、風強いね」
「そうだな」
「髪ぼさぼさになってない?」
「なってる」
「即答やめて」
陽斗は少しだけ笑った。
澪がその横顔を見て、ほんの少しだけ目を細める。
そんな小さなやり取りを重ねるたびに、まだ完全じゃないにしても、壊れたものが少しずつ繋がり直していく音がする気がした。
「ね、陽斗」
「ん?」
「今度さ」
澪が言いかけて、少しだけ迷う。
「……またゲームセンター、行かない?」
陽斗は一瞬だけ目を向ける。
「またあの取れないやつやるのか」
「今度は取れるし」
「前も同じこと言ってたろ」
「今回は本気だから」
「前が本気じゃなかったみたいに言うな」
澪は小さく笑った。
「じゃあ、次は陽斗が本気見せてよ」
「なんで俺なんだよ」
「だって上手かったし」
「一回だけだろ」
「でも取ったじゃん」
その会話が終わるころには、病院から少し離れた交差点の近くまで来ていた。
人通りはそこまで多くない。車の音が遠くから聞こえる。
信号が変わるのを待ちながら、二人は足を止める。
少しだけ沈黙が落ちる。
でも、気まずさはなかった。
「……今日はありがと」
澪が小さな声で言った。
「まだ何もしてねえよ」
「してるよ。こうやって一緒に歩いてくれてる」
陽斗は返事をしなかった。
でも否定もしなかった。
澪は、それだけで少しだけ救われたように笑う。
「じゃあ、ここで」
病院へ戻るには、そろそろ引き返さなければならない場所だった。陽斗も家の方向は逆だ。
だから、自然と“ここで別れる”空気になる。
澪が一歩、後ろへ下がる。
「またね」
その言葉に、陽斗は軽く頷いた。
「ああ」
澪が踵を返す。
その瞬間だった。
強い風が吹いた。
澪の手に持っていた薄い紙がふわりと舞う。病院の外出許可証だった。白い紙は風に煽られて、歩道の先、車道のすぐ手前まで飛んでいく。
「……あ」
澪が反射的にそちらへ足を踏み出す。
陽斗が「待て」と言うより早かった。
彼女は紙を取ろうとして、半歩、車道へ足を出した。
そのとき、耳を裂くようなクラクションが鳴った。
視界の端で、車が迫ってくる。
一瞬だった。
本当に、一瞬だった。
けれど陽斗の中では、その瞬間だけ時間が引き伸ばされたみたいに長かった。
白い服。
交差点。
ブレーキ音。
昔と同じ光景が、頭の奥で弾ける。
考えるより先に、体が動いていた。
「澪ッ!」
叫ぶ。
駆け出す。
右手で澪の腕を掴み、力任せに歩道側へ引き戻す。
澪の体がよろける。
その代わりに、陽斗の体が車道側へ流れる。
避け切れない。
そう理解したときには、もう遅かった。
鈍い衝撃が、横から全身を貫いた。
音が、消える。
何かがぶつかる感覚と、一瞬遅れてやってくる激痛。
視界がぐらりと揺れて、地面が近づく。
気づけば、陽斗はアスファルトに倒れていた。
痛い。
どこが、じゃない。
全身が一気に熱くなって、それからすぐに冷たくなる。
耳鳴りがする。
遠くで誰かが叫んでいる。
「陽斗……?」
澪の声だった。
震えている。
信じられないものを見るような声。
陽斗は薄く目を開ける。
視界が滲んで、うまく焦点が合わない。
でも、澪がすぐ近くにしゃがみ込んでいるのは分かった。顔色が真っ白で、今にも壊れそうな顔をしている。
「……無事、か」
掠れた声で、それだけ言う。
澪の目が大きく見開かれる。
「なに言って……」
その声が、途中で切れる。
澪の視線が、陽斗の体へ落ちる。
陽斗も遅れて、自分の腕を見る。
赤かった。
服の袖も、手も、地面に触れている部分も、みるみる赤く染まっていく。
血だった。
どこからこんなに出ているのか分からない。ただ、自分のものだということだけは分かる。
澪の唇が、震える。
「……やだ」
小さな声。
「やだ、やだ……」
首を振る。
涙が一気に溢れて、頬を伝って落ちる。
「なんで、なんで……」
その言葉が何に向けられているのか、陽斗には分かった。
どうしてまた。
どうして今度は陽斗が。
どうして同じ春に、同じみたいなことが起きるのか。
澪は陽斗の肩に触れようとして、でも血に気づいて手を止める。触れたら壊れてしまう気がしているみたいだった。
「誰か……っ」
澪が周りへ向かって叫ぶ。
「誰か、救急車……! お願い、早く……!」
声が、裂けるみたいだった。
陽斗はその声を聞きながら、少しだけ目を閉じた。
昔、助けられなかった。
目の前で失った。
その記憶が、まだ胸の奥で焼けたままだった。
だから今、体が勝手に動いた。
後悔したくなかった。
もう二度と。
「……澪」
呼ぶ。
澪がすぐに顔を上げる。
「しゃべらないで……! お願い、しゃべらないで……!」
泣きながら、何度も首を振る。
陽斗は、少しだけ息を吸った。
痛い。
でも、不思議と後悔はなかった。
「今度は……間に合った」
それだけ言って、薄く笑う。
澪の目から、また大きな涙が落ちる。
「そんなのいらない……!」
声が震える。
「そんなの、いらないから……!」
もう泣くことしかできないみたいに、澪はその場で崩れそうになっていた。
陽斗の血が、アスファルトに広がっていく。
赤はどんどん濃くなっていくのに、陽斗の意識は逆に少しずつ遠ざかっていく。
周囲が騒がしい。
人が集まる音。
遠くから近づいてくるサイレン。
誰かが「動かさないで」と言っている。
でも、その全部が遠い。
近くにあるのは、泣いている澪の顔だけだった。
澪はもう隠さなかった。
取り繕いも、嘘も、強がりも何もないまま、ただ泣いていた。
「陽斗……っ」
名前を呼ばれる。
その声が、ひどく苦しそうで。
それでも、少しだけ嬉しかった。
陽斗はかすむ視界の中で、なんとか澪を見る。
「……泣くな」
そう言おうとして、うまく声にならなかった。
口元がわずかに動いただけだった。
澪は何度も首を振る。
「やだ……」
その声だけが、はっきり聞こえた。
「やだよ……お願いだから……」
春の風が吹く。
どこかで桜が散っている。
その景色は、ひどく綺麗だった。
こんな瞬間に、似合わないくらいに。
陽斗のまぶたが、少しずつ重くなる。
意識が沈む。
それでも最後に見たのは、血に染まった自分じゃなかった。
泣きながら自分の名前を呼び続ける、澪の顔だった。
その顔だけを残して、世界の音が少しずつ遠くなっていった。
桜の最後の花びらがアスファルトに落ちた




